郷土誌かすがい 第64号

ページID 1004425 更新日 令和6年1月10日

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平成17年10月15日 第64号 ホームページ版

国際博覧会

愛知国際博において伝統芸能を披露

今世紀最大の総合的な国際博覧会(愛知万博)が大阪万博以来35年の時を経て、3月25日から9月25日までの185日間、愛知県瀬戸市と長久手町を会場として開催されました。愛知万博には世界120を超える国と国際機関が集い、驚きと感動のパフォーマンスが繰り広げられました。
万博の催事の一つで、愛知県の各地域に継承されてきた祭りや芸能を紹介する「あいち伝統芸能名選」に春日井市から市の郷土芸能を代表して「外之原中獅子神楽保存会」と「小木田棒の手保存会」の2団体が出演しました。
「外之原中獅子神楽」は、江戸時代中期ごろ恐ろしい獅子によって悪魔を追い払うため、獅子頭をかぶり神前で舞ったのが始まりと伝えられています。明治23年頃までは祭礼に際して獅子舞奉納の儀が厳粛に行われていましたが、その後娯楽的要素が加わり次第に簡略化され現在に至っています。当日は、笛や太鼓などのおはやしが奏でるなかを獅子が悪魔払いの舞や幣の舞などを巧みな動きで華麗かつ勇壮に舞い、会場のあいちおまつり広場に集まった観客を魅了しました。
「小木田の棒の手」は、県の無形民俗文化財に指定されており、流派を源氏天流といい、八幡太郎義家を流祖としています。明治時代に旧関田村(現在の小木田町)に伝わり、小木田神社に奉納されて以来今日に至っています。源氏天流は、戦国末期における実戦的な古武道の型をそのまま伝えており、極めて素朴であるが太刀筋は厳しく演技には長年の習練が必要とされます。当日は、振り鎌・傘槍・真剣竹切など槍や太刀を巧みに使った迫力ある演技が披露され、観客は手に汗しながら見入っていました。
出演後の皆さんは、「数ヶ月前からの厳しい練習を重ねた結果、本番のこうした大舞台で、日頃の成果を十分に発揮し堂々と演じることができ良い思い出になりました」と満足げな表情でした。

事務局

郷土探訪

春日井をとおる街道22 勝川宿

櫻井芳昭 市文化財保護審議会委員

1はじめに
勝川は弥生時代の鍬や木簡の加工場の遺構がある勝川遺跡、白鳳時代の勝川廃寺、中世の安食庄、織豊期の小牧長久手の戦い、江戸時代の勝川宿、明治期の役所の町とそれぞれの時代に地域の中心を担う集落として機能してきた。今回は勝川宿の町並みの特色と勝川の地名がもたらした事物についてまとめてみたい。

2中世の勝川をとおる道
勝川村の地名が登場するのは、醍醐寺領安食庄の相論絵図である。この図は隣接する柏井荘との境界争いが起こった応永34年(1427)ころに作成されたといわれている。この図には中央にゆるやかにカーブを描いて南北に走る太い道が通り、南端で細い道が分かれている。勝川村は太い道の西端に、竹薮に囲まれて5棟が集まる集落として描かれている。この道が現在のどの道に該当するかについて、須磨千穎氏は醍醐塚、伊勢山などとの位置関係から大草道とされている。この道は勝川から小牧の大草村を経て、神屋、西尾から美濃へ出る古くからの道であり、この見解に賛成である。そして、もう一つの東北方向に行く細い道は、段丘の縁に沿って東進し、上条、関田、下市場から神屋へ出る古村の郷中を結ぶ道・下市場への道であったと考えられる。中世までの尾張と美濃をつなぐ道は、大草道と下市場道の2ルートがあったといえる。勝川村は大草道の西側から、江戸時代の下街道整備に伴って東へ拡大したが、小牧、美濃への道が分岐する中心集落であった。

3勝川宿の町並みの旅籠・物資運搬
庄内川を渡って北上する下街道は、地蔵池のドン橋を越えて沖積低地をとおり、少し高くなった鳥居松面の台地にある勝川宿に入っている。天保12年(1841)の村絵図では、津島街道を過ぎたところから家並みが両側に札の辻まで続き、ここから東へ折れた横町も家々が建ち並んでいる。札の辻から真っ直ぐ行く小牧街道(勝川道)沿いは田畑が広がっていて家はなく、東北へ分かれる大草道では北側の出屋敷に3軒が描かれている。
勝川村は、文化年間(1804から1817)165戸792人で、村高1,080石余の大きな村であった。集落は下街道沿いを中心に、下ノ組、中町、札組、横町の4組で宿場町を形成していた。尾張徇行記には「関東又は北国あたりよりの往来の道者、宿をする故、町並に旅舎建ち並び、又人馬をも継ぐなり。(中略)小百姓は駄賃付などをして生産とす。僅かなる茶店ありて、商戸はなし。」と述べている。江戸時代の道中記に記載のある勝川宿の旅籠や茶店には、米屋又右衛門、美濃屋与三左衛門、みなとや弥吉、柏屋善十郎、住吉屋などがみられ、旅舎は15戸ほどあったという。明治時代の宿屋も坂口屋、大竹屋、駒屋などがあったが、江戸期と同じ屋号は住吉屋だけである。
愛知県埋蔵文化財センターの発掘調査によると、下街道は約4mの幅で両側に側溝があり、短冊型地割で町屋の区画を示す溝が認められている。そして、町屋の裏に井戸があり、そばに石を階段状に組んだ水溜用のくぼみがつくられ、屋内からの排水溝につながっている。この石段のところでは、井戸水を汲んで食器洗いや洗濯などが行われ、使った水は溜められて屋敷近くの畠の肥料や街道のほこり抑えの水として使われたと考えられる。

