郷土誌かすがい 第45号
平成6年9月15日発行 第45号 ホームページ版
本阿弥切(ほんあみぎれ) (県指定文化財)
道風記念館
近世初期の能書家本阿弥光悦(1558~1637)が一部所有していたので、同類はすべて本阿弥切と呼ばれるに至った 。
天地16.7cm、紙幅27cmほどの 唐紙を貼り合わせた巻子本(かんすぼん)で、古今集を書写したものである。料紙はすべて唐紙で、文様は、雲鶴、相生唐草、蓮唐草、桃と竹、花菱、芥子唐草などで、色は白、縹、朽葉などがある。本断簡は白色の唐花唐草である。
現存するの は、巻10、11、12、14、16の5巻が完結に近く、その他に巻4、17、18の断簡がある。本断簡は巻18の一部であり、名高い 『本朝能書伝』に載せられ、また冷泉為恭(れいぜいためちか)の臨写もある。極書は元禄10年(1697)5月古筆了珉(こひつりょうみん)が識している 。
その筆致は、宛転繚繞(えんてんりょうじょう)、遊絲連綿とし、殊に気骨あり、更に老蒼の趣あり、書芸品として特に尊重せらるべきものである。筆者は 、古来、小野道風と伝称せられているが、それほど溯るものではない。国宝西本願寺三十六人集中の 遍照集、頼基集、敏行集などと近似しているからとて、天永3年(1112)前後と推定する 説もあるが、仮名遣い、用字法などより見て、決してそれほど下るものとは考えられない。同じ文様の唐紙が伝紀貫之筆寸松庵色紙(すんりょうあんしきし)にも使用されているので、白河天皇御代(1072~1086)あ たりと推定しては如何であろうか 。
久曽神昇 道風記念館顧問
郷土探訪
春日井をとおる街道11 明和期の下街道(したかいどう)と木曽街道の争い
櫻井芳昭 春日井郷土史研究会員
下街道商荷物通行の停止
尾張藩では、名古屋城下と信州を結ぶ藩の指定路は、木曽街道から中山道を通行するよう江戸時代初期に定めている。そして、この経路の宿駅に、各種の助成を行って、公用貨客は一定量まで無料ないしは御定賃銭(註1)で運ぶことを命じるとともに、一般の貨客を利益の多い相対賃銭(註2)で運ぶ特権を各宿の問屋に認めている。
5街道を始めとする官道は、公用通行優先の道であり、本陣や問屋等の施設が整備されていた。
官道に指定されていない下街道は、官営の宿駅設備はなく、民営の問屋や農村の駄賃稼馬による輸送が中心であった。この道は、信州方向へ行くのに、木曽街道より約16キロメートル近く、荷物は宿ごとに積み換えをすることなく付け通しもできるため、安い送料で速く運べる効率のよい経路であった。したがって、経済性を重視する商人荷物は、木曽街道を避けて下街道へ集まるようになった。
もうけの中心である商人荷物の減少に窮した中山道と木曽街道の問屋は連合して、下街道商荷物通行停止の措置を尾張藩に訴え出て認められている。明和期(1764~1772)までに停止令が出されたのは、寛永元年(1624)、慶安4年(1651)、元禄2年(1689)の3回である。いずれも、出された当初は、監視も厳しく守られるものの、しばらくすると便利な下街道へ荷物が流れてしまうという繰り返しであった。(註3)
3回目の停止令から80年を経た明和6年(1769)7月に4回目の下街道商荷物停止の訴えが、小牧宿等7宿の問屋の連名で尾張藩へ出された。(註4)その要旨は、
「名古屋城から信州方面への商荷物、牛馬継荷とも下街道を通ることは、先年から御停止であるのに、近年諸荷物残らず下街道を通行しているので、大湫宿から小牧宿までの間は年々困窮が増し、もはや亡所同然になっています。どうか先年までの通り下街道停止を仰せ付けてください。」
