郷土誌かすがい 第55号

ページID 1004435 更新日 平成29年12月8日

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平成11年9月15日発行第55号ホームページ版

十一面観世音菩薩立像

十一面観世音菩薩立像画像版木

(市指定文化財平成7年2月10日指定彫刻)
白山町円福寺

観世音菩薩は、33に変化して衆生の声を聞き、その求めに応じて救いの手を差しのべる慈悲深い菩薩として広く信仰を集めました。
十一面観世音はその変化身の一つで、頭上に10または11の面をもっています。正面の3面が慈悲面、左方の3面が瞋怒面、右方の3面が牙上出面、後方の1面が大笑面、頂上の1面が阿弥陀仏面となっています。
円福寺の十一面観世音菩薩立像画像版木は、縦92.5センチメートル、横31.5センチメートル、裏面に天文21年(1552)の寄進銘があります。
頭上に11面の化仏をつけ、頭光(仏像頭部の背後にある、光を造形化した円輪形の装飾)と身光(周りに梵字の11字が配置されている)を背負い、蓮台の上に立っています。左手は臂を曲げ、胸の前で華瓶を持ち、右手は手の平を正面へ向けて下げています。腕釧(手首などにつける装飾品)、瓔珞(金銀や珠玉などを紐でつなげて垂下する装飾品)や二段の天衣などで飾りつけた様子は、賑やかな室町様式を表わしています。
摺仏(仏像などを木版で印刷した版画)の原版が伝えられたことは貴重だといえます。

市教育委員会事務局

郷土探訪

春日井をとおる街道15 下街道内津宿

櫻井芳昭
春日井郷土史研究会会員

1はじめに
内津は天正年間(1573から92)の妙見宮「御戸開き」を契機にして、参詣者向けの茶店を中心に門前町が形成され始め、江戸時代には美濃国境の山間宿駅として交通・商業の拠点となった。
生業は旅籠、駄賃稼ぎ、商業、茶栽培、山仕事など多様で、町並みは上町、中町、下町が内津川の谷間に三町程(約330メートル)続いていた。今でも当時の面影を残している内津宿の特色についてまとめてみたい。

2荷物継場の争い
名古屋・大井を結ぶ下街道は2日行程で、坂下・内津・池田はいずれも中間地にあるため、3村の間で馬継ぎの権利をめぐって争いが繰り返されていた。内津は田畑の少ない山間の村で、農業以外の稼ぎで生活を維持しなければならず、荷物継場になって駄賃稼ぎができるかどうかは内津にとって極めて重要であった。
江戸初期・義直時代の下街道馬継駅の御定評議のとき、「人馬ともに大曽根より内津と継ぐべし」との意見に対し、「大曽根は名古屋城下であり内津は神領であるので、勝川、池田と継ぐべし」と決まったという(蓬州舊勝録)。しかし、この決定はそれほど厳しいものではなく内津の馬継ぎは続いていたようである。寛永14年(1637)坂下新町の取り立てに伴って、内津の馬継ぎの一部が坂下に取られ、荷物が減った。そのため争いとなり奉行所へ訴えた結果、同18年(1641)「先年の通り内津より勝川宿までの馬継ぎに定める」(内津往古よりの覚え)との裁定であった。
寛政のころ(1789から1801)は、名古屋から塩・藍・くちなし・木綿などを内津・西尾・明知・神屋・和泉・廻間の馬士が自分の村に運び込み、次の日に多治見まで行き、美濃の馬がつけてきた木曽のたばこ・柿・板・まげもの・櫛などをつけて帰りに名古屋へ届けるという状況であった。
高山宿では寛政6年(1794)、内津外5カ村や美濃浅野村を相手に「尾張の馬士が多治見で継ぎ立てをし、これを受けた美濃の馬士は高山宿を素通りするので、世話料・庭銭が減って難儀になった。従来のように高山宿問屋を継場とし、世話料・庭銭を払うようにしてください」と問屋の窮状を幕府に訴えた。尾張の馬士は「高山宿はあまりに遠すぎて弱い馬では難しい」と反論すると、「多治見に高山村の出店文七を置くのでここを唯一の弱馬継立所とせよ」ということになり、高山宿の主張が認められて解決した。
茶、米、塩などの扱いが増えてきた内津では、文政年間(1818から1830)荷物問屋の許可願いを出して、地元の輸送力を強化する独自の動きをしてきた。嘉永6年(1853)内津の村人が専門的な運送業を始めたとして、西尾など近隣5カ村や美濃10数カ村の馬士から政治力のある高山宿深萱惣助に差し止めの依頼があり、これを受けて水野代官所へ内津新規継立て差し止め願いが出された。内津の与三右衛門らは関田村甚蔵らを立会人として話し合いを続け、「内津は古くからの荷物継ぎの権利がある」と主張したが認められず、自分の荷物の運搬だけが許され送り状つきの荷物輸送はできなくなった。また、高山村とは「送り状にかかわらず高山で継ぎ立てること、高山駅を付け通すものは内津でも取り合わないことなど」を確認して取替証文を交わし代官所への訴状を取り下げた。
下街道三宿庄屋(勝川と坂下の継立庄屋・庄屋高山問屋)建白書(明治2年)をみると、幕末のころの荷物輸送は「つけ出し馬は、坂下・西尾・明知・神屋・廻間の五カ村で、継場村は勝川・坂下・池田・高山・土岐・釜戸から大井宿」で行っており、内津は継場村に入っていなかった。
明治維新を迎えると下街道の通行制限は撤廃、明治5年には陸運会社が設立され、内津駅会社は前川武左衛門が代表者となって新時代に対応していた。