勝川村の道幅別街道数と距離
道幅項目

パーセント

距離 間

パーセント

3尺以下

7

5.0

595

2.8

4から5尺

77

54.6

11058

52.1

6から9尺

51

36.2

8807

41.5

2間以上

6

4.2

759

3.6

141

100.0

21219

100.0

文政4年(1821)の旅籠・住吉屋の「万覚帳」に見える宿泊客は790人であった。泊まり客の居住地は、信州と美濃がともに120人で最高、次いで尾張81人、越後、伊勢が目立っており、上州、上総の関東や会津、出羽などの東北、大和、江州などの西国もあり、極めて広域からの往来があったことがうかがえる。これは下街道が中山道と東海道、伊勢道を連絡する便利な道であったからである。
文化12年(1815)の住吉屋の覚帳では、11月までで人足544人が荷物を運んでいる。また、文政10年(1827)1から6月の「駄賃之覚」にある荷物継ぎ立ては、23件で1月が10件と多い。地域別では名古屋が8件で最も多く、坂下4、枇杷島3、甚目寺3、内津2などとなっている。旅人と違って、荷物は近郷近在の宿場や城下町に運んでいる。

勝川宿土地利用図

4明治初期の勝川
明治17年の地籍図で勝川の町並みを見ると、下街道に沿ったところに宅地が集中している。宅地の後方にはほとんど林がある。札の辻の一帯には藪が5区画ほど残っており、阿弥陀堂や愛宕社もある。上屋敷の水路を過ぎた辺りから家並みがとぎれ、下街道沿いも畠や林が多くなっている。字別で戸数の最も多いのは下屋敷の61区画で、そのうち37(61%)が下街道に面しており、太清寺前道の両側にも10区画ほどみられる。次いで、上屋敷の42、中屋敷の41である。下街道沿いの宅地の1区画当たり平均面積は518平方メートルで字別では下屋敷が565平方メートルで最も広く、1,000平方メートルを越える区画が4つあり勝川宿の中心となっている。区画が小さいのは横町の東端・上屋敷で平均面積471平方メートルで、開発の新しい地域である。

 

字別宅地数と平均面積(『勝川村地籍帳 明治17年』愛知県公文書館蔵より)
字名

戸数(戸)

平均宅地
面積
(平方メートル)

うち下街道沿いの宅地
戸数(戸)

うち下街道沿いの宅地
3畝以下
(99平方メートル以下)

うち下街道沿いの宅地
4から6畝
(100から594平方メートル)

うち下街道沿いの宅地
1反以上
(992平方メートル以上)

うち下街道沿いの宅地
平均宅地
面積(平方メートル)

上屋敷

42

450

30

11

19

0

471

中屋敷

41

481

23

9

13

1

508

下屋敷

61

443

31

14

13

4

565

144

456

84

34

45

5

518

勝川村の道は141路線あって、幅4から9尺の道が90%をしめており、比較的広い道が村全体を結んでいたといえる。最も広い道は明治13年明治天皇行幸を機会に拡幅された幅3間の御幸街道(津島街道)である。この道は枇杷島、清洲、甚目寺、津島など尾張西部への主要道になっていた。幹線は幅2間の下街道で、下町(下屋敷)を北へ進み、札の辻で東へ折れて中町(中屋敷)、上町(上屋敷)を通って松河戸新田に入っている。 
勝川宿の下街道の家並みから出ている支路は、西側へ5、東側へ4、横町から北へ2、南へ5あり、それぞれ田畑、集落、墓などをつなぐ道になっており、道幅は1間前後が多くなっている。広い道は幅2間の太清寺前道、2間半の氏神大門道、7尺の愛宕前道など寺社へ通じる道で、祭礼や参詣などで多くの人たちが混乱なく参集できるようになっている。施設では、旅舎が15軒で最も多く、次いで公共施設(村役場、学校、警察、郵便局、税務署)が5、商店4、人力丁場などがあり、地域の政治、商業、交通機能の中心となる施設が集中していた。