と訴え、下街道の状況は、「宿々は勿論、間の村々に至るまで、格別の潤いとなっている。」と述べている。
前3回とも、尾張藩は官道振興の観点からこうした訴えに対しては比較的早く下街道停止令を出し、名古屋、熱田の町中、木曽の村々へ文書で通達するとともに、下街道の両端にある勝川宿、大井宿に見張りを配置して取り締まるなどの対応をしてきた。しかし、今回は、なかなか停止令は出されなかった。その経過を見ると、
- 明和6年7月 訴え 同11月 仮調べ
- 明和7年3月 再願 同6月 差戻し
- 明和7年8月 再願 同11月 尋問
- 明和9年11月 再願 返答なし
- 安永2年11月 再願 返答なし
のように5年間にわたって再願を繰り返したが、「今に仰せ付けも御座なく候」ということで推移している。
明和期の訴えに停止令の出されなかった背景
江戸時代の後半になり、商品経済の発達に伴って、各地の特産物を出荷することが活発になってくる。信州からの上り荷は、煙草、椀、麻等、名古屋からの下り荷は、塩、織布、海草等が、馬や牛の背によって運ばれることが増加してきた。こうした中で発達してきたのが、農民の私的輸送としての中馬(註5)である。これは公的輸送を担う伝馬との間でいくつかの係争を経た後、明和元年(1764)に江戸幕府は678村を中馬村に指定し、馬継場所、その定法、馬数、扱う品目等を認める裁定を下した。このとき、下街道も中馬稼ぎの街道として位置付けられた。
中馬との関係で、下街道の停止令の内容を整理すると次のようである。
- 寛永期 中馬の下街道通行は停止。ただし、自分の馬で自分の荷物を運ぶのはよい
- 慶安期 右に同じ。中山道、木曽街道を中馬は通ってもよいが、口銭を支払うこと
- 元禄期 自分馬による通行も停止
商人から依頼された荷物でも、自分の荷物と称して通行する偽装中馬が慶安期にはあったが、元禄の停止令によって、一切の中馬通行が停止され、次第に規制が厳しくなってきたことがわかる。
木曽谷の中馬、下街道の南を平行して走る山坂の多い小路を通ったり、遠回りでもいろいろ工夫して対応しているが、下街道筋が何と言っても便利であるので、これを利用する中馬が次第に増加し、明和期には活況を呈するようになっていたといえよう。しかし、この時期に尾張藩が下街道に商荷物通行停止令を出さなかったのは、中馬の裁許状が出て間もない時期であり、その後も各地で中馬と伝馬の争いが続いている状況から、公許の中馬稼ぎの街道として位置付けられているのを尊重せざるを得なかったものと考える。
幕末にかけての下街道
その後、約25年を経た寛政8年(1796)になって、5回目の下街道停止の訴えが小牧宿始め7宿から出された。
「近年は、商い荷物、参宮人、旅人とも下街道を通行するようになり、大湫宿より小牧宿までは、荷物や歩行人の往来が追々減少したため、困窮する宿が増加してきた。」
と現状を訴え、次の2点を嘆願している。
- 往古の通り、下街道の商荷物通行停止
- 下街道入口の追分にある伊勢大神宮の灯明撤去と歩行者の下街道通行停止
これに対して尾張藩は、4回目の商荷物停止令を出し、中馬の中山道通行には7宿分の口銭合わせて、馬1疋につき、35文を口銭会所に納めるように裁定した。
(2)の常夜灯を兼ねた2つの道標は、寛延2年(1749)に太神宮飛脚中が寄進したもので、「左いせ道」もう一方に「右京海道」と刻まれている。これについて、訴えでは、「近来三度荷物宰料の者が、別れ道に太神宮の灯明を建てたため、歩行人までも下街道へ行ってしまい、本街道は困窮しているので、灯明を引き払うよう命じていただきたい。」
と伊勢参詣の旅人の通行停止を求めて、本街道筋の賑わいを取り戻そうとしているが、これは無理であった。
