郷土誌かすがい 第74号

ページID 1004415 更新日 平成29年12月8日

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平成27年11月1日第74号ホームページ版

桜佐下五反田遺跡の発掘調査

桜佐下五反田遺跡

 桜佐下五反田遺跡は、庄内川と内津川の合流点の北東(桜佐町字下五反田地内)に位置する集落遺跡です。平成26年度の発掘調査では鎌倉時代(12世紀後半~13世紀前半)を中心とする掘立柱建物・溝・井戸が確認されています。掘立柱建物や溝はおよそ四方位に沿って構築されており、計画的な地割に基づく「ムラ」であったと推定されます。

 溝は大(幅約2メートル・深さ約60センチメートル)小(幅約80センチメートル・深さ約15センチメートル)があり、大溝からは底付近を中心として大量の陶器(山茶碗・山皿)が出土しています。これらの碗・皿の中には全く割れていない完全な形のものを一定量含み、重ねて置かれたものや底面に「十」などと墨書したものもあり、何等かの「祈り」や「まじない」に伴うものと推定されます。

 井戸は深さ約2メートルで、縦板を方形に組んだ井戸枠の一部が残り、井戸底には大小の曲げ物を二段積み重ねて「水溜」として使用しています。曲げ物は腐朽することなくほぼ完全な状態を保ち、ヒノキ(推定)を薄く加工した板材に熱を加えながら曲げ、桜皮で綴じており、現代の技術とそん色のないものといえます。

 遺跡として残されたものは暮らしの中のごく一部の事象に過ぎませんが、当時の行動様式や精神世界観、技術水準等を今に伝える貴重な資料といえます。民間信仰や工芸技術等の伝統文化は過去から今日まで脈々と受け継がれており、その深淵を示す豊かな地域史は、現代に活きる我々にとっても誇りといえます。

(事務局)

私の研究

安食荘絵図の考察(後)

高橋敏明 春日井郷土史研究会会員

3 絵図の現地比定(続き)
(5) 堂祠様建物と周辺の建物
 絵図中央下部の林の中に堂か祠のような建物(図1の(1))、林外に二つの小屋風建物((2)・(3))がある。絵図を明治期の地形図に重ねると、(1)は愛宕神社、(3)は太清寺と重なる。これも本論の現地比定の正しさの証となると思われるが、近代の両社寺をそのまま絵図にあてはめるには検討を要する。
 建物の形態を比較すると、(1)の堂祠様建物は唯一の寄棟造りで、棟と四本柱が描かれており、最も格が高い印象を与える。周囲の樹林も最も鮮明で精緻な描写がされており、竹やぶ屋敷の他の入母屋民家風建物(4)と比べ格の違いを感じさせる。
 描写や位置からは、領主・醍醐寺との密接な関係が推測される。神社か寺院、役所等が考えられるが、役所は「安食」西域外の「政所」と思われることから、社寺の可能性が高い。
 愛宕神社とした場合、本山・京都愛宕山は、醍醐寺を本山とする真言系当山派修験の霊場でもあり(注1)、領主である同寺を通じて勧請された可能性は十分に考えられる。
 太清寺に重なる林外の(3)の建物は、柱が描かれているものの寺院とするには、いかにもバラック風で附属建物的である。神仏習合で寺院が神社より実権を持った時代、立地環境や描き方からはここを寺院とするにはいささか疑義が生じる。
 一般に神社建築には寄棟造りはないこと、東を上にして画いているなか(2)・(3)だけが逆の道からの視線であり、道(交通・商業)関連の一施設と思われること、現愛宕神社の南西50メートルには太清寺の阿弥陀堂があった(注2)ことなどからは、疑義はさらに深まる。
 太清寺は慶安4年(1651)に再興された寺で、前身は醍醐山龍源寺(注3)といわれるが、詳細は不明である。
 勝川廃寺遺跡(前号、図3参照)は、地元では「醍醐寺跡」(注4)といわれてきた。安食荘が醍醐寺領となったのは、延喜14年(914)(注5)であり、発掘調査の結果では、その存続期限は9世紀後半代までは確実であるが、10世紀後半まで(注6)を想定する必要があるとしている。勝川地区が醍醐寺領となった時、白鳳期起源の「勝川廃寺」はまだ存続していた可能性が高い。荘内最古の寺院であれば、醍醐寺がそこを末寺とし「山号」に「醍醐」を付けることは十分にありうる。醍醐山龍源寺は、勝川廃寺由来の荘内随一の寺院であった可能性が考えられる。
 以上を総合すると、堂祠様建物は、勝川廃寺の寺域から250メートルほど南西ではあるが、龍源寺であった可能性の方が高いのではないかと思われる。
(6)  「柏井野」の林
 地蔵川と庄内川の沖積層には近年まで条里水田が広がっており、『春日井市史』(注7)は少なくとも8世紀までには水田化されていたと想定する。明治期の地籍図(注8)でも絵図の「柏井野の林」(図1)辺りは一面の水田であり、ここに絵図のような「林」があったとは信じ難い。
 しかし、近年の発掘調査の結果、この辺りの条里水田について、これまでの常識的知見を一新する見解がだされた。「林」周辺には、水田化されていない微高地が広範囲にあるし(図2)、条里水田自体も多くは14世紀後半から江戸時代であるという(注9)。「柏井野の林」の信憑性を裏付けるものと言えよう。
(7) 「井上」と「田」
 絵図記載の多くの広域地名の中で「井上」は、狭域地名と思われる点で特異である。柏井側であるが、安食側にとって重要な地であったためと思われる。字「井ノ元」(図1)という類似地名が庄内川河川敷にある。「井」は、『広辞苑』では「(1)泉または流水から用水を汲み取る所。……(3)堰」とある。庄内川から引いた用水の取入口のあった地名と思われる。
 絵図当時の庄内川の流路は明確ではないが、「井上」は、明治期の地形図(図1)では庄内川の堤防脇に当たる。地形的には「井上」の下流に営まれたのが「田」で、安食側にとって水田経営上重要な「用水の取入口」であったために記載されたのではないか。
 「井上」の「井」を「上条用水」とする見解もある。その開削は応永年間(1394~1428)(注10)といわれるが、「井上」は9世紀後半にはすでにあった地名(注11)で、位置的にも600メートルは離れており、この見解は当たらない。