5武運長久を呼び込む勝川の地名
江戸時代の春日井で全国的に有名なことは、小牧長久手の戦いで徳川家康が勝川で休憩した折りの話である。
天正12年(1584)4月8日、徳川家康の軍勢約9千人は小牧山から長久手へ向かって、霧の中を進んでいた。如意を経て勝川に入り、龍源寺(現太清寺)を始め村の一帯で休憩した。「ここは何という所か」とお尋ねがあったので、道案内の庄屋甚助が「勝川村にござります」と申し上げると「勝川とな、これは吉祥、縁起のいい名だ。この戦はきっと勝てるぞ。早速、旗竿を切れ」と命じて、鎧兜を締め直して武具を整えて出立し、見事勝利をおさめた。このことをきっかけにして、勝川は勝利を呼び込む縁起の良い地名として有名になり、勝川の名称を付けた品である勝川竿、勝川具足、勝川石が誕生した。
勝川村の藪で旗差物の竹竿を切ったことが縁で、江戸時代には尾張徳川家へ旗竿を献上するようになった。この竹を切る藪は「御旗藪」と呼ばれて除地となり、良い竹がとれるよう慎重に管理された。また、ここだけでは不足するので、坂下の御藪守・伊藤彦兵衛が神屋、明知、西尾の23箇所の御旗藪から切り出して、人夫や馬によって勝川の地蔵池に送り、池の水に浸してから、名古屋城内に届けられていた。勝川竿は天保11年(1840)刊の「尾張国産品吟味之留」にも掲載され、幸運を呼ぶ竿として珍重された。
毎年1月11日の具足鏡開きには、江戸城御黒書院正面上段の間の床の間に「勝川具足(歯朶の具足)」と餅飾一式を並べて、将軍主催の儀式が行われる。この具足は徳川家康が小牧長久手の戦いで着用して大勝利したため、縁起の良い具足として家康にまみえる如くとても大切に扱われた。将軍は譜代大名及び諸役人を従えて、まず具足に礼拝して供えられた瓶子でお酒を召し上がる。これには井伊掃部頭1人が相伴した。将軍の拝礼が済むと大目付の指示で6人ずつ下段の間に進み、老中が「御祝儀申し上げます」と言上してから大名たちも挨拶する。そして、具足餅拝領になり、3献目が済んでから懐紙に熨斗や餅を包んで退出するのである。
名古屋城中から大手門前の下馬する所までには、庄内川の勝川付近の川原で集めた石がまかれていた。また、本丸の東側に藩主の居館と政務を行う二之丸御殿があり、その北側は藩主や家族が生活する奥御殿で、この前に約2,000坪(6,000平方メートル)の庭園がある。この東側は池、築山、橋、各種の建物が複雑に配されており、西半分は平地で花壇のほかは一面に勝川石がまかれていた。「中御座之間北御庭惣絵図」に「惣白地の分勝川まき石」の記述がある。この庭は外敵に対する警備と守護を考えて造られたもので、万一忍者などの侵入者があった場合、小石の動きによって足音を聞き分けたといわれている。これも勝川の吉兆にちなんだ措置だといえる。

6おわりに
勝川は中心集落を西部から東部に移動させながら、古代から現代までこの地域の政治、経済、交通の中核の役割を担い続けてきた。現在は東名阪自動車道、国道19号と302号が交錯するところとなり、著しく変貌した。このため、江戸時代の面影をたどれるのは、太清寺、愛宕社、住吉屋など極めて少なくなってしまった。さいわい「勝川地区資料館」が設けられ、写真や文書が展示されているので、往時を偲ぶことができる。
勝川は家康との御縁で勝利を呼ぶ縁起の良い地名として有名になり、勝川ブランドの品が珍重された。勝川宿では、家康を案内して褒美にあずかった庄屋甚助宅が名所のようになり、拝領した葵の紋の入った陣羽織の拝見を所望する旅人もあった。また、清洲城主松平忠吉が鷹野の途次甚助方を訪れており、そのとき銀1分8ツを拝領している。又、その後の鷹野の折にも立ち寄られて、銀銭200文を拝領している。初代尾張藩主義直、2代目光友とは小牧御殿でお目見にあずかっている。このように家康とのご縁は代々尊重されたことがわかる。
大東亜戦争の初期には、武運長久を願ってこの布をお守りに所望する人が増え、少しずつ切ってあげたため、10センチメートル×15センチメートルになってしまったという。今も駅前商店街は「かちがわ大弘法通り」の名称で勝川の名にあやかって賑わいを呼び込むべく知恵をしぼっている。

郷土散策

白山信仰32 春日井を通った三山道中 その5

村中治彦 市文化財保護審議会委員

三山禅定碑(正面)

〈内津見性寺三山禅定碑の事〉
見性寺境内に三山禅定碑があることについては、立山信仰研究者津田豊彦氏の講演資料(注1)により情報を得ていたが、都合により取材が遅れていた。
平成16年10月31日、関係者(注2)に立会を頂き現地調査をした。
見性寺の石段を登って境内に入ると、右手に苔むした石碑が建ち並んでいる。その中央やや左寄りの所に2段の礎石の上に高さ約60センチメートル、幅約18センチメートルの石碑が建立され、次のような銘文が刻まれている。

三山禅定碑(左面)