3内津宿の町並み

江戸末期内津村絵図

国境の境杉がある内津峠(海抜225メートル)を下って来ると妙見宮がある。篠木庄33カ村の総鎮守で、妙見信仰の中心であり各地からの参詣者でにぎわった。鳥居の左手には土蔵造りの清めの茶所があり、鋳物の大茶釜で沸かされた茶を一杯飲んで身を清めて参拝した。門前には土産店や茶店があり、旅人の憩いの場になっていた。上町には旅籠や休み所も多く道中案内には、中嶋屋、丸屋、おもだか屋、中村屋、木曽屋などがみられる。幕末期と考えられる村絵図を見ると、中町の北側には前川新右衛門、前川武左衛門、鵜飼源六などいずれも4畝(397平方メートル)以上の広い敷地をもった大きな店が集まっていた。下町には町並みの中に見性寺、御旅所、高札場、墓地があり、宅地の裏や内津川沿いには茶畑が4か所ほど見られる。
地割は街道沿いの宅地と裏山の峰まで同じ人が短冊型で所有しているのが基本である。平らな宅地と傾斜地の山地は別体系の地割になることが多いが、両方が一体化しているのは江戸時代初期と考えられる地割時点での移住者を優先したのであろうか。大地主の山地所有は街道から峰を越えた奥一帯に広がっている。
藩は町を繁盛させる方策として六斎市を各地に認めていたが、内津では享保16年(1731)に許可されている。市の詳細についてはよくわからないが、翌年2月にはかるわざ・芝居・ものまね・あやつりのうち2から3を3回にわたって1週間実施している。また、見性寺の裏山の中腹には石組みの野舞台の跡が残っており、歌舞伎や狂言などの興業が盛んで、尾張・美濃からの観客でにぎわったことがうかがえる。

4内津での物資流通
寛政期における内津での年間売買総額は買入高1,621両、売上高1,783両で後者が162両(約9%)多くなっている。商いの多い物品は買い入れでは、茶・米・大豆・綿・塩・藍玉で、売り上げでは、茶・米・酒・味噌・金勢丸・たまりの順となっている。
売り買いとも最も多い茶は買いが582両(35.9%)で領内から約80%、残りを可児郡・土岐郡等の東濃から入れている。江戸末期と考えられる「内津村絵図」での茶畑は、5人が下町・志水の下街道寄りの12か所で約5反(4,958平方メートル)を栽培しているが、それほど多くないので近村や東濃からの買い入れた茶が中心であったといえる。売りは、606両(34.0%)で江戸、信州・近江、領内へそれぞれ3分の1ずつ出荷している。