(4)入母屋民家風建物 (3)林外建物 (1)堂祠様建物

図1 絵図の現地比定図

図2 南東山古墳周辺の微高地

4 絵図から読む
(1) 勝川の下街道
 絵図は、安食・柏井境界だけでなく、区画線の端や屈曲部に執拗に地名を書き込んでいる。一方、地名以外の文字は、「勝川村」を除き、「道」以東のみである。最も精緻な筆使いの道西方の堂祠様建物は無記名であるのに対して「醍醐塚」と柏井境界間の狭隘地には「畠」を2か所も記している。「田」も他にもあったと思われるが、記載は「道」以東のみである。「道」は柏井境界とほぼ並行していることや北部で柏井側へ通じていることなどから、相論上重要な指標であったためと思われる。絵図の境界線の際にある「七種木」はその典型である。柏井境界に関わるものは、相当詳細に画き込もうとしたことが分かる。 
 この観点から図1を見て気付くのは、絵図に「下街道」が画かれていないことである。下街道は、近世の名古屋と信州を結ぶ最短の道で、古代には国府(稲沢市)から勝川辺りの馬屋里を通り、北東へ向かう幹線道(注12)であったといわれるが、「安食」から「柏井」へ通じる道であり、絵図に画かれるべき道であったと思われる。絵図にないのは、当時「安食」域には、我々の知る「下街道」が存在しなかったためではないか。図1をみるかぎり、勝川地区の下街道は、絵図の描かれた15世紀以後に造成された新道ということになる。
 馬屋里は、現在の最有力説(須磨千頴説)では、国道302号楠JCT辺りに比定されており、北東へ向かうのであれば、真東の勝川を通った可能性は低い。
(2) 「醍醐塚」と「畠」
 「畠」の区画が幾何学的であるのは、元々人工的な地形であったためではないか。また、塚と畠区画は、塚の頂上を通る東西線(中線)でほぼ対照形(図3)となる。それを現代の地形図に投影したのが図4で、一見して前方後円墳を想わせる。現地では畠区画の東半分は近年まで地蔵川と田であり、そこが畠であったとは想像だにできないが、絵図当時は南東山古墳と同じ段丘上の微高地にあったと考えられる。
 このようにみてくると、塚と畠区画は元々は一体で、前方後円墳であった可能性が浮かび上がる。「七種木」のように、塚が境界の目印となるケースは各地にある(注13)。「醍醐塚」が存在感をもって描かれているのは、元々は「畠」区画と一体の塚(古墳)で、境界の目印であったためではないか。では、畠区画が古墳であったという証拠はあるのだろうか。
 南東山古墳の南150メートルに前方後円墳のような地割があり、発掘調査で近辺から多量の埴輪片が出土(注14)したため、「勝川大塚古墳」と命名された。しかし、地割の不明確さや遺構未検出などから疑問視する見解もある。埴輪片の多くは古墳(?)東の緩斜面(図4のA)から出土しているが、調査報告書の図版中最大は16センチ、大半は8センチ以下で、かつ摩耗しており、相当の距離移動したことを推測させる。また、点数は少ないが、出土は東の用水路以東(同B)に及ぶ。
 「畠区画」の東の段丘縁は、地蔵川が南へ流れを変える地点で、最も浸食されやすいことを考えると、塚と畠区画からなる前方後円墳が埴輪片の流出元であった可能性が考えられる。
 絵図と地形図及び南東山古墳の発掘調査報告書(注15)や近隣の味美二子山古墳の規格を参考に復元したのが図5である。二段の段築をもち全長115メートルで市内最大の古墳ということになるが、これはあくまでも絵図から読める可能性を述べたに過ぎず、その真否は専門家に委ねるほかない。