正面
「天下和順
南無大慈大悲観世音菩薩
日月清明」

右面
「西國四國
秩父坂東
奉納ママ(順カ)供養等
當國須礼
諸神諸佛」

左面
「白山妙理大権現
北國立山大権現
富士浅間大菩薩」

裏面
「寳歴四甲戊歳
快叟守慶信士
為二親六親眷属
得妙元體信女
六月吉祥且
春日井郡内津村
願主鵜飼源六」

鵜飼家初代夫妻の暗碑

願主の鵜飼源六は尾張藩から名字を名乗ることを許されていたようである。藩に多額の献金をして許可を願い出たものと推測される。
文化12年(1815)に内津村の茶商が水野代官に名字の許可を願い出ている。その理由は江戸表で他国の茶商が名字を名乗っているため、商いの駆け引きに不利になるからというものである。
鵜飼家は江戸中期頃から味噌・溜の製造・販売を手広く商い、後期には薬の製造・販売の権利も手に入れて、村の有力な商家としての地位を築きあげ代々栄えてきた。
碑文にある戒名は後に整えられた鵜飼家の過去帳や位碑の初代のものと一致する。したがって願主の源六は2代目に当たるものと考えられる。
鵜飼家初代は源六郎又は源太郎を名乗る例が多く、源六を名乗るのは2代目の後半からである。商売が順調に発展し、村内での地位も高まり、篤信家でもあった2代目は多忙な中に暇を見付けては、仲間と共に各地へ順拝に出掛けたものと考えられる。
西国三十三所順拝は春日井市付近に於いては宝暦年間(1751から1764)頃から多く見られるようになる。しかし、三山順拝の例は大変珍しい。2代目の三山順拝ルートは、水野代官所役人とほぼ同じであったものと思われる。

郷土の自然

春日井の野鳥

小林拓哉 春日井市立味美中学校教頭

春日井市内につとめはじめて30年近くが過ぎ、これまでに様々な市内の自然に触れることができました。特に、名古屋生まれの私にとっては新しい発見をすることも多くありました。例えば、庄内川ではじめてアユを捕らえたり、東部丘陵散策路の脇にサギソウやササユリがひっそりと咲いていたり、市内で百種類以上の野鳥を見ることができたりしたことです。今回はこんな春日井市内の自然のうち、小鳥たちの色に注目して、市内で見られる野鳥を紹介したいと思います。

青い鳥
まずはベルギーの詩人で劇作家のメーテルリンクの戯曲「青い鳥」で、とても貧しいチルチルとミチルが追いかけて行った青い鳥です。
市内で見られる青い鳥の代表は、「オオルリ」と「ルリビタキ」そして「カワセミ」ではないでしょうか。

枝先でさえずるオオルリの雄

オオルリ
夏鳥として5月頃、春日井にやってくるこの鳥は美声の持ち主です。芽吹き始めた山道で高い木の先端でさえずっていることが多い鳥です。お腹の白色に対して背中の鮮やかな青色が、夏の空や新緑の緑にとても映える鳥です。

ルリビタキの雄の幼鳥

ルリビタキ
冬鳥の代表としては、この鳥があげられます。春日井には10月末頃にやってきます。雄の背中は鮮やかな青色でお腹の白色とのコントラストはオオルリとよく似ていますが、この2色の間に薄いオレンジ色がポイントとなってなかなかエレガントな鳥です。雄がこの色になるには2年以上かかるといわれています。

すました姿のルリビタキの雄

獲物をさがすカワセミ

カワセミ(翡翠)
カワセミは人気者で、鮮やかなコバルトブルーの体色に魅せられたバードウォッチャーや野鳥写真にはまりこむ人も少なくありません。この鳥は留鳥(その地域で繁殖し一年中見ることができる鳥)で水辺近くでよく見かけられます。水辺近くの木の枝にとまり、獲物の小魚をねらっています。そして水中へダイビングし小魚をくわえてあがってきます。メスはくちばしの下部がオレンジ色をしているので雌雄が見分けやすい鳥です。

赤い鳥
バードウォッチャーのあこがれの「赤い鳥」の多くはとても珍しい種類です。ここでは、赤いと言っても真っ赤な鳥はなかなかいないので、市内で見られる「ベニマシコ」と「ジョウビタキ」をご紹介しましょう。

種子をついばむ雄のベニマシコ

ベニマシコ
冬鳥としてやってくるこの鳥は、スズメぐらいの大きさでイチゴミルクにそっくりな体の色が特徴です。群れで移動することが多く警戒心が強くなかなか近づくことができない鳥です。林の近くの草原で、枯れたセイタカアワダチソウの種子(綿毛)をついばんでいる姿が見られます。

橙色が鮮やかなジョウビタキの雄

ジョウビタキ
ジョウビタキはこの地方の代表的な冬鳥で、住宅地でもよく見かけることがあります。私の勤務先(春日井市西本町)でも、11月頃から畑の支柱やフェンスなどに留まって、しっぽを上下に振る仕草をしています。雄の顔とのどは黒く、胸は橙色をしていますが、遠くから見ると橙色が鮮やかに感じられる鳥です。黒い翼の中にある白い斑が印象的です。

