郷土誌かすがい 第48号
平成8年3月15日発行第48号ホームページ版
鵜飼史郎家三階蔵(内津町)
内々神社に近い鵜飼家は、江戸時代末からこの地に居住し、末期には正生丸、金勢丸などの薬を中心に、みそ・たまりなども製造していた。そのころは人家も多く、にぎやかな町並をつくっていたが、中央線の開通などでさびれ、また近年は自動車の増加によって、安心して人が歩けないほどであった。しかし国道の付け替え工事も終わり、落ち着きを取り戻し、神社や自然を愛して訪れる人も多くなってきた。
町家造りの鵜飼家は、道路から多少奥に移築され見違えるようになった。屋敷の奥には、今も数棟の土蔵が残り、主屋に近いのが、珍しい3階蔵である。桁行6間(10.9メートル)、梁間2間半(4.5メートル)で、平入り形式で西向きに建つ。内部は2つに区画され、当家では南側は宝蔵、北側は中蔵と呼んでいる。
さて土蔵を造るには、柱を約1メートル間隔に立て、外側に竹などで下地を造り、壁土を10数回も塗って厚くし、その上をしっくいなどで仕上げる、火の入り易い窓や入り口は特に注意して造られた。当家では妻側は梁を二重に架け、棟の下には地棟といって長くて太い材を、妻から妻まで架け渡し、蔵の中央には中柱を建て地棟を支える。3階なので、各階の階高は割合低くなっている。2・3階には棚や長持ちが置かれ、そこには漢方の生薬や諸道具などを収蔵していた。入り口の戸前には、観音開きの土戸が外側に付き、内側には土戸ならびに格子戸が付く。窓にも外側に片開きの土戸が付き、枠を白く、内側を黒くした、しっくいの対比が美しい。建設年代は明治初期と推定される。
富山博市文化財保護審議会委員
郷土探訪
六軒屋特産の「いもコーヒー」 校長室から、子どもたちへ
落合善造 春日井市立松原小学校長
第2次世界大戦を挟んで、その前や後の時代は食べ物が少なく、1日3回の食事が充分とれない人がたくさんいました。食事といっても今の食事とは違い粗末なものでした。雑炊、すいとん、おかゆですます家庭や、食べ物がなく食事の回数を1回ぬき、1日2回とする家もありました。
給食がなかった当時、小学生や中学生たちは、弁当を持って学校へ通いました。弁当につめるご飯がなく薩摩芋をつめてくる者もいました。中には昼食の時間になると、こっそりと教室を抜け出す友達もいました。
こんなに食糧の乏しい時代ですから、薩摩芋は大切な食べ物でした。米の代わりに薩摩芋が配給されることもありました。幸いにも、松原小学校のまわりは、赤土の痩せた土地でしたが、薩摩芋づくりには適したところでした。どの家も、畑には薩摩芋をつくりました。松林を切り開いて畑にし薩摩芋をつくる家もありました。
六軒屋でとれる薩摩芋はおいしいと、遠くから買いにくる人もいました。戦争中、鷹来工廠で働く女工さんたちも買いにやってきました。
第2次世界大戦が終わり、アメリカの兵隊さんが沢山日本に入ってきました。ガムを噛んでいる兵隊さん、チョコレートをおいしそうに食べている兵隊さん、お腹をすかした子供達にとっては実に羨ましい姿でした。「アイ アム ハングリー」と片言の英語で、ジープにのるアメリカの兵隊さんに近寄りねだる子もいました。
アメリカの兵隊さん達が日頃飲んだり食べたりするものには関心がありました。日本人が普段飲むお茶と違い、紅茶、コーヒーなどは好奇の目で眺めたものです。紅茶、コーヒーなどは当時の日本人には高価で簡単に手に入るようなものではありませんでした。タバコの好きな人はそれも充分買うこともできず、代わりに松葉やイタドリの葉をやわらかくし、紙で巻いて吸った人もいたくらいです。コーヒーなどはとても望むことはできませんでした。
このような時代に、六軒屋に住む青山惣一さん(故)は、息子の青山勇さん(故)や、名古屋に勤めておられた娘婿の方(故)から「お父さん、薩摩芋からコーヒーを作ったらどうでしょう」と勧められました。惣一さんは今迄そんなことを考えたこともありませんでしたので大変戸惑いました。戦争で工場が潰れ、働く場所もお金を儲けることもできない時代でしたから、この話に応ずることにしました。
「六軒屋には薩摩芋がたくさんとれる」
