郷土誌かすがい 第41号
平成4年9月15日発行 第41号 ホームページ版
絹本着色 十一面観音菩薩坐像 (室町中期)
熊野町 密蔵院
尊像は二重円相の光背を背負い、海中の岩上にある蓮華座に正面を向いて半跏に座る。左手で軍持(瓶)を捧げ、右手は念珠を掛け掌を前にして垂下する。前方左の水中では竜が観音を守護し、背景の山では滝が落下している。
観音の頭には、菩薩面を6面と4面と2段に配し、本面と合わせて11面を構成している。冠帯と垂髪とを肩に下げ、冠台上に立像のお前立て、髻上に仏面の化仏を着け、左肩から右腋に条帛をまとい、天衣を両肩から台座上まで長く大きく翻し、荘厳している。
尊像の口唇や瓶の中の蓮花、台座にある蓮弁には淡い朱の具(白色)を用い、裳には桃色の団花文や緑色の葉を散らし、肉身や着衣には随所に程よい隈どりを施している。白い波頭の立つ水波がの旋律を織りなしている。岩肌には皴法(凹凸や影をつけ写実的にする)という技法を用いて実体感を出している。尊厳な顔立ち、引き締った肉身、持物や衣の褶の精ちさに、伝統的な大和絵の彩画の美が生かされ、他方では荒い岩肌の運筆に漢画特有の躍動感が表わされて快い響を与えてくれる。茶色を基調にした画面構成に、荘重で真厳な仏画の本領を示している。本図は慈悲と智恵、上求菩提下化衆生の菩薩道を究める観音の姿で、南海の補陀落山に坐す観音を髣髴させる。作風からみて室町中期ごろの制作と思われる。
梶藤義男 市文化財保護審議会委員
郷土探訪
春日井をとおる街道9 「250回忌日光法会」時の下街道筋
櫻井芳昭 春日井郷土史研究会員
はじめに
尾張各地の村から、木曽谷の中山道宿駅を目指して黙々と歩き続ける人々が一団となって、次々に下街道筋を通り過ぎていく。
元治2年(1865)3月末の下街道筋は、時ならぬ通行人の急増に、何事が起きたのかと、沿道の村々の話題となった。
これは、日光東照宮で、徳川家康の250回忌日光法会が4月9日から盛大に行われるため、京都から公家衆や高僧の一行が多勢、中山道を通行するということで、その荷物継立に向かう農民たちであった。
5街道の公用通行は、宿駅と(注1)助郷村の人馬でまかなうのが原則であるが、格別の大通行の場合は、当分助郷等の臨時の方策が講じられるのが通例であった。今回のように、尾張各地の村から、木曽人足を送り出すことは、和宮降嫁(1)以来の特別な事態である。どうしてこのようなことになったのかを探ってみたい。
日光法会と中山道通行
元和2年(1616)4月、家康が没し、久能山に葬られたが、遺言により翌年3月遺骸は日光に移され、日光東照宮が成立した。正保4年(1647)には、朝廷から日光例幣(れいへい)使(し)が毎年派遣されて、4月に例祭が催されるようになった。
そして、家康の年回忌に当たる特別な年には、神忌又は法会と称される特別な祭典が盛大に行われている。これは江戸時代を通じて11回あり、幕末では文化12年(1815)の200回忌、慶応元年(1865)の250回忌等がある。(2)
これらの年には、京都から公家、諸公等高貴な人々や警衛の役人の通行が多いため、街道整備、人馬小屋の設置、継立人馬の増員等特別の準備が必要であった。
今回の法会への参向が予定される公家衆は、公卿は坊城大納言等9家、殿上人は難波少将等10家、着座門跡の梶井宮、臨時奉幣使の、四辻中将等総計27家であった(3)(うち、取りやめ6家)。4月9日から始まる法会に向けて、3月中~下旬の中山道は、大通行が続くことが予想され、各宿では特別な対策を取らなければならなかった。
250回忌の行われた元治から慶応年間にかけては、長州藩、薩摩藩等の新しい動きを通じて江戸幕府の権威にかげりが出かかっている時期であった。このため、幕府は威信をかけて盛大な法会を実施して、長州征伐に伴う処分問題や、公武合体の推進における主導権を保持しようと意図したことがうかがわれる。
幕府では、日光東照宮へ参向を要請する人たちに、装束料、道中賄料等を前もって届け、着々と準備を進めた。
しかし、日光法会に当たっての中山道、日光例幣使街道の(注2)加助郷人馬は、従来の慣例を破ってまでも許可しなかった。(4)これは、幕末の公用通行が増加している折から、臨時の人馬動員については、内外とも国事多難で、物価騰貴、課役負担増等の困苦が拡大しており、各方面からの反対が予測され大量の当分助郷等の徴発には、踏み切れなかったためと考えられる。
そこで幕府は各宿へ人馬賃銭の前金を配分し、宿場の実態に応じて、日光法会に関する通行に対処するという方策を取った。東濃9宿へは2,075両が前金で支払われ、うち大湫宿へ250両が配分された。(5)これに対して、各宿では、宿内の郷人足を相対賃銭で買い上げるところが多かった。しかし、宿内の賃人足が少ない木曽谷の宿駅は予算だけでは解決できない面がある。