品目地域別売買総書上高

江戸末期に尾張名物集の番付摺物が発刊されているが、内津茶は西の前頭3枚目に位置付けられ、御用茶として尾張藩へ納められており名産品であったといえる。また、天保9年(1838)江戸からの巡見使が三河・尾張の各地を巡っているが、そのとき宿となった荻原村(幡豆郡吉良町)では接待用品を名古屋まで買い出しに出向き、菓子などとともに内津茶を求めており、名の売れた高級な煎茶であったことがわかる。
 

表2主要商店の品目別売買高(春日井市史資料編続より)
  売り上げ 買い入れ

品目

金額(両)

出荷先

金額(両)

   仕入れ





120石

109 

近村、美濃      
焼酎粕

50俵

3.2

近村      

15俵

1.1

美濃      
煎茶

250斤

23 

名古屋、江戸

350斤

18.1

近村、東濃

100石

90 

近村、美濃

200石

180 

近村、美濃
干焼酎粕

20俵

近村

21俵

2.3

美濃
割木      

2000束

村内
 

229.3

   

205.4

村内

煎茶

105斤

205 

江戸

1000貫

175 

近村、美濃
商[新左衛門・新八・武左衛門・和助・常八]



味噌

4000貫

57 

近村、美濃      
たまり

28石

46 

美濃      
大豆      

200俵

100 

小牧

400俵

22 

近村、美濃

520俵

36 

名古屋
雑穀

40俵

9.3

近村、美濃

40俵

9.2

近村
紙墨等  

28 

近村  

16.2

名古屋

20石

12 

近村

20石

17.2

近村、美濃
 

174.3

   

178.6

 

内津商人32名のうち、17名が茶を扱っていて最も多く、中でも茶仲間の5人は全体の3分の1強に当たる105斤、205両を江戸神田の尾張屋吉平衛へ出荷している。領内への茶は、いったん名古屋の取次所である久屋町信州屋へ送られ、そこから各地へと取り引きされた。尾張名所図会には名産煎茶として次のように述べられている。「内津の山間及び近村にて作ることおびただしく、卯月(旧暦4月)の頃摘み出すを、当所の茶師買い取って精製し諸国へ出す。宇治信楽に劣らず、茶の名も種々ありて少し品種を異にせり。そのうち老松といえるは国君(7代宗春)の名付け給う所、梅咲山といえるは九条家の御銘なりとぞ。又、手枕(たまくら)というあり、也有翁の銘なりという。」内津の茶は、良質の銘茶として広く愛用され、このほかに「桜重」「松の露」「梅の月」などがあった。また、寛政9年(1797)に信州松本まで茶商いに出たものが8人書き上げられている。
米は451石を買い入れ、酒の醸造用として使うとともに、338石を名古屋・東濃・近村へ売っている。
売上高100両以上の大きな店は、茶仲間を除いて茶、米、酒、味噌など4品目以上を扱っている。上位6店の主な取扱品の1位は酒、2位と6位は茶、3位と5位は味噌・たまり、4位は米とそれぞれ特色がある。店の6位の杉浦治佐衛門は御用茶を栽培する茶畑を指定して慎重に仕上げて、毎年藩主へ献上していた。また、「手枕」の銘茶を許されて商いしていた。

5おわりに
内津村の戸数は江戸時代を通じて53から61戸、241から365人とほぼ横ばいである。しかし、幕末から明治初期に急増し、明治7年105戸、同13年には112戸・514人になっている。下街道の通行制限が撤廃され、新しい運輸組織をいち早く整備して他地域からの荷物を継送するとともに、地元の産物を集めて搬出し、名古屋などから生活必需品を仕入れて周辺地域に広く供給することで、鉄道開通まで順調に発展したといえる。
内津では原料を仕入れて製品にする酒、味噌、たまり、金勢丸、染物、炭と、近村や名古屋で仕入れて領外へ出荷する茶、綿、塩、米、麦、板、紙が主な扱い物品となっており、名古屋東北部での生活用品交易の拠点となっていた。さらに、名古屋、東濃ばかりでなく、特に茶は信州、近江、江戸とも取り引きする広域性があったことに注目したい。
茶、薬、酒、味噌、薪などによる稼ぎによって、妙見宮(立川流による内々神社建築、夢窓国師による後山庭園)や内津の祭礼、俳諧、芝居、医者、寺子屋など水準の高い文化を発展させ、周囲の人々を内津へ引き寄せる魅力をつくり出した。これらの蓄積は今日でも内津宿なごりの旅籠・商家や寺社にみられ、春日井の文化を育む拠点となっている。