「よーし、なんとか工夫をして薩摩芋からコーヒーを作ろう」と決心しました。
アメリカの兵隊さんたちが毎日飲んでいるようなコーヒーを薩摩芋から作ろうとしたのです。
薩摩芋が米の代わりとして配給される時代ですから、薩摩芋を主食以外の嗜好品に作り替えることなど、国から許可がおりるはずがありません。ですから、薩摩芋の先、シッポになった部分とか食用にできないような細長い芋を原料にするという条件でコーヒーを作ることが許されました。
決心した惣一さんは毎日毎日いろいろな方法を試みました。しかし、なかなかうまくいきませんでした。そんなある日、
「よーし、これでやってみよう」と、次のようなことを考えつきました。
『なまの薩摩芋を薄く切り、それを天日に干し、いもきりを作る。よく乾燥したいももきりを臼でつき大豆くらいの大きさにする。次に、ドラム缶を横にし、その中心部に芯棒を通したような容器に詰め込み火で焙りながら回転させる。しばらくして取り出す。その後、すりつぶして、ふるいにかける。細かい目を通して、粉を作る』こうして「いもコーヒー」を作ろう……。
今度は、実際にこのような順序で挑戦してみました。結果は上々、大成功でした。色はほんもののコーヒーのようで香も最高でした。惣一さんは出来上がったコーヒーを手にとり何度も何度も眺めたり匂いを嗅いだりしました。そこには満足しきった顔がありました。惣一さんは飛び上がって喜びました。脇で眺めていた奥さんと「できた」、「できた」と、手を取り合い喜びを分かち会いました。
「いもコーヒー」を作るヒントを与えてくれた息子や娘婿の方にも「飲んでみないかね、こんなにおいしいコーヒーができたよ」「ありがとう」「ありがとう」と何度も何度も感謝の気持ちを込めお礼を言いました。
こうして、苦労を重ねた上に出来上がったのが、「いもコーヒー」です。
さて、売る段になって、果たして、皆が買ってくれるだろうかと、心配が増してきました。売れなかったらどうしよう……と。眠れない日が続きました。
「いもコーヒー」は名古屋市の問屋へおろしました。
ところがどうでしょう。コーヒー豆から作ったコーヒーではありませんでしたが、大ヒットし、売れに売れました。そのため、惣一さんをはじめお手伝いをしていた人たちは目がまわるほど忙しくなり、夜も十分寝ることができませんでした。問屋からの注文は絶えることがありませんでした。
すっかり「いもコーヒー」で有名になった六軒屋は、県外にも知られるようになりました。
作り始めた頃は、コーヒーが不足していましたので、アメリカの兵隊さんたちも喜んで買ってくれました。
しばらくすると、アメリカからたくさん本物のコーヒーが輸入されるようになりました。すると「いもコーヒー」はさっぱり売れなくなってしまいました。
苦労をし、喜んだのも束の間、わずか5~6年あまりで生産を中止しなくてはならないことになりました。惣一さんは、すっかり肩を落とし残念がりました。工場で働く人にコーヒー以外で何か作ることができないか相談をしました。たくましく、意欲のある人たちばかりでした。熱のこもった話し合いは毎日のように続きました。結論として、「たくあん」をつくることになりました。これも大ヒットし方々へ出荷されました。さらに、かつて春日井市では例をみない「かんづめ」生産に取り組み、国内はもちろん、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ等へも輸出し「六軒屋」の名前は世界中に知れわたりました。
(注)この話は、長縄功様(元市議会議長)からお聞きしたことをまとめたものです。
春日井の人物誌
高蔵寺用水と佐枝種武
須藤邦弘 春日井郷土史研究会員
高蔵寺駅の東に「中央窯業」という会社があります。
その会社の正門そばに3つの碑が建っています。それぞれの碑には、次のような文字が記されています。
佐枝将監種武碑(昭和9年)
用水路改修記念碑(昭和34年)
高蔵寺用水記念碑(平成元年)
この3つの碑は、それぞれ名称や年代は違うものの、すべて「高蔵寺用水」に関する碑です。「高蔵寺用水」は「佐枝用水」とも呼ばれていました。また、昭和7年に発行された『高蔵寺町誌』には「玉野用水高蔵寺分水」と書かれています。どちらも、この用水の特色をよくあらわした名称です。