「木曽十一宿は田畑が少なく、あちこちの谷間に五軒、一軒程ずつの百姓家が散在しており、住民は山畑を切り起こして渡世を営んでいるが、それに対して木曽路は二十二里余もある上に、山坂難所が多く、継立人馬はくたびれてしまっている。このため、木曽十一宿へ入ると、人馬は不足し渋滞してしまう。」(6)
これは助郷設定願書の一部であるが、木曽地域の基本的な状況をよく述べている。
これに対して、領主である尾張藩は救恤金や各種の助成策をとったり、大通行の折には尾張藩領の村々から助人馬を徴発したりして急場をしのいできた。今回について、尾張藩では、所轄する鵜沼宿から贄川宿に至る宿間については、尾張の村々からの人馬繰り入れによって対応することに決定した。
元治元年(1865)3月22日に、尾張の関係する村々に「御神忌につき、宿々借物諸色を二十七日に繰り込むので、準備すること、二十四日にこれにつき申談するから庄屋は陣屋へ出頭すること」を通達している。(7)そして、24日には、「御神忌につき、二十七日に継人足を繰り出すこと」だけを命じており、諸道具の借り上げは、要請されなかった。この経過を見ると、3月下旬になってからの大変に急な通達であったことがうかがえる。
藩では、陣屋ごとの割り当てをし、前渡金として、人足1人、金1分を配布した。これを受けて、各陣屋では組毎の割り当てを定めて、直ちに総庄屋へ通知したと思われる。
組惣代から割当を受けた各村では、遠方で荷物継立ができる屈強の者を至急人選して出立準備を進めた。
尾張藩領からの人馬徴発
村名(現市町名) |
村高 |
人足 |
宰領 |
馬 |
高100石 |
行先宿 |
---|---|---|---|---|---|---|
名和組6村(東海市) |
3,905 |
63 |
4 |
4 |
2.0 |
上松 |
横須賀組10村(東海市) |
11,083 |
161 |
7 |
9 |
1.8 |
上松 |
上野間村(美浜町) |
1,006 |
22 |
1 |
2.2 |
上松 | |
一宮村(一宮市) |
4,691 |
142 |
3 |
5 |
3.5 |
御嵩・上松 |
大赤見村(一宮市) |
1,469 |
36 |
有 |
2.4 |
鵜沼・馬籠 | |
馬見塚(一宮市) |
243 |
7 |
3.0 |
鵜沼 | ||
井堀村(稲沢市) |
1,424 |
45 |
1 |
3.2 |
須原 | |
野崎村(西春町) |
145 |
4 |
2.8 |
須原 |
東海市史・一宮市史・美浜町誌より
元治2年3月27日早朝、名和組6ケ村(現東海市)の農民63人と宰領4人、馬4疋など横須賀代官所管内から総計約千人が、名古屋から下街道へ入り、組毎にまとまって、中山道上松宿へ向かった。(8)
宿割を担当する2人が先発して、宿泊の段取りをつけているが、横須賀方惣代一行の宿泊地は、27日名古屋、28日下街道高山宿(現岐阜県土岐市)、29日大井宿、4月1日野尻宿を経て、2日午後上松宿へ到着している。
上松宿に参集した臨時の夫人足は、
知多横須賀 987人
伊那 191人
木曽 420人斗
鳴海 800人斗
清須 250人
北方 馬斗り
の合計2,648人余となっており、各地の尾張藩領の村々に人馬の動員命令があったことがわかる。
上松―福島―宮越の宿間に荷物継立が集中したのは、4月3~7日の間であり、その主な通行者は第2表のようであった。最も継立人馬の多かったのは、飛鳥井中納言の一行で証文人足等が301人、馬8疋であり、平均すると人足150人、馬4疋程度となる。
日光例幣使である中御門中将は人足300人馬15疋で差添として警衛組頭渡辺為三郎、萩原叶助ら15名や衛士が従っている。この他、雅楽宮人、蔵人、召使、祝儀師、図書寮など例祭の重要な役割を担う人々が下向していった。
月日 |
4月3日 |
4月4日 |
4月5日 |
4月6日 |
4月7日 |
---|---|---|---|---|---|
主な行列 | 町尻宰相 植松少将 坊城庄少弁 大炊御門右大将 |
清水谷宰相 難波少将 中園近江権助 高松左兵衛権備 |
飛鳥井中納言 今城宰相少将 石野治部大輔 樋口左馬権頭 |
小倉中将 四辻中将 慈光寺大膳権大夫 中御右大井宰相 |
竹屋前宰相 長谷美濃権助 北小路極﨟 中御門中将 |
人足(人) |
1,575 |
890 |
850 |
1,882 |
1,630 |
馬(疋) |
94 |
72 |
70 |
82 |
103 |
知多市誌資料編
