郷土誌かすがい 第42号
平成5年3月15日発行 第42号 ホームページ版
白山(はくさん)神社古墳と御(お)旅所(たびしょ)古墳
国指定史跡(昭和11年)の二子山古墳をはじめとして、県指定史跡(昭和58年)の白山神社古墳と御旅所古墳、やや西に離れた春日山古墳を味美古墳群として総称する。現存する4基の他に、明治の地籍図から少なくとも2基の前方後円墳を拾うことができる。
白山神社古墳は、その名のとおり墳頂に白山神社が在って、ために墳丘の形に若干の歪みを生じており、主軸長84ないし86メートル、後円部の高さ7メートルを現状の計測値としておきたい。周りに濠をめぐらしているが、これも特に前方部での改変が著しい。
御旅所古墳は、明治地籍図から短い造り出しの付く形態がうかがわれたが、調査の結果後世の造作であることが判明した。したがって直径30メートル余、高さ約3メートルの円墳として扱っている。この墳丘上にも祠施設があって、また墳丘裾部分に手を加えており、計算値はいずれも現状でのものである。かつて白山神社の祭礼時のお旅の先は、春日山であったが、街道(旧国道41号)を横切ることに支障があり、近接する現在の御旅所古墳墳上の祠に代えられた。前方後円墳を主体とする古墳群の中で、円墳としての御旅所古墳の位置付けは、必ずしも明確ではないが、二子山古墳の陪塚とする見方もある。
白山神社古墳の築造年代については、かつて周濠から採取されたという須恵質の円筒埴輪片から、二子山古墳の時代に近いとされ、墳丘の形状から、やや先行するとされる。
大下武 民俗考古調査室長
郷土探訪
河原の史劇
梅村光春 本誌編集委員長
松川橋のあたりから竜泉寺崖下までの庄内川は、今でこそ宅地や墓地で緑がけずりとられてはいるが、かつては深いよどみをもった山紫水明の地で、しかも広い河原もあり、名古屋城下の人士にとっては魚釣りに水遊びにと清遊の地であった。しかも藩では藩士たちの体力養成のため、四観音(竜泉寺、笠寺、甚目寺、荒子観音をめぐり歩く。)を奨励したので、非番の士たちで河原はいつもにぎわいを呈していた。
古来、この川は今川、松平と斯波、織田の対立の場所であった。特に永正12年(1515)8月19日の引馬の城(浜松)における、越前、尾張、遠江の3国守護、武衛斯波治部大輔義達の今川氏親への降伏は、その条件として今後一切遠江へ手出しをしないこと。しかも、斯波氏はその動静を今川によって厳重に看視されること。という起請文を入れて、剃髪して黒衣を着せられ、同様の姿の重臣たちともども清須に命からがら送り返されるという屈辱的な出来事によって顕著になった。しかも進駐軍として今川の重臣庵原安房守を受け入れ、彼の縄張りによって大永5年(1525)那古野城(柳の丸城)が築かれ、氏親の末子氏豊が入城し、これに義達は、娘を差し出し、しかも崖上からつねに清須の動静をさぐられるという苦しい立場となった。彼の祖父義廉が越前、尾張、遠江の猛勢をこぞり京都にのぼり、天下の耳目を驚かせた勢いが、僅かに40年前の事であったのが、うそのような勢威の急失墜であった。
このことがあってから、越前でも彼の被官である甲斐氏、朝倉氏が思いのままふるまうようになり、尾張の配下織田氏までもが、全く彼の命に服さぬようになり、彼はさびしく清須城城の一遇で織田彦五郎の看視を受けながら、ようやく生を保っているという情けない存在になっていた。
今川は盛時を迎え、遠江も併合し、那古野城と連絡をとるため、今橋(豊橋)に城を牧野古白に築かせて海運による熱田への道を確保し、さらに伊勢長氏(北条早雲)を将としてさかんに安祥城付近までにも侵入し、松平長親をおびやかしていたが、次の松平清康が今橋を占領してからは、かえって松平氏に近づき、那古野の東方の小幡、守山を松平氏の支邑と認め、機嫌をとるようになった。
清康も、品野、岩崎まで進出していたので品野城を守る伯父の松平信定を派し守山城をかため、小幡城も接収し、さらに、織田信秀の弟の孫三郎信光を信定の娘婿とした。これにより今川、松平の共同による圧迫が強化されたことになる。外面的には、この4者は融和したように見え、連歌の会に宗匠を招いて楽しむという交遊もみられた。しかし清須は庄内川の向うの崖上の那古野、守山、小幡より常に看視され、しかも、これらの城は、いずれも北方が崖であり、織田方から攻めるには攻めにくい地形である。
この織田に対する包囲網が破られたのは、勝幡城主織田信秀、日置城主織田寛維による享禄5年(1532)3月11日の那古野城奪取と氏豊の京都への追放及び松平清康の守山崩れ、〔天文4年(1535)12月〕である。
那古野城の奪取については、名古屋合戦記という断片的な資料ただ一つしかなく、日付けもあいまいで、天文3年(1534)とか、天文7年(1538)という説をとる人がいる。天文2年の7月から8月に勝幡に京都から来て滞在していた山科言継という人の日記に「言継卿日記」というのがあるが、この中には天文2年7月23日に那古野城に今川竹王丸というのが勝幡へ来て、連れの蹴鞠(けまり)の名手飛鳥井雅綱に蹴鞠の弟子入りをしたという記事があるので、天文2年(1533)の7月には、まだ今川氏は那古野に在城していたとみられ、従って奪取したのは天文3年の3月ということになると推測される。
今川氏の撤退で松平氏は美濃三人衆と盟約し、清康は清須を攻めるため守山へ来るが、家臣に殺されてしまう。これを織田一統の輿望を担って信秀は8千人を率いて三河へ追撃し、伊保で松平方に多大な損害を与えた。さらに古渡〔天文11年(1542)〕、末盛、〔天文17年(1548)〕を築城し、名古屋台地より、今川、松平の勢力を一掃し、尾張をかため三河、美濃への進撃の素地をつくった。
その1
守山城の本丸からは、濃尾は一望のもとに達観できる。西方清須を望み、北方に小牧山を見る。また犬山、楽田を経て美濃に対峙する。
松平氏の引いたあと、ここの城主となったのは信秀の弟孫三郎信光である。彼はのちの天文17年(1548)、三河の小豆坂で今川と血戦し、七本槍の一人として勇名を馳せた。
信秀の死後も、あとを継いだ信長をよく助けて、天文23年(1554)8月の清須攻めに大いに働き、勝って信長は那古野城から清須城へ移ったので、守山城から那古野城へ移った。
そのあと、守山城主となったのは、彼の弟の織田孫十郎信次で、信長の叔父である。
