郷土誌かすがい 第84号
令和7年11月1日 第84号 ホームページ版
旧中央線のイロハモミジ
イロハモミジはカエデ属の落葉高木で、葉は、掌状に深く5~7裂し、裂片を「いろはにほへと」と数えたことにその名の由来がある。
旧中央線玉野第四隧道(4号トンネル)東坑門に隣接して四本のイロハモミジの大木が密集し、煉瓦積みによる明治時代の鉄道トンネルと一体的な景観を成している。4本のイロハモミジは、高さが13.2メートル~17.5メートル、幹周りは1.29メートル~2.29メートルあり、幹周り2.29メートルは市内最大である。
明治33年(1900)年の名古屋から多治見間の開通後に芽生え、今日の大木へと成長するまで中央線と共に歴史を歩んだと考えられ、推定樹齢約120年の市内最古のイロハモミジである。
樹枝は、中央線工事に際して造成された軌道敷の縁辺から日照の良い庄内川の渓谷に向かって大きく張り出すように伸び、曲線を基調とした見事な枝ぶりを成している。加えて4本の大木が一体となって量感豊かな樹冠を形成し、見る方向や角度によって樹形が大きく変化する点も本樹の特徴である。
市内最大・最古のイロハモミジであり、名木に相応しい樹形・枝ぶりを有し、自然と近代化産業遺産(玉野第四隧道)が調和した優れた景観を形成しているほか、春日井市の発展に重要な役割を果たした中央線と関係した歴史的背景を有している。
これらの理由から春日井市にとって重要な樹木であり、保護・保存していくことが必要と考えるため、令和七年六月に市指定天然記念物となった。
(事務局)
春日井の蝶の変遷(2)
尾崎尚志 春日井市自然環境保護活動推進員・春日井郷土史研究会会員
1 絶滅危惧種の動向
日本全体で、蝶の絶滅危惧種は増加していて、環境省レッドリストの蝶の絶滅危惧種の記載数は、1971年が46種、2001年が64種、2007年が69種、2012年が70種、2020年が72種となっていて、1971年より2020年では、1.56倍に増え、深刻な状況となっている。
春日井市でも、定着している蝶の中には、環境省のレッドリストに掲載されている絶滅危惧1.B類(EN)のツマグロキチョウ、絶滅危惧2.類(VU)のギフチョウ、準絶滅危惧(NT)のオオムラサキ、愛知県のレッドリストに掲載されている絶滅危惧2.類(VU)のウラクロシジミ、準絶滅危惧(NT)のホソバセセリ、オオミドリシジミ、オオウラギンスジヒョウモンが含まれていて、なかなか見ることが出来ない蝶も増加してきている。
特に、ギフチョウ、オオムラサキ、ウラクロシジミ、オオミドリシジミ、オオウラギンスジヒョウモンは、東部丘陵地帯にわずかに生息しているのみで、風前の灯火といった感じで、いつ絶滅してもおかしくない状況となっている。
〔ツマグロキチョウ〕
環境省絶滅危惧1.B類農地開発や工業団地の造成、宅地化、河川整備等により、幼虫の食餌植物であるカワラケツメイが激減し、全国的に著しく減少したが、市内では外来種のアレチケツメイ群落に乗り換えて存続している。以前より生息域は狭まり、夏型の成虫はあまり多くなく、幼虫の食餌植物周辺にしかいない。しかし、秋型成虫は結構広範囲で確認できるものの、越冬個体は多くはない。
〔ギフチョウ〕
環境省絶滅危惧2.類尾張東部丘陵から豊田市にかけて、平地~山地の落葉広葉樹林などで、幼虫の食餌植物であるヒメカンアオイ、スズカカンアオイが自生する周辺に生息している。成虫の蜜源としているカタクリ、スミレ類、ツツジ類などの花で観察することもできる。しかし、近年減少が著しく、なかなか見ることが出来なくなっていて、絶滅が心配される状況である。
〔オオムラサキ〕
環境省準絶滅危惧市内では東部地区の丘陵地から低山地の雑木林に生息してきたが、生育環境の悪化により減少してきていて、なかなか見ることが出来ず、絶滅が心配されている。幼虫の食餌植物である、ニレ科植物(エノキ、エゾエノキなど)周辺やコナラなどの樹液に集まっているところを観察できる可能性がある。