享和2年(1802)の太田(おおた)南畝の「壬戌紀行」には、「追分の立場は、木曽と伊勢路の追分なるべし。左の方に石の燈籠二つ建てり、ここに仮屋して伊勢太神官に奉納の札をたつ。」としており、道標は撤去されなかったことがわかる。
また、4回目の停止令の出た前年には、尾張藩士の下街道通行禁止(但し、木曽の山村氏、久々利の千村氏は例外)する触れを出している。これによって幕末にかけての下街道は、他国の武士と僧侶や神官の継立が若干残るだけで、社寺参詣の旅人や近郷近在の庶民の通行が中心となった。
高山宿の天保6年(1835)~9年(1838)の継立(註6)をみると、年平均19件、人足51人、馬11疋、安政5年(1858)には57件、116人、20疋と増加しているが、これでも6日に1件程度とわずかである。
おわりに
明和期の下街道商荷物通行停止の訴えが退けられたこと、寛政期の訴えの中味が具体的にわかったことが今回の新しい点である。
明和期の訴えが、中馬が公許された直後であったために、中馬の下街道通行停止は見送られた。しかし、寛政期には、尾張藩の藩営街道である木曽街道の振興策の一環として、競合する下街道の商荷物通行について、従来通りの停止令を出している。
江戸時代は強力な幕藩体制によって、経済効率や地理的条件より政治的決定が優先される時代であった。しかし、繰り返し停止令が出されても、距離や運賃で経済性が高く、庶民が安気に通行できる下街道は、便利な道であるので、停止令の効力は一時的でしかなかった。
下街道が中馬や旅人で賑わったことは、強力な政権であっても、遠回りして高い運賃を払えという経済の原則に逆行する政策の実施は困難であったことが両街道の争いの経過から読み取ることができる。
註
- 御定賃銭―幕府が定めた公用通行者の宿間輸送料金
- 相対賃銭―人馬使用者と駄賃稼ぎの者が、当事者間で決めた輸送料金
- 櫻井芳昭「藩営街道と脇往還との関係について」愛知教育大学地理学報国47(1978)32~39頁
- 御嵩町史史料編(1987)576~581頁
- 中馬―江戸時代信州で発達。農民が自分の馬で物資を運んで稼いでいたものが、次第に商荷物を運ぶ専業者となり、1人で3~4頭の馬をひいて、送り先の荷物問屋まで通して輸送した。
- 土岐市史2(1971)719~723頁
春日井の人物誌
おヒゲさまで親しまれた 鈴木實太郎
伊藤浩 市文化財保護審議会委員
人となり
鈴木實太郎は、安政6年(1859)廻間村(現春日井市廻間町)に生まれ、青年時代より学を好み各地に学ぶ中に、関田村堀尾茂助に私淑してから、政治に志すようになった。明治38年、茂助の推挙で他村から瀬戸町(現瀬戸市)の助役に抜擢された。同42年までの在任中は、教育第一主義をとなえ、職業教育の必要を主張し、後年の県立窯業学校の前身たる瀬戸陶器学校の県立移管に尽力して名を知られた。ついで郷党の切なる要望により、坂下村村長に就任した。年譜に示すように、幾多の要職を重ねたが、村人に接するには極めて謙虚で、彼を知る人たちは、ヒゲの立派なことによるおヒゲさまの通称と共に、ヘイヘイさまと呼んだという。村長時代、羽織袴で自転車に乗り、真白の立派なヒゲを顔の左右になびかせて役場に通勤した姿は、当時の一つの風物詩といってもよいほどである。途中、誰に会っても頭を下げ、話しかけられると、ヘイヘイと気軽に返事をするという頭の低い人であった。後年県会議員や農会長になっても、その態度は少しも変わらないで、誰からも好感をもたれ且つ、尊敬されてもいた。