弘治元年(1555)6月26日、信次は数名の家来とともに、松河戸の渡しへ来て、大好きな魚とりに興じていた。そこへ馬に乗った武士が来て、広い河原を砂塵を立てて、あっちへいったり、こっちへ来たりして乗りまわしていた。魚とりをしていた信次は、これがうるさくてかなわない。おまけに領主である自分のそばを通っても冠っている頭巾をとってあいさつもしないし下馬もしない。無礼なやつだと思った信次が、何者かを家来に問いただしにやったが、返事もせずに向こうへ走りかけたので、怒った信次は部下の洲賀才蔵に命じて弓を射らせたところが矢が頚部を貫き、一矢でこの武士は落馬し絶命してしまった。死体をあらためると、これは信長の弟で、美少年として知られる16歳の織田秀孝であることがわかった。これは大変なことをしてしまったと狼狽のあまり彼は城へも帰らず、その場から逃げ去り、行方不明となってしまった。
秀孝の兄である末森城主の織田信行は、知らせをうけてもわけがわからず、取りあえず一隊をひきいて守山城へ馳せつけたが、城中に誰も居ないので、城の東方と南方のわずかばかりの民家に放火して引き上げた。信長もまた清須より馳せつけて来たが、城へは入らず、自身は矢田川原で馬に水を飲ませている間に、家来に城中を探索させたが無人であったので、そのまま引き上げた。その後、信次の家老の角田五郎、坂井喜左エ門が清須、末森に謝罪し、赦されて守山城を守っていたが、信長の家老佐久間右エ門尉が、守山城主に適当と信長の弟で利発であるといわれる織田安房守信時を推薦し、角田、坂井も信長に願い出て許可され、信時が城主となった。佐久間はこの功により信時から守山領内の下飯田村百貫文を贈られた。角田、坂井はそのまま家老として信時を補佐することになった。
坂井喜左エ門の長男を坂井孫平次という。この人はすこぶる美麗で、信時の小姓をつとめていたが、信時の男色の相手となり、寵をほしいままにして重用されるようになった。そして、ことごとにの角田信五郎をさげすんだので、無念に思った彼は、弘治2年(1556)年6月、守山の城普請の最中、土居の崩れたところから深夜に壮士数人を乱入させ、安房守信時にせまり、無理に切腹をさせた。角田は岩崎の丹羽源六の後ろ楯で守山城に立てこもっていたが、信長と不仲の弟の信行の末盛城へいき、反信長工作につとめていたが、次いで起こった弘治2年(1556)8月24日の稲生の戦で戦死した。織田孫十郎信次は、あちこち流浪の末、信長に全くの過失であったことを認められ赦免されて再び守山城主に返り咲いた。
信次は、天正2年(1574)4月飯挿城を守っていて武田勝頼の捕虜となったが、うまく脱走して逃げ帰った。しかし、同年9月の長島の戦で戦死した。織田信雄分限帳に、従士、津田孫十郎九百貫守山と見えるが、信次の子と思われる。津田は織田の別称である。
その2
天正12年(1584)4月8日の夜半、岡崎中入りを目指す池田勝入斉信輝入道の6千と森長可の3千は大日渡を、堀秀政の3千は野田の渡を、三好秀次の8千は竜泉寺下松河戸の渡しをこえて進撃して行った。これを家康は長久手に追尾し、激戦の末に勝ち、敗れた池田方は、血路を開いて各方面に逃れたので、家康の配下は猛追につとめたが、家康は矢田川の線で軍令を発して止めた。長追いに手間取ると、秀吉が来援するおそれがあったからである。4月9日午後1時である。池田方の戦死者2,500余、徳川方は590人余であった。
午後2時家康は、長久手の切通しを出発し、香流川を渡り権道寺山に移り、小山ケ沢で首級を検した。この時間、秀吉は楽田にあって、勝入の行動を助けるため長岡忠興や日根野備中らに、9日朝から小牧山を猛烈に攻めさせていた。
小牧山の守備は、石川数正、酒井忠次、本多忠勝ら6千5百であったが、正午ごろ長久手の敗報が楽田に届いたので秀吉は大いに驚き急遽出陣を令し、午後1時自ら2万の兵を率いて救援に向かった。
まず春日井原に出て関田から下市場の西をすぎ、桜佐を左に見て内津川の堤を通って庄内川の右岸堤防を下津尾に至る。その途中、勝入斉の岩崎城攻撃の顛末をきいて「寄り道せずに岡崎へ急行せよ。」といって出したものの、命令不履行の勝入斉に対して大いに腹を立てていた。小牧山に留守をしていた家康の将本多忠勝は、部下の忍びの者から秀吉が急に出立したことを知り、家康が出発に際して言い置いた「ここを動くな。」の軍令を破り、摩下の5百の兵を率いてあとを追った。秀吉を追尾し、うしろから鉄砲をうちかけうちかけすれば、自分にかわってくれて進軍を遅らせ、家康の行動を援護できるという目算である。彼我の距離4~5丁。本多はさかんにうしろや側面から鉄砲を放ったので、秀吉方にはかなりの損害がでた。旗本は撃つことを進言したが、秀吉は許さず、挑発にのらなかった。誰が追尾しているか分からなかったが、秀吉はそのまま下津尾より川を渡って竜泉寺へのぼっていった。寺に入り下を望見すると、鹿の角の冑をかぶった武士が、崖下の河原に単騎乗り入れ、さらに馬より下りて悠然と馬に河水を飲ませている。手にした槍が陽の光を反射し、竜泉寺の緑に映えてその姿は颯爽としていた。秀吉は「あれは誰じゃ。」と問い、稲葉伊豫守が「本多平八でござる。」と答えると、足軽に命じて鉄砲を連射せしめたがあたらなかった。秀吉も大いにその勇敢無比なるを嘆賞したという。
家康はそのころ秀吉の来戦を警戒しつつ信雄と帰路にあった。本多平八郎は秀吉が竜泉寺で停止したので、そのまま部下を引率して小幡城へ入り家康を待った。家康は渡辺守綱を殿将として午後4時小幡城へ入った。
秀吉は竜泉寺へ入るとすぐに堀尾茂助、一柳直末、木村重茲等を長久手方面に出した。印場村で多勢の徳川方の負傷をした落伍兵と遭遇し皆殺しにしたが、家康が小幡城へ入ったことがわかり竜泉寺へ引き揚げた。すでに夕刻になっていたので、明朝ゆっくり小幡城を攻撃することにし、徳川方の夜襲にそなえ大急ぎで堀をつくり、部下は付近の山野に陣を張った。
小幡城中において本多忠勝、水野忠重は、竜泉寺への夜襲をすすめたが家康は許さず、午後8時頃信雄と共にひそかに小幡城を出て、大まわりして上飯田付近より庄内川を越え、小牧山に還った。出発に際し甲州勢の穴山勝千代の代将、穂坂忠文に兵3百を附し小幡城を守らせることにした。秀吉は夜に入っても家康方の動静を偵察させていたが、夜中近くになってやっと家康方が移動した事実をつかみ、夜半突然に出発を令して山を下り、庄内川を渡って上條の砦(信雄の臣、柏井の領主小坂氏の所有だが、当時美濃へ出陣中で留守を地侍どもが守っていたが秀吉方が来たので四散。)に入った。小憩して堀尾茂助を殿軍として出発北上したが、地侍どもが大量の鉄砲を所有しており、殿軍を襲って多大の損害を与えたので、堀尾の部下たちは腹いせに手あたり次第社寺は勿論、民家に放火した。上條大光寺に残る仁王像の焼けた首は、この時に山門が焼失した折の遺物である。
