郷土誌かすがい 第76号
平成29年11月1日 第76号 ホームページ版
退休寺の久安2年銘阿弥陀如来坐像
愛知県春日井市大泉寺町に所在する退休寺は、正保元年(1644)に尾張藩士・小野沢五郎兵衛によって創建された浄土宗の寺院である。本堂の中には本尊の阿弥陀如来坐像が法然上人像と善導大師像とともに安置されている。
阿弥陀像は像高81.5cm。頭と体幹部を檜の一木から彫り出したのち、鑿(のみ)を入れて前後に割り、内刳(うちぐ)りを施してからふたたびこれを矧(は)ぎ合わせて仕上げた割矧(わりはぎ)造りの像である。本像は両手を屈臂(くっぴ)し、右手は上腹部の高さで掌を前にして立て、左手は膝上に掌を仰ぎ、いずれも第1・2指を捻じた来迎印を結び、右足を外にして結跏趺坐(けっかふざ)する。平安時代後期から1世紀以上にわたって流行した仏師定朝(じょうちょう=京都・平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像の作者)の様式にならった定朝様の仏像である。
本像の像内背面より墨書銘が見つかり、本像が久安2年(1146)に僧永澄らによって尾張国中嶋郡北条鴾嶋(ときしま)郷(現在の愛知県一宮市時之島)で造立された像であることが明らかとなった。平安時代の在銘像は愛知県内では少なく、碧南市の海徳寺が所蔵する丈六阿弥陀如来坐像(1134‐36年)に次ぐ、県内では2番目に古い在銘像となった。海徳寺の阿弥陀像は元来伊勢で造立された像で、明治期に海徳寺に移された像であるのに対し、退休寺の阿弥陀像は尾張国中嶋郡(国府所在地)で造立されたことが確実な像であり、愛知県の仏教美術史を考えるうえで大変貴重な像として位置づけられる。
(市文化財保護審議会委員 小野佳代)
退休寺本尊・阿弥陀如来坐像の調査 ~墨書銘にみえる発願者と地名の考察~
小野佳代 市文化財保護審議会委員
1 はじめに
春日井市退休寺の本尊・阿弥陀如来坐像は、資料によると(1)尾張徳川2代目藩主の徳川光友より下賜された阿弥陀如来像であったという。しかしながら、本像が退休寺に下賜される以前の来歴については不明で、発願者はもちろん、造立年代もわからぬまま今日まで守り伝えられてきた。
ところが、2016年に退休寺本堂が修理される運びとなり、この機に本尊の阿弥陀如来像も修理に出され、像の底板を外したところ、像内に「久安」とも読める文字がみつかったことから、昨年8月に本格的な調査を実施した。像内の塵を払って改めて文字を確認したところ、久安2年(1146)に尾張国の中嶋郡で造立された像であることが明らかとなった。中嶋郡といえば、現在の愛知県稲沢市と一宮市南部を含む地域で、尾張国の国府が置かれていたところである。稲沢市には、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての定朝様の仏像が複数体伝存しており、なかでも仁安2年(1167)頃の造立とされる七寺(長福寺)の観音菩薩・勢至菩薩坐像の両像(国・重要文化財)は、当時としては最新の玉眼の技法が用いられた定朝様の菩薩像としてよく知られている(2)。
しかし、今回紹介する退休寺本尊の阿弥陀如来坐像は同じく中嶋郡で造立された像でありながら、七寺の両像をさかのぼる在銘の像である点は注目されよう。ここでは、おもに実地調査によって明らかとなった墨書銘(発願者や地名)について、新知見を紹介したい。
2 墨書銘の解読
〔本体 像内背部 墨書〕
銘記は像内背部の下半に墨書される。久安2年は西暦1146年。墨書銘によると、本像は僧永澄と賀茂氏愛子らが尾張国の中嶋郡北条鴾嶋郷の地で発願造顕した像で、久安2年(1146)11月28日に造り始めたという。
〔発願者〕
まず、発願者の僧永澄という人物から考えてみたい。平安時代の古文書をひもとくと、『東大寺文書』4ノ13の「東大寺牒案 大教院〈衙〉」で始まる文書中に彼の名を見出すことができる(3)。この文書は、東大寺領であった美濃国茜部庄の領地の一部が、東に隣接していた仁和寺の院家である大教院領内牧庄に侵されたため、領地を返すことを求めた内容で、末尾には「永治元年(1141)十月二十九日」という年月日と、100人を超える東大寺僧の名が列記されている。その中に得業の1人として「傳燈大法師永澄」の名が記されている。退休寺の阿弥陀如来像が造立され始めたのが久安2年で、そのわずか5年前の永治元年に、東大寺に同性同名の僧侶がいたことは注目されよう。