家庭生活も常に着物で、木綿の三つ紋のついた羽織にセルの前袴姿であった。毎朝早く冷水を頭から浴びたが、その折のヒゲの手入れは入念で、大切にしていたという。羽織袴での外出の時の履物は、皮のスリッパの鼻緒のついたもので、白足袋をはき拝領の銀時計を持つのが常であった。晩年になっても、背筋はしっかりしていて、杖は持ったことはなかった。
しかし、ここに一つのエピソードがある。使われなかったが、長持ちには仕込杖が1本入れてあった。これは村が学校の位置問題などで大騒動をした折、無頼の徒の殴り込みに備えたもので知る人は少ない。
大正の終わり頃、家の跡取り茂男のため、多額の借金(3,000円余)をして、味噌溜の醸造販売業を始めた。屋敷(現在廻間町・堀田氏宅)に当時珍しい2階建瓦葺の母家の外、工場、倉庫、納屋、使用人小屋が、汲み上げ井戸を真中にして並び、大きな煙突からは煙が上がっていたという。しかし、これは長続きせず、昭和7年頃廃業した。商標は亀の甲の中に壽と書いたものであった。
なお、現在廻間町内で鈴木實太郎の名の残るものは、後で述べる廻間治水碑の外に、岩船神社摂社、御鍬社々殿建替棟札に、大正15年12月22吉日 総代鈴木實太郎とあり、お祭神楽小太鼓の胴の中に、明治15年午旧8月1日、寄贈者15人の中にその名が見える。
家系と實太郎の略年譜
安政6年8月5日 鈴木平三郎の長男として出生 春日井郡廻間村57番戸
明治13年 廻間村戸長 坂下村外3か村戸長
明治27年~29年 神坂村村長
明治29年 坂下尋常小学校に高等科併置
明治30年~36年 郡会議員(町村選出の部)
明治32年~36年 郡会議長(初代)
明治38年~42年 瀬戸町助役
明治42年~大正4年 坂下村村長
大正3年~12年 郡農会副会長ついで会長
大正4年~8年 県会議員(政友会)
大正4年 銀盃を賜る(町村吏員として多年精励)
大正10年~大正11年 県会議員(政友会)
大正12年~昭和2年 郡農会顧問
大正13年~昭和2年 坂下村村長(再)、郡町村長会長
昭和3年~4年 坂下町長(町制施行)、功により賜饌
昭和5年~ 郡農会長(再)
昭和7年11月27日 死去 享年74 実相院慈徳慧明居士 墓所は廻間町宝珠寺
坂下尋常小学校に高等科併置
明治20年4月、当時の坂下村戸長鈴木實太郎は、県下で先んじて廻間学校、神屋学校、坂下学校を合併して、坂下尋常小学校を坂下村に設置し、22年の町村合併により神坂尋常小学校と改めた。それ以前の19年9月、文部省は、小学校令をはじめとする諸学校令を公布して、公立学校を原則として、6歳から14歳までの学齢児童に、尋常小学校4年(過疎地域は小学校簡易科3年)の義務教育制を打ち出した。
明治20年5月、東春日井郡立高等小学校を柏井村上条新田慈眼寺に設立、ついで22年瀬戸村と小牧村に1校ずつ設立された。同25年改正小学校令実施に伴い、郡内各町村を3学区に分け、これら3高等小学校をそれぞれ組合立としたとき、上条新田の鳥居松高等小学校組合に入ることをすすめられた神坂村では、当局の再度の勧誘を断り、村長鈴木實太郎は神坂尋常小学校に高等科併置の必要を郡並びに県に度々陳情したが、なかなか許可されなかった。彼は更に強力に、必要性の説明に全精力を注いだ結果、遂に27年11月許可を得、高等科併置の準備に入り、翌年4月坂下尋常高等小学校として発足した。
この学校は、県下における尋常科高等科併置校の第1号で、各方面から注目された。当時の高等科児童は20名余りで、郡当局は除外例として単独高等小学校と同一視していなかったが、翌年、郡内高等科児童の比較試験を実施したところ、優等生3名中2名までが本校の児童であったので、各町村が関心を持ち、その後それぞれ併置を願い出るものが続出したといわれる。
養蚕・製糸業の改良発展