楽田に帰った秀吉は、その後、小松寺山に據り6万2千の軍を17隊にわけ、小牧山の家康と再び対峙した。
その3
尾張の国主徳川の 義直の兵法指南役、柳生伊豫守利厳(後、改め如雲)が暴漢に襲撃されたのは、元和2年(1616)4月の事である。彼の 断片的な記憶によると、その場所は、松河戸の渡しの上手で、水中に少し岩があり 、頭上より樹木の枝がのびており、対岸に竹籔があって川がゆるやかに曲がる地点だったと いうから、松河戸と中切の部落の境目あたりの対岸の竜泉寺山下の崖下であろう。この あたりは最近でも水がよどみ幽境の趣を具えていた 。
彼はこの 日非番で、好きな魚釣りに来ていたが、用心深く、襲われる事もあるのを予想して、手頃の石を拾い集めて積みあげてから 釣りにかかった。その頃の人は、石や砂を置いたり、たもとに入れて不意の襲撃に常に そなえていたものだが、彼は印地打ち(石投げ)の名手で50m以内のものには必ずあてたという 。
釣りに入ってすぐ、対岸の堤の上に閃光をみとめ、同時に左のこめかみに非常な熱さと衝撃を感じ、そのまま右ひざから水中に転落した 。
幸いに落ちたところは、あまり深くなかったの で着物をぬらしたがすぐ立ち上がり得た 。
その時背後より突然に 斬りつけられたが、日頃の練磨のお蔭で抜刀し、頭巾を冠った3人の暴漢と渡りあった。2、3合したあと、傷ついた3人の 者が逃走していったがこの間の時間は、わずかに5~6度呼吸するあいだの ことだったという。彼が衣服や袴を泥だらけにして、こめかみを赤く脹らして帰宅した時、家人が いぶかったが、笑って適当にごまかした 。
2日目に 鉄砲を撃った者も含めて、下手人が捕えられた。彼を襲ったのは、佐野恕平という以前義直の兵法師範であった男と、彼の3人の 弟子である。佐野が彼を襲うに至ったいきさつは次の通りである 。
廻国修業を終えた利厳が、元和元年(1615)9月、尾張藩家老成瀬隼人正の推薦により駿府城二の丸御殿の焚火の間で家康に謁見し、義直の傳役格で尾張徳川家に食禄5百石で召抱えられることになり、3人の弟子(音羽小三郎、加嶋道圓、高田三之丞)とともに名古屋へ来て、義直と対面し仕官の御礼を言上した 。
そして隼人正の 屋敷にしばらく滞在していたがやがて三の丸と城下の広井郷に屋敷を拝領したので引き移った。この間に隼人正の 申し出で尾州の腕達者と試合をしたが、その中で鉄人流の青木鉄人(鉄人金足の創始したもの)と東軍流で藩主の師範である佐野恕平(比叡山の東軍権僧正の創始したもの。剣と薙刀の流儀。)の2人が出色だと思ったが、青木は左腕を、佐野は左肱を利厳に打たれて敗れた 。佐野は師範役を利厳にゆずるのが口惜しく、利厳が義直に稽古をつけている最中に 道場に来て、再戦をお願いし、しかも真剣での試合を所望した。相伴の隼人正はその申し出を一喝したが、必死で嘆願するし、利厳が「木刀で相手をする。」といったの で義直も興味を示して許可し、再度試合をすることとなった。試合は 、あっけなく終わった一撃で、真剣をもっている佐野の柄中を木刀でしたたかに打ち込んだので、指をくだいて血だらけにして 刀をとり落した。佐野は、恥かしさのあまりその場で自刃しようとしたが、皆に とめられ、以後、屋敷へひきこもり、沙汰のあるまで謹慎することになった。佐野はその 後、数日して役方に何のことわりもなく突然逐電してしまった。しかし、藩公の 指南役をつとめていたことで特に追手は出されなかった 。
佐野たちが捕えられたの は、傷の手当のために名古屋城下の町医を訪ねてきて、血の垂れる晒を傷に巻いた姿を怪しまれ、目付下役に 踏みこまれて事実を曝露したからである。傷の手当をして他領へ逃散するつもりであった 。皆、斬刑をうけることになったが、佐野は出血のため弱り切っており、斬られる時には 一人で立ってはいられないのであった。この噂をきいて、利厳の弟子の一人は、「暴漢に 襲われ、切り殺すことはたやすいが、先生のように敵の戦闘力をなくする働きをされるの は、さすがにすごい腕だ。」とほめたのに対し、彼は、「着物をぬらしたり、泥だらけにし 、おまけに、こめかみを赤く脹らせて帰るようでは、大した腕ではない。はずみでこうなっただけよ。」と言った 。
また、義直は 目付け役から、佐野ら4人の処刑を願い出られて許可しながら、利厳には何も言わなかった。数日後の朝の稽古の 時、利厳は「お殿様には、もはやお聞き及びと存じまするが釣りに出かけ、狼藉者に斬りかけられ、鉄砲をうちかけられ、ようやく斬り抜けて帰ったのでございますが、あの 時、足もとに積んでおいた礫を使うのをすっかり忘れておりました。やはり、私はまだ修業が足りません。」と 平常心を失い、うろたえたことを恥じ、この ような未熟なことでは、君公を指南できぬとわが身を責めたという 。
参考文献
- 国史大辞典 織田信長の項
- 徳富猪一浪 「近世日本国民史織田氏時代前編」
- 脇田修 「織田信長」
- 新井喜久夫 「織田系譜に関する覚書」
- 小島廣次 「信長以前の織田氏」
- 織田信秀公四百年記念会刊 「織田信長公の功罪」
- 小瀬甫庵 「甫庵太閤記」
- 竹内確斉 「絵本太閤記」
- 天野信景 「塩尻」
- 写本「名古屋合戦記」(鶴舞中央図書館蔵)
- 木村助九郎「兵法聞書」註(柳生宗矩高弟)
- 柳生家家譜 「玉栄拾遺」
- 近松茂矩 「昔咄」
- 柳生利厳「始終不捨書」註(本人の記憶帳)
私の研究
白山(はくさん)小学校区の社会的動向に関する一考察 児童数の推移からみて
小沢恵 本誌編集委員
校区のあらまし
白山小学校区は、春日井市の最西南端に位置し、南側には新川に注ぐ新地蔵川が流れ、東側には庄内川に通ずる新木津(しんこっつ)用水がある。また、交通面では、校区の中央部を東西に国道302号(名古屋環状2号線)、東名阪自動車道が走り、一昨年より第3セクターの城北線も通じている。一方、南北には県道名古屋犬山線があり、東端には名鉄小牧線も走っている。