黄色い鳥
黄色い鳥の代表は、水辺の貴公子「キセキレイ」と夏鳥の「キビタキ」です。どちらも鮮やかな黄色が印象的な鳥です。

水辺が大好きな雄のキセキレイ

キセキレイ
セキレイの仲間にはセグロセキレイやハクセキレイがよく見かけられますが、しっぽを縦に 振りながら歩く姿がとてもかわいいです。その中でも一番細身なのがこのキセキレイです 。

美しいさえずりのキビタキ


キビタキ

ゴールデンウィークの 頃、林の中を歩いているとどこからか、よく通るすんだ鳴き声が 聞こえてきます。「ピーリピッ ポピピッ」と繰り返し 鳴いたり「ツクツクオーシ」と蝉の鳴き声に聞こえることがあります。いつも暗い 林の中にいることが多く、なかなか明るいところへ 出てきてくれません。ときに新緑の緑を背景に胸の オレンジ色が見えると本当に感動する美しさです 。

私の研究

大谷山と岩船神社 春日部、山田両郡域について

岩船神社

高橋敏明 春日井郷土史研究会員

1廻間の景観
周囲の丘が開発されたとはいえ、廻間ほど「ふるさと」を感じさせるところはない。弥勒山、大谷山、道樹山の三連山(以下、「三山」)に発する大谷川が縦貫し、水田を潤す。細長いムラの奥・鎮守の杜には岩船神社が鎮座する。これより上は、山名のとおり仏や先祖の領域である。弥勒は菩薩、大谷は青谷(墓域)、道樹は堂頭(寺の住職)であろうか。神社と三山の間の古墳群もそれを物語る。寺も中世までは大谷山麓にあったといい、また、弥勒寺があったともいう。江戸時代の村絵図では、村の東西の丘には多くの山神、荒神、薬師が祭られ、村人は、祖先や神仏に見守られながら米をつくり、薪炭、野草、魚をとり、川に遊び、山に遊ぶ、そんな空間が彷彿される。
岩船神社裏から三山を望むとき、「死者の魂は、寂かな谷奥で浄化された後、天高く昇り、やがて祖霊となり青雲たなびく嶺の上から、国原を眺め見下ろして居る」という柳田国男『山宮考』の記述は、この空間のために書かれたのではないかとの思いを強くする。三山を仰ぎ見る谷に古墳が築かれたのは、まさにこのようなイメージからではなかったか。

岩船神社

2岩船神社と蛭子命(太陽と船と墓)
岩船神社の祭神・蛭子命は、『記紀』ではイザナキとイザナミの第一子であったが、不具児であったため船で流されたとする。しかし、現在の神話研究では、元来は日神であったが、持統天皇朝(687から696)頃、各地の様々の日神が、皇祖神となった天照大神に統合される過程で、生み損じ神話が導入され、日神から不具児になったとされる。
この神話解釈のほか、蛭子命=日神の傍証は、道樹山の「元旦早暁の鶏鳴」伝説や大谷山と岩船神社の位置関係に太陽祭祀の可能性が考えられることである。元旦の鶏鳴に続くのは、初日=新しい太陽である。岩船神社から仰ぐ大谷山は、夏至の太陽が昇る真東から北へ30度の方角にあり、同社から眺める山の姿形も秀麗で、三山の遙拝所に最適の位置にある。自然崇拝である太陽祭祀の祭壇となった場所にいつしか人格神としての太陽の子(化身)自体が祭られるようになったのではないか。
社名は、一応はヒルコが流された船に由来すると思われるが、「日神と船」について『住吉大社神代記』(奈良時代とされる)には、船木氏の祖先神が太陽神をこの世に出すために木と石の2艘の船をつくり、墓に納めたという記述がある。太陽と船と墓がキーワードとなる。これは一般に「太陽の船」信仰といわれる。
このキーワードを廻間にあてはめると、太陽の自然地形での象徴は三山で、その化身が蛭子命(日神)、両者の祭場である神社が太陽の乗る岩「船」神社であり、墓は神社境内や三山を望む谷の古墳群といえよう。古墳は、現存の4基を含め9基前後は存在したと考えられており、神社裏の谷一帯が墓域であったことを物語っている。また、この谷の一角の小字「大谷」も、墓域を意味すると考えられる。民俗学者の谷川健一氏は、「青」の地名は「死者の葬地」で、「大」もその表記の一つであること、さらに、多氏や船木氏などと関係が深いとしている。廻間が船木郷に属していたと考えられること(後述)などから、岩船神社から三山の一帯は、3つのキーワードがみごとに重なり合う所といえよう。
松前健奈良大学教授は、『日本の神々』で「日本の古代には、皇祖神としてのアマテラスのほか、太陽神らしい神がもろもろの地方にまつられていた。…尾張氏とその同族がまつるアマテル神社も諸所にあった。これらもみな海人の奉じた日神で、一般に船とむすびついていたらしい。…(これらは)古代エジプトをはじめ…世界的な「太陽の船」の信仰文化に属している。」と述べている。この説に従えば、岩船神社の蛭子命と船の関係は、紀記神話成立以前に遡り、世界的な「太陽の船」信仰につながっていたことになる。
蛭子命を祀った豪族は、誰か。10世紀中頃の『和名抄』(平安前期)では尾張国山田郡に船木郷があったと記している。山田郡は春部郡と愛知郡に挟まれ、現在の守山、瀬戸、尾張旭等を中心とした地域と推定されているが、郡或や船木郷の所在地ついては、様々な説がある。船木郷について、『日本地理志料』は、一般的には春日部郡と考えられている「内津、西尾、明知、神屋、外原、迫間、白山、大山、野口諸邑」とし、水野時二『条里制の歴史地理学的研究』もほぼ同一説をとっている。一般的には庄内川が春日部・山田両郡の境界とされるが、いく度となく川筋が変化したであろう自然堤防の時代、両郡域は画然としていた訳ではなかったであろう。船木氏が「日神」と「石船」と「古墳」をつなぐキーマンであることを考えると船木郷を廻間やその周辺地域に比定する説には、単なる地名からの推定以上の説得力があると思われる。市内最古の横穴式石室古墳である西尾の欠之下古墳や古墳文化の残照ともいえる外之原の大久手古墳(奈良時代の最終末期古墳)は、当地域が古墳築造の先端地であるとともに、薄葬令(646)による古墳文化衰微の中なお50年以上にわたり古墳への執着を持ちつづけた地であったこと、即ち古墳築造に深い関わりをもつ豪族の存在を暗示していると言うのは、過言であろうか。