発願者としてもう1人名前の挙がっていた賀茂氏愛子であるが、賀茂氏の下の名前が不明なため人物を特定することはできない。ただし賀茂の名は、隣国の美濃国や三河国の郡名にもなっており、太田亮氏によれば、賀茂(または加茂、鴨)の地名は、大和国に起源をもつ、古代の鴨族の移住ならびに賀茂社の勧請によるもので、古代における美濃国の鴨縣主、三河国の加茂朝臣などは古代賀茂族が広く各地に分布したことを物語っているという(4)。とすると、発願者の賀茂氏愛子の賀茂とは、隣国の美濃国や三河国辺りに分布した賀茂氏一族の者であった可能性もあろう。
〔地名〕
つぎに、尾張国中嶋郡北条鴾嶋郷という地名について考えてみたい。中嶋郡は和銅2年(709)10月の「弘福寺領田畠流記帳(円満寺旧蔵文書)」にすでにその名がみえており(5)、10世紀前半に成立した『和名抄(わみょうしょう)』によれば、中嶋郡には美和・川崎・拝師・小塞・三宅・石作・日部(日野)・神戸・茜部の9つの郷があったという。愛知県の西部、木曽川中流域の左岸に広がる地域にあたり、現在の稲沢市と一宮市南部、尾西市の一部がそれに該当する。国府や国分寺が置かれたのも中嶋郡で、まさに尾張の中心であった。中嶋郡は国衙所在地を境にして南北で北条と南条に分かれており、鴾嶋郷は中嶋郡の北条に位置していた。先の『和名抄』には鴾嶋郷の名がみえないことから、その後に新たにできた郷ということになろう。
愛知県の地名辞典類によれば、鴾嶋郷は現在の一宮市時之島の辺りのことで、この地名は木曽川の流れがこの辺りで水勢散乱して幾条にもなり、鴾鷺の群集する様に似ていたことによるらしい(6)。鴾嶋郷の史料上の初見として知られているのが猿投神社文書で、永仁6年(1298)9月の「熱田社領国衙方押妨注文案」に「別納鴾嶋郷」との記載があることから、13世紀末頃、鴾嶋郷は熱田社領であったことが確認できる(7)。しかしその後、文和3年(1354年)4月23日の「熱田社領目録案」には鴾嶋郷の名がみえなくなることから、14世紀半ばに至るまでには熱田社の知行を離れたのであろう(8)。
一方で、中嶋郡内に国衙領の鴾嶋保があり、文和2年(1353)7月の「尾張国郷保地頭正税弁済所々注進状案(醍醐寺文書)」 によると、鴾嶋保が守護被官で瀬部を本拠とする国人平尾氏の地頭請所であったこと(9)、また同年8月23日の「尾張国諸郷保以下年貢并料足用途注文(醍醐寺文書)」によれば、領主醍醐寺三宝院の上吏に計2貫300文の正税を納入していたこと(10)がうかがえる。このように鎌倉時代以後の鴾嶋郷・保については現存史料によってその様子の一端が知られるが、それ以前の鴾嶋郷については果たして誰の所領であったのかは不明である。
尾張国の荘園は、天平勝宝4年(752)に、国内7郡の寺田が東大寺に勅施入されたことに始まるといわれ、その1つが中嶋郡の中嶋荘であった。上村喜久子氏によると(11)、8世紀以後15世紀半ば頃までの史料から、少なくとも尾張国には165の荘園、64の国衙領が成立しており、これらの荘公領は全8郡にわたって分布するが、数の上から概観すると中嶋郡に全体の3分の1が集中していたという。また10世紀後半から11、12世紀にかけて荘園は急速に増えていき、その多くが寄進地系荘園で、荘園領主別にみると、伊勢神宮領、皇室領、藤原氏摂関家領の順に多かったことも指摘している。さらに、退休寺本尊が造立開始された久安の頃の尾張の国司についてみると、天養元年(1144)から翌久安元年(1145)頃の尾張守は平忠盛であり、久安3年(1147)12月から久寿2年(1155)12月までの尾張守は藤原親隆であった(12)。

3 伝来に関する考察
以上のように、荘園や国司の視点から尾張国を概観すれば、尾張国と中央との密なる関係がみえてくるが、尾張国と東大寺との関係に限れば、初期荘園の頃は別にしても、平安時代以後の両者の関係はみえてこない。発願者の僧永澄が東大寺の僧侶であったとしたら、なぜ尾張国中嶋郡鴾嶋郷を訪れたのだろうか。あるいは生まれ故郷だったのだろうか。
ここで、隣国の美濃国に目を移してみたい。美濃国には先にも触れたように東大寺領の美濃国茜部庄があり、ここは東大寺学侶の法衣や袈裟となる絹や綿が年貢として東大寺へ納められていた荘園で、いわば東大寺僧の衣食住の「衣」を支える重要な荘園の1つになっていた。しかも茜部庄の南限は尾張河(木曽川の旧河道・境川)であり、川を渡ればそこは尾張国であった。木曽川の南には現在一宮市が広がっており、まさに同市内の時之島の地がかつての中嶋郡鴾嶋郷である。僧永澄の名が記されていたのも、『東大寺文書』の茜部庄に関する記述中であった。とすれば、僧永澄は東大寺領の美濃国茜部庄の近くに足を運ぶ機会があったと考えられ、そこで美濃の賀茂一族の者とも交流をもつに至り、信仰を同じくする者同士らで、尾張国中嶋郡鴾嶋郷の地で1体の阿弥陀如来坐像を発願造立したということだったのではないだろうか。中嶋郡鴾嶋の地は江戸時代になると、丹羽郡時之島村となった。