春日井関係の資料では、(9)林金兵衛翁伝に、「慶応元年(1865)四月偶々、徳川家康二百五十回忌に方り、公卿京を出で、其の日光廟に詣でんとし、道を中山道に取り進むに遇う。此時、又、藩命あり、翁即ち卒二千八百人、馬六十余頭を以て之に従い、調度を奉じ、信濃国宮越、奈良井の間に至り、周旋尽力甚だ努めたり」とある。
林金兵衛は、宰領として、近村からの農民を統率して、木曽谷の最も奥の上木曽の宿間で荷物継立を担当している。
2,800人は、相当多い人数である。水野代官所管内109カ村、57,082石、家数13,204軒を基礎資料として、横須賀代官所管内の割当である高100石に付き1.57人、家100軒に付き5.44で算出すると1,612人となり、これより57パーセントも多い徴発となっている。上条村の場合は、高2,145石、207戸とすると、約73人が動員されたと思われる。
関ヶ原宿での日光法会関係の人馬継立をみると、3月18日から4月3日にわたっており、とくに、3月28日から5日間は1,150~2,000人の人足が動員され、総計では人足8,992人、馬466疋にのぼり、322両余の経費を要している。(10)
大湫宿では、御名代梶井門跡、例幣使中御門宰相中将をはじめ20家と差添の衆3千名近い人々が、3月22日から4月5日にかけて通しており、継立人足は10,658人馬538疋を要している。(11)
帰村と必要経費の精算
荷物継立を無事終えた尾張横須賀陣屋管内の村からの人馬は、4月9日に上松宿を出発し、下街道を通って12日に帰村した。後始末を担当する惣代衆は名古屋に一日滞留し諸勘定をすませて後、横須賀でも一泊して15日に帰宅した。(8)
今回の木曽人足は、当分助郷に当たる臨時の課役であるので、鳴海宿の定助郷、加助郷として勤めている名和組、横須賀組の村々は、本来この度の徴発は免除されるべきなのに下付金を差引いても725両という多額の負担をした。これを管内の助郷村でない村々から補填するという各組の惣代会の意向を横須賀代官所へ願い出た。この結果、56ヶ村が、高100石につき1.57人、家100軒につき5.44人の割合で精算することとなった。
寺中村(現東海市)の「木曽人足人別覚帳」(12)によると、人足は15日間を要し、7人出勤して、この費用は17両2分となり、うち1両3分を御上より頂戴し、16両壱分と525文を下村々より頂戴して精算したと記録しており、村抱えの分が補填されたことが読み取れる。
「人馬繰出の節、骨折相働候付、袴地一反内々差遺候」(9)とあり、林金兵衛ら締役を勤めた者に対して賞詞があったことがわかる。
村に対しては、一人、金1分の前渡金以外に補助金等はなく、村入用で精算するより方法はなかった。
おわりに
日光法会の通行で当分助郷が道中奉行から認められなかったのに対して、多くの宿駅では、宿内郷人足の買い上げによって対応している。尾張藩の場合は、領内の村々へ高100石当たり2~3.5人の人馬徴発によって、およそ12,000人を動員している。これは和宮降嫁の時よりは大幅に少ないとはいえ、村々にとっては大きな負担をしいられたことになる。遠く160キロメートル余も離れた知多半島の村から、5日間もかけて出向くということは大変な負担であった。馬見塚村の庄屋の日記に「難渋為致御通行有之候」(13)とあり、突発的な通行と藩からの急な動員に困惑した様子を読み取ることができる。
日光法会による下街道の一時的な賑わいは4月中旬にはおさまった。これは、公家衆の帰府は東海道が多く、大湫宿では往路の28パーセントに当たる2,986人馬111疋となっており、尾張の村から出向く必要はなかったからである。(11)木曽への近道である下街道は、急を要する時の庶民の道として頼りになる道筋であった。
注
- 「和宮降嫁時の下街道」郷土誌かすがい第37号 (1990)2~4頁
- 五十嵐富夫「日光例幣使街道」 (1977)30頁
- 社家御番所日記22巻 (1982)64頁
- 丸山雍成「近世宿駅の基礎的研究1」 (1975)708頁
- 瑞浪市史 通史編 (1974)924頁
- 南木曽町誌 通史編 (1982)350頁
- 一宮市史 資料編8 (1968)848頁
- 知多市誌 (1981)304頁、同資料編4 (1984)374頁
- 津田応助 贈従五位林金兵衛翁 (1925)136頁
- 関ヶ原町史 史料編3 (1980)474~512頁
- 瑞浪市史 資料編 (1972)708蚊等10頁
- 「木曽人足人別覚帳」 (1865)寺中村文書
- 一宮市史 資料編10 (1971)962頁
- (注1) 助郷=江戸時代、土木工事、宿駅の人馬の不足を補うために定められた村