「高蔵寺用水」は高蔵寺町の東隣、玉野町から水を引き、高座山のすそを通り、高蔵寺駅前にある二反田池まで続いている用水です。
江戸時代の終わりにつくられた、わずか2km程の用水ですが、他の用水と同じように、当時の人々の強い願いと努力により完成したものなのです。
江戸時代の高蔵寺村
この頃の高蔵寺は人口300人あまり、田畑は約31町(田22町、畑9町)、山林は約160町という山林の多い村でした。
水田は村の西部の方に広がっていて、洞口池や二反田池の水を利用していました。しかし、雨だけがたよりの池であり、水の量はとても足りるものではなかったようです。
寛文年間(1660年代)から文化年間(1810年代)の間、新田開発がなかったのも、水不足のためだと考えられます。
江戸時代の農地は、藩が直轄しその財政を支える基盤となった蔵入地と、大名領主が家臣に与えた土地である給知(地)とに分かれていました。高蔵寺村の場合は、その全てが尾張藩の家臣である佐枝氏の給知でした。
高蔵寺用水をつくる
1800年代の初め、隣の玉野村に玉野用水が完成しました。庄内川の水を上流でせき止め、その水を利用した用水でした。玉野用水のおかげで玉野村は水不足から解消され、たくさんの新田が開発されるようになりました。
玉野用水の成功を見た人々は「高蔵寺村にも用水を引こう」と、考えました。しかし庄内川の水を利用するのは、難しいことでした。
そんな時、卯蔵という百姓が「隣の玉野村まで用水を掘り、玉野用水の水を分けてもらえばいい」と考えました。村では庄屋の源三郎を中心に相談を重ね、その結果、卯蔵の案は取り入れられることになりました。
安政3年(1856)5月「乍恐奉願上候御事」とした願書が、高蔵寺村庄屋源三郎と興右衛門の名前で出されます。
高蔵寺用水は願書が出されてから2年後、安政5年(1858)4月に完成しています。その間の様子は『高蔵寺町誌』に詳しく記されていますが、佐枝種武については「偶々村中用水路開さくの挙あり、十郎左衛門(種武)率先村人を勧誘指導し、万難を排しその功を奏することを得たり」と書かれています。また種武は、この工事のために、60両を高蔵寺村に貸しています。
佐枝将監種武について
時代は豊臣秀吉のころまでさかのぼります。
北条氏3代氏康の代官として、岩槻城(現在の埼玉県岩槻市)に佐枝秀成という人がいました。
天正18年(1590)豊臣秀吉は北条氏を討つために、徳川家康を先頭に30万の大軍を小田原におくりました。
その際、岩槻城は家康軍の攻撃を受け落城。佐枝秀成は大いに善戦したのですが、討ち死にしています。しかし、その子佐枝秀元は、岩槻城での働きを家康に認められ、尾張藩祖・徳川義直の家臣となります。これ以後佐枝氏は尾張藩において要職につくようになるのです。
佐枝将監種武は、その秀元から10代後の人です。生まれたのは寛政11年(1799)。
文政8年(1825)より江戸定詰となり、以後27年の長い間江戸で活躍することになります。
最初は「用人」という職でしたが、その後「側用人」、「城代格」、「年寄加判」となっています。江戸の尾張藩邸で、藩主のそば近く仕え雑務や会計にあたり、また幕府の意向を藩に伝えるような仕事をしていたようです。
石高も順調に増えています。佐枝家は、代々1,000石でしたが、弘化4年(1847)には2,000石となっています。
尾張藩では当時2,000石以上の家臣は、20人程しかいなかったのですから、佐枝将監種武の力の程がわかります。
しかし順調だった彼の人生も、藩主の家督相続問題や、14代藩主徳川慶勝の藩政改革により、大きく変わってしまうのです。
徳川慶勝は藩の改革を進めた人でしたが、その一つが江戸定詰佐枝将監種武らの免職でした。理由は「長い間江戸定詰で、幕閣と結託して藩の自主性を傷つけた」というものでした。
嘉永5年(1852)佐枝将監種武は帰国し、さらに3年後には石高1,000石も没収されています。