このあたりは、古くから国の史跡である二子山古墳にみられるごとく開発がされていたと想像されるところであるが、本格的な開発は、江戸時代初期の新木津用水の開通以降である。味鋺原新田と呼ばれるように、犬山へ通ずる上街道筋を中心に集落がみられる一方、水田や畑を大半とした農業地域であった。したがって、人口増もさほど大きい地区ではなかったといえる。昭和36年の土地利用図によると、水田がたくさんみられる。家並も現在の県道沿いが主である。このころまでは、こうした田園地帯であったわけである。それが、昭和59年の土地利用図にみられるように、ほとんどが宅地化され、急速に田や畑が失われていったことがうかがわれる。宅地化の中には、当然小売業、飲食業をはじめとして、建設業、製造業などの各種事業所の進出もあったわけである。いわゆるまちとしての活気を帯びていったことはいうまでもない。そうした社会的変化の大きい中で、白山小学校も自ずと生まれてきたのである。平成4年現在、味美(あじよし)白山(はくさん)町、中新町、二子町、中野町(二子町と中野町は昭和43年の町名変更で新しくつくられた町である。)の4町からなり総人口7,337人、世帯数2,558となっている。
白山小学校の児童数の推移
春日井市の児童数の推移と比較して
白山小学校は、昭和42年、味美小学校の分校として建設され、翌年市内15番目の小学校として独立開校した。開校時には、児童数562名で14学級であったが、その後急激に増加し、10年後の昭和52年には、児童数1,235名で32学級にまで達した。朝礼を行うと運動場が子どもたちでいっぱいになるほどだったと言われている。まさに開校時の2倍を越える増え方であった。この急増をしのぐため、7期にわたって、校舎の増築工事がすすめられ、3棟も建設されたのである。ところが、そのピークを境にして、70~80名の割で児童数が減少しはじめ、平成4年には児童数344名で、11学級にまで減り、ピーク時の3分の1ほどになってしまった。しかし、最近は減少加速も鈍り、ほぼ横ばい状態といえる。
ここで、一つの比較として、春日井市全体の児童数の推移をみてみたい。
昭和40年ごろまでは、ほぼ1万人ぐらいで推移していた児童数も昭和40年代から50年代へと進むにつれて増加し、昭和56年には最高の30,656人を数えた。ほぼ3倍の増加で、いかに春日井市が住宅都市として急成長していったかがよくわかる。(因みに、市の人口は、昭和40年12万弱、児童数最高の昭和56年には24万強、そして、平成4年は27万である。)その後は徐々に減少し、平成4年には19,864人とピーク時の3分の2になっている。
そこで、白山小学校の児童数の推移と比べてみると、昭和52年までは増加傾向がよく似ているが、しかしその後市全体は昭和56年まで連続して増加していったのに比べ、白山小学校は、昭和52年以降2年程停滞はあったものの、急激な減少に転じている。社会的動向が白山小学校区ではいかに激しかったかがうかがえよう。一方、両者の減少傾向に目を向けてみると、大きな違いがみられる。時期のずれもさることながら、児童数の減少率にかなりの差がある。市全体がピーク時の3分の2に対し、白山小学校は3分の1にまで至っている。この減少の異常さは、どう考えたらいいのだろうか。
校区の人口・世帯数の推移をみて
ここで、白山小学校区の人口や世帯数の推移をみてみたい。
昭和35年の校区の人口は、わずか1,016人であった。世帯数も220を数えるのみであった。しかし、昭和40年代に向けて急激に増加し、昭和40年には人口5,288人、世帯数1,535とわずか5年で人口でほぼ5倍に達している。そして、50年には人口9,188人、世帯数2,887となり、最高の数に近くなっている。その後わずかながら減少し、平成2年で人口7,218人、世帯数2,520まで下がっている。しかし、その減少ぶりは、児童数の減少ほどのものではないが、減少していること自体が異常と言えなくない。(因みに、春日井市の人口は、現在でもわずかながら増えている。なお、1世帯あたりの人口は、昭和35年より連続して低下し、5人弱から3人弱へとかなりの減少を示している。いわゆる核家族化の現象が顕著に出ている。ここらあたりにも、児童数減少とのつながりがあると考えられる。
味美土地区画整理事業とのかかわりについて
白山小学校の人口の急増に関しては、味美土地区画整理事業は、必ず触れておかなければならないだろう。この区画整理事業は、地蔵川の改修に伴い、地元住民の強い反対がある中、その必然性から初の市施行として、昭和32年にはじまった。現在の春日井市は、土地区画整理事業の実施率では全国トップをいくと言われているが、当時としては市で初めて行う整理事業でたいへん苦労も多かったと伝えられている。その概要は表1のごとくであるが、昭和44年に全て完了した。その間、事業資金の見直しや期間延長など6回にわたって事業計画の変更を行っている。この事業が進捗(しんちょく)するなか、隣接する名古屋市をはじめとして多くの人口が流入したことは、先ほどみた校区の人口増が如実に示している。特に、昭和35年から40年にかけての急激な増加は、それをはっきり証明している。この事業の施行に伴って、地主の人たちの多くがいわゆる従来の長屋的アパート経営に乗り出したことも人口の流入を促進した要因と考えられる。
面積 |
減歩率 |
事業費 |
施行年度 |
事業計画(変更)認可 |
---|---|---|---|---|
1,564,279.59平方メートル | 28.59パーセント | 64,200万円 |
自 昭和32年2月1日 |
第1回 昭和34年2月5日 第4回 昭和42年4月7日 第2回 昭和38年3月18日 第5回 昭和43年4月8日 第3回 昭和40年9月20日 第6回 昭和44年2月3日 |
白山小学校の児童数の推移に関する若干の考察
まず、開校から昭和52年にかけての児童数の急増については、次のように考えられる。
校区の人口増と児童数増の割合の一致がそれを証明しているように、味美土地区画整理事業の計画推進が校区の人口流入をうみ、それに伴い児童数が増加した。
次に、昭和53年以降の児童数の減少に関しては、増加時のように単純にはとらえられないが、次のように考えられる。
一つに、一般的な児童数の減少があった(市全体の減少はまさにこれにあたっているだろう)。
二つに、市全体の人口が現在でも微増しているなか、白山小学校区の人口の減少は、これ自体異常な現象と考えられる。市の人口が増えていても、児童数がかなり減っていることを考えると当然校区人口の減っている地区においては児童数の大幅な減少は、当然のことと考えられる。これが、白山小学校の児童数減少の最大の理由ではないかと考える。
三つに、校区人口の減少とともに、新しい流入が少なく、校区人口の年齢層が自然に上がってしまったことが考えられる。