〈主な参考文献〉
春日井市史資料編1963
伊藤浩「銘茶と前川新右衛門」1987
春日井市教育委員会「下街道」1976
坂下町誌編集委員会「さかした」1968
土岐市史II 1971
内々神社蔵「内津村絵図」江戸末期
森敏治「前川家家系図」1999

ムラの生活

請願駅「鳥居松」

伊藤浩
市文化財保護審議会委員

1はじめに
明治33年(1900)7月25日付官報に逓信省から、「本月25日より中央線名古屋・多治見間運転営業を開始す」と告示され、旅客と貨物の営業が始められた。その時は現春日井市域内での駅(停車場)は、勝川と高蔵寺の2つであった。しかも、どちらの駅も当初の予定地は住民の反対で変更を余儀なくされ、現在地に開駅したものである。その理由の主なものは、陸蒸気(汽車)が発着すると危険だ、駅を造ると耕地が減る、見知らぬ乗降者が増えると風紀が乱れるなどであった。
ところが、年月を経るにつれて駅の重要性、経済効果が認識されると、駅に遠い住民の間にこの2つの駅の中間地に新しく駅を設置する運動が起きるようになった。ここでは、最初に実現した鳥居松駅(昭和21年春日井駅と改称)の請願運動の経過と記録をたどってみることとする。中央線開通当初の駅設置反対の気運が、20年も経ずして全く逆の請願に変わった時勢の推移は驚くばかりである。

2請願運動の概要
勝川・高蔵寺間の上条裏に停車場新設請願の動きは、大正9年(1920)頃から台頭、上条の林長三郎をはじめ鳥居松の林鈞平、長縄庄右衛門、伊藤十治らが発起し、両駅乗降客中、中間駅の開設を望む者の増加を累年調査し、上願書を用意していたところ、同13年になって堀ノ内裏(現神領駅)に信号所新設の測量が始まったことから、運動を急ぐこととなり、同14年7月11日、上条、関田、町割の有力者35名が集合協議し請願運動に本格的に乗り出すことになった。次にその経過の主なものを書きつづることとする。