〔ウラクロシジミ〕
愛知県絶滅危惧2類東部丘陵地帯に生育するマンサク(幼虫の食餌植物)に依拠して広く分布していたが、2010年代にマンサクの大量枯死が起き、それに伴って急速に減少し、近年ではほとんど見られなくなり、絶滅が心配されている。
〔ホソバセセリ〕
愛知県準絶滅危惧海抜200~1000メートル位までの落葉広葉樹林内にポッカリと空いた乾燥したススキ草地、コナラ、ミズナラといった落葉樹林を坪刈りした跡地などに発生する。市内では、東部地区中心に生息しているが、特殊な生態を持っている為、里山林等が手入れされずに放棄されると生息が難しくなる。幼虫の食餌植物である、イネ科植物(ススキ、オオアブラススキ、カリヤス、カリヤスモドキなど)周辺やオカトラノオ、ヒメジョオン、ノアザミなどの花で観察できるが、数は少ない。
〔オオミドリシジミ〕
愛知県準絶滅危惧低地から山地帯の海抜1000メートルぐらいまでのコナラなどの落葉広葉樹林に生息し、東部丘陵地帯では少ないながら確認されてきた。しかし、市内では急激に衰退していて、なかなか見られなくなっている。
〔オオウラギンスジヒョウモン〕
愛知県準絶滅危惧東部の山地の樹林地周辺、草地などに主に生息し、成虫は初夏から秋に見られるタテハチョウの仲間で、数は少ないものの、秋には低地の方へ移動するものもいるので、西部や中部でも見られる可能性もある。幼虫の食餌植物であるスミレ科植物(タチツボスミレなど)周辺やイネ科植物(チシマザサ、ネザサ、クマザサなど)周辺や成虫の蜜源となるアザミ類などの花で観察することができたが、近年ではめったに見ることが出来ない。
2 外来種の侵入・人為的国内移動
人為的な持ち込みや外来植物への付着等により、外来種が市内で発見されたものとして、2006年以降のホソオチョウ、2013年以降のムシャクロツバメシジミ、2021年以降のアカボシゴマダラの三種がある。尚、近年市内でも見られるようになった、ホシミスジは、幼虫の食草であるユキヤナギやコデマリなどが、山地から公園や住宅の庭などに植栽される際に、持ち込まれて、そのまま定着したと考えられ、人為的な地域移動の結果とされている。
〔ホソオチョウ〕特定外来生物
元々日本にいた蝶ではなく、韓国産亜種が人為的に持ち込まれたものではないかと言われている。2006年頃から庄内川の河川敷等で見られるようになったが、消長が激しいようだ。生態系被害防止外来種(要注意外来生物)に指定されている。
〔ムシャクロツバメシジミ〕
中国や台湾から流入した外来種で、国内では2013年に愛知県名古屋市の河川敷で初めて生息が確認され、2016年に福岡県福岡市でも発見されたが、その後生息域が広がりつつあり、2018年頃から、春日井市内の中小河川敷等でも見られるようになった。
〔アカボシゴマダラ〕 特定外来生物
日本の在来種(奄美亜種)ではなく、人為的に中国大陸から持ち込まれた外来種だ。愛知県下では、2010年に名古屋市で初めて確認され、消長を経て、一部で定着していたが、2021年に春日井市の東部丘陵でも確認され、市域でも拡散しつつあり、2024年には市内西部でも確認された。生態系被害防止外来種(要注意外来生物)に指定されている。
〔ホシミスジ〕
本来は、低山帯から山地帯にかけて点々と分布し、シモツケ、ユキヤナギ、コデマリなどシモツケ類が生育する林縁の明るい草地や石灰岩の崖地などに生息していた。しかし、公園等の植木として、シモツケ類の移植に伴い、都市部でも見られるようになってきている。春日井市内でも2020年頃から確認されるようになってきた。
3 南方系の蝶の北上