図3 醍醐塚と畠区画

図4 「醍醐塚と畠」の現地復元図

図5 復元模式図

注1 大森惠子「愛宕信仰と験競べ」『京都愛宕山と火伏せの祈り』昭和堂 2006年 105頁
注2 『名古屋叢書続編第5巻 尾張徇行記(2)』愛知県郷土資料刊行会 1966年 112頁
注3 田口英爾『龍源山 太清寺小史』太清寺復興350年記念誌発行委員会 2002年 19~21頁
注4 『東春日井郡誌』1923年 愛知県郷土資料刊行会 1972年 1117頁
注5 弥永貞三・須磨千頴「醍醐寺領尾張国安食庄について―新発見の相論絵図をめぐって―」『研究紀要』第5号 醍醐寺文化財研究所 17頁
注6 『愛知県教育サービスセンター埋蔵文化財調査報告書第19集 勝川遺跡III』1992年 68頁、『第29集 勝川遺跡IV』1992年 110頁
注7 本文編 春日井市 1963年 94頁
注8 愛知県公文書館所蔵の明治17年地籍図など。
注9 『第9集 町田遺跡』1989年 16、95、97、98頁、『第48集 松河戸遺跡』1994年 2、14頁ほか。書名冒頭は注6と同じ。
注10 注4掲載書 340頁
注11 注6掲載『第29集 勝川遺跡IV』104頁
注12 木下良「古代の交通制度と道路」『旅の古代史』大巧社 1999年 35~40頁
注13 盛本昌広『草と木が語る日本の中世』岩波書店 2012年 32頁。『柳田國男全集24』筑摩書房 1999年 109頁
注14 『第9集 町田遺跡』1989年 27頁。書名冒頭は注6と同じ。
注15 『春日井市遺跡発掘調査報告第4集』春日井市教育委員会 1970年 4~6頁

郷土探訪

徳川家最高の吉祥武具・勝川具足

櫻井芳昭 市文化財保護審議会委員

1 はじめに
 江戸城では、毎年正月11日(慶安4年・1651以前は20日)徳川家の武運長久を祈願する具足開きの儀式が行われた。徳川家最高の武具である勝川具足(歯朶具足・しだぐそく)を黒書院上段の間に飾り、江戸在留の譜代大名、諸役人が参集するなか、将軍がこの具足に拝礼する重要な年中行事である。これは江戸時代を通して行われ、勝川具足は家康にまみえるごとく、神器のように扱われた。この具足の由来と変化、波及効果についてまとめてみたい。

2 小牧・長久手の戦いでの勝利
 戦国時代の家康は、いくつもの危機にさらされたが、戦略が効を奏して勢力を拡大していった。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、秀吉軍と織田・徳川連合軍の戦いは膠着状態が続いた後、秀吉側は家康の城がある岡崎を攻めるべく別隊が楽田(犬山市)をひそかに出立した。この作戦をつかんだ家康は4月7日、秀吉軍を追尾すべく小牧山の本陣を出た。
 勝川村・郷士長谷川甚助の案内で豊山・如意(名古屋市北区)を通って、明け方勝川の龍源寺(現太清寺)近くで小休止した。このときの様子について、徳川家の基本資料である『徳川実紀(東照宮御實紀 巻3)』には「君は小牧山より三十餘町勝川兜塚といふ所にて、御甲冑をめされる。これ当家の御甲冑勝川と名付らるゝ事のもとなり。」とあり、『東照宮御實紀 附録巻4』には「さてこの所は何といふぞと御尋あれば、勝川甲塚といふよし申上。こはめでたき地名なり。今日の勝利疑ひなしとて、このときためぬり黒糸の御鎧に椎形の御冑をめされ、御湯漬をめし上らる。」と「勝川兜塚」「甲冑勝川」の由来について記述されている。
 家康は「勝川」の地名を勝利に結びつく縁起のよい吉祥の前兆としていたく感激した。早速近くの竹薮から旗竿や幟の竹を切るよう指示した。そして、武具を整えて庄内川を渡り、小幡城から長久手へ進軍して、首尾よく大勝した。