佐枝将監種武が高蔵寺に屋敷をつくったのは安政6年(1859)のことです。文久3年(1863)には亡くなっていますので、高蔵寺に住んでいたのは4年間ということになります。屋敷は現在の「中央窯業」の近くにあったそうです。
その後の佐枝氏
種武は亡くなる1年前、家督を子どもの佐枝新十郎種義に譲っています。
種義は高蔵寺に住み、江戸から明治の転換期に生きた人でした。尾張藩にあっては21歳の若さで「側用人」となり、また「年寄衆」の中にも加えられています。
また高蔵寺村では、父と同じように村人から尊敬される人でした。人々の聞き伝えでは、不作の時には百姓の身になって年貢を割引きし、お昼には屋敷で太鼓が鳴り粥などの施しをした、というようなこともあったそうです。
しかし明治4年の廃藩置県で、名古屋県(次の年には愛知県)となった時、彼は免職となってしまいます。そして、その後は時代の流れにうまく乗ることができなかったようで、すさんだ生活を送るようになります。
明治10年頃には、かつて佐枝将監種武が住んだ屋敷もなくなり、その後種義がどのような生活を送ったのか、よく分かっていません。
佐枝まつり
「佐枝まつり」は、高蔵寺水利組合の人々の手により、毎年行われています。4月の日曜日、高蔵寺用水の溝さらえをした後、50人くらいの人が集まり、供養がなされます。始まったのは定かではないのですが、おそらくは百年以上の歴史をもつと考えられます。
このまつりには、佐枝種武の子孫である佐枝市郎氏(多治見市在住)も出席されています。
佐枝市郎氏は次のような話をされました。
「『佐枝まつり』を知ったのは全く偶然なんです。今から40年程前、私の父が列車に乗り高蔵寺を通りかかると、祭りのようなものをやっていたそうです。何となく気になって、高蔵寺駅で降り見に行くと、なんと『佐枝まつり』をやっていたのです。それからです。『佐枝まつり』に出席するようになったのは」
偶然とはいえ、不思議で興味深い話です。
〈参考文献〉
高蔵寺町編『高蔵寺町誌』
春日井市編『春日井市史』
『佐枝家記』(名古屋市鶴舞中央図書館蔵)
名古屋市役所編『名古屋市史・人物編』
名古屋市役所編『名古屋市史・政治編』
児島広次『物語藩史・尾張藩』(人物往来社)
ムラの生活
春日井の食生活
井口泰子 本誌編集委員
昨今は、居ながらにして世界中の食べ物が食べられる感があるが、江戸末期から第2次大戦頃までの春日井のムラの食生活はどんなものであったろうか。白山村の大正昭和前期の話、八田新田の江戸末期の記録を手がかりに考えてみたい。
食品の入手
現金収入のない農村では、食べ物はむろん、生活のほとんどが自給自足であった。購入するものは自給できないものだけである。
その買物も、ふだんの買物はほとんどが近隣の村々からの行商で賄われた。行商人からの買物は、専ら物々交換であった。行商人は品物を天秤棒で担って来た。
遠く鍋田や一色の行商人は、海産物や乾物を持ってくる。イワシ、サンマ、サケの干物や汐もの、煮干、やきふなど。それらを野菜や卵と交換する。差額は現金で支払われた。行商人達は、村に来ると子ども達に「お茶玉」といって飴玉をくれる。子どもたちは行商が来るのを心待ちにしていた。
近くの下原からの行商人は「スルウサ」と呼ばれた。
「よい天気でござりまスルウ」
「……はいかがでござりまスルウ」といってくるので「スルウさん」が訛ったのであろう。東野からは「東野のタマゴ屋」がくる、といったぐあいである。行商人で賄えない物は、古くは下街道の宿場であった内津、養蚕が盛んな頃は坂下の商店で購入した。内津や坂下の商店へは白山村近辺の東部の村々が、八田新田など西部の村々は名古屋の商店で賄った。
しかし、食品を現金で買うのは、婚礼、葬儀、法事といった大きな行事の時で、ふだんは商品でも物々交換である。そうめん、うどんは坂下のうどん屋に麦をもって行き、酒は米を造り酒屋にもっていっておく。ほとんどの日用の食品は「八百屋」にあった。
ふだん(ケ)の日の食べ物
当時の日常の食品の種類をあげてみると、
穀物では、米麦粟餅粉菓子うどんなど
野菜では、ねぎ正月菜かぶら大根蕗とうがんかぼちゃ人参ごぼうなど
芋類では、さといもさつまいもじゃがいもじねんじょなど
