今、伝えたい。春日井の民俗芸能
大切に受け継がれてきた、地域の日本文化
皆さんは春日井の民俗芸能を知っていますか。
民俗芸能とは、地域社会の中で、住民の信仰や風習と結びつきながら伝承してきた芸能のことです。その種類はさまざまで、各地域に郷土色豊かな民俗芸能が伝承されています。
私たちの住む春日井でも、古くから続く民俗芸能があります。継承が危ぶまれた時代を乗り越えながら、数百年にわたって、世代交代を重ねてこの地で受け継がれてきました。
今回の特集では、先人が大切につないできた民俗芸能の歩みや、その芸能を後世に伝えるために活動している人たちの思いを紹介します。
小木田の棒の手(おぎたのぼうのて)〈小木田棒の手保存会〉
棒の手 … 尾張や西三河に伝わる民俗芸能で、刀や槍、十手(じって)などを使って武芸を披露し、寺社に奉納するもの。
市内棒の手の歴史
棒の手の起源は諸説ありますが、祭礼で邪気をはらう行為が起源であるとする説や、戦国時代に野盗から村を守るため、武士が農民に武芸を指導したのが始まりとする説が有力とされています。
市内で「棒の手」という名が使われ始めたのは、文政8年(1825年)からであるといわれており、市内各地にはさまざまな流派の棒の手が伝承されました。嘉永5年(1852年)には、広い範囲の村が参集した大会が開かれたという記録も残っています。
明治時代以降は、太平洋戦争などの影響で一時衰退しましたが、戦後、棒の手を復活し、次世代に受け継ぐため、市内でも多くの保存会が再興されました。
市内の棒の手保存会 | 流派 |
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小木田(おぎた)棒の手保存会 | 源氏天流(げんじてんりゅう) |
出川町(てがわちょう)棒の手保存会 | 直師夢想東軍流(じきしむそうとうぐんりゅう) |
玉野(たまの)郷土芸能保存会 | 神影流(しんかげりゅう) |
外之原上(とのはらかみ)棒の手保存会 | 検藤流(けんとうりゅう) |
大留下(おおどめしも)棒の手保存会 | 東軍流(とうぐんりゅう) |
神屋町(かぎやちょう)棒の手保存会 | 真影流(しんかげりゅう) |
細野検藤流(ほそのけんとうりゅう)棒の手保存会 | 検藤流(けんとうりゅう) |
小木田の棒の手の歩み
市内各地で伝承される棒の手ですが、中でも「小木田の棒の手」は、戦国時代末期の実践的な古武術の型をそのまま伝承しています。伝承の方法は口伝を基本としますが、相伝目録など、歴史的に貴重な文献が保存されていたことから、県の無形民俗文化財に指定されています。
この流派である源氏天流が小木田町へ伝わった理由は明らかになっていませんが、明治21年に小木田神社の祭礼行事で奉納されて以来、今日まで伝承されてきたといわれています。
現在では、小学生から大人まで約20人が参加する小木田棒の手保存会。秋に行われる祭礼での奉納や春日井まつりでの披露に向けて、日々稽古に励んでいます。
~保存会からのメッセージ~
棒の手をやっていて一番うれしいことは、お客さんが盛り上がってくれることです。小木田の棒の手の特徴は、静と動のメリハリがはっきりした激しい打ち合い!