3 勝川具足の推移
(1) 家康着用の吉祥具足
 秀吉軍の10万人に対して、信雄・家康連合軍の16,000人と極めて少ない軍勢で、幸運にも長久手の戦いでは勝利でき、その後講和がなって二百日余の戦いは終わった。
 家康は「勝川」の吉祥地名が勝利を呼び込む契機になった事を喜び、勝川で着用した武具と塚に勝川の名称を付けて、勝利を招くものとして、その後も重要場面で活用した。しかし、兜の形や名称には変化があるのでその推移を追ってみたい。
 長久手の戦いでの勝川具足の兜の頭形(ずなり)は、椎形と記されているので、しいの実の形をした先のとがった兜である。慶長5年(1600)、『東照宮御實紀 附録巻9』に「関ヶ原の出陣に際して、長久手の戦にめされし歯朶の御冑に、鞍置る馬を長政に賜わりけるとぞ」とあるので、この段階で気になることは、「勝川」の名称が消えて、兜の前立に注目した「歯朶」になっていることである。椎形の兜は直前に黒田長政に贈与されたので、黒田家に伝わる「黒漆塗南蛮鉢歯朶前立兜」が当初の勝川具足である。
 徳川家康所用「歯朶具足」が久能山東照宮博物館に所蔵されている。説明に「家康が霊夢により奈良の函工岩井与左衛門に命じて作らせたもので、御夢想形・御霊夢形と称した。」とある。家康がどのような霊夢を見たかはわからないが、戦いでの勝利を念じて大黒天が出てきたのであろう。大黒天は戦闘、財福、冥府神の三神格を兼有する幅広い神である。現代は大きな袋をかついだ財福神が中心であるが、戦国時代は勇猛で必勝の戦闘神としての信仰が強かった。だから頭形を椎形から大黒頭巾風にして勝利を呼び込む甲冑に仕立てたことは納得できる。
 家康は関ヶ原の戦いでは、総黒漆の大黒頭巾鉢の具足を着用して勝利したのである。
 「勝」の文字にこだわった事跡は、関ヶ原の戦いの前哨戦で赤坂(大垣市)に進撃して岡山(大垣市)を占拠して本陣にし、西軍諸将が立て籠もる大垣城に圧力をかけた。しかし、家康は大垣城を攻めず、佐和山城から大坂へ向かう構えを見せたため、これを阻止しようとした西軍と関ヶ原で決戦となって勝利した。家康は合戦後、西軍を誘い出して勝利のきっかけをつくった吉祥の地として「岡山」を「勝山」と改めさせた。これに人々は敬称を付けて「御勝山」と呼んだという。
 『東照宮御實紀 附録巻10』には「兜の緒をしめ給ひ、勝て兜の緒をしむるとはこのときの事なりと仰せられ、首実検の式行はる」とあり、関ヶ原の戦いの勝利でも、油断大敵といましめていることが印象的である。
 老齢の域に入った大坂冬・夏の陣では、甲冑を余り着用しなかったようであるが、具足は身近に携行していた。いくつかの戦で勝利をもたらした吉祥具足として、珍重していたのである。
 家康は元和2年(1616)薨去し、久能山へ葬られ、具足類もここへ納められた。

黒漆塗南蛮鉢歯朶前立兜

      黒漆塗南蛮鉢歯朶前立兜(くろうるしぬりなんばんばちしだまえだてかぶと)
                                   ※転載禁止
 「南蛮鉢兜」は西洋の兜に似た形の為こう呼ばれる。金銅製の歯朶の前立てが美しい。関ヶ原の戦いに先立つ会上杉家討伐に家康他豊臣恩顧の大名たちが出陣した後、石田三成が挙兵した。その時、黒田長政はいち早く家康支持を打ち出し、他の大名もこれに続いた出来事の褒美として、家康が長政に与えた。