- (注2)加助郷=助郷の負担にたえきれないほどの多数の人馬を必要とするときに、その人馬を提供するために定められた村
ムラの生活
葬礼 ムラのお葬式
井口泰子 郷土誌かすがい編集委員
前回までのムラの婚礼、誕生に続いて、今回は葬礼である。明治末から昭和前期のお葬式を、白山村(現白山町)の藤江てふさんの話を中心に追ってみたい。
お百度参り
村に重い病人が出ると、家族、隣近所の人が氏神様や寺へお百度参りをした。百度参りだけでなく千度参りもあった。千度参りの時は一人で千度参るのではなく、大勢で手分けして千度とした。病人が村に貢献した人であると、村中が総出でお参りをしたものであるが、普通は病人のある家の属する組の者が揃って参った。
白山村では円福寺の観音堂と、氏神である白山神社の両方に参った。柏の葉を百枚、手にもって、参る度に一枚ずつ神前に置いてくる。
観音堂の少し離れた左側には、<回り松>が植えられていて、この松を回っては観音堂に百度参る。神社の場合は、昔は神殿の前に拝殿があったので、拝殿をぐるりと一回りしては神殿の階に柏の葉を一枚ずつ置いた。
お百度参りが行われている間中、寺の鐘撞堂の早鐘が撞き鳴らされた。早鐘が撞かれるのは、村に異変がある時である。それ故、子どもがいたずらで早鐘を撞くと厳しく叱られた。早鐘の音は、枕べで病人を見守る近親者には重苦しく響いたものであった。
死の前後
いよいよ死期が近づくと近親者が枕元に集まり<シニミズ>といって死に逝く人に末期の水を口に含ませる。
臨終が確定すると身内の濃いものから順にお別れをして、仏壇灯明をあげリンを打ち、六字の名号を唱える。遺体はナンドまたはザシキの仏壇の前に安置し、枕経が終わると北枕にし、白の晒しで顔を覆う。体には普段着を逆さにかぶせ、その側に刀を置く。死者には魔がさすといって、魔を追い払うためである。刀のない場合は、カミソリ、ナタを代用とした。枕元には線香を1本立てる。枕飯は別釜で炊き、茶碗に山盛りにし、箸を1本突き刺す。神棚は扉を閉めて白紙で封じ、ケガレが入らないようにした。屏風を逆さにして立てる。オトグチ(大戸口)に「忌中」と書いた紙を張り、シメの類はすべて取り外した。
葬式組
葬式の万端については、その家の者はいっさい口出しすることなく、クミの者が全てを取り仕切って行った。
- シニビンギ
遠近のの親類に知らせに行くもの。必ず2人つれだって、わらじばきで歩いて行った。途中には決して寄らない。夜中でも出かけて行った。このシラセの来た家では必ず飯を食べさせる。新しく炊いたのではいけないとされた。 - 旦那寺へ通知に行くもの
- 医者へ死亡診断書をもらいに行くもの
- 役場へ死亡届を出すもの
- 棺桶、葬具を準備するもの
- 当日の役割を決める
香典供物の受付、記帳
僧、遠来の会葬者の接待
葬列順序を決める
穴掘り(当時は土葬であった)墓穴を掘る人には酒肴をふるまう
野道具持ち
弔い場の六地蔵の準備 - 葬式当日の膳部の買物をするもの
- 当日の精進料理の膳を作るもの
葬式の日は村中の人を酒、料理で接待する。地主程度の家では葬式となると、酒の四斗樽を2つ準備し、8畳3間をぶち抜いて膳を並べた。飲み放題、食べ放題であった。料理の献立、材料については後の法事の項で述べる。
湯灌
納棺に先立ち、近親者の手でユカン(湯灌)が行われる。たらいに死者を入れ、頭を剃って、体を洗う。このため日常生活で水と湯を入れるときに、水の上に湯を差すことを忌み、湯をぬるめるときは必ず、湯を入れた上に水を差すことになっている。
ユカンに使った水は北側の人目につかないところに捨てられた。また、死者となった人の着物はこれも人の目につかないところで洗い、北向きに干す(衿が北側になるように)。このためふだんの洗濯物を北向きに干すことを忌んだ。
納棺
ユカンを終えた死体には白無垢の上にカタビラ(経帷子)を左前に着せる。カタビラは鋏を用いず、糸にトメをせず、カエシ針をしないで縫ってある。その上に西国三十三カ所巡りのオイズル(笈摺)を着せる家もあった。また、蓑傘、手甲、脚はん、わらじを傍においたり身につけたりした。わらじは善光寺参りの戒壇めぐりのときいただいたものである。
副葬品には、じゅず、ウルシの木で作った杖、六文銭(絵に描いた一文銭を6つ)故人の愛用品などである。
棺は杉の木で作った方形の座棺で、膝を折って入れる。これは枕経が済んだ後すぐ膝が曲げてあった。
通夜
オトギとよばれ、身内の濃いものは一晩中、他は11時位までとした。念仏講の人々が読経した。灯明は一晩中絶やさないようにするが、古くはローソクではなくトウスミ(灯心)であった。灯明皿に灯油を入れ灯心を浸して先に火をつけたものである。灯明の番をしている者はトウスミ押さえを少しずつずらせて灯心の火が消えないように夜通し見張っていなければならなかった。