老若男女問わず、1人でも多くの方に見ていただきたいです。
伊多波刀神社奉納流鏑馬(いたはとじんじゃほうのうやぶさめ)〈伊多波刀神社奉納流鏑馬保存会〉
流鏑馬 … 甲冑に身を包み、走る馬から矢で的を射る武術。平安時代末期にかけて、武士が馬術と弓術を身につける訓練方法として盛んに行われた。
伊多波刀神社奉納流鏑馬の起源ははっきりとはしていませんが、16世紀頃、豪族や武士たちが戦勝の願を掛け、その成就のお礼として流鏑馬を奉納したことが始まりであると考えられています。
江戸時代には、伊多波刀神社の神宮寺※(現在の田楽グラウンドの場所)で参拝後、流鏑馬を奉納していました。この様子は江戸時代の絵図にも記されています。
明治以降は時代の流れにより衰退しましたが、昭和25年に市の無形文化財第一号に指定されたのち保存会が結成され、平成5年に立射による奉納流鏑馬神幸が復活。令和元年には、走る馬から矢で的を射る奉納流鏑馬を約130年ぶりに実現させました。
時を超えて復活を果たした大迫力の流鏑馬は、今年も伊多波刀神社例大祭で見ることができます。
※ 神社に付属して建てられた寺
~保存会からのメッセージ~
県内で流鏑馬を行っている地域は珍しいので、「春日井といえばサボテンと流鏑馬」と言われるくらい、盛り上げていけたらと思っています。ぜひ皆さんにも迫力ある流鏑馬を見に来ていただきたいです。
これからも、流鏑馬をきっかけにした地域のつながりを、世代を超えて紡いでいきたいです。
外之原中区獅子神楽(とのはらなかくししかぐら)〈外之原中区獅子神楽伝承会〉
獅子神楽 … 獅子の頭を御神体とし、それを舞わすことを儀式の中心とする神楽。その起源は、獅子によって悪魔をはらうためだったとされる。
外之原中区獅子神楽の現存する最も古い記録は明治6年ですが、実際には江戸時代から続いていると言い伝えられています。かつて農業が盛んであった外之原区では、厄除けや五穀豊穣を祈るものとして獅子神楽が伝承されてきました。
白山神社での祭礼時には、八大龍王の祠(ほこら)から白山神社までを笛と太鼓の音頭ではやしながら進み、神社の境内では獅子舞が演じられます。外之原中区獅子神楽の特徴は、獅子が女獅子であること。内股で中腰の姿勢で舞う獅子は、上品で奥ゆかしく感じられます。
江戸時代から、一度も途絶えることなく伝承されてきた外之原中区獅子神楽。現在は小学生から獅子歴50年のベテランまでが、一緒になって伝統を守っています。
~保存会からのメッセージ~
伝統は簡単につくれるものではありません。新しいものも取り入れながら、みんなで楽しく、協力して残していきたいですね。
時間があったら例祭に来てみてください。ぜひ一度見ていただけたらうれしいです。
玉野町祇園祭(たまのちょうぎおんまつり)【からくり山車】〈玉野郷土芸能保存会〉
山車(だし) … 神様を乗せて担ぐ神輿(みこし)とは異なり、山車は神様が降りてくるための目印であるとされている。古来の民間信仰では、「神は山岳や山頂の岩や木を依り代として天から降臨する」と考えられていた。
玉野町祇園祭の目玉は、なんといってもからくり山車。市内にある山車は、内々神社の「御舞台(おまいだい)」と玉野の「からくり山車」の2つのみです。
玉野町はかつて経済的に豊かだったことから、山車をはじめとするさまざまな民俗芸能が生まれたと言い伝えられています。
からくり山車が誕生したのは、明治元年のこと。以来、戦後も祭りで披露され、市内外からの見物客を魅了しました。しかし、昭和34年の伊勢湾台風をきっかけに青年団が解散したことで、祇園祭は中断を余儀なくされました。そこで昭和45年、有志のメンバーにより祇園祭を復活。昭和48年には保存会を設立しました。
現在も祇園祭では、山車の上の恵比寿様と大黒様が祭りに花を添えています。
~保存会からのメッセージ~
伝統は、変わっていって良いものだと思います。時代とともにやり方も変えて、若い人にも気軽に来てもらえたらうれしいです。
皆さんも祇園祭へ遊びに来てみてください。
受け継がれた伝統を、次の世代へ
市内には、今回紹介したもの以外にも、さまざまな民俗芸能や保存会があります。
インターネットの普及や娯楽の多様化などにより、時代とともに地域のつながりが希薄化している今。民俗芸能は、人と人をつなぐことができる貴重な財産です。実際に今回紹介した保存会の中には、祭礼を中心に地域で集まり、そこで生まれた人脈が地域の防犯などにつながっているというところもあります。
先人がつないできたこの貴重な財産を、今の世代で絶やしてしまわないように。そして、これからの世代に伝えていくために。
一度、自分の住んでいる地域やその歴史に目を向けてみませんか。
体験を通して伝える「出前講座」
市文化財課では、後継者育成の一環として、市内の小学校で「出前講座」を開催しています。
民俗芸能を見るだけでなく、保存会との交流や実際の体験を通して、民俗芸能活動に参加するきっかけ作りをしています。