南方系の蝶の北上南方系の蝶が北上し、1980年代以降に市内でも見られるようになったのは、クロコノマチョウ、ツマグロヒョウモン、ムラサキツバメ、ナガサキアゲハ、クロマダラソテツシジミ、サツマシジミ、イシガケチョウの7種が上げられる。
〔クロコノマチョウ〕
1980年代から愛知県内でも目撃されるようになり、現在では、春日井市内にも定着していて、全域で見られるようになってきている。
〔ツマグロヒョウモン〕
1990年代から春日井市内でも見られるようになり、現在では、春日井市内に広く定着していて、全域で普通に見られるようになっている。
〔ナガサキアゲハ〕
もともとは、暖地性の蝶で、2000年代になって愛知県でも目撃されるようになり、現在では、春日井市内でも定着していて、全域で普通に見られるようになっている。
〔ムラサキツバメ〕
もともとは、暖地性の蝶で1980年代までは西日本に生息していたが、その後、地球温暖化の影響もあって北上し、2000年代には、愛知県内でも見られるようになり、現在では春日井市内でも広く定着している。
〔クロマダラソテツシジミ〕
かつては、国内に生息しなかったのだが、1992年に沖縄で初記録され、一時途絶えたものの、近年は南西諸島や九州南部で定着し、四国や本州の南岸でも見られるようになった。2017年には春日井市内でも確認され、2021年は大量発生したが、今のところは、春日井市内では、越冬はできないようだ。
〔サツマシジミ〕
元々は南方系の蝶だったが、地球温暖化の影響もあって、北上してきており、近年では愛知県の知多半島まで生息していることが知られていて、名古屋市南部での目撃情報も有った。しかし、著者は2023年6月18日に東部丘陵の築水の森周辺で撮影し、他に数日後採取もされている。ついに、春日井市域にまで飛来してきたと思われるが、まだ定着したかどうかは定かではない。
〔イシガケチョウ〕
2022年4月に山口正恵氏が高森山公園で飛翔しているのを見かけ、翌年3月に木附町で再び遭遇、そして5月9日に弥勒山麓のイヌビワで2つの蛹を発見、自宅に持ち帰って観察を続ける中で、成虫羽化に成功する。2024年も外之原町で目撃され、今後、春日井市内に定着していくかは不明だが、これも地球温暖化の影響で、南方系の蝶が生息範囲を拡大している一例と思われる。
4 偶産種について
その地方で発見されても、住み着いていない種のことを偶産種(ぐうさんしゅ)と言う。沖縄県にしか生息していない、メスアカムラサキが、1957年7月に一度だけ、春日井市鷹来町で採取されたことがあり、標本が残されていて、偶産種として扱われてきた。しかし、2023年には、今まで見られなかった蝶が発見されている。それは、2023年5月27日に荒川氏によって、撮影されたベニモンアゲハで、本来の分布地は沖縄県や鹿児島県奄美地方なので、どうして春日井市内を飛翔していたのか、なぞとされている。台風によって運ばれてきたのか、誰かの手によって、人為的に放蝶されたものなのかは、はっきりしないが、2024年6月22日にも庄内川河川敷での目撃情報があった。
濃尾震災と春日井 ―新たに発見した古文書を中心に―
近藤雅英 春日井古文書研究会会員
いま東南海地震が盛んに取り上げられているが、ここでは、日頃から春日井市域に関する資料が案外少ないと、おりに触れ紹介して来た濃尾地震(明治24年)の新しい資料を取り上げたい。
濃尾地震が、愛知県に大きな被害をもたらした伊勢湾台風(昭和34年)に次ぐものであったことすら忘れがちな今日、決してないがしろにしてはいけないと思うのが、新しい資料を発見するたびに心を新たにさせてくれる。
今回紹介出来るのは、1 勝川に関するもの、2 東野の落合池に関するもの、3 春日井村に関するもの、4 冨田家が所蔵する古文書に関するものである。
1 勝川
勝川村では、春日井市域全体が震度6であったのに、震度7と推定され一層揺れが激しかった。従って、やはり大きな被害があった。