当時の坂下村は全般に山間の畑地が多く、水利の便が悪く、米作りに付近の村々へ出作するものが多かった。彼はこの状態を憂い、将来何かの生業を興さなければ生活の安定を得ることが出来ないと、養蚕業に目を着けた。いち早く長野県下の養蚕家を巡視し、明治20年自宅の一部を改造して養蚕室とした。本町養蚕業の創始者ともいわれているが、下街道筋の農家はまだ人馬の往来が多く、それによる運搬業その他で比較的収入があったので、彼の試みをあざ笑うものもあった。
しかし、彼は熱心にこの業の普及を図ろうとし、長野方面から技術者を招いて、蚕種の改良、飼育、製糸業などに至るまで研究を重ね一般に奨励した。これに応じて一部の農家は飼育を試みるようになり、年を経る毎にその有利性がわかり、養蚕農家が増えていった。たまたま明治26年頃に中央本線敷設の計画があり、この下街道筋に沿って、名古屋から多治見に通す予定が発表された。ちょうど養蚕業の有利性が認識され、棉、いもなどの畑作を桑に変える農家が増えつつあった坂下では、汽車(当時は陸蒸汽といった)のまき散らす煤煙が桑の葉についたら、蚕に悪影響を及ぼすといって、大反対が起こった。彼もその運動の先頭に立たざるを得なかった。そのため、中央本線は現在の名古屋―勝川―高蔵寺―多治見の路線に変更され、33年に一部開通した。
ところが、35年に多治見から中津川まで延長開通すると、下街道往来の旅客はすっかり絶え、運搬の荷も激減して、現金収入の途がなくなったことから、徐々に生糸値の高昇とあいまって、養蚕業に力を入れる農家が続出した。
彼は養蚕農家の技量向上のため、数度にわたる長、短期講習会を自費を投じて催し、また実際の指導に努力した。その効があって、年とともに生産も向上し、全体として年額30万円の収益を得、農家最大の現金収入として盛況を呈した。なお、東春日井郡農会史の記載するところによれば、彼の手記として、「明治十年頃丹羽郡、葉栗郡等木曽川沿岸地方にありては、既に生産事業としての製糸を営むものありたるも、未だ本郡にはなく、したがって本郡内に生産せし繭は多く丹羽郡稲置(現犬山市)地方に販売され、その一部は名古屋方面へ販売された。当時の製糸業は何れも座繰器によるものが多かった。十年春蚕に始めて十貫匁余の繭を収穫したが、一手に購入するものがなく、止むなく自家で乾燥保管をした。ここで製糸業の必要にして且つ、有利なることを悟り、二十五年、自ら製糸業を経営するに至った。」しかも水車による機械運転をしたことなど、この地方の製糸業の始めであった。
その功により蚕業先覚者として、東春日井養蚕組合連合会長並びに大日本蚕糸会愛知支会長より表彰の栄を受けた。後年自ら会長の職を務めることとなった。
農業用水貯水池(築水池)の改修
廻間町の大谷用水は、大谷山系の溜池(築水)を水源とし、内津川に沿って流れ、廻間、坂下、上野、庄名をはじめ、下流の田畑600町歩余に及んだ。しかし、大谷川は時々の出水で堤防が切れ、農地の被害も多かった。その原因は水源の溜池の治水設備の不完全によるものであった。
明治35年、神坂村大字廻間の鈴木實太郎、鈴木新八の両人が発起人となり、大金1,500円を募って県に寄付し、はたらきかけ、知事より許可を取った。そこで県費8,000円余に民費2,000円余を併せ、長さ60メートル、高さ30メートルの堰堤をを完成した。満水時には水面東西およそ250メートル、南北500メートルの広さになって、水害の憂いがとり除かれた。
その後大正9年に樋管の全壊を機に、従来砂防用であったものを、農業用水水源専用とする認可を得て、同12年総工費4,000円余をもって水源設備の完成をみた。それ以来廻間地区内だけでも、畑が水田になったところ10町歩余、原野も開墾された。