3神奈備山としての大谷山と岩船神社
小島瓔禮琉球大学教授は 『日本「神話・伝説」総覧』において、土地を鎮める神と来訪する神の二元的信仰が古い日本の 信仰体系の中にあったとし、琉球諸島の御嶽と大和の三輪山をとりあげている。三輪山の大神神社の 神は古くから大地の主の神格をもっていると信じられてきたが 同時に、海の かなたから来た神霊(海を照らして浮いてくる神である大己貴=大国主命)でもあるという伝えがあり 、三輪山には古来、土地鎮めの神をまつり、来訪する神を迎える信仰があったとしている 。

廻間町南西泉橋から

三山を眺めて直観的に感じるのは、巨大な鳥が翼を広げ山麓の地を守っているという感覚であり、また岩船神社から眺める、漢字「山」そのままの秀麗で安定した山容は、人に安心感と神神しさを抱かせる。すぐれた姿形の大きな山に神を感じる(「神奈備山」観念)のは最も始原的な宗教観念の一つといえよう。三山は、本来的に土地鎮めの神(主神)となったであろうことは十分に頷けよう。同時に、太陽祭祀の場でもあったため、そこに日神が客神として祭られるようになったのではないか。
さて、尾張の神奈備山といえば、一般には東谷山(山田郡)があげられるが、標高400メートルで一切の人工物を拒否する代表的神奈備山・三輪山と比較すると、根本的相違がある。東谷山の標高約200メートルは、弥生から古墳時代には人の活動圏であったとされ、現に山頂には古墳が存在する。また、神奈備山の要件である「眺められる」ことができない。尾張規模の視点(遠方)からは背後の山並みに没してしまう。標高400メートルを超え、濃尾平野のどこからでも眺められる三山(春日部郡)こそ神奈備山であり、その祭壇が岩船神社ではなかったか。神の住む山は、元々は禁足地と観念されていたが、修験道の発達に伴い、霊力を養う修行の場となったとされる。三山に連なる尾張の東北部の山地には、修験道の痕跡がいたる所にある。古くから神の住む山と観念されていたことを示すものといえよう。

岩船(岩船神社境内)

4岩船神社と艫借明神
岩船神社について、『尾張地名考』は「『本国帳』春日部の 郡正三位艫借天神は所在を知らず、謹考に此廻間村の 宮をいふなるべし」と記す。艫借天神(明神)が岩船神社であった可能性を考察する。「艫」は、漢和辞典では船首と船尾の二義があり、船に関係する神社であったと想像される。春日部郡内の 他の神社と比較すると、

  1. 社名に船が付くこと
  2. 船と関連の深い祭神であること
  3. 天照大神以前と思われる祭神を祀る相当に古い神社であること
    当に古い神社であること
  4. 「へさき」形の石があること
  5. 神奈備山の麓にある神社であること