家屋の倒壊、田畑の破裂、人畜の死傷、堤塘の決壊、資産の滅失、家具、穀物の腐敗等が挙げられている。古文書は市文化財課が所有する資料で次の2点が目をひく。
(1)238戸のうち74戸が栽培していた煙草・棉畑が湿地化し、収穫が半減した。
(2)家屋被害で、「名古屋区裁判所勝川出張所建物(勝川村字下屋敷)の大修築願」。
当時勝川村では、町制施行に向けて公共施設の誘致を積極的に図り、地元の有力者が無償で建物等を提供し、その修築の際は、地元で行う約束であった。貸与していた家屋等が倒壊したため約束した修築をしなければならないのに、村の被害も五万円ほどあって困難な状況にあり、その修築まで手が回らないことを願い出た(明治24年11月29日)ものである。建物は木造瓦葺平屋一棟(建坪38坪5合)厠二棟(建坪2坪)という。
なお、町制の方は、「勝川村ヲ勝川町ニ改稱スル件」の意見書が出され、明治26年3月28日に実現している。
2 東野の落合池
落合池に濃尾震災の被害が及んだのは、これまで八幡水利組合が作成の「落合池 灌漑の起こり」(平成15年)の年表で、堤防が275・4mに震裂が生じたこと、復旧工事中堤防を繋ぎノマリ池を築いたとあり、落合池の水神様近くの「落合池も濃尾地震で改修した」と「案内板」に書かれただけの素っ気なさであっ
た。だから、その程度の被害で済んでいたと思い込んでいた。
今回、東野水利組合が保管していた貴重で膨大な資料を拝借できた。「明治廿四年十二月震災土木工事願書纏(八幡村、いまの東野町)」(コピーにして181枚)、「震災復旧工事設計帳」(コピーにして151枚)等から、負傷1名、建物全壊三棟などが判り、田畑を支える用水・河川・池、道路などの被害の大きかった部分を新たに知り得た。資料の詳細は、多くを割愛せざるを得ないが、堤防の破裂・損壊・圦樋伏替である。
しかし村の負担は、これだけにとどまらない。落合池の名が大草山、下原山、大泉寺方面の水が流れ込む所から付けられたというだけに、水を引き入れている川、池も多かった、現小牧市の太良池(たいらいけ)や隣の下原村の大池とか茨沢池などの修繕もしなければならない。水路の確保も重要である。生地川があり、八田川があり、この支川とか、小さい池とか無数の個所が関係している。やっかいなことに震災当時は少々の水漏れで、損傷に気づかなかった所や、大雨の際漏水を発見するなど日を経るほどに損壊が顕著となる状況でもあった。大池、茨沢池、大洞池小用水路、太良池の水を落合池に落とし込むための水路(飛地として下原新田の所属する時期があった)、籠池などがあった。
落合池は、堤防を築造した池であり、池底が隣りの東野小学校の校庭と同じ高さであり、今の小牧の太良池やインターの側の大池からも水を引いていた。
池・川の被害だけでも驚かされるが、さらに八幡村が負担しなければならないものが、八幡村役場(東丘)の建物一棟の全壊修復、概ね大破・半倒の民家、里道(西原・入鹿下・豊場道等)の修繕がある。池の上流部が干上がったりすると、落合池も干上がることはいうまでもない。地震当座は何事もなかったのに、10日も過ぎて水がなくなり水漏れが判明する事態もあった。大きな工事は国から補助金が出るが補助の対象とならない工事は地元の負担となる。北タガイ・南タガイの川の橋もほとんど壊れて、その一つであった。
驚きながら、現地を見おわり、落合池の案内から少し足を伸ばした東野八幡社の一の鳥居の右の柱に刻み込まれた9名のうちの2名(児島勘次郎と児島彦助)の名は、震災善後策で北海道への団体移住する者の署名者である。
3 春日井村
春日井村の古文書は、春日井郷土史研究会の前会長櫻井芳昭さんの紹介で、名古屋市守山に在住の知人から文化財課に提供されたものである。その量は段ボール箱四杯(コピーにして2,600枚を優に超す)もあり、約4年もかかっての判読と翻刻の大作業になった。