蛋白源としては、うなぎどじょうつぼ(タニシ)しじみさんまいわしさばますたまごかしわ(鶏肉)つぐみへぼ(蜂の子)いなごなど
茸の類では、はつたけかわたけ(こうたけ)ろうじまつたけしめじなど
瓜の類では、こうせきかりもりきゅうりおちうりあおうり(まくわうり)など
果物の類では、柿盆柿じんぼ柿はっきり柿みやしろ柿あぶらつぼ柿やしま柿干し柿くわいちご(桑の実)のいちごいちごいちじくびわやまももくりざくろくねんぼ(ミカンに似た果実)あけびやまいものむかごせんぽこ(くちなしの花)など
豆類等では、大豆小豆豆腐(自家製)そら豆えんどう豆ぎんなんなど
調味料としては、味噌たまり酢など(砂糖はほとんど使わない。たまに使うときは黒砂糖であった)
菓子としては、あられ、せんべいへぎ(かきもち)ひな祭りのしんこ細工粉菓子(麦の粉をお茶でかいたもの)がんとじ(あんの入った小麦粉の饅頭をサルトリイバラの葉に包んだ物)いも切り干しなど
総じて、日常の食物は非常に粗食であった。農家の生産物である米、野菜も、上等の物は年貢、商品として出荷するため、ふだんに生産者が食べるのは、古々米、麦飯であった。さんまなどはご馳走で、尾を目に刺して輪にして、クドの〈おき〉の上に火箸をおいて、その上にのせて焼いた。貧しいときは全員にさんまが与えられず、女は匂いだけとか、卵も貴重品で、卵を食べられるのは男だけ、女はせいぜいが卵雑炊ということもあった。
食事風景
食事をする場所は、その家の勝手。家長から順に家人はそれぞれの座が決まっている。
箱膳…食事をする膳は今のようなテーブルや座卓といった大きな食卓ではなく、箱膳という個人専用の膳を持っていた。箱膳の中には茶碗2つ、皿2枚、湯呑茶碗、箸が入っている。食事の時は、箱の蓋を裏返して膳として使用し、食器をしまう容器と膳の両方の機能を備えたものである。箱膳の中の食器は食事ごとに洗うのではなく、月に2回、「つごも」と「中つごも」(月末と14日)に洗った。
炊事
クド…食事を作る場は、勝手の土間。勝手には普通、クドが3つある。5つある家もある。
クドは土クドで、おわんを伏せたような形で、1つのクドに1つの釜がかかる。3つの釜のうち1つは飯を炊く釜。もう1つは菜を煮る釜。その真ん中の〈捨てクド〉は火は燃やさず両側のクドの熱が回るようになって、湯を沸かす茶釜をかける。
流し…流しは勝手から裏口を出た戸外にある。水道がないので川や山からの水を引き込んだり、井戸から汲み上げた。
井戸…井戸水は飲み水である。野菜や食器など洗い物は川や山から引いた水で洗う。井戸のない家は〈もらい水〉をした。ことに大泉寺辺りは地下水脈が深いため、井戸は5、6軒に1つしかないからもらい水が多かった。また地主が小作のために、数軒に1つ井戸を掘り、〈井戸年貢〉といって井戸の使用料をとる所もあった。
川井戸…坂下や神明では内津川の川水を家の中に引き込んで、食器や野菜を洗った。
ハレの日の食事
ふだんは粗食であったが、婚礼、葬式、法事、正月、秋上げ、祭りなどハレの日の食事は精一杯のご馳走をした。自分達が食べるだけでなく、親戚、近所に配る分まで作ったものである。
八田新田の嘉永、元治年間の婚礼、法事の献立、買物の記録が古文書として残っている。
その一例として嘉永5年(1852)、正月に挙げられた婚礼の献立は次のようである。
抹茶
盃
どんぶり菜からし和えいもたつくり
吸物豆腐むきみねぎ
硯蓋(広蓋の器で口取り肴を盛る)せんごぼうれんこんながいもくねんぼ大板(ねりものの類)
膳の部
皿大根なますさば豆腐
坪(壺―小さく深い器)
大しいたけ
平(平たい器)
かしらいも(赤だついも)ごぼう大貝
中酒
どんぶりれんこんあげもの
二の汁くじらささごぼうしょうが
硯蓋あらめまきれんこんながいも角ふみりん
御肴さば
壺人参するめあおこんぶ
吸物豆腐蕗のとう
硯蓋大板ながいもれんこんしいたけ赤づけ(紅しょうが)
酢の物むき身味噌
鉢肴なよし
これら古文書から、れんこん、人参、ごぼう、こんにゃく、椎茸といった今ではごく普通の食品がハレの日のご馳走であったことがうかがわれる。調味料も、たまり、酢、味噌は使われたが、砂糖の記録は見あたらない。砂糖が農村の庶民の料理に登場するのは、昭和になってから。それもごくまれで、使われても黒砂糖であった。