徳川家康所用 歯朶具足 附 前立


             徳川家康所用 歯朶具足 附 前立
             『久能山東照宮傳世の文化財』より  ※転載禁止

(2) 徳川家の宝物
 三代家光は正保4年(1647)久能山宝庫から江戸城内の紅葉山宝庫に歯朶具足を収蔵させた。そして、1月20日に具足開きの儀式を、歯朶具足を床飾りして挙行して徳川家の武運長久を祈願した。
 四代家綱は慶安4年(1651)8月18日、将軍宣下の式の後、御具足着用初め式を行い、家康所用の吉祥歯朶具足を着用した。そして、新しい具足を作ることになり、9月19日歯朶具足の写形(うつしかた)を注文した。
 家光は1月20日に逝去したので以後具足開きは1月11日に変更して挙行されて幕末まで続いた。これからは、新将軍ごとに新しい写形が発注され、これを具足初め式で着用する慣例になった。だから歯朶具足は各将軍用が残され現在15領が伝わっているという。

4 勝川吉祥三品の誕生
(1) 勝川具足
 「勝川」という吉祥地名の場所で具足を整え、旗竿を切って出発して見事戦いに勝利したことを吉兆として大切にし、その後の戦いでも大いに活用している。特に「勝」という文字へのこだわりは顕著で、岡山を「勝山」に改名したり、大坂の茶臼山古墳を「大坂冬の陣屏風」(東京国立博物館蔵)に、「御勝山古墳」と描いたり、側室のお夏を「お勝」にしたりしていることなどにうかがえる。
 勝川で着用した家康の椎形兜は黒田長政に下賜されたため、大黒頭巾鉢の歯朶具足が徳川家最高の具足とされる場合が多くなっている。しかし、徳川家の具足開きに飾られた甲冑は、勝川で着用したものであり、形は変化しても源である。前立にある縁起のよい植物である歯朶に注目して「歯朶具足」と呼称することはよいとして、誕生地が入った「勝川具足」も忘れないようにしたいものである。
(2) 勝川旗竿
 吉兆地名の勝川で、早速、旗竿を近くの竹薮から切らせ、武具と服装を整えて出立して、見事勝利した。勝川の旗竿は縁起がよいとして、名産品になった。江戸時代には、勝川村から尾張徳川家へ毎年旗竿が献上された。勝川の竹薮は少なかったので、坂下地区に御留薮を指定して切り出し、勝川地蔵池(禁漁池)に浸して洗ってから名古屋へ運んでいた。勝川竿は『尾張国産品吟味之留』(天保11年、1840刊)に掲載され、幸運を呼ぶ名産品の竿として珍重された。
(3) 勝川まき石
 庄内川の勝川一帯の川原で集めた石は、吉兆を招いたり、悪者を察知したりするということで名古屋城の要所にまかれていた。藩主の居館である二之丸御殿北側の庭園西半分の平地に勝川石がまかれていた。この庭は外敵に対する警備と守護を考えて設計されており、万一忍者などの侵入者があった場合、小石の動きによって足音を聞き分けたといわれている。また、名古屋城中から大手門前の下馬所までの道筋にもまかれていたという。

5 おわりに
 当地の地名は古くから「カチガワ」と発音されていた。中国から漢字が伝えられてから「川地、加地、賀智」などの漢字が使われていた。中世の応永34年(1427)の『醍醐寺領尾張国安食荘絵図』に、「勝川村」の記載があり、家康が来所した時も現在の文字と同じであった。勝川の地名由来は地元の人たちが、勝利を願って選んだ漢字である。
 家康は小牧・長久手の戦い以後、連戦連勝して全国統一をなしとげ、世界的にも珍しい260年余の平和な徳川時代を築いた。だから、この発端である勝川での吉兆が一層輝きを増したのである。
 家康が勝川具足と尊び、これを受け継いだ代々の徳川将軍はこれを武運長久の守護神として江戸城の宝庫に収め、各将軍用の写形を造り、毎年の具足開き式に床飾りにされたのである。
 勝川具足は歯朶具足と呼称されることが多いのは残念である。この吉兆具足の誕生は勝川の地での出来事で、歯朶の前立を付けた椎形兜なので、「勝川具足」の名称を折りにふれて吹聴することが必要だと考える。