退休寺を創建した小野沢五郎兵衛については、尾張藩士の系譜を集めた『士林泝洄』によると、初代藩主の徳川義直の時代に父の家領をつぎ、御馬廻役、御使番、御目付役を歴任し、寛永10年(1633)にはのちに2代藩主となる、8歳光友の御守役となり、1200石を賜ったという(13)。また、尾張藩士による地誌『尾張徇行記』退休寺の条によれば、創建者の小野沢氏は深く仏を信じ、「道嘉」と号し、念仏万遍を書写したといい、光友は道嘉を慕って、彼の肖像を刻み平生それを坐右に置いたとも記されている(14)。両藩主から信頼され、慕われもしていた小野沢氏が隠居し、春日井郡大泉寺新田(現春日井市大泉寺町)に寺院を創建するにあたり、藩主光友が小野沢氏の寺院に阿弥陀如来坐像を下賜したというのは、両者の関係を知れば納得されよう。その阿弥陀如来坐像こそ、久安2年に僧永澄が賀茂氏愛子らとともに中嶋郡鴾嶋郷の地で発願造立した像で、おそらくこの阿弥陀像は江戸時代まで場所を移動せずに、丹羽郡時之島村に伝来していたのだろう。藩主光友の命によって、この像は尾張藩領の時之島村から小野沢氏の寺院、つまり退休寺へと移坐されたものと考えられる。阿弥陀如来像の良好な保存状況からして時之島の地で大事に守り伝えられてきた像であったかと想像される。
4 おわりに
今回の銘文の解読をとおして、ほかにも新たな発見がいくつかあった。それはまず、銘文中に出てきた「中嶋郡北条」である。従来、中嶋郡北条とは鎌倉期から南北朝期にみえる広域地域名であり、一方、中嶋郡南条とは平安末期から南北朝期にみえる広域地域名であると解されてきた(15)。しかし退休寺像の像内銘には、「中嶋郡北条」の文字と「久安二年」の文字が併せ書かれているのであるから、中嶋郡北条という広域地域名は少なくとも平安時代後期、久安2年までは遡れることになる。また「鴾嶋郷」についても、初見史料は永仁6年(1298)とされているが、こちらも同じく久安2年には存在していた郷名であったことになろう。

注
(1) 「御寄付品有之寺院」(徳川林政史研究所所蔵)。明治7年(1874)に、尾張徳川家より尾張の寺院へ下賜された品々について、寺ごとに中教院へ提出させた書付をまとめた資料。そこには退休寺住職の小野澤辯術氏の名前で什物名が次のように書き出されている。
阿弥陀如来木像 壱躰
瑞龍院様ヨリ御寄附 但年月不詳
(2) 現在の七寺は、移転して愛知県名古屋市中区大須2丁目に所在する。
(3) 『平安遺文』古文書編・第6巻(文書番号2452、東京堂出版、1981年)。
(4) 太田亮著『姓氏家系大辞典』第1巻下(角川学芸出版、2012年)。
(5) 『愛知県史』資料編6・古代1(愛知県、2009年)。
(6) 『日本歴史地名大系』第23巻(平凡社、1981年)。
『角川日本地名大辞典』23 愛知県(角川書店、1989年)。
(7) 『愛知県史』資料編8・中世1(愛知県、2001年)。
(8) 注7前掲書。
(9) 『新編一宮市史』資料編6(一宮市、1970年)。
(10) 注7前掲書。
(11) 上村喜久子「尾張国」(網野善彦他編『講座日本荘園史』5・東北・関東・東海地方の荘園、吉川弘文館、1990年)。
上村喜久子『尾張の荘園・国衙領と熱田社』(岩田書院、2012年)。
(12) 『愛知県史』資料編7・古代2(愛知県、2009年)。
(13) 松平秀雲(君山)ら著『士林泝洄』2(延享4・1747年成立、『名古屋叢書続編』第18巻、1983年)。
(14) 樋口好古著『尾張徇行記』2(寛政4・1792年~文政5・1822年成立、『名古屋叢書続編』第5巻、1966年)。
(15) 注6前掲辞典。
考証・春日井の日本武尊(やまとたけるのみこと)伝説
高橋敏明 市文化財保護審議会委員
はじめに
本市で最も有名な伝説の1つで、史実性はともかく話の内容は1番古いものです。尾張の王子建稲種(たけいなだね)を副将軍に東国を平定した日本武尊は、熱田への帰路、建稲種水死の報を受けます。日本武尊が「現哉(うつつかな)、現哉」と悲嘆して建稲種を祭ったのが内々神社で、そこを「内津」というようになり、以下、日本武尊絡みで次々と地名がついていったというものです。『日本書紀』(以下、「書紀」)の地名譚は散在程度ですが、本市の話は地名のオンパレードで、まさに「地名物語」と化しています。
それだけに、地元で生れ、誇りと愛着をもって語り継がれてきた話と思えます。一般的にも伝説はそういうものと思うのが普通ですが、現在入手できる実証からは、全く違う様相が浮かび上がってきます。現在の形になるまでの推移や、そこから読みとれることを推論してみます。
1 地元伝承?