以上のような大まかな分析であるが、近年児童数の減少も横ばいに近くなってきているとはいえ、地域の活性化の上にも、新しい層の流入が望まれるところである。
おわりに
はじめに述べたように、本校区は、名古屋市に隣接しているだけでなく、名鉄小牧線、城北線、環状2号線、県道名犬線などが走る交通の要衝で、近くにはJR中央線や名古屋空港もひかえている。しかし、こうした交通網が整備されているのにもかかわらず、アクセスの悪さや地価の高騰などのため、人口の流入も少なく、将来的な展望が今一つ開けない。児童数の減少は、それを象徴しているように思う。
こうした現状を打破するための新しい試みが本校区を含めた味美地区には望まれる。いわゆる夢のある「まちづくり」が大きな課題だといえる。現実に、在住、在勤の若者らによって、課題への挑戦がはじまっている。将来への展望を期待したい。
郷土の自然
チャートの秘密
水谷年孝 春日井市立中部中学校教諭
最近、『恐竜ブーム』だと言われている。各地で開催された恐竜展には、多くの人々が集まっている。これは、最近中部各地で恐竜化石が発見され、一般の関心が高まっていることに原因があるだろう。また、恐竜の絶滅と結び付けた、地球環境に対する関心の高まりにも大きな原因があるだろう。
『化石』には、何か不思議なロマンが隠されているようである。授業で地質・岩石を扱うと、生徒の興味・関心は、もっぱら化石に集中する。また、フィールドワークに連れていくと、最初にでる質問が「先生、何か化石出ないの?」である。しかし、残念ながらこの地域で大型の化石はなかなか産出しないのが現実である。
ここで、「このあたりは出ないよ。」と言ってしまうと生徒たちの興味は半減、フィールドワークに対する興味もなくしてしまう。そこで、何か利用できるものはないかと捜し当てたのが、チャート中の放散虫微化石であった。
微化石(顕微鏡を使わないと観察することができない化石)は大型の化石が産出しない地層や堆積岩にも多く含まれる。摘出には少し手間がかかるが、堆積環境の推定や地層の対比にたいへん有効なものである。
春日井市内では、身近にころがっているレキの中で一番多いのがチャートという岩石であろう。ここでは、このチャートの中に多く含まれている放散虫微化石について簡単にまとめてみたい。
チャートとは
庄内川の河原にころがっているレキを調べると、その半数以上がチャートである。また、道樹山・高森山などを含む春日井市東部地域に見られる古生層も主にこのチャートからできている。(ただし、かなり変成作用を受けている。)このチャートは、たいへん硬く、緻密(ちみつ)な作りをしている堆積岩である。成分は、ほとんどが二酸化ケイ素である。また、色は赤茶色または白っぽいものが多い。このような特徴を持っているため、生徒たちに観察をさせても、堆積岩であるということがわかりにくい岩石である。しかし、このチャートから化石が出ることがわかれば、そんなこともすぐに解決してしまうのである。
放散虫とは
この放散虫は原生動物に属し、ケイ質の殻あるいは骨格をもった浮遊性の海棲プランクトンである。放射状のとげがあるものもあるが、さまざまな形態をしている。現在も熱帯の海を中心にほとんどすべての海に生息している。出現は先カンブリア時代の末期(約7億年前)とされており、以後さまざまに分化し、現在に至っている。
放散虫は、殻がケイ質のため、化石として保存されやすい。また、海洋に広く分布すること、過去から現在まで生息していることなどの利点から最近では研究が進み、地層の形成年代や環境を知る手がかりとして積極的に利用されている。この結果、今まで古生代の地層と言われていたものが、実は中生代ジュラ起のものであったというような発見があった。さらには、日本列島の形成過程を考える上でも、重要な役割を果たすものと期待されている。
放散虫化石の摘出法
どんなチャートでも、以下のような処理をすれば、微化石を取り出すことができる。私は、はじめに身近にあるチャートレキ(赤茶色)で試してみたところ、わずかではあるが摘出することができた。しかし、市内の古生層のチャートで試みたところ、やはり変成作用をかなり受けているため、微化石は見られなかった。なお、この近くで条件のよい、つまりたくさん微化石が含まれるチャートは、木曽川犬山橋左岸上流域の層状チャートであろう。
処理はフッ化水素酸を使う関係で、ドラフトなどの設備が必要である。
- チャートの表面をきれいにして、2センチメートル角くらいの大きさに砕く。
- この試料をポリ容器に入れ、5パーセント程度のフッ化水素酸を浸し、一昼夜放置する。
- ポリ容器内の上澄み液を静かに捨て、残った溶液を水で薄める。
- 放散虫化石を含むチャートからの分離物をふるいにかける。200メッシュのふるいを使い微化石を集める。
- 乾燥させた後、双眼実体顕微鏡の下で調べる。面相筆を用いて微化石を取り出す。
- 観察は20から30倍が適当である。(放散虫の大きさは50ミクロン位である。)
このような、処理をして取りだした放散虫微化石は写真1~3や図1~4のようなものである。なお、フッ化水素酸で処理したチャートの表面を乾燥後に観察しても、放散虫微化石を見つけることができる。
おわりに
化石というと貝や骨だけと思っていた多くの生徒にとって、顕微鏡で見ないとわからないような生物まで化石になるということはたいへん驚きであった。また、身近にも実は化石がいっぱいあることも大きな驚きであった。
なお、平成2年、春日井市理科資料作成委員会が自主製作したビデオ『What is チャート?』がある。市教育委員会によって学校教材用として活用されている。
(参考文献)
- 平朝彦他編 日本列島の形成、岩波書店
- 地団研編 地層と化石、東海大学出版会
- 豊田国昭 微小化石の教材化、愛知県教育センター研究紀要、第81集別冊、理科教育特集第28号
ムラの生活
ムラの正月
井口泰子 本誌編集委員
♪お正月とはええもんじゃ
赤いべべ着て羽根ついて
雪のようなママ食って
木っ端のようなトト(魚)添えて
ボクリ(木履)のようなモチ食って
お正月とはええもんじゃ♪
私が正月の話を聞きに行ったとき、白山町の藤江てふさんはこんな歌を歌って下さった。てふさんは、明治34年、白山村に生まれ、育ち、村の家に嫁いだ人で今年93歳になられる。てふさんの話を中心に大正、昭和初期の正月を追ってみよう。
正月というのは、暦の第一番目の月のこと。正月の行事は、年の初めに当たって、家々の祖先にあたる神様の来臨を仰ぎ、その年の実りの豊かさを祈る農耕儀礼から始まったものである。