大正14年7月11日
関係者が参集「鉄道停車場新設期成同盟会」をつくり、林長三郎を代表に請願署名の取りまとめに奔走する。

大正14年7月17日
隣接町村長の副申書調印を得て、名古屋鉄道局長に請願書を提出する。

大正14年8月12 日
停車場用地に当たる各地主の承諾の印をまとめる。

大正14年8月18日
丹下代議士、岡崎・樋口両県議の同道を得て鉄道局長に哀願する。
鈴木部長・県内務部長の同意を得る。

大正15年6月18日
鉄道局より敷地1,500坪を無償提供するようにの通知あり。

大正15月6月25日
前記敷地を含め用地4,500坪を無代にて、3大字(上条・関田・町割)が寄附することを決議する。

大正15年7月18日
埋立て用土砂1万坪を無代提供することを決める。

大正15年10月18日
丹下代議士より決定の祝電が届く。

大正15年11月29日
鉄道大臣より新停車場許可書を受ける。各大字の寄附金(各7,000円宛)総代会で決定する。

大正15年12月2日
代表者林長三郎名にて、鉄道大臣へ敷地全部を寄附する証書を提出する。

大正15年12月7日
鳥居松村長、篠木村長に幾分の寄附金を申し込む。

昭和2年4月28日
実地確定、枕木打ち込みを始める。作業は10数日かかる。

昭和2年5月1日
敷地は同盟会にて、1反当たり1,500円で買い上げることを決定する。

昭和2年8月3日
三大字寄附金合わせ21,000円を拠出する。

昭和2年11月25日
駅前道路工事完成、林長三郎特別寄附金1,000円拠出する。

昭和2年12月16日
開通式挙行、上り一番列車より停車する。当日祝賀会余興として
町割より、花煙(はなび)百数十本、手踊り、角力(相撲)、音楽隊、提灯。
関田より、棒の手、消防隊警備。
上条より、撃剣、提灯行列。
来賓、高等官97名、村長、村会議員、有力者95名、取持ち50名余、余興見物大勢にて大混雑した。
同日駅構内及び内津川堤防に桜の苗木を植えた。また、開通式高等管来賓費用の内350円を林長三郎、澤田巳一郎が寄附した。ただし、請願者負担の山ノ前用水路変更の件と電柱切替の件については、運動の結果当局に於いて工事を行った。

昭和2年12月17日
林長三郎、伊藤十治の両人は名古屋鉄道局に出頭、昨日諸賢官の御来場の御礼挨拶をした。
鳥居松初代駅長は、小田木國太郎であった。なお、事業日記によると、運動に着手以来、鉄道局に出張した回数は219回、県土木課、登記所その他が123回で、その中林長三郎は185回にも及び、集会、協議、打ち合わせは数知れず、請願運動の長期にわたる辛苦の足どりをうかがい知ることが出来る。
次に、同年6月15日付会計報告書の内容も、請願駅の実態を知るには、よき参考になるもので概略を転記しておく。

鳥居松駅地鎮祭

2.5.14
地鎮祭を執行する。

会計報告書
収入の部

支出の部

三大字寄附金

21,000

  駅敷地代金

18,750

99
商工会寄附金

100

  駅前道路工事金

380

 
篠木村寄附金

500

  山ノ前道路工事金

521

89
鳥居松村寄附金

300

  踏切工事金

138

74
林長三郎より受入金

30

  請願負担工事金

70

 
開通式祝儀

20

  駅前伏込土管代

1

60
雑収入

20

20 諸雑費

1,240

29
来賓接待費(林・澤田寄附)

350

  (以下略)    


3代表者林長三郎(明治3年-昭和20年)
上条町の生まれで、郷土の発展と公益の増進に情熱を傾けると共に、深く神仏を信仰して、伊勢参りをはじめ、西国・四国・秩父坂東巡拝など、折にふれて回を重ねていた。
氏の著書に「私の一生の中でも鳥居松駅開設については、なかなか進捗せず一時は到底出来そうもないと思われた。そこで、私は只管神仏の御加護を祈りつつ極力その運動に努めたので、とうとう大正15年12月に至り許可の指令を得ることが出来た。これ偏に神仏の御加護のたまものなりと、その功徳を悦び謝恩の意で氏神和爾良神社に玉垣、狗犬、灯篭等を奉納し、更に鳥居松駅前に弘法大師の御尊像並びに、御こもり堂の建立を発願した。」とある。
この尊像は、今も春日井駅前の大弘法として近隣の信者のお参りがたえない。尊像についての次のようなエピソードを紹介しておきたい。
建立の発願にあたっては玉野川(庄内川)の清流から1寸(3.3センチメートル)ほどの小石を百万個拾い集め、その一つひとつに「南無阿弥陀仏」と墨書して像の中に納めることとした。昭和2年から7年までかかって38万個余りを仕上げ、残る60万個余りは、村内の善男善女に依頼した。そのお蔭でこの小石をもって基座とし、33尺(10メートル)の大弘法大師を建立でき、同7年3月15日開眼式が盛大に挙行された。
このことについては、上条町の80歳以上の老人に尋ねたところ、子どもの頃おばあさんのかわりに墨をすって小さな字を筆で書いた覚えがあると、なつかしそうに語られた。
終わりに氏の自著「旅の友」歌集から、鳥居松駅、大弘法にかかわる3首を書き添えよう。