この浅井家文書は、幕末から明治にかけて春日井原新田の庄屋や新木津揚水井組の役員等を務めた一人の喜兵衛の所有していたものである。(父喜左衛門も庄屋)
そのうちの資料の一つが明治25年の「雑書綴」である。今回の資料から次の事実が判明した。工事竣工届の文書もある。残念ながら、工事願などは其の顛末まで記すものでないため実際に実施されたとか、完成届けも散在したものか、詳しい古文書が見当たらないが、被害があった事実は間違いない。
(1)片山村
新木津の杁樋伏替及び堤防震裂築堅め修繕工事。工事竣工届では、新木津用水路大字大手地内の堤防陥落工事、伏越杁樋伏替工事一か所、堤防震裂工事、堤防垂土取除工事が完了したことの届けである。
(2)不二村
連帯用水の復旧工事。甚だしき震害に係るものが数条あったと復旧工事を願い出ている。(明治25年5月29日)
(3)田楽村
新木津堤防中橋以下大手境迄の復旧工事に着手したことの届け(明治25年6月6日)
(4)田楽村
北条橋より上の復旧工事、新木津用水路堤防本村地内字北条橋より上へ下末(小牧市)境迄の復旧工事成功の届け(明治25年6月6日)
(5)和爾良村(新木津用水の井末になる)
用水圦樋仕込(明治25年6月25日)
(6)春日井村
新木津用水路春日井地内字高曽根兵太杁下西側、堤防垂所切上長四間平均高一尺・横二間初め二か所復旧工事、堤防欠所長八間平均内法長6尺・土坪7合の復旧工事の竣工の届け。
春日井村は、春日井原の一角を占め、春日井原新田と呼ばれ、如意申、稲口から味鋺原(味美)になる連なる地域であり、寛文4年(1664)に新木津用水の完成以来大いに発展した所で、明治11年12月28日に春日井村になり、明治39年に勝川町に合併している。
4 熊野の冨田家の所有されている古文書
地震関連文書として、次のような23件が見られる。この文書は冨田宏彦さんの所蔵されているものである。冨田家は、代々熊野神社の宮司を務めて来た家である。
(1)用水圦碑
柵内埋立延長88間に使用の柳朶及び人足賃金、用水圦樋長16間半の修繕、用水圦樋長15間、立圦の修繕と板代等
(2)新池上池
申新田溜め池地震長73間、堤防陥落長28間、内法築立て73間、堤防築立て長13間、刃百9坪5合、用水圦樋長7間半(刃=刃金土)
(3)新池下池
溜め池堤防小口震裂長60間、刃120坪、用水圦樋長7間半、堤防堀割
(4)兵蔵持申新田
溜め池堤防内法震裂長40間、築立て長40間、刃66坪7合、用水圦樋長6間、堤防堀割上口5間
(5)字善師(神田池)
溜め池堤防内法陥落長18間、築立て長18間、刃金40坪、石場所長2間半、杭柵延長6間、葉唐竹120本使用
(6)字大根
溜め池27間、築立て長27間、刃金土67坪5合、馬踏筋割長4間、用水圦樋長9間半、堀割上口
(7)字大根金太郎持
溜め池堤防内法震裂長32間、築立て32間
(8)字大根喜代五郎持
溜め池堤防内法震裂長17間、築立て32間、上置長17間
(9)字十人上納忠蔵持東池
溜め池内法震裂、用水圦樋長四間、堤防割上口四間半
(10)字十人上納文左衛門持西池
溜め池陥落長27間、築立て長27間、刃金土20坪3合、用水圦樋長3間半
(11)字十人上納丈助持
溜め池堤防陥落長3間、築立て長3間、用水圦樋長3間
(12)字十人上納儀八持上池
溜め池堤防内法長22間、築立て長22間、刃金土14坪7合、用水圦樋長3間、堤防堀割、上口等
(13)字十人上納儀八持下池
溜め池堤防震裂長30間、築立て長30間、刃金土36坪7合、馬踏筋割長10間、用水圦樋長6間、堤防堀割上口6間
(14)字十人上納新治郎東池
堤防内法陥落36間、築立て長30間、刃金土96坪、用水圦樋長6間半、堤防堀割上口8間
(15)字十人上納清十郎持小池