正月に迎える神様は <年神> とか <正月様> <歳徳神> という名称で呼ばれる。五穀を守る神、豊年を祈る神様であるが、同時にその家の祖霊としての性格が非常に強い。正月さまは大晦日の夜、家々を訪れて滞在し、15日に帰るといわれている。
古くは、我が国では、満月から満月までを1か月とする暦をとっていた。したがって正月は1月15日を望(もち)の日として大切に祝い、盆の15日とともに年中行事の中で祖霊を迎える重要な日であった。しかし、その後、中国より暦法が移入されると1月1日を正月とする朔旦正月が主流になっていたが、この朔旦正月を大正月というのに対し、15日の望正月を、小(こ)正月として祝う風習が残った。そして大正月には年神を祭る行事、小正月には作物の豊穣の予祝や1年間の吉凶を占う行事が行われるようになった。したがって農村では大正月より小正月の方が重んじられることが多いのである。
また、もともと満月(望)をもとにした月暦の行事であるから、明治に太陽暦が公用となってからも、旧暦で正月行事を行うところが多かった。
春日井でも長く旧暦の正月を祝っていた。農作業の手順として、収穫、年貢納め、麦蒔きが終わらないと新年を迎える準備が整わないからである。新暦の正月となってからでも、<秋上げ>を新正月で祝い、本当の正月行事は旧暦の正月でした。だが子どもが学校へ行くようになると、学校行事に合わせて新暦で正月を祝う風習が次第に浸透していった。
正月の準備
【すす払い】
正月の行事は、前年の12月から始まる。
その第1がすす払い。正月様を迎えるために、その祭りの場を清くする。すす払いというと今日では、せいぜい家の回りの汚れや軒下のくもの巣を払う程度であるが、電気、ガスの無かった時代には、その言葉通り、かまどから出る煤が屋根裏につもりついたものを払ったのであった。
明治・大正には、この地方の家の屋根は今のように瓦葺きではなく、<草屋(くさや)> といって稲科の植物で屋根を葺いた家が多かった。屋根の桟の上に稲のワラを敷き、その上に麦ワラを葺いたものである。
かまども煙突のある <くど> ではなく、<へっつい> といって、土で築いた土くどが多かった。<へっつい> は空気口になるサナや煙突がないため、燃えにくく煙や煤がよく出た。<へっつい>のおかれている土間は天井が無く、煙突の代わりに屋根に、<煙だし> が作ってあるだけであるから、煙や煤が、屋根裏の藁にたっぷりとついている。その煤を払うのである。
長い竹の先にささの葉をつけたもので払った。作業をするときは、目だけ残して全身をすっぽり古着で包み、他の部屋に煤が飛び散らないように気を配るのであるが、煤払いが終わると自分の体も家中も真っ黒で、後始末が大変であった。辺りへ散った煤を高いところから順に払い、拭き清めてゆき、最後にお勝手に敷いてあった琉球(麻糸を経(たて)とし、琉球い草を緯(よこ)として織った畳表)というむしろを叩き、他の部屋の畳を叩いて、やっと終わりである。
屋根の煤払いではないが、かまどに関係した仕事に釜の墨落としがある。毎月、<中つもご(14日)> と <つもご(月の最終日で、つごもりのなまったもの)> には、北風の吹く寒い家の裏手で、悪くなった包丁を使って釜や鍋の底の墨をこそげ落とした。その後、藁を打って柔らかくして作ったタワシで洗った。これは若嫁の仕事で、これをした後は、手の甲にいっぱいひび割れができて、まるで足袋の底のように堅く荒い手になった。
また、<中つもご> <つもご> には「火を変える」。火打ち石の時代は、火だねが落ちる焚き付けのもぐさをとり換え、マッチになってからは、マッチを新しい箱に換え、古いマッチを捨てたものである。
【門松】
門松は、正月の神様を迎える神の依代(よりしろ)である。松の木は、<松迎え>といって、30日から31日にお宮の山へ切りに行った。白山村では松に細い竹を添え、樫の枝、穂の無い藁、ウラジロを束にして、門前の左右に打ち込んだ樫の杭に結わえ付けた。家の左側に雄松、右側に雌松である。
そして同じく宮の山から採ってきたハニ(赤土)を松の根元に山の形に置いて、神の降ります所とし、残りの赤土を旭日のように路上に放射状に撒(ま)いた。赤土は古来より清めである。この清めの土は白山村では赤土であるが、細野のように白砂のところもある。
【注連縄(しめなわ)】
しめなわは神の祭りを行う清浄な区域であることを示す縄張り。しめなわを張って正月の神様を迎える神域であることを示した。
【墓参り】
年の暮れの墓参りは <お歳暮参り> といった。作法は盆の時と同じようにする。墓は潮見坂墓地ができるまでは土葬が多かった。それぞれの家の墓域には、内側周辺に石塔が並び、中心部に土まんじゅうが幾つもあった。
墓域の掃除をし、花生けに花を供え、お供えを置き、土まんじゅうの上や回りに赤土を撒いて清めた。
【餅つき】
28日に餅をつく。29日の餅つきは九餅(苦餅)といって嫌われた。
鏡餅を大小たくさんつくる。お雑煮用の餅はこの地方は切り餅であるから、のし餅である。1臼が2、3升(1升は1.4kg)多くつく家は米俵1俵(60キログラム)もついた。餅は大変なご馳走であったし、正月だけは存分に食べられるとあって、よく食べる人は20個も食べたと自慢したものである。また、純米の餅とは別に、粉餅(こなもち)といって、もち米の屑米でついた餅や、粟、黍(きび)を混ぜた餅もつき、の男衆や女衆(おなごしゅ)の食用とした。
【鏡餅】
鏡餅は、まず床の間へ大きな鏡餅(1升くらいのもの)を供える。次に神棚へ1対、仏様にひと飾り、その他に道祖神、お刀さま、お帳面さま(年貢帳)、恵比寿様、くどの神さま、井戸の神さま、農具の神様に供え、リヤカーやひき臼、たち臼、便所にも供えた。恵比寿様には大きいのを供えると、ここは裕福な家だからといって福を持ち込んでもらえなくなるといって小さいのを供えた。
床の間に供える鏡餅は、三方に奉書を敷き、ウラジロを敷き、白米を敷き(敷米という)、その上に鏡餅を乗せて、餅の上にホンダワラ(海草)、ダイダイ、エビを乗せる。エビの代わりにタツクリ、黒豆を使う家もある。餅の周りには三方の縁に沿って紀の国みかん(小さいみかん)を並べ、その内側に干し柿を並べる。他にカヤの実、カチグリも供える。
【お年越し】
正月を迎える準備がすべて整うと、<お年越し> という大晦日の夜のご馳走を食べる。これは、我が国では古くは1日の境が日没におかれていて、祭りはその頃から未明にかけて行なわれるのが常であったためで、大晦日の暮れるとともに新年の行事が始まったものであの。