動物性蛋白質は、いわし、さんま、いな(ボラの大きくなった物)、なよし(ボラ)といった魚類と鶏肉であったが、嘉永5年の婚礼の献立のなかに「二の汁」の実として「くじら」とあるのは興味深い。
祭りすし
鯖ずし…春日井では祭りの日に「鯖ずし」を作った。〈さばの1本づくり〉である。塩さばをもどして、すし飯を包み、竹皮に巻いて、それを柿の木や家の柱に頭を下向きに縄で丁寧に縛り付けた。縄をもってぐるぐると柱の周りを回るのは子供の仕事である。2、3日後に食べる。1軒の家で何本も作り親戚に配った。日常に不足しがちな動物性蛋白質を「祭」の行事食として摂ったものであろう。(本誌第47号参照)
他に、あげずし、巻ずし、切りずしを作った。切りずしの具は、角ふ、れんこんなどの他に、東部ではヘボ(蜂の子)も使った。
ボタ餅…ハレの日の食べ物としてはボタ餅がある。10月の中の亥の日に〈刈り上げボタ餅〉を作って収穫を祝う。最後に刈り上げた稲と鎌を床の間に据え、ボタ餅を供える。舛(ます)の中に、小豆と黄な粉の紅白ボタ餅を入れる。「おしろここいボタ餅やるで」といった。〈おしろこ〉というのはかげろうのこと。ボタ餅はワラの芯で切ることになっていた。ボタ餅は婚礼や嫁の里帰りの土産にも作った。
彼岸には、おはぎを作る。ボタ餅はモチ米ばかりであるが、おはぎはモチ、ウルチ半々である。
餅…ハレの日に欠かせないのは「もち」である。「もち」は望月のモチであり、願い事の成就を意味する。ご馳走であると同時に庶民の希望と祈りが込められていた。
行事の食事
以上が春日井の食生活のあらましであるが正月、七草粥、節分、ひなまつり、端午の節句、七夕、盆、年越しなどの年中行事や、産育、通過儀礼などのハレの日の食べ物については本誌第36・40・41・42・43号を参照されたい。
〈助言者〉伊藤浩氏
〈話をして下さった人〉藤江てふ、小林初雄、長谷川正夫の各氏
郷土散策
勝川宿の今昔
長谷川良市
はじめに
勝川は古くから人が住み着き発展してきた町である。東部の段丘には洪水などで消滅した古墳群・北部の台地には寺院に関わる地名も各所に残っている。特に江戸時代になると下街道の宿場町として賑わい、明治になっても小牧・瀬戸と並ぶ行政、経済の中心的役割を果たしてきた。
宿場町のあったところは、現在の勝川町2丁目から4丁目までの国道19号沿いの一帯である。宿場町の時代から昭和初期頃までの変遷を辿ってみることにする。
庄内川から地蔵川かいわい
昔は庄内川に橋はなく、徒歩(かち)渡りの川の名が勝川の地名のいわれという。庄内川は地元では大川と呼び、勝川橋は永久橋となる前は、上流約30メートルに木造橋が架けられていた。昭和初期には橋の北詰に栴檀の大木があり、毎年夏になると、かき氷やアイスクリームの屋台が出た。また地蔵川でも瓢箪の形の如く巾の拡がった川に貸ボートの遊覧も行われていた。どん橋と呼ばれた橋の北詰は、天神社の参道入口であり、常夜灯2基が立っていた。地蔵川は昭和33年改修工事により、約100メートル北方に移され、洪水に悩まされ稲刈に田舟を使用したことも昔日の語り草となった。
下町かいわい
勝川の町並に入る最初の家は旧家であり、黐(もち)の古木があり農業の他にうどんの製造と精米をしていた。勝川のバス停となっていた菓子屋があり、親切な女店主は必ずおまけをくれる評判の店であった。
北隣りは警察の官舎の後に油屋が入居し、道を隔てた坂口屋は明治12年(1879)転居し勝川警察署となり、瀬戸を除く東春日井郡全域を管轄していた。警察の真向かいの北西角に津島みちと善光寺みちを示す馬頭観音の道標があった。津島みちは明治13年6月(1880)明治天皇のご巡幸に際し、雨期の氾濫を心配して急遽御幸橋を改修した道である。
新喜屋の北隣の灸点は茶華道の主人が、大正の初め報徳銀行の出張所長を兼ね、米屋永楽屋は明治の中期名古屋へ引っ越した後、代書屋が大正初め入居して、警察などの役所仕事で賑わった。
大門かいわい