溜め池堤防長10間
(16)字十人上納鶴吉持西池
溜め池堤防内法震裂長24間、用水圦樋長3間半、立圦長4尺、堤防堀割上口4間半
(17)字十人上納鶴吉持東池
溜め池堤防内法震裂長20間、上置長14間、用水圦樋長4間半、立圦長4尺、堤防堀割上口5間5分半
(18)字十人上納新兵衛持上池
溜め池堤防内法震裂長20間、用水圦樋長4間半、立圦長4尺、堤防堀割上口5間
(19)字十人上納新兵衛持下池
溜め池堤防震裂長19間、用水圦樋長4間半、立圦3長3尺、堤防堀割上口5間
(20)字十人上納文左衛門持東ノ池
溜め池堤防内法震裂長十七間、用水圦樋長二間半、立圦長六尺、堤防堀割上口五間半
(21)字十人上納常七持池
溜め池堤防内法震裂長10間
(22)字十人上納岩次郎持池
溜め池堤防内法震裂長17間、堤防築立て17間、上置長17間、刃金土14坪、用水圦樋長5間半、立圦長5尺、堤防堀割上口5間半
(23)字十人上納大洞新池
溜め池堤防陥落築立て長36間
ここに出てくる字名を見ると、坂下の大根、申新田、善師と十人上納が目につく。坂下は、内津川の水が上流で伏流して、水の便が悪く、小さな溜め池が多く残されてきた。字十人上納は坂下の最西端に位置し、新しく開かれた地の年貢を十人で納めていた所から地名が付いたと思われる。事実、忠蔵、文左衛門、丈助、儀八、新治郎、清次郎、鶴吉、新兵衛、常七、岩次郎の名があるが、文字どおり忠蔵ら10人あるいは家系のものが該当するものと考えてもよいのではないか。10人上納のうち、大洞新池に持ち主の名がないのは、10人が共用していたものか。
篠木第3号墳の調査成果
春日井市教育委員会文化財課
はじめに
令和6年度に実施した確認調査で埴輪を包含する溝を検出しました。古墳の周溝と考えられるこの溝は、位置が不明となっていた篠木第3号墳の一部だと推定されます。
遺跡の概要
篠木第3号墳は、昭和34年の遺跡分布図が初出で、南北19メートル・東西20.8メートルの円墳とされています。遺物は鏡・勾玉・刀剣・釘の出土が伝えられていますが、詳細は不明です。位置は詳細に示されておらず、宅地化とともに滅失しました。
篠木古墳群
篠木古墳群は12ないし13基の円墳によって構成される古墳群で、地蔵川に臨む段丘縁辺に沿って古墳が分布します。古墳群は古墳時代前期(4世紀後葉)から後期(6世紀初頭)まで存続が確認できます。
調査概要
周溝は幅約2メートル・深さ約0.2メートルを測り、北から西へL字状に延びることから、円墳ではなく、方墳だと判明しました。検出長は東西約10メートル・南北約4メートルです。遺物は埴輪や馬具(轡の引手)、須恵器(壺)が出土しました。埴輪は「尾張型埴輪」と呼ばれるもので、その特徴から三号墳は5世紀末葉~6世紀初頭(東山11号窯式期)に築造されたと考えられ、篠木古墳群の中では最も新しい古墳と推定されます。第三号墳の規模は周溝が調査区外に延びるため不明ですが、埴輪の大きさ・種類と規模・墳形が概ね比例することから大体の規模が推定できます。第3号墳では、円筒埴輪と朝顔形埴輪が出土し、形象埴輪は出土していません。円筒埴輪は、突帯が2条の小型品で、高さは約32センチメートルです。同寸の埴輪は8~20mの円墳・方墳で採用され、第3号墳もこれに準ずると考えられます。
また、同規模の古墳では、形象埴輪は1~2個体の家形埴輪のみ置かれることが多く、第3号墳も未調査の部分に少数の形象埴輪が置かれたと推定されます。
また、3号墳の南西には幅約1メートル・深さ約0.2メートルの溝が一辺約8メートルの隅丸方形にめぐり、新規の方墳の可能性があります。残念ながら、出土遺物はわずかで、築造時期や古墳か否かを決定づける資料は出土しませんでした。仮に新規の古墳とすると、第3号墳と方位を同じくして築造されており、墳丘規模と埴輪の有無によって格差が明示されていると考えられます。