白山村のお年越しは、まず神棚、仏壇にお灯明をあげてから、ご馳走を食べる。灯明はお鏡の数だけ上げる。ダイコンを1センチメートル位の厚さの輪切りにし、その中心に竹の串を刺し、それを軸にローソクを立てる。このお灯明をいくつも盆にのせ、家中の鏡餅の前へ配って回った。お年越しのご馳走は、人参、ごぼう、大根、芋、油げ、昆布などを煮たもの、それに、いわしで尾頭付きのまねごとをし、蛤の味噌汁である。
新年の行事
元旦
【若水を汲む】
元日の朝、家長は暗いうちに起きて、新しい着物にあらため、新調の履物を履き、井戸から若水を汲む。それまでは誰も井戸から水を汲んではいけない。水を汲むときは <恵(え)方(ほう)> を向いて汲む。藁3束を恵方に向けて、その上に「はんぞ(半挿)」を置き、水を入れて顔を洗う。半ぞは前日に藁たわしで丁寧に洗ってある。柄杓などはまっさらなものを使った。その後、門松に若水をかける。元旦の茶や雑煮は若水を用いた。
<恵方>というのは陰陽五行説の十干十二支に基づく思想で、その年干支によって吉の方、あるいは明の方(あきのかた)ときめられた方角を恵方と称し、その方角から幸運がくるものと信ぜられた。本年は癸酉(みずのととり)の年であるから、恵方は北北東である。
つまり恵方は年によって違うわけで、10年に2度同じ恵方が回って来る。その年の恵方から歳徳神が訪れて来るため、地方によっては、その方角に恵方棚をつくり、供物を捧げてその年の吉祥を祈るところもある。
またその年の恵方に当る神社仏閣に正月参拝することを<恵方詣で>といって盛んに行われたが、次第に初詣と混同するようになった。恵方神(歳徳神)が正月の神と混同されて祭られるところもある。
【初詣】
一家の家長がまだ暗いうちに、鏡餅を持って氏神に供え、初詣でをする。
【お雑煮】
新年の祝い膳を一家揃って頂く。<おせち>というのは、白山村では元旦だけで、煮豆、たつくり、かずのこの3種を三段重に入れてある。
雑煮を食べた後、家長が恵方を向いて「豆そくさいで田をつくって、みかん、かや、かちぐり……」と唱えて、床の間の鏡餅をのせた三方から、豆、たつくり、みかん……と取って家族に回す。家長の次はおじいさん、次に長男、次男、三男、おばあさん、嫁、女の子と続く。
お雑煮の後、家族の者が氏神様へ初詣。寺に年頭の挨拶に行く。
二日
【田起こし】
仕事初め。苗田に行き、松の枝に幣、わら、樫の枝をつけ、恵方を向いて三鍬起こすまねをする。すすきの穂を松の枝にさす所もある。
三日
門松をとり、杭のあった穴に松の先だけ差し込む。
五日
五日恵比寿といって熱田神宮へ参りにいく。
六日
<お年越し>といって大晦日と同じご馳走を食べる。翌日の<七日正月>を迎えるためである。
七日正月
七日は早く起きてはいけない。早く起きると厄神が入って来るといわれる。もし早く起きても厄神に気づかれないように、こっそり裏口から出入りした。
遅くに起き出して、七草がゆを食べる。
「七草なづな菜っ切り包丁まな板、唐土の鳥が渡らぬ先にホイホイ」と唱えて七草を切り、床の間に供えた鏡餅の下に敷いた敷き米に入れて粥を炊いた。その中に鏡餅も割って入れた。
七日という日は、新月から満月に至る真ん中の日で、満月の行事はこの日から始まる重要な日である。(盆の七夕と同じ)
十四日
15日の小正月を前に、<お年越し>である。大晦日と同じくお灯明をたてる。
【どんど(左義長)】
これは小正月の火祭り。どんどをする場所は、古くは村の三叉路であった。門松、しめ飾り、古い御札などを持ち寄って燃やす。この火に体を当てると若返るとか、この火で餅を焼いて食べると病気をしないとか、書初めをかざして高く上がると字が上手になるとかいわれた。残り火で鏡餅を焼いて食べた。もし14日までに村に葬式を出す家がある時には、葬式の前にどんどをしたものである。
【やぶはじめ】
この日に初めて竹を切った。
十五日
15日は小正月。小豆粥を食べる。小豆を入れた粥の中にお鏡を入れて炊く。かゆを炊くときは、生竹(なまたけ)を藁や豆がらとともに燃やす。パーンと生竹のはじける音がすると縁起がよい、それも大きな音であればあるほどよいといわれ、これはその家の嫁の腕のみせどころであった。嫁はなんとかパーンと威勢のよい音を、寝ている人の耳に届けたいと必死になったものである。
この粥は、すすきの箸で食べる。このすすきは、2日の田起こしの時に使ったすすきの茎を箸に作った物である。
【果樹(なりき)いじめ】
この粥を、庭の柿の木のところへもって行き、木の皮を剥いて、粥をなすりつける。粥をなすりつけた人が「成るか!成らぬか!」というと、もう一人が「成る!」といって、もう一度、粥をぺたんとつけた。果樹の豊作を祈る行事である。
この日に内津妙見にお参りした。
15日の小正月をもって正月の行事は終わる。正月様はお帰りになった。
村々ではこのころ初寄りといって寄り合いをし、その年の伊勢、津島、洲原(美濃)、秋葉への代参者や、お祭りの宿元を決めたりした。
春日井の人物誌
農学博士 石黒嘉門先生
伊藤利文 春日井郷土史研究会員
センダンは双葉よりかんばしいといわれていますが、石黒先生宅を訪問して、今は未亡人である寿え子夫人から石黒家の家系と博士の御人柄についてお話を聞き、今さらながら「センダンの木の格言」を思い知らされました。
系図によると石黒家の初代仁右衛門さんは子どもを集めて寺子屋を開き、読書習字を教授された由。7代目定太郎さんは明治30年に春日井村長、そして大正4年には勝川町長に就任されており、さらに8代目の鑑一さんは木津用水役員、そして大正9年には勝川町会議員となられ、明治43年3月には愛知県の家庭果樹園の指定を受けられて、宅地内の2反歩に梨、桃、柿、枇杷、梅等の果樹を栽培され、大正天皇即位に当り県を通じて富有柿250個を献上された等々、先祖代々尾張地方の自治行政に、産業の開発に、先駆者としての家系でありました。
嘉門先生は8代目鑑一さんの長男として明治43年10月18日に生まれ石黒家の9代目に当られます。
地元の小学校を卒業後名古屋市の東海中学に首席で入学され、旧制の岐阜高等農林学校農業科を昭和7年に卒業され、岐阜県立農事試験場に奉職、昭和13年から愛知県立農事試験場に技師として勤務されましたが、昭和18年2月に召集令状が参りました。先生は試験場に勤務中に稲の葉先で片目を失明して義眼となられていたので即日除隊になると思っておられましたが、召集合格となり、軍隊生活ではそのために人の何倍もの苦労をされ忍耐の連続であられた由。義眼は軍隊の先輩にはわからないので一層悔しく辛い。時には何糞と思い、何事もやってやれない事はないと根性むき出しになられたが、この体験が自分のその後の指針に大いに役立ったと聞かされました。