さびし見舞いといってクミの者や親類が、米2~3升を贈った。葬式にはおびただしい膳を出すので米が要る。その助け合いである。江戸時代末、嘉永3年(1850)八田新田の2代目儀右エ門の妻が死亡した時の古記録にも、通夜見舞いは、餅白米3升、米2升、うどん一箱、銭200銅、銭100銅とある。
告別式
式はふつう午後2~3時ごろ始まる。出棺は4時頃となる。これはシニビンギが遠方の親類に歩いてシラセに行って、親類が歩いてやって来るのを待つと、この位の時間になるからである。葬式が夕方になることも珍しくはなかった。式場では喪主以下縁者が仏前に座り一般会葬者は焼香だけで引き下がる。
大きい葬式となると僧は7、8人。喪主は白の紋服に白の裃(かみしも)姿。親類の男は黒の紋付羽織に袴。女は白無垢の喪服に一重の被衣(かつぎ)を被る。
香典は、明治末から昭和初めでは現金で1、2円、死者が子供のときは20銭くらい。それに米の場合もある。
前述の八田新田2代目儀右エ門、弘化4年(1847)、及びその妻の葬儀香典覚えには、銭500銅、300銅、200銅、100銅といった記述が多々見られる。
出棺
棺は普通ザシキから出る。オトグチ(大戸口)からでるときもある。棺が出ると、キタハンジョウ(北半畳)といって、むしろを北側に輪に半畳に折って棺の下に敷いていた物を、オトグチでカマで叩き、ワラ1杷を焚いて燃やした。これは花嫁が家を出るときも同じで、再び家に帰ることのないように、との意である。
葬列に加わるものは皆、裸足に藁草履を履いた。この草履はかかとが締めて作ってないので、すぐ解ける。鼻緒には白紙が巻き付けてあった。これは埋葬がすんだ後、弔い場の隅に捨てられた。この藁草履を作っておくのもクミの仕事である。
葬儀道具
棺かつぎ棒・台など葬儀道具や野道具の一部は村やクミの共有物であった。葬式を出した家が、それらをモッコやビクに入れて、次に村の中で葬式があるまで預かっていた。
葬列
葬列の順序はだいたい次のようであるが、これは村により、家の格によって異なる。
- 案内鉦(引磬)太鼓、ジャガラ(鐃鈸)葬列が曲がり角にくるとチン(鉦)ポン(太鼓)ジャラン(ジャガラ)と鳴らす。邪を払うためである。
- 花籠 竹で粗く編んだ籠の、竹の先を切らずに垂らして紙花をつけたもので、籠の中には死者の年だけの銭を入れる。80歳の人なら80銭である。チン、ポン、ジャランとやる度に籠を振ると籠の目から1銭玉がこぼれ落ちる。子供たちはこれを拾って菓子屋へ行った。
- 先灯籠 細長い六角の提灯
- 前旗 数旗 旗に書かれた文字で順序が決まる
- シカバナ(死花) 銀紙で作った造花
- 香炉 喪主の次の者がもつ
- 膳 その次の者
- 位牌 喪主
- 棺 濃い血縁者がかつぐ 孫たち
- 天蓋 娘婿がもつ
- 僧 導師には赤い傘をかける
- 後旗 数旗
- 後灯籠
- 会葬者
埋葬
墓地は村の共同墓地で、1軒ずつ区切ってある。葬送はケガレを運ぶことであるから、墓地はどの村も葬列が氏神の神社の前を通らない位置に定めてある。
葬列は墓地にいくまでに、河原などに設けられた弔い場に立ち寄る。弔い場の台の上に棺を置き、肉親や友達がお別れをする。弔い場には六地蔵が並んでいて、クミの人の手で草が刈られ、きれいに掃除されて造花の蓮の花が供えられている。六地蔵というのは、死後、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)において衆生の苦患を救う地蔵で、棺に入れる六文銭はこの六道の悪霊を避けようとするものともいわれている。
会葬者は棺の回りをぐるぐる三べん回って手を合わせた。これはていねいな家では葬送の行列が家を出る前に、門前でも同じように三べん回って参った。
墓地での埋葬は、用意された墓穴に棺を入れ、土をかぶせて、土まんじゅうとし、上に石を乗せる。芝生を張り、棺を吊ってきた竹竿2本を土まんじゅうの上で交差するように立て、天蓋も立てる。これらは初七日が過ぎると取り去る。土まんじゅうの裾には、四方に小さい鳥居を立て、周りを柵で囲った。柵の代わりに、竹を曲げはじきにしたところもある。これは庶民が陵墓をまねたものである。
野帰り
帰路は寄り道をしないでまっすぐ帰る。行きに通った道とは別の道を帰る。
帰宅するとオトグチに青竹が横たえてあるので、それをまたぐ。また、たらいが据えてあるので、足を洗ったことにし、手を洗い、塩で清めてから家に入る。
家ではクミの人が念仏をしていて、ぼた餅が用意されている。近親者とクミの人以外は皆帰る。