太清寺参道かいわいを大門と呼び、明治6年(1873)龍源学校が開校した。龍源は太清寺の山号である。後に学校は横町の半僧坊に移り、学校山と呼ばれていたが、明治26年(1893)更に現在の勝川小学校に移転した。半僧坊は提灯山の夏まつりを行った場所で、現在の勝川公園のプール周辺である。
太清寺参道入口北側の虎屋は後に郵便局となり、また住吉屋は文政4年(1821)の万覚帳によると年間の泊り客790人の記録がある繁盛ぶりであったという。駒屋は穀屋でその後、勝川税務署となった。「小牧は商人の町、勝川は役所の町」と言われたが、大正初期に小牧へ移転した。
街道西側は駒屋本店・柳屋と続き、後に大黒屋は履物屋、山形屋あとに一時自転車屋があった。
太清寺は小牧・長久手の戦いの折、徳川家康が休憩した寺で、庄屋長谷川甚助との語り伝えは尾張志・尾張徇行記などに記載されている。家康が甚助の機智に富んだ対応に与えたという陣羽織は帷子の単物であり、明治以降の出征兵士にお守りとして切って渡し、わずかに残っている青緑色の布に三葉葵の紋の入った切れ端を、数年前18代目の子孫より見せて貰った。
中町かいわい
山形屋の北は農道入口であり、現在勝川町3丁目の交差点の西の道である。街道東の集落を東浦、西の集落を西浦と呼んでいた。浦は島・嶋と同じ小さな集落を示したもので、裏が浦となったものと思う。苗字の同じ家が多く、昔の屋号で呼んだり、親子の名前を連ねて呼び名とした家もあった。
西浦では昭和初期に苺園が開かれ、農道入口に紅白の布を丸太に巻き、杉の葉で飾ったアーチを立て、期間中は臨時のバス停ができ、名古屋方面からの客で賑わった。
農道入口の北側は登記所からなんでも屋・コンニャク製造店と続き、小松屋は呉服・履物屋の外に愛宕社前に真守座と名付けた芝居小屋を開いていた。昭和初期には沢山の女工を使った製縫業にも着手していた。
十王堂は「オジョウド」と訛って呼び、太清寺にあったが、荒廃し、下街道沿いの通行人の多いこの地に建てられた。百万遍の疫病退散祈願やまた南隣の津島社ではお天王まつりも行われた。ここは通学団の集合場所であり、椋の木に登って「ミンナミンナハヨコントイッテイッテシマウゾ」と遅刻の友達に大声で呼びかけた。街道東側は桶屋・米屋の他は農家であった。
札の辻かいわい
尾張藩大代官所の高札掲示場所で、下街道と小牧道の分岐点に「右ハ江戸ぜんくはうじミち左ハ小まきみち」の道標があったが、昭和49年盗難にあい、その後発見され、現在は市郷土館にある。
かいわいは郡内でも最も早く開けたところという。造り酒屋・豆腐油あげ屋・銭湯・煮売り屋から、人力帳場では2台から3台の待ち車が並び、車夫が藁縄の結びを前掛に隠し出発順を決めていたという。街道東の泉屋小路に入ると北側の愛宕古墳の上に「オアタンサマ」と訛って呼んだ社があり、他の神様が旧暦10月に出雲の国に出立されるのに、留守を守る神様であると教わった。「神の留守」と俳句の季語にある神様である。杉の大木に注連縄が巻かれ、落雷により空洞となった根元には神符が納められていた。愛宕社西は小牧銀行となり、更に小田巻屋・床屋・油屋と続き、大竹屋は軒先にガス灯を掲げ、明治情緒をふりまいていたという。東北角は大地主の青山家で白壁塗りの土蔵には毎年正月前東門が開かれ、年貢米が運び込まれた。土蔵は洪水を避けて更に一段高い処に建っていた。
三叉路から北方200メートルに昭和6年から5年間、名鉄勝川線の勝川口駅があり、味鋺と新勝川間をガソリンカーが走っていた。現在この路線が残っていたら、勝川もまた変容していたと思う。
まとめ
明治13年(1880)春日井郡は東西に分けられ、太清寺に東春日井郡の郡役所が置かれたのが勝川の役所の町の始まりである。その後郡役所は中屋敷(勝川町4丁目)から大正2年(1913)八田山(旭町)に新築移転している。明治33年(1900)中央線の勝川駅が、桑の煙害や治安悪化を怖れて、中心地を2キロメートル近くも離れた勝川地区でない現在地に造られたことにより、町の中心は次第に駅前に移っていき、駅前に道路も完成し、商店街として発展していった。昭和18年春日井市制が敷かれ、勝川は西の玄関口の町として変容していった。