藩主も含め、外部の武士の寄合所帯として出発した尾張藩は、藩をまとめる精神的核を神国思想(古代神話)に求めました(注1)。そのため、熱田神宮はじめ式内社の現況を調査し、1646年に徳川義直編『神祇宝典』が完成しました。式内社を現存神社に比定し、祭神などが記載されていますが、尾張では121式内社中掲載は30社だけです。それ以外は、所在不明であったといえます。春日井郡では「物部神社 宇摩志麻治命也」とあるだけで、内々神社は載っていません。
その序文には、「日本紀・旧事記…を考察し、諸々の国史実録・旧記…並雑抄所を調べ、中臣卜部の説くことや卜占の述べること、各神社の縁起、郷や村の古老の話を参考にした」(原文は漢文)とあり、火上姉子神社は「相傳ヘテ云…宮簀媛也」、真墨田神社は「縁起ニ曰國常立尊也」、羽豆神社は「俗ニ曰フ二幡頭崎八幡宮ト一 神人ノ之口碑ニ云即チ應神天皇也」(青字は筆者)とあります。現地の文書や伝承も採り入れ、最大限の実証的調査に基づいていることが分かります。また、文量は一般神社は1、2行ですが、日本武尊ゆかりの熱田神社は約4頁、日本武尊の事績にはその倍の頁を割いています。日本武尊をいかに重視したかが分かります。
こうした編集方針からすれば、坂下地区で日本武尊の話が伝承されていたなら、内々神社と祭神の建稲種命は、間違いなく掲載されたはずです。そうでないのは、当時この話は全く知られていなかったためといえます、1752年の『張州府志』(以下、「府志」)の「内津神社」の項では、「俗云二内津妙見一。…忘二神故一。而以二佛名一專稱二内津妙見菩薩一」としており、当時、地元では神名が不明であったことが分かります。この記事からも、日本武尊の話が伝承されていなかったことは明らかです。
2 日本武尊伝説の発見
『神祇宝典』完成後、藩の学者は所在不明の式内社の現神社への比定に取り組み(注2)、吉見幸和は『内津社本記』(1702年)で、内津妙見宮(「内々神社」ではなかった。)が式内社「内々神社」で祭神は建稲種命、創建は景行天皇41年であると考証しました。根拠となったのは、寛平2年(890)の「熱田神宮縁起(寛平熱田記)」(注3)ですが、「内津」の話があるだけです。創建年は、「縁起」を基に「書紀」の日本武尊東征神話から割り出しています。
春日井の日本武尊伝説のうち「内津」は、平安時代に熱田神宮で書かれ、800年後に再発見されたことになります。それ以外の話は、江戸時代以降、創作されたことになります。
3 伝説の推移
現在一般的なこの伝説の骨格とその初見文献の年紀は、つぎのとおりです。
- 悲嘆から「内津」・内々神社の起源〔890〕
- 駒返し〔1745〕、馬蹄石〔1752〕、馬の尾から「西尾」〔1975〕
- 夜明けから「明知」〔1752〕
- 仮泊から「神屋」〔1752〕
- 手洗いから「御手洗」〔1928〕
地名だけでも平安時代は「内津」だけだったのが、江戸時代以後5か所が加わった他、草薙剣は最初は内々神社に祭られたなど、バリエーションがいくつもできました。
(1) 内津
この話の原点は日本武尊の発した「現哉」ですが、「府志」はその場所を西尾の山王社(現日吉神社)とし、『尾張志』(1844年)も「日本武尊の現哉(の)地はこゝにはあらず隣村西尾の…山王権現…」としています。
なぜ、話の根幹を揺るがす、説得力に欠ける説があるのでしょうか。そう言わざるを得ない客観的理由があったためと思われます。日本武尊の帰路としては、下街道が想定されていますが、中世以前内津には道が通っていなかったためではないかと思われます。それは、1.中世までの道は、丘陵の尾根が一般的で、内津のような谷間では大雨による通行不能や鉄砲水の危険があること(注4)、2.『尾張徇行記』は内津について、「中古マテハ内津民家一戸モナク、深山ノ中只宮社寺閣ノミアリシカ」としており、幹線道が通っていたとは考えにくいためです。

(2) 西尾(さいお)
「西尾」は、日本武尊が内津を振り返った時、乗った馬の尻尾が西を向いたためと言われます。しかし江戸時代には、西王母降臨説(注5)や「佐由利岡の約言」説、「内津山の尾崎」説(注6)があり、明治~大正期の『内々神社御由緒及参考書』(以下、「御由緒」)では、「内津ヨリノ方位名稱ナリ則チ西ノ方西尾村」としています。「馬の尾」説の初見は、1975年の『春日井のむかし話』(注7)ですので、最も新しいものといえます。
「府志」には「西尾」の日本武尊由来説はありません。日本武尊の時代、ここは「内津」か「明知」であったと考えられていたためではないかと思われます。同書では西尾村の「馬跡岩」は内津の一の鳥居趾といい、日本武尊悲歎の場所を同村の山王社とする伝承を紹介しているからです。あるいは、この山王社は西尾村と明知村共通の氏神であることから、両村は元は一体であった可能性が考えられるためです。