天地に喜びの声みちわたり
にぎわい更かす鳥居松駅
美しき玉の川石えりあつめ
南無阿弥陀仏かくぞ嬉しき
ありがたや慈悲たれたまう御大師の
御像高くおがむ今日かな

郷土の自然

築水池周辺のシデコブシの自生

波多野茂
市文化財保護審議会委員

1はじめに
春日井市東部の中・古生層の山麓を覆う第3紀層の丘陵は、住宅・ゴルフ場・工場などと開発され大部分が原形をとどめていない。その中でも築水池周辺は、主に県有林地として比較的まとまった半自然(2次林)が残されている。しかしこの丘陵はもともと緑の林が発達していたわけではない。産業の発展にともない薪炭材として極度の伐採が繰り返され、表土流亡によって明治の中頃までに裸地と化した禿げ山が広がっていたところといわれる。明治の終わり頃から治山事業の継続で緑の復旧がはかられ、谷の出口に大砂防堰堤を築き、大正12年これが築水池築造に変更されている。かつて崩壊を繰り返していた丘陵も大部分が森林に覆われ、今日に見る山紫水明の景となった。この間の先人の治山に対する努力は評価されなければならない。
しかし、シデコブシやその他絶滅が危惧されている貴重な植物の多くは、かつて人とのかかわりの深かった禿げ山や、その中にある地下水による崩壊湿地に集中して生育している。

シデコブシ

2シデコブシについて
シデコブシ(Magnoliastellata)は、日本固有の遺存種(太古よりの生き残り)である。
日当たりのよい湿地に自生する落葉小高木、幹の単生または数本の株立ちとなる。花は4月頃開葉に先立ち、白色または淡紅色の芳香ある花を開く。花弁は9から25片と多い。
自生地の分布は、愛知県(尾張丘陵・西三河・渥美半島)、岐阜県(東濃・中濃地方)、三重県(北勢地方)に限られ、その分布は伊勢湾をとりまく丘陵や山地の山裾に分布する周伊勢湾要素(東海丘陵要素)と呼ばれる植物である。近時自生地をもつ市町村では、絶滅が危惧される貴重な植物として保存会の設立もあり、自生地の保護を呼びかけている。
春日井市内の自生地の分布は、開発により狭められ、玉野町・廻間町・西尾町・明知町の一部であり、中でも廻間町の築水池周辺(奥山・馬不入)のシデコブシの群落は市内最大である。

 

築水池周辺に自生するシデコブシの個体数
胸高囲測定値
(センチメートル)
稚樹
(から10)
幼齢樹
(11から25)
壮齢樹
(26から)

測定値最高囲
築水池のまわり

45

54

21

120

45

馬不入

133

77

58

268

73


表は成長別個体数(株数)株立ちはその最高囲を測定
1995年10月、1998年3・12月の計3回の調査によるものであるが、まだ完全無欠のものではない。(調査法略)

湿地の分布位置図とシデコブシ自生分布位置図

3自生地の地形・地質・環境の特性

  1. 築水池の周囲
    池を囲む丘陵は第3紀鮮新世(500万から160万年前)の未固結の砂礫粘土層で、海抜140メートル程にはシルト・粘土層があり、この層が不透水層となって、池の入江状となった各所に湧水し、小規模な地下水型崩壊地形が池の水面に向かって形成されている。シデコブシは池の満水時の岸辺から崩壊地までの海抜140メートル以下で、崩壊による土砂の再堆積地の洞状地や、土堰堤による沼岸の堆積地に自生している。このような湿地は池の入江状となった東向斜面に集中し、中でも「図示」D-1からD-3地は、水分と富養土砂によってかシデコブシの成長もよく数本の株立ちが目立ち、イヌツゲ・マンサク・タカノツメなどを伴っている。林床にはミズゴケ群落、ヌマガヤ・ネザサが散生しているところもある。「図示」D地は沼岸周辺の湿地でサクラバハンノキ(国=危急)、イソノキなどとともにシデコブシが生育し、サワギキョウ・カキラン・ヘビノボラズ・シロバナカザグルマ(国=危急)も見られる。斜面上部はヤマザクラ・モンゴリナラの大木、過去の治山事業時のヤシャブシも残存している。
    しかし、「図示」C-4からC-8に見られる西向斜面の湿地にはシデコブシの出現は少ない。この湿地の多くは拡散型の湧水湿地で、礫質粘土の裸地化した酸性貧栄養地で侵入する樹木も制限され、この地は貴重な湿生草本植物の生育地となっている。
  2. 馬不入
    少年自然の家の西の谷すじで、南東から西に向かって開けた長さ350メートル程の谷底部をもち、末端には小さな溜池がある。谷の中ほどに古生層の露頭があり、その上を第3紀の砂礫粘土層が覆っている。
    谷底部には沢があり、この中程に堰堤による沼がある。沼の上部の沢すじには侵蝕土砂や腐植質を含む粘土の堆積により緩傾斜地をつくり、湧水によって涵養された湿地を形成している。シデコブシの自生は海抜140メートルから120メートルの溜池までの間に出現している。ことに、思案橋「図示」G・H付近の採光のある南向斜面に集中し、イヌツゲの古木、タカノツメ・コシアブラ・ウリカエデなどの幼木を交え、ハンノキ・サクラバハンノキ(国=危急)を伴って生育している。水流のある凹地にはミズギボウシの群落、ヌマガヤの小群、斜面上部にはシダミコザサが散生している。