昭和21年6月復員。県立園芸試験場清洲分場へ昭和22年4月から勤務されることになりました。
昭和24年には専門技術員資格試験に合格され、昭和42年退職するまでは蔬菜(そさい)を専門に県の農業改良普及員を始め、農協職員や県下各種の農業団体に対し講演に、現地指導にと東奔西走指導に専念されました。
昭和41年12月に「越津ネギの生産安定と栽培の省力化に関する研究」で農学博士の学位を得られました。一般的に博士になる方は学校から引続き博士コースを経てなられる方が多いように思いますが、石黒博士のは永年の実験と積み重ねた貴重な体験を生かしたものでした。年齢的にも50歳を越えておられるにもかかわらず、2カ国の外国語での論文をまとめることは並大抵で出来ることではありません。これは前述した軍隊生活の根性が彼をそうさせただろうと思う時、先生は春日井市の偉大なる人物として誇り得るし、後世に名を残すべき人だと思います。
更に公務員を退職後は岐阜大学農学部非常勤講師(蔬菜科)として、又愛知県園芸経済連主幹となられ、中日園芸文化協会理事等々の要職にもつかれました。主要著書としては、共著の「蔬菜栽培綜典」(朝倉書店)、「愛知県を中心とした蔬菜栽培と諸問題」(東京養賢堂)、農業及園芸に2ヶ年間連載された「愛知県園芸発達史」(やさい編)、野菜考「ベジタブルマイクレード」(県経済連発行)等がある。そのため県下はもちろん日本全国へ蔬菜の石黒先生として講演に出向かれ、ラジオやテレビの番組にも何度も出演されております。
晩年は地元春日井市の農業委員(学識経験者)として連続2期活躍されました。市が毎年実施する農業祭にはキャベツの仲間とか、大根、白菜等の各品種別に実物を会場に展示して、市民への資料として提供されていました。
更に広大な屋敷には、やさい畑としていろいろな品種の試作をされ、将来は箱栽培(家庭菜園)がされるであろうと考えて、発泡スチロールの型による品種の適正育成方法等を試み、健康食品として「モロヘイヤ」の栽培等をつづけておられました。奥様の話では一つ一つの成果が現れた時の目の耀きがすばらしく、いつも「これが俺の道楽でゴルフの代わりだ。」と言って耕作を楽しんでおられたそうです。
輝かしい業績はもちろんでありますが、先生の研究者としての真摯な姿勢と円満かつ実直な人情味のある人柄は、農業関係者の中で現在も石黒先生のファンが大勢いることでも、明らかです。
一つのエピソードを紹介すると、先生は大の中日ファンでした。実習生達が今日は中日が勝ったからご機嫌がよいぞ、負けた時は要注意と語り合うほど有名でした。
先生は悪性の病魔におかされても研究のことは片時も忘れられず、息を引きとられる前日に雨が降ったそうですが、うわ言で「片付けよ。」「これをせよ。」と、叫び続けておられたそうです。ほんとうに蔬菜一筋に一生をささげた博士でありました。
郷土散策
白山信仰11
村中治彦 春日井郷土史研究会員
外之原白山社狛犬の事
かつて、外之原白山神社には、寛延2年(1749)8月奉献の一対の狛犬があった。
しかし、盗難にあって行方不明になり、その後様々な人の手を経て、現在では県陶磁資料館西館(陶磁のこま犬と宗教用具展示館)に保管されている。この件については、本誌第38号に既報した通りである。
この度、この狛犬の取材について、県陶磁資料館にお願いしたところ許可をいただいた。
12月12日(土曜日)の閉館後、学芸員の神埼さんの立ち会いのもとに写真撮影をした。
狛犬は、阿形・吽形共に胴の部分を巻き上げ手法で円筒状に作り、その上に頭部を置いている。足まわりは、前面のみに台座があり後半部は空洞になっている。台座に前足と後足を乗せ、尾の前半部は背に付着している。
いわゆる錆釉と呼ばれる鉄釉を主体にし、頭部に灰白色の御深井(おふけ)釉(註1)を使っている。頭には角が3本あり、たて髪、衿毛、胸毛等も誇張が多く鼻孔までも大きく開いている。
背面に釘彫で、「外之原村 冨田曲右門 寄進 寛政二天已己(まま)(註2)八月日 尾刕春日郡」の銘がある。
これは阿形の背面の銘であるが、吽形にもほぼ同様の銘が見られる。
尚、阿と吽は、梵語の字母(註3)の初韻(阿)と終韻(吽)であり、万物の最初と最後を意味しているという。
陶製狛犬と白山信仰
陶磁研究家の本多静雄氏は、雑誌「民藝」331号(昭和55年7月号)の「陶磁のこま犬とその周辺」という稿の中で、次のように述べておられる。
『……前略……現存する陶磁のこま犬の大部分が、尾張、美濃、飛騨、三河の国々の村々の神社にある。
そしてかつて私の持っていたこま犬の在る神社を尋ね歩いた時まず気づいたことは、それ等が多くは白山神社にあったことである。勿論それ以外の八幡社や熊野社にもあるが、何しろこの地方には白山神社そのものが多いのである。神社庁の調査によると、白山神社は、美濃、飛騨、2国の岐阜県に525社、尾張、三河の2国の愛知県に220社ある。これはこの地方に古くから広く白山信仰が流布した名残りである。
白山信仰は加賀の白山が総本社で主神は白山菊理姫である。菊理は高句麗でその名の示すようにこれは、朝鮮半島系の人々の神で、人々が半島から度々この地方に移住したときに、色々の技術を輸入したと言われている。
その一端として新羅系の須恵器の技術があり、濃尾の地には奈良朝から平安朝へかけて須恵器古窯の大群がある。これは私が昭和29年、猿投西南麓古窯址群の存在を指摘したのであるが、続いてその須恵器の工人は、白山信仰を持って来たのではないかと推論をしたことがある。……後略……』
筆者は本誌第38号・第39号において、須恵器工人集団と白山信仰との関連を推論したのであるが、はからずも、本多先生の推論(引用文中傍点部分)と一致していたことを知り、心強く思うものである。
註1 御深井釉
尾張藩祖徳川義直は諸般に通じた人であったが、陶芸に対しても造詣が深く、瀬戸陶工の散逸を惜しんで、名古屋城内御深井丸に窯を築かせ、瀬戸から陶工を招いて陶器を作らせた。これを御深井焼と呼び、ここで使用された釉薬の手法の一つを御深井釉という。
註2 正しくは己巳
註3 音を表記する母体となる字
発行元
平成5年3月15日発行
発行所 春日井市教育委員会文化振興課