(3) 明知と神屋
「明知」と「神屋」を日本武尊由来とする説の初見は管見では「府志」で、つぎのとおりです。
【明知村】此地稱二明知一尚矣。往古人王十二代景行天皇皇子日本武尊東夷征罰之時。…現哉。依號二此地一謂二宇津津一。至レ今書二内津一之縁也。然後發駕之時。夜已明矣。是故呼二其地一稱二明知一云々。…(青字は筆者)
【神屋村】今呼二此地一謂二神屋一。往昔日本武尊自二明知邨一至二于此處一。營二假殿一休焉。仍名曰二神屋一。創二造一社一。勸二請日本武尊一。今於二當村一稱二村神一者。此其遺迹也。時俗號二神屋(カキヤ)一。…(同)
同書は、各郡を18の項目でほぼ画一的に記述をしています。特に「村里」は、「○庄。在府城○○(方角)○里○町」(10数文字で記述)というパターンでほぼ完全に統一されています。例外は3村だけで、神屋村と明知村については、日本武尊伝説をそれぞれ70文字、93文字で詳細に紹介するという、極めて異例な取り扱いをしています(注8)。藩がいかに日本武尊を重視していたかが分かります。前述のように日本武尊伝説は地元伝承でないことから、両村名の日本武尊由来説は藩の創作であった可能性が極めて高いと考えられます。なお、1816年の津田正生『尾張国地名考』は「貞観熱田記」(874年)に記載があるとしていますが、現在の同名書にも、寛平熱田記にもなく、「熱田太神宮正縁起」(1677年)などの縁起(注9)にも記述はないので、津田の記述は誤りと考えられます。「府志」完成の3年後に内々神社が「直達地」(注10)に昇格した(注11)背景には、こうした藩の動向があったと思われます。
「府志」は、「明知」はここで「夜が明けた」こと、「神屋」は「日本武尊が仮殿で休んだ」ことに由来するとしています。しかし、東征の帰路であれば夜間行軍する必要はないので、信憑性が揺らぎます。このためか、「御由緒」などは、「明知」を「神屋から見た夜明けの方向」としています。「神屋」は、地元では「カギヤ」といい音が一致しませんが、漢字なら神(日本武尊)の宿の意となるので、この話は漢字からの発想と思われます。庶民が漢字と無縁の時代、音だけからでは生まれるはずのない着想であることからも、知識人の創作話と考えられます。
(4) 御手洗
「御手洗」は、神屋の小字名で、坂下小学校の裏手にある清水に由来すると思われます。「御由緒」はここを宿泊地とし、その後、日本武尊が「用をたした」(注12)「顔を洗った」(注13)「手を洗った」(注7)という話が生まれます。伝説に取り込まれたのは明治以後です。
この清水は眼病やヒビ・アカギレに効くといわれ、古くから聖水信仰の地であったと思われますが、清水の効能話はこの伝説には入っていません。地元発祥の古い伝説であれば、「日本武尊の神通力でこの水に薬効が生まれた」などとなるのが自然ですが、地名への付会のみということは、後世、漢字からの創作話といえます。
(5) 柏井
「柏井」を日本武尊由来地名とする話は、ほとんど知られていません。「御手洗」から8km以上離れた、いわば飛地ですが、日本武尊が行軍したとされる下街道沿いにあるので、生まれたと思われます。その初見は安藤直太朗氏の1959年の著作(注14)で、日本武尊の食事の水(御膳水)を汲んだというものです。これは「柏」も「膳」も「かしわ」と読めることと、「井」は井戸や泉の意味があるためです。
下街道沿いの「柏井」は、明治の新村名(注15)ですので、江戸時代にこの話が生まれることはあり得ません。
(6) 馬蹄石
日本武尊が建稲種命を祭った内津を振り返った時、騎乗した馬の蹄の跡がついたといわれるのが「馬蹄石」ですが、「馬を返した」のは元は使者の久米八腹(くめのやはら)でした。日本武尊となったのは、この方がより劇的であるためと思われます。
この馬蹄石(駒の爪、馬跡石ともいう。)は、西尾の下街道脇にある馬蹄ほどの岩の窪みで、ここの小字「駒返」に由来する命名と思われます。「内々神社の一の鳥居のあった所で、旅人がここで駒を止めてふり返った所」(注16)という記述からは、ここの小字名や馬蹄状窪みに日本武尊が付会されて生まれたのがこの話であると考えられます。
おわりに
平安時代「内津」だけであったのが、江戸時代の再発見以降、既存地名を材料に新たな話が付加されました。江戸時代特に後期、内津は妙見信仰一色の観を呈し、庶民は好運を自分の星に祈りました。そこに武神ともいえる建稲種命を受容する余地はありませんでした。
話を膨らませたのは、江戸時代は藩であり、明治以降は知識人で、昭和の戦後まで続きましたが、地元民の口承は確認できません。伝説は一般的には口承ですが、この伝説は、少なくとも江戸時代以降は文字伝承であったということになります。