廻間治水碑は、昭和35年にその偉業を後世に伝えるべく、建立されたもので、築水池東側、少年自然の家キャンプ場の下に建っている。
産業組合(信用販売購買組合)
明治33年組合法が施行されると、当時神坂村農会長であった彼は、率先してその必要性を力説したが、村民中には組合が何であるか分からず、耳を傾ける者は少なかった。彼は養蚕地の金融機関としての組合設立を熱心に説いて廻り、遂に45年に至って、大字坂下万寿寺における集会の結果、信用組合を組織することが認識され設立に着手した。彼の地元の廻間、それに上野も加え、初め91名をもって有限責任坂下信用販売購買組合を設立した。6月25日事務所を坂下119番戸(通称エノキ)に置き、推されて組合長となり、理事伊藤繁太郎が事務をとった。しかし、充分趣旨が徹底しておらなかったので、なかなか予定の成績を収めることができなかった。
大正5年に至り、神屋、西尾、内津を区域に加える頃から組合の基礎は固まり、専任の事務員を置いたので、組合員に便宜を与え、坂下村の金融機関として重要視されるようになった。特に大正に続いて昭和の初期においては、養蚕業の盛況と坂下町の当時の経済の中心であった製糸業の資金源として、重要な役割を果たしていた。彼は永年にわたるその功により、産業組合東春日井郡部会長、産業組合中央会愛知支会長、愛知県知事等から表彰を受けた。しかも、昭和3年その職を辞するに当たって、組合は慰労金1,500円を贈り、その功績を称えた。
その他、現在の県道内津峠の改修、坂下村から高蔵寺村にわたる山地の砂防工事に尽力し、農村救済事業にも大きな功績を残した。
県道内津峠改修碑は、題額の民蒙其利の下に、当時の様子、工事の経過を刻んだもので、峠の下、道路北側山際の木立の中に建ってその昔を物語っている。
郷土の自然
「バードトラッキング」 足跡を追って
林重雄 松原中学校教諭
近頃では環境問題や自然保護といったことに人々の関心が集まり、趣味としてバードウォッチングを楽しむ人も増えてきました。野鳥は姿の美しいものや、鳴き声のきれいなものも多く、その姿や声に接するのはとても楽しいものです。そんな中でまだ日本ではあまり普及していないのが、これから紹介するバードトラッキングと言われるものです。野鳥は行動圏の中に足跡、糞、食痕、巣といったフィールドサインを残します。巣からはどんな鳥が繁殖したかがわかりますし、糞や食痕からはその鳥が何を食べていたかが分かります。そして足跡からはどんな種類の鳥が何をしていたかまで分かります。
こうしたフィールドサインから野鳥の行動や生活を知る方法をバードトラッキング(Bird Tracking)と呼んでいます。ここではバードトラッキングの中から、特に足跡についてこれまでに観察した中から紹介したいと思います。
鳥の足跡が残るためには川岸、池や沼のほとりのような湿った泥、土、砂といったものや、やわらかな雪などが必要になります。中でも市内にある溜め池の水かさが減った時は、足跡の観察には絶好の機会となります。
足跡から鳥の種類を考えるのはとても楽しいものです。指の数、みずかきの有無、指が開く角度、大きさ、爪の有無などに気をつけて推理してみましょう。
足跡が連続していると歩き方も観察できます。鳥の歩き方には足を交互に出すウォーキング(写真1)と、両足をそろえてはねるホッピング(写真2)とがあります。多くの鳥はどちらかの方法で足跡を残しますが、カラスやツグミのように両方を使い分けている鳥もあります。また連続した足跡からは歩く早さも分かります。同じ種類の鳥でもゆっくり歩いたとき(写真3)に比べて早足で歩いたとき(写真4)のほうが歩幅が広くなります。また、早足で歩くと第1指の跡が残らず、第2指から第4指の3本の足跡しか残らない場合もあります(写真4)。