ここまでで、葬式クミの仕事は終わり、今度は死者の家族がクミの者をもてなすことになる。家族は大急ぎで着物を着替え、夜遅くまでもてなした。
しあげ
翌日、近親者は、寺詣りと墓参り。4日目、「ご苦労様休み」といって、クミの人が念仏をして家の者が茶菓でもてなした。
忌明けまで
古くは、四十九日の忌明けまで、僧が7日毎に読経にきて、卒塔婆(30cm位の細長い木の板。上部が塔の形になっている。追善供養のために墓に立てる)を持ってくる。初七日までは1日に1枚ずつ、以後四十九日までは7日毎に1枚ずつ。近年はまとめて渡されることも多い。これを墓に持って行って前に立てた。
初七日には、ぼた餅が準備されたという八田新田、嘉永3年(1850)の記録がある。
忌明けは四十九日であるが、三十五日のところもある。大昔は一年としたものであった。
神棚の扉を封じた張紙をとり、以後は宮参りをゆるされる。
法事
忌明けの後の法事は、百カ日、一周忌、三周(回)忌、七周(回)忌、十三周(回、年)忌、十七周(回、年)忌、二十三周(回、年)忌、二十七周(回、年)忌、三十三周(回、年)忌、三十七周忌、四十三周忌、四十七周忌、五十周忌、百周忌と行う。
五十回忌または百回忌はトイアゲ(弔い上げ)といって、杉、榊の葉のついた卒塔婆に戒名を書き、僧に読経してもらった。近年では五十回まで待たず三十三回忌でトイアゲとするところもある。
トイアゲをもって死者は祖霊と融合するものと考えられた。
八田新田の儀右エ門の妻の法事は「四十三回忌相勤めの覚え」まで残っている。当時の法事の本膳はおおよそ次のような献立である。
盃(はい)
どんぶり(ろうじ、菜からしあえ、人参煮合え)
硯蓋(もみじ麩(ふ)、長芋、こんにゃく、ゆり根、新しょうが)
吸物(焼麩、しいたけ、みょうが)
皿(人参、青昆布、蓮根、油あげ)
ちょく(かき、うどの白和え)
壺(ひりょうず、蓮根)
平(れんこん、ごぼう、角麩)
中酒
二の汁(大丸麩、うど)
硯蓋(せんごぼう、切り寿司、揚げ物、角麩、しょうが、九年母)
大平(ぎんなん、あげ、人参、長芋、蓮根)
献立は、家によりいくらかの違い、省略はあるものの、概ねこのようで、これはずっと明治、大正、昭和までほぼ変わらなかった。材料の買物には嘉永元年(1848)の儀右エ門の一周忌でも名古屋まで買いに行っている。
その他の葬礼にともなう習慣
- 川せがき
お産によって妊婦が死亡したときは、川ふちの道ばたに棚を作って戒名を書いた卒塔婆を乗せ、傍らに水桶をおいて道行く人が水をかけて供養した。これは妊婦は血の池地獄に行くから水をかけてきれいにしてあげるというものである。 - 鏡
妊婦が葬礼に参加するときは必ず鏡を懐に入れて行った。お腹の子にケガレが入らないようにケガレを写し返すためである。 - 箕と槌
1年のうちに2人死人の出た家は、葬列のとき、棺のあとから、箕の中に横槌を入れたものを引きずって行く。これは箕に3をかけて、2度あることは3度あるから、箕で3度目を代用としたのである。 - 鍬だて
葬儀の行われる前日か当日、喪主が墓に行き、墓穴の位置を示す。 - 生まれてすぐ死んだ子はハンヤ(灰屋)の近くに埋(い)けた。ハンヤというのは底を抜いた壺が人目につかない位置に埋めてあり、お産の時の後産(のちざん)や月経の汚れものを捨てるところである。
以上が春日井の葬礼のあらましであるが、近年は、かなり簡略化され、クミの仕事は葬儀屋に負う部分が多くなった。また、埋葬も土葬はなくなり、火葬となった。昭和41年以後、墓地が村の共同墓地から潮見坂平和公園墓所へと移転するに伴い、火葬が行き渡ったのである。
郷土の自然
身近な生きもの アメリカザリガニ
遠山孝志 春日井市立坂下中学校教諭
幼い頃、近くの小川でザリガニとりをして遊んだ思い出が一度はあると思いますが、最近河川が汚染されたり、水田が急激に減っていき、その姿を見かけることが少なくなってきました。今回は、身近で親しみやすいザリガニに目を向けていきたいと思います。
アメリカザリガニについて
アメリカザリガニは、今から約60年前に食用ガエルのえさとして日本に移入され、各地に急速に生活圏を広げていきました。日本古来のザリガニは東北地方が南限であるので、市内で見かけるザリガニは、たとえ体が小さくて赤くなくてもアメリカザリガニということになります。(以下は通称で記述)
ザリガニのオスは、はさみがやや大きいことと、第1腹肢が生殖器になっていて前方に向かっていることからメスと区別できます。
春にメスのお腹でふ化したザリガニは1年で体長5センチメートルくらいになり3年で10センチメートルの大きさになります。
ザリガニの分布