付 篠木合宿の起源
篠木合宿について、安藤直太朗「篠木合宿 書留」(注17)は、日本武尊伝説にその起源を求めています。これは、「寛平熱田記」の「還二向尾張一、到二篠城(篠木)邑一」という記述から、文政期頃の関田村文書に「篠木三三か村の村人がお供し熱田まで送った故事が篠木合宿の起源である」と記載されているためです。詳細は別の機会に譲りますが、本稿のこれまでの考察からは、あり得ない説といわざるを得ません。
注1 岸野俊彦『尾張藩社会の文化・情報・学問』清文堂出版 2002年 150-4頁
注2 嚆矢は天野信景(さだかげ)『参考尾張本国帳』元禄12年(1698)
注3 『内津社本記』では、貞観熱田記としていますが、現在確認できる同記には、記載がなく、寛平熱田記(『熱田神宮史料縁起由緒編』熱田神宮宮庁2002年では「尾張国熱田太神宮縁記」)の誤りと思われる。また、本縁起の成立は、平安時代末期から鎌倉時代初期という説もある。
注4 有岡利幸『ものと人間の文化史 里山II』法政大学出版局 2004年 175頁
注5 『府志』では、ここの名産品の桃に関連付け、中国の伝説由来説を掲載
注6 共に津田正生『尾張国地名考』1816年、サユリオカ→サイオ、オサキ→サキオ→サイオ
注7 『春日井のむかし話』春日井郷土史研究会編 1975年 1頁
注8 その他に御器所村は、熱田神宮への土器調進に由来する村名としている。
注9 『熱田神宮史料縁起由緒編』収録のもの
注10 藩中央と直通できる格と思われる。
注11 『妙見宮由緒書』に記載
注12 『愛知縣傳説集』〔縣傳説集〕愛知縣教育会編 郷土研究社 1937年 174頁
注13 『春日井の伝説』春日井市教育委員会編 1959年 10頁
注14 前掲注13。他に『春日井市史』本文編 春日井市 1963年 715頁
注15 「柏井」は10世紀から15世紀の史料にはあるが、江戸時代には松河戸・中切・上条・下条の村名の肩書きにあるだけで、現実の地名としては確認できない。
注16 『春日井の地名』春日井郷土史研究会 1977年 5頁
注17 『郷土文化論集』1973年
旅行中の病人等の村継ぎ送り
近藤雅英 春日井古文書研究会会長
【「送リ一札(いっさつ)」とは】
江戸時代の文書でよく見られる「送リ一札」とは、通常は、居住地を移動する際、庄屋が移動先へ発行する送籍状で、本人が禁制のキリシタンでないことを証明するものである。檀那寺の寺請状や村継ぎの際の添え状の場合もあり、村継ぎでは、荷物やお触れなどの他、罪人の搬送に添えられるものがある。
ここに取り上げた書状は、旅行中の病人等を本人の希望により、故郷の村まで村継ぎで送り届ける際に添えられた欠くことのできないものである。村継ぎ状は、病人等を丁重に扱ったことを証明するもので、極めて重要である。したがって、「昼夜に限らず先々の村へ届け、手形取り置き申すべき事」とされている。
『新編一宮市史(資料編7)』によると、宝暦4年(1754)の尾張藩のお触書きには、旅行者の死亡あるいは病気などは報告せよとしており、病人の場合は、医師の診断を受けさせ、薬を施して介抱せよ、もし世話を厭い、他村へ送ったり、粗末に扱ったりすると罪を科すとしている。病人を厄介者扱いにした例もあったらしく、次村へ送ったり、重病者を受け取らず継ぎ戻したりすることのないように厳命し、違反したら罰することも明示している。
そのため、病人を発見した場合、介抱は勿論、医師にも診せ、本人が希望すれば、その故郷まで駕籠に載せて送り届けるなど万全の措置がとられる。それらに要した経費などは、該当の村が負担するケースが多い。中には、病者の親族や村で後に清算されることもあるが、清算がなくても、厳しい取り立てが行われる例はめったにない。それだけ相互扶助の精神が浸透していたともいえる。
【書状の内容】
では、この書状はどのような内容であったか。
文久元年(1861)3月6日、遠州佐野郡馬喰村(現静岡県掛川市)から春日井の八田新田(現鳥居松町など)まで送り届ける道筋の関所役人、川々・宿々・村々の役人に宛てたものである。八田新田の兵左衛門という28歳になる者が、2月下旬に江戸へ奉公に行く途中、馬喰村で病気を発症し(差發(さしおこ)り)、歩行も困難になり、往還道の土橋の下に臥せっていたのを、同村の者が発見し、成瀧村(現掛川市)の医師に診せたところ、「時候を請け(熱中症の類か)」と診断され、大したことはないということでもあり、介抱に努めたところ、本人も「一刻も早く帰国したい」と希望したので、その旨の控えを取り置き、村継ぎで送るというものである。その際の食事と日が暮れたときの宿泊を頼むことも忘れていない行き届いたものである。ただ、旅行者が通常所持しているはずの「往来一札」は、本人が持っていなかったと述べられているのが目を引く。