などから、岩船神社が艫借明神であった蓋然性は、高いといえよう。現存の本国帳は、奈良時代、地方の主要神社を管理運営のため作られた公簿を元本に、後代に修正会等の奉唱用に作成されたもので、各神社には大神宮・大明神・明神・天神・地神の格付けがされている。貞治3年(1364)の本国帳では、「明神」は28社で、春日部郡20社では「艫借明神」一社のみである。林睦郎ほか編『日本古代国家の祭儀』によれば、明神制は、皇祖を祭る伊勢神宮を頂点とした神社の国家体系である官社制を補う制度で、9世紀に確立したといわれる。官社制では、祈年・月次・新嘗時の奉幣は伊勢神宮のみで、他の神社はその「班幣」(分幣)しか許されなかった。このため、各地で祈雨などのため臨時の奉幣を行う場合、それを特定神社に限定したのが明神制で、その地域の霊験ある有力神社が「明神」に格付けられた。「艫借明神」は、郡唯一の明神であり、山田郡にはなく、庄内川中流域では最も格の高い神社であったことになる。県主丹羽氏の祖を祀る丹羽郡の大縣神社が「大明神」とされたのに対して、尾張氏の祖を祀る山田郡の尾張戸神社が「明神」にもなれなかったことは、同社が伝統社会に根ざした神社ではなく、政治的に設置された後発的神社であったことを物語るものといえよう。
ここで問題となるのは、廻間即ち岩船神社の所属する「郡」に関してである。前述の「二」では山田郡船木郷説をとったが、艫借神社=岩船神社説では、春日部郡ということになる。この矛盾を解決できる答は、「両郡の郡域は時代により変更された」あるいは「あいまいであった」という他ない。その論拠として次のような理由を提示したい。山田郡に明神が置かれなかったということは、その必要がなかったか、あるいは設定できなかった、即ち、山田郡には土地の人々に高い霊威を抱かせる神社がなく、国家制度としての郡域を越え他郡の神社にそれを感じていた、ということであろう。つまり、伝統的地域社会としては、春日部郡と山田郡は一体であったのではないか。山田郡は国家制度上(書類上)の行政区域にすぎず、そのため現地では郡域が確定せず、後代消滅することさえあったのではないか。さらにいえば、春日部の郡名の起源に関しては、雄略天皇皇女の春日大娘の名代部説と安閑天皇妃の春日山田皇女の名代部説が有力だが、以上の論考から、伝統的に一体の地域社会を形成していた後代の春日部・山田両郡域に春日山田皇女に由来する「春日山田屯倉」が置かれたが、後に人為的に「春日」と「山田」に分割されたのではないかと考える。あるいは、皇女の名を分割して同時に二つの屯倉を置いたために、一体であった地域社会が分割されたと考えることもできよう。その論拠は、安閑天皇が妻の名を残すために名代部を置くとすれば、「春日」だけでは春日大娘と区別ができないこと、そして現に当地には、「春日」と「山田」という郡名が隣接して存在することである。さらには、同天皇が妻の名代部を置くに最もふさわしい地の一つは、母(目子媛=尾張連草香の娘)の故郷であろう。味美二子山古墳の被葬者が目子媛であった場合、その墓を祀る地に妻の名を付けることは、いわば嫁が姑の世話をすることであり、極めて自然で道理に適ったことといえよう。門脇禎二氏もほぼ同様の論を展開されている。全国には多くの「春日」の地があるが、当地ほど春日山田皇女を特定的に想起させる地はないであろう。
最後に、本国帳では格下の「天神」であった内々神社が中世、篠木33か村の総鎮守となる一方、艫借明神は本国帳に名を残すのみとなったが、それは、神奈備型から修験道型へと山に対する信仰の基軸が変化したためではないか。神奈備型は離れて拝む秀麗な山であったのに対して、修験道型は入山し修行する場として人を拒絶する荒々しさや再生の場としての岩窟が重視された。機能的には対照的である。密教やその影響を受けた修験道の隆盛に伴い、神奈備型である三山から修験道型にふさわしい内津の山や谷へと信仰の中心地が移り、艫借明神が神奈備山の遙拝所としての機能を喪失したことによるものではないか。

本稿は、拙論を5分の1に要約したものであり、論拠の詳細は、元稿をご覧いただきたい。

平成16年度発掘調査速報高御堂古墳確認調査概要報告

調査前風景(前方から後方部を望む)

1はじめに
高御堂古墳は、古墳時代前期と考えられる市内唯一の前方後方墳で全長63メートルを測り、庄内川の旧河道によって形成された標高25メートル前後の自然堤防上に立地しています。周辺は、土地区画整理事業の推進により道路の整備や宅地化が進み、付近の景観は大きくかわりつつあり、高御堂古墳も公園内に取り込まれ整備されることになっています。
高御堂古墳は、昭和26年に市の史跡に指定されましたが、昭和43年に測量調査、平成2年に保存を目的とした確認調査が行われただけでした。平成10年度以降、区画整理事業に伴い古墳周辺で発掘調査が実施され、前方後方形周溝墓や弥生後期から古墳中期の竪穴住居、中世集落が確認されました。古墳後方部南側では周溝の一部と考えられる不定形な溝状遺構が検出され、前方部東側では現地表面から約1メートル下で葺石が検出されており、前方部幅と全長が現況規模を上回ることが明らかになりました。

2調査の概要
今回、古墳の 規模・年代など公園整備に向けた古墳の基礎資料を得るため、古墳の西側に3箇所の トレンチを設定し、平成16年7月12日から8月31日まで調査を実施しました 。