    4シデコブシの保護
    かつてシデコブシは雑木の一つとして伐採され薪としていた。このことが生きてきた要因でもある。ことに馬不入地域は林の遷移が進行して日照が保障されなくなってきている。早急に保全措置が必要である。

郷土散策

白山信仰23

村中治彦
春日井郷土史研究会会員

小祠

昭和の洲原詣その2
知多町の十五丁公園北西隅に洲原神社の小祠が祀られている。
この社は、昭和49年まで付近の平手庸明氏宅地内に奉祀されていたが、区画整理により現在地に移され、同51年6月に移転を完了した。
十五丁場洲原社創建の由緒は次のように伝えられている。
天保の大飢饉(註1)がおさまった翌天保9年(1838)、この地方に害虫が大発生して農作物が食い荒らされ皆無となった。
人々は雑草、木の皮まで食い尽くす悲惨な状態であったという。
翌天保10年、十五丁場の集落の寄り合いで、集落のリーダーであった安蔵という人が中心となり、皆で相談の上五穀豊穣の神として知られる美濃洲原神社を当集落へ分神として迎えることにした。
このときの関係者は、安蔵の他に増右衛門、市兵衛、由蔵、源右衛門、伴右衛門、周右衛門、定蔵、藤助、鉄蔵、重兵衛、鎌右衛門、利八等であった。
その後、毎年4、5月頃に集落の代表が洲原神社に参拝し、お札を受けてきたという。
現在まで伝えられている参拝帳は昭和11年起のもので、表紙には「愛知縣東春日井郡味美村拾五町場御中洲原神社々務所」(写真参照)とある。

社前に集合した実行組合員

昭和11年の内容を見ると、5月15日付で、金壱圓を納めて、大札1枚と田札、畑札を各21枚ずつ受けている。
大札は集落の小祠に奉祀し、田札と畑札は、21戸の氏子へ配布したものと推測される。
参拝帳によれば、戦時中も中絶することなく代参が続行されていた。現在でも、毎年4月中旬頃に当番2名が、自家用車で代参に出かけ、祓(はらい)木札とお蒔土(すな)を受けてくる。
5月5日午後1時頃、十五丁実行組合員(平成9年度は18戸)が社前に集合し、今年の豊作を祈願して参拝する。
終了後、公民館で実行組合員の総会を行い、その後会食懇談を行う。

天保飢饉の食糧対策
岐阜県可児市古文書調査室には、天保5年(1834)に代官所が庄屋へ出したと考えられる「救飢非常食製法」という文書が所蔵されている。内容は救飢松皮製法、藁餅之製法、土粥之製法の3項目に分かれている。
文末には「小前末々のもの迄も申し教え、凶年の手当て心掛け候様いたすべきものなり」とある。
この文書は江戸時代に天領であった下切地区と沢渡地区の旧庄屋の家と区有文書の中から、ほぼ同じ内容のもの3部が見つけられた。

  1. 天保4年から同7年にかけての全国的飢饉。「七年飢渇」とも呼ばれる。この飢饉での全国の死者は疫病死をふくめ20万から30万人に及ぶと推定される。

〈参考文献〉国史大辞典

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平成11年9月15日発行
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