まとめ
最後に今回の主な成果を箇条書きでまとめます。
・篠木第3号墳は、一辺10~20メートルの方墳と推定され、出土した埴輪の年代から五世紀末葉~六世紀初頭の築造と考えられること。
・未知の古墳と推定される溝を検出したこと。
また、第3号墳と比べ、規模が小さく、埴輪も不採用で、格差があること。
・円墳で構成されると考えられていた篠木古墳群に方墳が含まれると判明したこと。
埴輪というと一般的には軟質で橙色や黄色の土製品を思い浮かべるかもしれません。ところが、東海地方では硬質で灰色に焼きあがった埴輪が多くみられます。特に古墳時代中期から後期に尾張で製作された埴輪は「尾張型埴輪」と呼ばれ、成形にロクロを使用し、味美技法・倒立技法といった独自の製作技法を用います。この違いは工人の出自に由来し、一般的な埴輪は土師器工人が製作したと推定されるのに対して、東海の埴輪は須恵器工人が製作したと考えられています。
神屋地下堰堤
近藤文男
1 はじめに
愛知県春日井市神屋町にある神屋地下堰堤(図1)の調査内容を報告する。全国的にも珍しいこの農業用の水利施設は、昭和10年に開墾された農地の水源として建設され、現在もこの地域に農業用水を供給している。
なお、完成後長い年月を経ており、当時の参考となる資料はほとんど残されていないため、工事に関係した方の御子孫の記憶、写真、刊行物及び現地調査の結果をまとめたものである。
出典:国土地理院(電子国土WEB)
2 神屋地域の農業と水利
市内北東部のこの地域は、尾張丘陵と濃尾平野が接し、北東部の標高が高く南西部が低い。中央を1級河川庄内川水系内津川が流れる。内津川の両岸は丘陵地が連なる(図2)。地形勾配は約1/100で地表水は少なく伏流水の多い地質で、内津川もしばしば水流が無くなる「神屋のカラ川」と呼ばれている。
出典:愛知県公文書館
江戸時代、神屋村は名古屋城下から中山道の大井宿の西で合流する下街道が通る集落として栄え、「尾張徇行記」(1822年)では、戸数173戸、人口720人、田6反4畝余、畑16町8反余と記されている。農業用水の確保が困難であったと思われ水田は少なく、畑作が主で昭和初期以前は、養蚕のための桑畑がほとんどだった。明治17年の地籍図がこのころの時代の土地利用の参考となる(図3)。
県内では、昔から稲作の用水確保のために、数多くのため池がつくられ、この地域も、犬山市の入鹿池始め、市内にも現在、63か所のため池がある。池の築造には漏水防止のため粘質土の刃金土を突き固める技術が必要であった。
神屋地域もため池の築造を望んだと思われるが、カラ川と呼ばれた地質から困難であったと想像される。
3 工事の施工
昭和4年の世界恐慌により、この地域も養蚕業が振るわなくなり、失業対策も兼ね、当時の稲垣新八坂下町長が中心となり耕地整理組合を設立し、組合長となり、総面積28.3町の耕地整理事業として、桑畑から水田への開墾と稲作には欠かせない用水の供給のため伏流水を利用する地下堰堤が計画された(写真1)。
地元の方々からの聞取り、写真、石碑の内容等からまとめると、工事の内容は次のとおりである。工事は昭和8年2月に伏流水の「打ち上げ」から着手された。幅14.54メートル、延長363.6メートル、深さ9.09メートルに地下を掘下げ、この内に幅1.82メートルの粘土の堰堤を施工した。底の上流側に丸石層を置き、埋戻し、地下水を噴出させ、水流を地上に導く。そして、3本の開水路により水田に通水した。
その施工は、人力による鍬等の掘削、積込され、小運搬はもっこやたけみが使われた。刃金土等の運搬はトロッコにより(写真2)、堰堤西に360メートル離れた宇蔵山から運搬した。刃金土の転圧は、タコや木槌で行い、作業は地域の農民が中心でした。湧水の処理は堰堤施工か所の上流に仮排水路を掘り、止めようとしたが、工事中、湧水は間断なく、昼夜兼行の難工事が三年にわたった。工事の指導のため県の技術者と思われる者が現地に駐在したようだ。