2トレンチ掘削状況

(1)古墳の規模
各トレンチとも古墳墳丘は墳裾部で勾配が急になっており、原位置を保つ基底石等も確認できませんでした。2トレンチでは前方部コーナーに向かいやや開き気味に礫が 検出されましたが、規則的に積まれた状況は窺えず、平成11年に検出された古墳東側の 基底石とあわせて考えると、石の立ち上がり角度が異なること、墳形が古墳主軸で対称であるとした場合にこの礫の2から3メートル外側に基底部が広がると考えられることから、墳裾部は削平を受けていると判断されます。

(2)周溝の有無
1、2トレンチで確認している溝状の遺構は最下層直上まで中世の遺物が出土しており、古墳築造時の状態で周溝が 遺存していたとは考えがたいことから中世段階での掘削が示唆されます。3トレンチの溝状遺構は、平成13年度に確認された不定形な溝状遺構と同じ土質を示し中世遺物を含まないことから、周溝ないしは古墳築造時の 落ち込みである可能性が考えられます 。

二重口縁壺出土状況(1トレンチ)

(3)出土遺物
1トレンチ墳裾部から二重口縁壺の口縁部や体部が出土しています。壺口縁部は横方向のミガキ調 整、口縁端部はナデ調整を行うもので、内外面に赤彩が施されています。

(4)まとめ
今回の 調査結果から、古墳西側は中世段階に一度掘削され、その後の 水田開発により墳丘が削られ、古墳築造当時と比べ、一回り小さくなっていると判断されます 。
古墳に 伴う出土遺物は小片ですが、これまでの調査で確認された遺物と年代も一致することから古墳時代前期に位置づけられると考えられます 。

3おわりに
高御堂古墳周辺では 、古墳に先行すると考えられる前方後方形の周溝墓が数基確認されており、周溝墓から古墳へ 移行する墓域の様相を理解するうえで有効な資料です。今後の公園整備に伴う発掘調査に期待されます 。
(詳しくは「平成16年度国庫補助事業に伴う試掘・確認調査概要報告書」をご覧ください。)

事務局

春日井の近代化遺産

近代化遺産とは、主として明治以降の技術によって造られた、または明治時代初めから概ね昭和20年代までに 造られた産業、交通、土木に関する構築物のことを指します。我が国の近代化に重要な役割を果たした「技術」の 記念碑ともいえる近代化遺産の歴史的な評価が定まらないまま、解体や 改変が進んでいます。こうした歴史的遺産を保護・保存し後世に伝えていくため、全国で 総合調査が実施され、愛知県においても平成14年度から16年度にわたって調査が行われ調査報告書が 発行されました。本市から報告書に掲載された主な近代化遺産を紹介します 。

玉野水力発電所の関連施設

玉野水力発電所の関連施設

玉野堰堤
定光寺駅から約300メートル程上流に 長さ45メートル、高さ8.78メートルの重力式石張コンクリート造りの堰堤があります。この堰堤は、玉野用水の堰堤として江戸期の 文化年間(1804から1817)に竣工し、その後何度も改修され現在の姿になっています。堰堤には、排砂門や魚道が設けられ、取水された水は玉野用水を経て、玉野水力発電所へと送られています 。

玉野水力発電所
玉野水力発電所は、大正10年(1921)8月に運転を開始しました。落差16.42メートルで出力500キロワットを発電し、定光寺地区は もとより一時は瀬戸、長久手、日進方面へも送電していました。現在も玉野町周辺の 地域に電力を供給しています。大都市近郊における水力発電所は近隣にも例がなく、尾張地方では唯一の水力発電所です。
同発電所、玉野堰堤及び玉野用水は 、玉野地域の産業と住民生活の近代化に寄与した現役の産業遺産です。

庄内川のアーチ橋群

庄内川のアーチ橋群

城嶺橋
玉野川(庄内川)の 定光寺に架かる城嶺橋は、昭和12年(1937)に京都四条大橋を模して造られました。尾張徳川家19代義親氏による「城嶺橋」の 揮毫を親柱に持っています。大正期の 水平線、垂直線を強調する「セセッション」風デザインで あった「まぼろしの四条大橋」の面影を留める橋です。

鹿乗橋
愛岐丘陵の 渓谷に架かる鹿乗橋は、明治43年(1910)の完成時にはブレースド2ヒンジアーチでしたが、昭和25年(1950)頃に、鉄骨の腐食により強度が建設当初の半分近くになったため、鉄筋コンクリートで被覆され現在に至っています。

名城大学農学部附属農場本館(旧陸軍造兵廠鷹来製造所本館)

名城大学農学部附属農場本館

第二次世界大戦中 、名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所として、九九式小銃弾などが製造されていましたが、終戦により工場は閉鎖され、現在、製造所の 本館は名城大学農学部附属農場の 事務棟として使用 されています。建物は左右対称を 基本とした古典的な建築構成です。内外装ともにモルタル塗りで内壁はペンキ仕上げと極めて簡素で、様式的には装飾を全く廃した近代建築の典型といえます。

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