『醍醐寺領尾張国安食荘絵図(国宝)醍醐寺蔵』より

         『醍醐寺領尾張国安食荘絵図(国宝)醍醐寺蔵』より
              ※「勝川村」の記述が確認できる

『復元江戸生活図鑑』より

    幕府の年中行事:御具足餅開き「柏書房『復元江戸生活図鑑』」より
    徳川家では「歯朶の具足」を縁起のよい具足として、家康にまみえる如く神物扱いした。

○主要参考文献

  • 『久能山東照宮傳世の文化財』1981 久能山東照宮博物館
  • 笠間良彦『甲冑と名将』1966 雄山閣
  • 本多隆成『徳川家康と関ヶ原の戦い』2013 吉川弘文館
  • 田口英爾『龍源山 太清寺小史』2002 太清寺復興350年記念誌発行委員会
  • 『黒田官兵衛』2013 学研パブリッシング
  • 伊藤浩『春日井の地名物語』1987
  • 櫻井芳昭「勝川宿」郷土誌かすがい64号 2005 春日井市教育委員会
  • 笹間良彦『復元江戸生活図鑑』1995 柏書房

郷土散策

小牧・長久手の戦いと春日井

水野智之 中部大学人文学部歴史地理学科准教授

 本能寺の変後、織田信長の重臣はその後継者の地位をめぐって争った。山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに勝利して台頭した羽柴秀吉は、信長の二男信雄(のぶかつ)と対立を深めた。秀吉は石山本願寺の跡地に大坂城を築き始めて天下人として振舞い始めたため、信雄は徳川家康と手を結び、秀吉との戦いに踏み切った。この戦いを小牧・長久手の戦いという。本稿は天正12年(1584)4月9日に起こった長久手での戦いの際に、春日井地域でどのような出来事が起こっていたかを探るものである。
 この点について、筆者は以前に小稿を発表したことがある(「小牧・長久手の戦いと春日井地域」、『GLOCAL』vol.2 2013年、以下、旧稿と記す。)。そこでは次の各史料から戦いの経緯を示した。まず、その概要を紹介したい。
 羽柴秀吉方は同年3月17日の羽黒(犬山市)の戦いで、織田・徳川方に敗北していたため、それを挽回するために「三河中入」という攻撃を試みようとしていた。それは徳川家康の本拠である三河国岡崎を攻めようとするものであり、尾張国犬山から岩崎(日進市)周辺を経て、三河国岡崎を目指すものであった。その際、羽柴方の軍勢は春日井地域の「かしわい(柏井)之内さかい(坂井)七郎左衛門屋敷」に要害を構えて、侵攻するための拠点としていた。次の史料はそのことを伝える羽柴秀吉の書状である。

(一) 羽柴秀吉書状

         (『一柳文書』、『愛知県史 資料編12 織豊2』371号。
          なお、返り点は以下の文書も含めて筆者が加筆した。)

 坂井七郎左衛門尉は守山城主織田信次の家臣であった。天正12年までには代替わりがなされていたと推測されるが、詳細は不明である。本史料からは柏井に屋敷があり、それを羽柴方が占拠していたことが知られる。4月8日、秀吉は一柳直末に少々の敵があらわれても軍勢を出さず、城中にいて越度(落ち度)のないように対処するよう指示をしている。
 また、同日に秀吉は家臣の生駒吉一・山内一豊・矢部家定に「柏井之内森川屋敷御用害」にいるように命じている。次の史料はそのことを伝える羽柴秀吉の書状写である。

(二) 羽柴秀吉書状

         (『御武功記』、『愛知県史 資料編12 織豊2』372号)

 秀吉は一柳直末に対する指示と同様に、軍勢を出さず、城中にいて越度のないように対処するよう命じている。(1)、(2)の史料より、柏井には坂井七郎左衛門尉屋敷と森川屋敷があり、秀吉方の軍勢の拠点になっていたことが知られる。なお、各屋敷の所在地は現在も不明であり、その解明は今後の課題である。
 翌9日の朝、秀吉は坂井七郎左衛門尉屋敷に移った。この屋敷は設備が悪く、周辺に陣取をしていることが判明したため、軍勢をそれぞれ一所に集結させるように指示した。次の史料はそのことを伝える羽柴秀吉の書状である。

(三) 羽柴秀吉書状

         (『一柳文書』、『愛知県史 資料編12 織豊2』378号)

 秀吉は細かな指示を日々、家臣らに伝達していたことが確かめられる。この書状で秀吉は織田・徳川方の軍勢が小牧から小幡に移ったことを聞き、敵方の様子を報告するよう命じている。
 秀吉は森川(河)屋敷に対して設備がよいので、その防備を充実させ、他の城は引き崩す、すなわち取り壊して軍勢を森川屋敷に集結させるように指示をしている。また、矢切(やぎり)や虎落(もがり)などをつくって、より強固な城となるようにすることも命じている。次の史料は一柳直末とともに、生駒吉一・矢部家定・山内一豊らに、そのことを伝える羽柴秀吉の書状である。

(四) 羽柴秀吉書状

         (『一柳文書』、『愛知県史 資料編12 織豊2』379号)