昨年、市内の小学生を対象にザリガニの分布調査を行いました。その報告に基づいてザリガニの生活場所の分布状況をまとめてみました。
坂下・高森台・高蔵寺周辺…坂下中学校裏門の用水、大谷川全域、新池、繁田川、徳州会病院裏の用水
神領・出川周辺…篠原小学校前の用水路、内津川と庄内川の合流付近の小川、旧19号沿いの用水(稲垣サイクル前、東鉄バス車庫裏など)
鳥居松・勝川周辺…柏原小学校付近の田、JR中央線南側にある用水、儀田公園横のみぞ、篠田公園横のみぞ
西山・東野・大泉寺周辺…三つ又ふれあい公園周辺(八田川や生地川)、大池や与兵池周辺の田や用水、ゆうらんど裏の用水
松山・小野周辺…二番割公園西のみぞ、愛知電機横の用水
これらの結果から、市内に幅広くザリガニが分布していることがわかります。昔に比べ生存場所が限られていますが、各校区内に1か所は、ザリガニとりのできる場所が残されていました。
ザリガニつりを楽しむ
写真は、小学校2年の理科の授業に持っていくために親子でザリガニつりをしているところです。スルメの餌で30分間に6匹つりあげていました。(5月下旬、坂下中裏門)
ザリガニつりは、水が温かくなる5月から秋のはじめくらいまで適しています。生後1年くらいのザリガニは警戒心がなくすぐに餌によってきますが、からだが赤くはさみも立派になったザリガニをつりあげることはなかなか難しいものです。
このようなザリガニつりが身近にできる場所が市内各地にまだ残されています。これからもこの環境を子供達に残していきたいものです。
春日井の人物誌
小坂孫九郎雄吉2
石川石太呂 春日井郷土史研究会員
吉田城にいた前野孫九郎宗吉(雄吉)(幼名千代太郎)が母方の小坂氏の遺跡を継ぐ事になったのは小坂久蔵正氏、舎弟源九郎正吉の死去後で、信長が今迄の小坂氏の功績を惜しまれて跡を襲わさせています。ここに信長判物(前野家所蔵)に「為扶助、於御台地四十五貫文柏井、竹(作)山於吉田、弐拾貫文篠木、下条内弐ケ所、都合六拾五貫文申付上、不可有相違者也、仍状如件 永禄元年九月廿三日 信長花押 前野孫九郎尉殿」がみられます。
柏井御台地の奉行と共に増加された所領宛行状は、翌年の岩倉攻め計画の調略が伺われます。父宗康は岩倉方三奉行の一人でもありました。岩倉落城後は、宗康は在所(前野村)に隠居し、その翌3年に死去しています。前野家は舎弟の小右ヱ門(長康)が継ぐ事になりました。
孫九郎は永禄元年(1558)9月以降に小坂氏を襲名する事になります。
次に関係氏家の系譜をまとめてみますと上のようになります。(右上系図)
吉田城跡について
小坂氏の尾張国への入国は“柏井庄吉田の地を賜り……”とあります。柏井庄吉田の地は下条吉田の地であり「近世村絵図(春日井市編纂)第十八図下条村絵図」に「吉田城跡」と明記されています。各村絵図面は江戸後期に作成されたものですが、吉田城の存在を立証するものであります。
下条村の字名は、西篠、花、東篠、西深、東深、西津、東津、城前、南吉田、森下、南本、北吉田、北本、東本、寺西、寺前の16字に分けられ、南本附近は集落の中心とみられます。この辺り一帯を俗地名は「本郷」とも呼称します。地籍図にみられる吉田城跡を推定しますと、やや辰巳の方位に村社八幡社がみられます。この八幡社附近を「中屋敷」と呼び、その北東側を「東屋敷」その西側を「西屋敷」と呼び、八幡社の西南を「四坊」といいます。ここに四ツの坊堂があったことから俗に「四坊島」ともいいます。
地籍図にみられる北側、西側と南側は、条里制の遺構が明解に図示されています。吉田城跡の遺構部は(3か所)細く集約された地割がみられ、微高地でもあったこの地点が吉田城跡の遺構地とみられ、廃城跡には部落の分割地割として細く地番割が付けられています。この細く集約された地割の南と北西の地帯の中間は「ホリダ」と呼び、3か所の土地よりやや低地帯であり、その西を「山伏」といい、さらに西へ向かって「城前」といいます。城前の北より山伏の中央を東へ直線に、ホリダに向かう角(かど)を「鍵の手」と呼んだ旧道がありました。
城前の西を「走りおり」、その西を「一丁田」といいます。さらに西に向かって「上つくの」「下つくの」。小野小学校の西を「土居下」といいやや低地になっていきます。その西は「花」といい、土居下の北にやや微高地帯がみられ、この辺りを「念仏田」(東篠地区)と呼び、東津の中央より南は「八反田」その北は「大間(だいま)」(現在王子製紙工場敷地内)、その東を「原元」その東を「替田」といいます。王子製紙工場正門前の道路に沿って「ヨコマチ」といい、下条村の南端中切村との村境を「流れ」と呼び「長溝」と呼ばれた水路がありましたが、この地帯は50に分割して開拓され「五十割」と呼ばれています。