「往来一札」というのは、往来手形を表すタイトルで、往来と略したり、切手、書付、証文、帳などともいう。つまり、庶民が他国を旅行するに当たり、支配役人が姓名・住所・旅行目的・宗門等を証明した国内旅行のパスポートである。普通、次のような事項が書かれており、 旅行者の便宜と保護に欠かせないものである。
- 檀家を証明し、キリシタンなど異端の宗門でないこと
- 関所や番所の無事の通行を願うこと
- 日が暮れた際の宿泊の手配を頼むこと
- 病気の際の介抱を頼むこと
- 途中で死亡した際、その地の風習により埋葬を願い、連絡はついでの節にくれればよいこと
【天神町の書状】
上の書状は、兵左衛門が馬喰村から次の村送り地、敷地(敷知=ふち)郡天神町(現浜松市)で、同夜急に腹痛を訴えたので、医師に診せたが、死亡したので、同町の「字小森」に仮葬したことを、飛脚を立てて知らせ、身内の者に事後処理を願ったものである。病人の帰路を追って隣町村まで村継ぎしている一端が分かる。
この書状は、今日でいう追伸である尚書きが最初に2行あり、読む順序が少し煩わしいが、当時は、頭に余白をもって書き出し、追伸があると「二白」「三白」「尚々」などの追加が冒頭に来ることが多い。当然、この書状では、3行目の「態々・・」から読み始め、最後に戻って1、2行目を読むことになる。
【八田新田の対応】
これらの書状を受け取った八田新田ではどうしたか。兵左衛門を仮葬してくれた天神町に宛てた礼状の写しが残されている。そこでは、兵左衛門が独身者で、親類などの身寄りもなく、組合(五人組)も貧窮者で、遠路罷り出ることもできないので、金壱分を送り、挨拶としている。金壱分は、今日に換算すると2万円から3万円に相当しようか。兵左衛門が往来一札を所持していなかった事情も示されている。すなわち「當村兵左衛門与申者當二月無子細村方欠拂候・・」とあり、理由不明の失踪者であったようである。
今回のケースは、八田新田の者が病中の保護を受け、死後も丁重に扱われた例であるが、逆に八田新田が他国者の病人を助けた文書も残されている。一例を次に挙げる。
- 下街道を1丁ほど入った控山で、気分を悪くしていた三重県松阪の廻国の僧を発見し、駕籠で隣りの勝川村へ送り届けたこと。(文政8年=1825)
- 大草村へ通ずる往来脇で、静岡県の病気の母親、12歳の女の子と6歳の男の子の3人を発見し、母親を医師に診せるなど介抱した。この母親ら3人は、京都本願寺へ参詣の帰途であり、介抱を受けたお蔭で全快し、無事国元へ帰ったという礼状が届いている。(天保9年=1838)
旅行の目的は、今回のように奉公に出向いたり、廻国巡礼などいろいろあり、行き悩む旅行者を発見したら、役場へ届け出て指図を受け、何れの村も、薬を与えたり、地元の医師の手当てを受けさせたり、本人の希望があれば、駕籠を雇って村送りしたり、手厚い処置を施している。旅先で病気に罹ると、ほとんどの者が一刻も早く国元に帰りたがり、少々の無理を押しても村送りを希望している。
当時、自分の村を出て旅行することは、かなり厳しいチェックがあり、承諾を受けなければならず、今日なら日本から外国へ旅行するのと同じ程度に考えられていた。
今回の兵左衛門にしても、無断での出府は厳禁とされており、戻れば重い罰を受けることは明らかであるのに、たとえ身内がいなくても、帰心矢のごとし、国元へ帰ることを希望する気分になるものと思われる。
注 古文書は春日井市教育委員会所蔵
登録有形文化財(建造物)の紹介
旧中央線玉野第三隧道(たまのだいさんずいどう)、旧中央線玉野第四隧道(だいよんずいどう)、旧中央線笠石洞暗渠(かさいしほらあんきょ)の3基が、平成28年11月に春日井市では初めての登録有形文化財になりました。
旧中央線(現JR東海・中央線)は、明治25年(1892)6月21日制定の鉄道敷設法に基づいて建設された、名古屋と美濃・信州を結ぶ路線で、名古屋-多治見間は明治29年(1896)に着工され、明治33年(1900)に開業しました。高蔵寺-多治見間は、庄内川沿いに建設されましたが、昭和41年(1966)、名古屋-多治見間の複線電化により、新線に切り替わった定光寺-古虎渓間は廃線となり、現地には煉瓦造の隧道・暗渠・橋台などが廃線時のまま残され、現在は特定非営利活動法人愛岐トンネル群保存再生委員会が管理しています。
旧中央線玉野第三隧道
玉野第三隧道は、定光寺駅から多治見方面へ約400mの地点にあります。断面形状は、明治31年(1898)8月10日付け「隧道定規」で標準断面に定められた明治期の鉄道トンネルの標準的形態(単線の非電化区間を中心に多用)が用いられ、馬蹄形で築造されています。内部には待避所、側壁に腕木信号操作ワイヤー掛け金具が残り、道床には最大で約90cmの残土が盛られており、坑門及び内壁に補修の跡が見られず、建設時の原形を保っています。