 実は9日は長久手で合戦が行われた当日であった。羽柴方は岩崎城の攻略に手間取り、織田・徳川方から攻撃された。この際、池田恒興・森長可らは討ち取られ、「三河中入」作戦は失敗に終わった。秀吉は味方を救援するため、竜泉寺城(名古屋市守山区)まで進軍したが、やむなく撤退した。この長久手での戦いで、織田・徳川方が勝利したことは、その後の戦局に大きな意味をもたらし、織田信雄・徳川家康らは簡単に秀吉に臣従せず、戦いは長期に及んだ。
 秀吉は不利な戦局のため、長久手方面に向かうことはできなかった。秀吉は竜泉寺城から庄内川を渡り、春日井地域を経て、楽田(犬山市)に撤退した。その際、篠木・柏井辺りで一揆が起こり、羽柴方の軍勢は一揆方に攻められたという(『太閤記』「秀吉卿依池田父子討死御出馬之事」)。おそらく大留城主村瀬作右衛門が首謀者ではないかと推定される。これより春日井地域では長久手の戦いの際に様々な出来事があったことが知られる。市域で大規模な戦いは行われていないが、長久手の戦いの動向を探る上で重要な地域であったと考えられる。また、小牧・長久手の戦いを通じて、秀吉は春日井地域で最も危機に陥ったと言えるのである。
 旧稿ではおよそ以上のことを明らかにしたが、近年、春日井地域に関わる秀吉の書状が発見されたので、その紹介を兼ねつつ、新たに読み取れることを探ってみたい。次の史料は近年紹介された秀吉の書状である。

新出史料A

       (『墨彩 第14号 絵画墨蹟目録』新古美術わたなべ、2014年に紹介。
        本文書は現在、中京大学文学部の所蔵となっている。)

 この史料では秀吉が堀尾吉晴・一柳直末に対して、大草城(小牧市)に入り、普請番などについて油断のないよう務めることを指示したものである。日付は卯月5日であり、史料(1)や(2)から知られる動向、すなわち秀吉方の軍勢が柏井の坂井七郎左衛門屋敷や森川屋敷に入る数日前の動向を伝えている。
 さらに、次の史料は卯月6日に、秀吉が堀尾吉晴・一柳直末に対して、人夫らを篠木まで遣わすよう指示したものである。ここには「原を通らず」、「篠木山際へ回すように」という文言が記されており、当時の地形を探る上でも非常に貴重な史料である。

新出史料B

  (『玉英堂稀覯本書目』第287号、2007年、『愛知県史 資料編14 中世織豊』補455号)

 この史料の指す「原」とは、『信長公記』にしばしば記される「かすがい原」のことであろう。それは市内鷹来町辺り以南から、市域の西半分ほど占める広い平地の原を指す。新出史料Aにある「大草之城」の件と併せて、「篠木山際」までの通路を推測するならば、楽田(犬山市)から大草城を経て、市内坂下町付近を通り、篠木方面に向かったのではないかと思われる(地図参照)。坂下町付近を通過すれば織田・徳川方の小牧城からは山陰にあたり、移動を探られにくい。
 ただし、その経路で篠木に向かうにはやや迂回しているため、あるいは最短である市内大泉寺町付近を経て篠木に向かった可能性も否定できない。人夫を遣わす「篠木」の拠点とは、具体的にどの個所であったかを明らかにしえないため、なお検討の余地が残るが、仮に「篠木」の拠点が柏井寄りであったと推測するならば、敢えて北側の坂下町付近を通過せずとも、南側の大泉寺町付近を通過したように見なすべきであるように思われる。いずれにせよ、本稿に掲げた一連の史料を通覧すると、羽柴方の軍勢は大草城から篠木・柏井にかけて、守備をしながら通行することのできるように拠点を普請していたことが知られるのである。
 実は、先述した旧稿を執筆する段階で、新出史料Bは確認していたが、具体的な軍勢の進軍経路については不分明であった。今回、新たに紹介された新出史料Aによって、大草城を経由していることが判明したため、進軍経路の具体像が一層、浮かび上がってきたわけである。小牧・長久手の戦いでは大規模な軍勢が市域を行き来しているので、羽柴方にとって重要な地域であったとともに、その軍勢の動向を探ることは、当時の地形や道路などを復原する上でも貴重な出来事であると言える。
 このように史料の発見や考察によって詳細な動向が次々と明らかになってくる。研究の進展によって、小牧・長久手の戦いのみにならず、春日井地域の歴史像が益々解明されていくことを祈念し、稿を閉じることとする。