村落の東部は庄内川に接近した地帯で、河川の氾濫等での砂入地帯でもあり、旧庄内川の流域移動が推察され、この地帯の地番も細かく分割されています。
城跡周辺の細かい地番分割の集積地帯は、また条里制遺構の坪界内にほぼ位置しています。小牧・長久手合戦後、廃城取壊しとなり、その後の開拓による分割地域とみられ、種々の城郭関係等の用語が字名等に遺されています。
また、四坊字内にただ一堂のみ残る常泉院の由来記に「……篠木、柏井ノ領主吉田千代太郎殿此ノ地ニ居城ヲ構ヘ其ノ城郭内鬼門鎮護ノ下ニ右常行堂御再建アリテ秋葉大権現ヲ奉安シ寺号ヲ放亀山常泉院ト改メ……」とあります。
千代太郎は、孫九郎雄吉の幼名であり、また寺号の放亀山とある亀山は、孫九郎の号でもあることが前野家文書の中にも記載されています。
孫九郎が吉田城から上条城に入ったのは、永禄年間の初めの頃と思われます。(つづく)
郷土散策
白山信仰10
村中治彦 春日井郷土史研究会員
三明神社の白山大権現
本誌第33号で紹介した神領町三明神社に伝わる白山大権現の古い棟札の拝観について、宮司の小澤吉生氏にお願いしたところ、このほどご好意により取材の許可をいただいた。
8月2日の日曜日、猛暑の中、宮司を始め氏子総代の重山正吉、大島藤夫、津田祐蔵の3氏に立合いをいただいた。まず、正装した宮司が祭神に対して本殿開扉の趣旨を報告する祝詞をあげ、参加者4名全員がお祓いを受けた。
宮司により開扉が行われ、10枚程の棟札が運び出された。その中で白山大権現の文字が見られるものは3枚あり、いずれも長さ1.8mほどの大きな札である。
東春日井郡誌に紹介されている寛文5年(1665)のものが最も古く、他に貞享4年(1687)と宝永7年(1710)のものがある。
三明神社とは、品陀和気命(八幡社)・日本武尊(熱田社)・伊弉冊命(白山社)の三柱の神を祀る故の呼称であろうと考えられる。天平7年(735)の創建との伝承があるが、旧記を失っているため詳細は不明である。
寛文5年の棟札の裏面には、当社が天平7年の創建で、その後長久2年(1041)・建武元年(1334)・天文7年(1538)に再興造営されたことが記されている。そして、「右古棟札数多有之 或者字減 或者札破之故 集而記之者也」と書かれている。
しかしながら、三明神の名称の起源が何時であるかは示されていない。『張州府志』や『尾張志』では、この地が昔熱田の神戸であったところから神領の名が付いたものと推測している。
また、『感興漫筆』には次のような記事がある。「神領村瑞雲寺現住瑤州に聞く所を左に記す。神領村は往古は熱田宮の御神領と見ゆ。往古、村中皆祠人なり、其家十九軒あり。中古、仏法盛行に及て祠人大島某(長草か未詳)剃髪して僧となる。瑞雲寺の開基即此人なり。…中略…其余十八人の者、祠人にては生計乏しきにより、皆農人となりたり。」
これらの資料を考え合わせると、最初、熱田社の祠があったところへ後に、八幡社や白山社が合祀されたものと推測され、三明神の名称も後のものと考えられる。因みに、『尾張地名考』には、「今の三明神は天正年中に建立ともいふ」とある。
ところで、『寛文覚書』の神領村の項に、「一、社三ヶ所内 三明神、木船明神、白山権現」とある。それによると、三明神に合祀されている伊弉冊命(白山大権現)の他に、独立した白山権現社が存在していたことになる。しかし時代はくだるが、天保12年(1841)の村絵図面には三明神と木船明神しか記載されていない。この間に合祀されたものであろうか、疑問として残るところである。
権現思想の普及
権現とは、本来は仏教で仏菩薩が衆生を済度する方便として権に種々の姿に化して現われることをいう。平安時代になると本地垂迹思想の発達に伴い、日本の神祗(じんぎ)に適用され神仏習合が進んだ。例えば平安時代初期には、石清水八幡神は菩薩号を受けて八幡大菩薩となり、平安中期になると、八幡神を権現と称する文が見られるようになった。11世紀に入ると権現の称は大いに普及した。
白山に関する権現の呼称は、天徳2年(958)ごろに成立したとされる『泰澄(たいちょう)和尚(わじょう)伝記』に見られる。これによると、養老2年(718)に泰澄和尚が初めて白山に登拝し、御前峰の神は伊弉冊命で白山妙理大菩薩と号し本地は十一面観音、大汝峰は大己貴命で本地は阿弥陀如来、別山は小白山別山大行事で聖観音を本地とする白山三所権現であることを明らかにしたとある。
この本地垂迹説による白山三所権現の伝承は平安時代に入ってから成立したものと推測されるが、権現思想が白山信仰の核心に据えられたのは比較的早い時期であったものと考えられる。
<参考文献> 国史大辞典
発行元
平成4年9月15日発行 発行所
春日井市教育委員会文化振興課