足跡をたどっていくと、鳥が立ち止まって糞をしたり、地中にくちばしを入れて餌を食べたりといった行動がわかり興味がつきません(写真5)。
鳥の足には普通4本の指があります。これは人でいえば親指から薬指にあたるもので、小指にあたる指はありません。多くの鳥では第1指(親指)が後ろ側に回り、前の3本の指と向かい合うようについていますが、第1指の有無は鳥のグループによって違いがあります。例えば水辺を歩き回るシギとチドリとを比べますと、シギにある第1指がチドリにはありません。そして3本指のチドリは、第2指と第3指との指間が90度近く開いており、連続した足跡をみると千鳥足にぴったりの内またで歩きます(写真6)。
多くの水鳥には指の間にいろいろな大きさの水かきが発達しており、水かきはカモやカモメの仲間に顕著で、第2指から第4指までの間に大きな水かきをもっています(写真7)。足跡によるカモとカモメとの違いは第1指にあり、カモでは長くはっきりつきますが、カモメでははっきりつかず、ついても点にしかみえません。
最近市内でもよく見られるようになったカワウは全蹼趾足といわれる4本の足指が全て前を向いた特徴的なもので、その指の間には水かきが見られます。カワウは魚を捕るために水に潜りますので、羽根を乾かすために岸辺にあがり足跡を残します。またカワウは、ウォーキングとホッピングとの2つを使い分けています(写真8、9)。
水辺ではいろいろな陸鳥の足跡も見ることができます。陸鳥の特長は、水鳥に比べて第1指が長く、第2指から第4指への開き方が狭いことがあげられます。こうした陸鳥の中でもカラスの足跡はよく見られ、足指の指球が目立つ特徴的なものです(写真10)。陸鳥の中でもハトやキジのように第2指から第4指への開き方が広い例もあり、特にキジは第1指が短いので注意が必要です。
この地方では冬の積雪はあまりありませんが、たまに雪が積もった日にはいつもとは違った観察ができます。雪のために餌が見つけにくくなった小鳥が枯れて立っている草の実を食べる様子(写真11)や、歩いていた鳥が飛び立つときにつけた羽跡(写真12)、雪に足をとられて引きずる様子(写真13)などが見られます。
次に鳥の足跡を発見したらどのようにして記録するかという方法を紹介します。
まず、すすめられるのが写真撮影です。足跡はとても平面的な被写体ですので、朝や夕方といった光が斜めからさしこむ時は陰影がはっきり出てきれいに写ります。そしてスケールを添えておくと後で役にたちます。また一つの足跡だけでなく、連続した足跡も撮っておくとよいでしょう。
次にスケッチです。ここでは透明なビニールと油性のマーカーを使います。足跡の上に透明なビニールを敷き、その上から細目のマーカーで足跡をなぞります。この方法は正確に形や歩幅が記録できるのですが、地面が湿っているときには水蒸気でビニールの内側が曇ってしまい、足跡が見にくくなるのが欠点です。
足跡の実物をそのまま採集するのは難しいので、石膏で型をとるのをすすめます。まず最初ははっきりした足跡をさがします。足跡の大きさに合わせて厚紙をホッチキスなどでとめて輪を作り、石膏枠は泥のなかに軽く押し込みます。次に石膏を溶きます。容器に水を入れ、同量の石膏を入れて混ぜ合わせます。少し熱が出て粘りが出てきたら、枠の中に流し込みます。流し込む石膏の厚みは足跡の大きさにもよりますが、1センチメートルから2センチメートルあれば十分です。1時間ほど放置して固くなったら、固まった石膏を取り出します。取り出した石膏から厚紙の枠をはずし、表面についた泥を洗い流すと足跡の型取りは完成です。そして忘れないうちに裏側に採集場所、日時、種名をマーカーで書いておいてください。こうしてできた石膏の足型は種類や、場所ごとなど自分なりに分類して整理しておきましょう。