江戸時代は宿場町、明治時代は役所の町であった勝川は、昭和50年の区画整理事業によりすっかり近代的な町並に生まれ変わった。
〈参考文献〉
春日井市史・春日井の歴史物語
志たかいどう今昔点描
白山信仰17
村中治彦 本誌編集委員長
江戸期洲原詣の道 その1
春日井市周辺から洲原神社への参拝ルートについては、本誌第45号、46号で紹介したが、その後調査を進める中で、内津越えのルートも利用されていたことがわかった。
外之原の原科磯松氏(96歳)は若い頃のお洲原詣の思い出について、「三之倉、池田、小泉から姫の方面を通ったように思うが、日帰りの急ぎ旅で、先達の後に付いて行くのが精一杯であったため、道順までは覚えていない」ということであった。
この方面のルートは、徒歩による最短コースであると推測されるところから、実証する記録や人物などを求めて調査を続けていたところ、白鳥町の竹下一政氏より「三の山巡」(註1)という江戸時代の紀行文の翻刻本をご恵贈いただいた。
この紀行文の筆者は不詳であるが、尾張藩水野代官所の役人と推測される。内容は、文政6年(1823)6月6日から7月11日まで、かねて念願であった白山・立山・富士の三山登拝の旅に友人と共に出かけ、その道中の様子を記したものである。
以下に紀行文を紹介しながらルートを辿ってみようと思う。
「…当時の住所、水野の里を六月六日未明に立出、此日ハ天気もよくゆるやかに歩行し、水野地内嶺ケ寺(註2)の山越打越、日出る頃玉のの川を渡り、外之原村、西尾村是を内津、北小ギと行べきを、山越の方近きと聞しまま西尾地内、白川口(註3)より左手ノ山へ登り、丹羽郡羽黒山江懸り、北東さして行くと半道(註4)余りにして、同所字ハッソウといふ所に成瀬候の山守小吏(註5)の居家弐軒有前を少し東江行ハ小流(註6)有、是尾濃の境也といふ、是より東小木村の地内也、…中略…此前より小き坂一ツ越れば小木の口也、此村ハ内津・西尾の間夕より真北に当るなれハ、西尾の山を越る方近かるへきに、此道も余程西へ張出して廻り込メハ、内津奥ノ院の道より行も大躰同じ道のりなるべし、…中略…此所より太田驛へ三里といふ、姫へ懸るハ本道也、夫廻間へ懸れハ暫く近き由なれとも、山道にて知かたしと云事間々姫へかかり半道ほど北へ行ハ峠有、此峠打越せハ打開きたる在所にて姫も此谷間の内也、今村又半道程北江行、根本大原より今渡への往還也、少し西へ行姫村也…中略…暫く行て久々利川を越、又蠏川を越也…中略…舟岡村、徳野村を過て今渡村渡し場少し東人家の間へ出ル、太田川渡し(舟賃共四文ツ々)を越二丁程行ケハ右手に壱軒家有、又三丁程行て又一ツ家有此軒下夕より北へ入高澤道(註7)也、是ハ間道にて少し近シ本道ハ太田宿を西へ行越して行よし、此間道より東蜂屋村を通り加治田へ出しか、松生或ハ田畑にて知にくき道也、…中略…加治田江懸り同所片町吉野屋卯兵衛所に宿る、此所に清水寺とて京の清水の写しのよし、景色よき寺なる由に付詣たり、…中略…水野より加治田まで拾里(註8)よりハ遠く覚ゆ、…略」
加治田に到着した時刻が不明であるため、所要時間はわからないが、6月6日は約39キロメートルを歩行したことになる。途中清水寺へ参詣しているので、歩いた距離はもう少し増えるものと考えられる。
里人に近道に尋ねて最短コースをとりながら、一方で沿道の名勝、名刹、大社に立ち寄るという道中である。
註
- 国立国会図書館蔵、和綴写本、各頁毎に「大野屋惣八」の印があるところから、名古屋城下貸本屋「大惣」の蔵書であったことがわかる。
- 玉野村の太平寺は宝永6年(1709)まで水野村の山中にあったところから、嶺ケ寺と呼ばれ、移転後も地名が残ったという。
- 天保15年西尾村絵図によれば白川御林と五ケ村定納山の間の道を行き、分かれ道を右へとれば濃州大原村道、左へとれば濃州北小木村道となっている。
- 1里の半分。約1.95キロメートル。
- 尾張藩附家老、犬山3万石成瀬家所領の山林を守る役人。
- 五条川の支流にあたる。
- 下之保村の高澤観音(日龍峯寺)へ行く道。
- 約39キロメートル。
発行元
平成8年3月15日発行
発行所春日井市教育委員会文化振興課