 (追記)本稿は2015年4月18日に春日井市立中央公民館で行われた、春日井市文化財友の会での講演内容をもとに執筆したものである。

小牧市大草から春日井市坂下町、同市篠木町付近地形図

          小牧市大草から春日井市坂下町、同市篠木町付近地形図
 この地図は、国土地理院「地理院地図(電子国土web)」により標準地図に色別地形図を付加し、小牧市大草~春日井市坂下町~同市篠木町付近を抽出し、作成した。

勝川遺跡の環濠

~平成26年度発掘調査による追加所見~

1 はじめに
 勝川町5丁目一帯は古くから古瓦の散布が知られ、古代寺院の推定地とされていました。区画整理の施行に伴い昭和55年以降、愛知県・春日井市による継続的な発掘調査が実施され、古代寺院(勝川廃寺)のほか、弥生時代中期の環濠集落から近世の町家に至る市内屈指の複合遺跡と判明しています(注1:縄文土器・石器が出土しており、歴史的起源が遡る可能性もある)。遺跡の推定範囲は、段丘崖から庄内川・地蔵川の氾濫原にかけて、東西約600メートル・南北約400メートルに及びます。弥生時代中~後期の居住域は遺跡推定範囲の東寄り(南東山地区)に位置し、東西約250メートル・南北約100メートル、南側・西側で環濠の一部と推定される溝が確認されています。西寄りに位置する上屋敷地区では方形周溝墓群が検出され、墓域と考えられます。段丘下の苗田地区では石器・玉類の原石のほか、旧河道より分岐した溝内の土坑から農耕具の未成品等が出土し、溝の南に面する掘立柱建物群は木器製作跡の可能性があります。水田は未検出ですが、稲作を含めた生産域と推定され、勝川遺跡は地点ごとに集落機能が明瞭に分化しており、周辺地域の拠点的なムラであった可能性も想定されます。

2 発掘調査に至る経緯
 居住域に相当する勝川町9丁目地内において共同住宅建設が計画され、事前の確認調査により竪穴住居等が検出されたため、工事に伴う掘削範囲を対象として発掘調査(面積84平方メートル)を行いました。

3 発掘調査の成果
 遺構は全て地山(段丘面)に構築されており、主要なものとして弥生時代中期(高蔵式期)の溝二条(溝一・二)、後期(廻間I式期 注2:廻間I式期を古墳時代に含む考えもある)の溝一条(溝三)、古代の竪穴住居2棟を検出しています。溝は、居住域の西側付近を区画する環濠の一部と推定され、断面形・規模は次のとおりです。
 溝一:逆台形、幅約1.9メートル、深さ約80センチメートル
 溝二:逆台形、幅約2.8メートル、深さ約70センチメートル
 溝三:V字形、幅2.1~3メートル、深さ1.4メートル
 位置関係では、溝一・二が幅約5.8メートルの間隔で平行し、北から南へ、段丘崖に対して直交する形で掘削されています。仮に同時共存とすると、二重環濠の可能性もあり、溝一が内環濠・溝二が外環濠と想定されます。
 溝三は北東から南西方向へ斜交する形で溝一・二と交差しており、溝一・二を人為的に埋め立てた後に構築したものと考えられます。溝一・二の埋土は大量の礫を集中的に含む点が特徴で、溝三も廻間I式期の内に人為的に埋め戻されたと考えられますが、埋土中には礫の集中部は認められません。なお、環濠は一部を除き、底面までの掘削を行っていないため、遺物の様相は明らかではありませんが、人為的埋土に伴う土器は細かく割れ、原形を留めていません。

4 まとめと課題
 調査面積等が限られるため、環濠の形態・規模の復元には至らず、愛知県による調査地点との整合性にも問題を残しています。しかし、中・後期の環濠が重複する地点を検出したことにより、環濠集落が時期的に断絶する可能性と二度にわたる環濠の埋め立てを契機とする集落構造の変化・画期が推測されます。特に、溝三の廃絶は古墳時代の開始とも密接に関わる環濠集落の終焉的様相を示すものとして注目され、他地域との比較が検討課題といえます。
 拠点集落としての位置付けは古墳時代・古代へと継続し、勝川廃寺の造営に繋がるものと推定され、時代が降って明治期の東春日井郡役所の設置に至り、名実ともに政治・経済・交通の要衝として地位を不動のものとしています。「勝川」という地域的特性は、弥生時代の環濠集落に起源し、重厚な歴史に裏付けられたものといえます。
(事務局)

環濠図

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