昭和10年3月に、総費用6万3190円で、難工事を完成し、伏流水が導かれて地上に流れたときには住民が歓呼の声を挙げた。整理後の総面積は28.3町、内水田18.0町、畑1.4町の開墾が完成した。
この神屋地下堰堤に関し、農林省農地局が昭和28年2月1日に発行した「土地改良事業計画設計基準第三部設計第四編地下水工第五章集水渠」のP38に地下堰堤の施工例(図4)として、「わが国において実施せられた例は非常に少ない。」とした上で紹介されている。この資料による断面・寸法と現地案内等、地元に伝わる資料と細部の寸法等が異なっている。
4 その後の地下堰堤
工事完了後は3年ほど十分な収穫が上がらず、農家から非難されたが、その後は順調に収穫できた。
その後、日中戦争、第2次世界大戦と戦争が続き、耕地整理事業の換地が遅れた。戦後も復興対策、農地解放等社会経済情勢が大きく変動し、さらに換地が困難となっていたが、昭和36年に完成した愛知用水事業を契機に、土地の登記がようやく完了できた。
換地の完了を記念し、昭和37年4月に、「水利民生」の碑(写真3)が坂下中学校に隣接して設けられ、建設時の苦労が記されている。
愛知用水の幹線水路が、神屋地域を横断することとなったため、愛知用水公団と協定を結び、幹線水路の神屋第三開水路の下を三か所のサイホンによる横断施設が作られた。また、幹線水路から分水する神屋支線が設置され、地下堰堤の受益地の多くが愛知用水の受益地となった。
伏流水が湧き出るか所(写真4)は、目視で多数確認でき、魚類等が生息し、清流は生き物のオアシスともなっている。地元の神屋小学校の学童にはザリ
ガニ釣り場として親しまれている。
赤線は地下堰堤(出典:国土地理院)
5 他の施工事例との比較
神屋地下堰堤と同様の構造のものは、他に事例が少ないが、2つを紹介する。
まず、戦前の台湾屛東(へいとう)県において日本人農業土木技術者鳥居信平が、1923年に造った「二峰圳(にほうしゅう)」を平野久美子氏が著書『水の奇跡を
呼んだ男』で詳しく紹介している。サトウキビを主要作物とした約2,500ヘクタールの農地を灌漑する施設である。
国内では、岡山県和気郡和気町の「鏡の州用水」があり、江戸時代の1805年から1827年にかけて造られた施設延長200メートル、受益面積5.8ヘクタールの施設である。
また、施工方法は異なるが、地下堰堤と似た水利的な考え方の施設に沖縄を中心とした九州地方の「地下ダム」がある。地下ダムの長所は水没地がないこと、ダムの決壊による被害の恐れがないことがある。短所は、適地の把握がむつかしいこと、ポンプでの揚水が必要なことがある。
神屋地下堰堤(写真5)は、地下ダムの長所を備え、さらに、伏流水の「打ち上げ」工法により自然流下での導水が可能であったため、地下ダムの短所を補うことができた。当時、ポンプは高額な建設費と維持管理費のため限られた地域でしか利用されていない。また、地表水が少ないという立地条件を、地質特性と地形勾配を巧みに利用した「打ち上げ」という珍しい本工法と従来のため池の刃金工法の活用を併せた大変貴重な施設である。
6 終わりに
当時でも,大変稀な地下堰堤という工法を、誰の発案で計画・設計されたのかを、解明することが今後の課題である。
学術的にも貴重な本施設が、今後も地域の営農に役立ちながら機能が保全され、地域の農業が発展されることを切望する。また、資料の提供や現地調査でご指導、ご協力を頂いた多くの方々に深く感謝の意を表します。
発行元
発行 春日井市教育委員会文化財課
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