旧中央線玉野第四隧道
玉野第四隧道は、定光寺駅から多治見方面へ約800m、第三隧道から約400mの地点にあります。直線状の隧道で、断面形状は、第三隧道と同じように「隧道定規」に則り馬蹄形で築造されています。煉瓦造の坑門は壁柱(坑門の強度を上げるための柱。装飾的な役割も大きい)、笠石(最上部を飾る。装飾的な役割や水切りなどの役目がある)などを備えた官設鉄道用隧道の特徴を示しています。西坑門上部には煉瓦造擁壁が設けられ、東坑門上部にはレールを再利用した落石防護柵が、山側法面はコンクリート造の擁壁やその上部にレール再利用の落石防護柵が施されています。
旧中央線笠石洞暗渠
笠石洞暗渠は、中央線建設に伴い建造され、定光寺駅から多治見方面へ約1,100m、第四隧道から約300mの地点にあります。煉瓦造アーチ構造の暗渠と煉瓦造立坑からなり、線路の盛土で築堤した際に、沢の水を通すために設けられました。昭和32年(1957)の集中豪雨により土砂で沢が埋まり、暗渠も埋没しましたが、復旧工事では内部の土砂を取り除き、煉瓦造立坑の上部をコンクリート造で継ぎ足して、煉瓦造暗渠と立坑を復活させました。立坑下部及び暗渠は、建設時の原形を保ち、コンクリート造の立坑上部は、昭和32年当時の鉄道施設災害復旧の技術水準を表しています。
(事務局)
田楽砦の発掘調査 ~堀の様相からみた合戦記~
1 はじめに
1584年(天正12年)、小牧・長久手の合戦において、羽柴秀吉は楽田を本陣に小牧山を北東から包囲する布陣とし、小牧山に本陣をおく織田信雄・徳川家康は、蟹清水・北外山・宇田津・田楽に連砦を築き、対峙した。田楽砦は、郷士長江平左衛門が自らの屋敷を提供し、篠木・柏井の村人約2,000人を動員しての突貫工事により急造したものとされ、落城した犬山城主中川勘右衛門の敗残兵を家康自ら慰撫し、守護させたという。
2 砦の立地と現況
田楽砦は連砦の東端、春日井市田楽町字郷中地内に位置する。地形上は段丘田楽面の頂部平坦面・標高約33.5mに立地し、段丘下との比高差は約7.5mを計測する。小牧山をはじめ北から南方向への遠望が利くことから、索敵等、戦略上の重要性がうかがえる。
砦の中心を成した長江屋敷は、現代に至るまで四方位に沿う1辺約40~45mの方形の地割として痕跡を留め、縄張の大略的な規模が推測される。遺構としては、昭和30年代まで北東隅部付近から東辺にかけて堀・土塁が遺存した。しかし、堀・土塁は住宅建設工事により未調査のまま滅失し、その後も徐々に周囲の宅地化が進行したため、砦の実態は不明であった。
そうした中、長江屋敷の一画において分譲住宅建設工事が計画され、平成29年1月に春日井市教育委員会が事前の発掘調査を実施した。
調査では、縄文時代・古墳時代・平安時代・中世~近世に至る複合集落(田楽遺跡)を構成する出土遺物・遺構群のほか、田楽砦の堀の一部を検出し、具体的構造の一端に迫る成果を挙げた。
3 発掘調査による砦の概要
砦に関する遺構としては、堀以外の構造物(建物等)は不明である。
堀は、長江屋敷の西側の境界に沿う南北方向(堀Iと仮称)、南側の北西-南東方向(堀IIと仮称)の2筋が確認された。堀I・IIは連続するか、途中に虎口を配したかは不明である。堀Iは長江屋敷の北東~東辺に遺存した堀・土塁に平行し、砦全体に堀を巡らせたとすると推定規模は東西45m(25間)・南北60m(33間)となる。堀は断面が逆台形の箱堀で、上辺が幅4.56m、底辺が1.75mを計測し、最大深度は1.76mである。堀は段丘の基盤層である粘土・砂混粘土を掘り込んでおり、堀の底面から側面にかけて鋤先による刺突痕が無数に残され、築造時の生々しい状況がみてとれる。
田楽砦は戦火を交えることなく、両軍が和睦し、田楽砦をはじめ急造した砦の多くが解体された。堀の埋土に注目すると、底面に堆積した自然堆積層は数cmから10cmに満たず、砦の存続期間が極短期間であったことを示している。また、埋土の大部分を段丘基盤層に由来する黄色の土塊が占めており、片側から流入するような堆積の在り方は、隣接する土塁(盛土)の存在を示唆し、土塁を取り崩して堀を埋め立てた可能性が考えられる。
4 まとめ
堀の掘削から埋没までの短期間の趨勢は合戦の経過とも整合性が高く、歴史的事象を考古学的な物証によって裏付ける成果といえ、春日井市の歴史に重要な1頁を加えることとなった。
(事務局)
発行元
発行 春日井市教育委員会文化財課
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