身近に見られる鳥の足跡についていくつかのことを紹介してきましたが、足跡や連続した歩行跡に注目し、それらを読み取ることは野生動物の生活を理解するうえでたいへん重要なことです。こうした身近な自然観察から少しずつでも環境問題や自然保護に興味をもってほしいと思います。
私の研究
鷹
梅村光春 本誌編集委員長
尾張徳川家初代藩主義直(家康第9子、慶長5庚子年生、慶安3庚寅年5月没、50歳、1600―1650)の幼時体験の中で、父家康による軍陣の模擬ともいえる狩りへ伴われた時の思い出が、最も強烈である。彼はこの時、空腹のあまり、家来に弁当を要求したのだが、これを家康が聞きとがめて猛烈な勢いで叱った。
「大将たる者は、家来が大いに働いている時に、空腹を我慢できずに何とする。狩りの間は戦闘ゆえ、めしなど食う奴がどこにある。」と。
それ以来、義直は狩りの間は食物を決して口にせず空腹に耐えた。
尾張藩では、内津山付近と、現在の尾張旭の森林公園から平子山にかけての地域が主な狩猟場であった。「鸚鵡篭中記」によると、狩りの獲物としては、鹿、猪、狼が主であり、朝鮮通信使の来朝時(将軍の代がわりの時)に朝鮮人への食物(鹿の肉は彼等の最上の御馳走)や贈り物(鹿の皮を土産にする)を得るために、よく行われた。
狩りをする藩有林は、通常、の御留山として、きびしく人の立ち入りを禁じ、鳥獣の繁殖がはかられた。義直が坂下新町をとりたて、交通の便をはかり、且つ、坂下に行殿を設けて狩猟を行ったことは、周知のことである。
「尾張徇行記」は、この間の事情を簡潔に述べている。「敬公(義直)、寛永十四丁丑年(1637)居屋敷を取建、地子を下され御除地となれり。町通りに坂あり、因りて坂下新町と名付け玉ふ。」
また、「敬公、明知、神屋の山林を遊猟し玉ひ、正徳元甲申年(1644)行殿を此地に経営し玉ひ、其の後、寛文五乙巳年(1665)新居村へ移させ玉ひ、其址、今は畠となり、古井一つのこれり。」これと同じような記述は「張州府志」、官舎の条にもみられる。
さらに、坂下の万寿寺の寺伝によれば、「源敬公巡猟ノ途次、暫時之休ヲ成ス可ク令シ、侍士、小田野兵衛ヲ以ッテ之ヲ告グ。
師(天陰和尚)、周章セズ此処ヘ迎エ言、鳥窠(どこに鳥が多くいるか)ニ及ビ、古徳機縁(この寺や土地の関係)、亦、宗門之事ヲ語ル。源敬公、冨士山ノ図一幅ヲ賜ル。師、此レヲ拝受ス。今ニ至ル寺ノ至宝ト為スハ是レ也。」
こういう狩猟は、大勢の勢子を動員するため村々の百姓衆への迷惑もあり、あまりしばしば催すことはできなかった。
これに代わるものとして鷹狩りがある。義直も、今の春日井市の西の方に大きく広がっていた春日井原へよく出かけて鷹狩りを楽しんだ。
「太守、このあたりに鷹狩りをさせたまふに鷹それていすこへか行きけん。見わたすかぎり見あたらず。太守、かりそめに観音に祈りたまふ所に鷹、来たりて御こぶし(拳)に居れリ。霊験あらたかなり。」(田楽・新徳寺千手観音縁起)
明治39年、田楽村と片山村が合併した時、村名を名付けるもとになったものがこれである。
獲ものは告天子(雲雀)で、御鷹師という専門の鷹飼育係の士に、よく訓練された鷹や隼を放ってとらえるが、あらかじめ餌まき(予定地へ、早めに行って、鳥の好物の餌をまいておく係。)を派し、鳥見役(鳥の居りそうなところを、さがしておいて誘導する。)もいる大がかりなものなので、いつもおびただしい獲ものがとれた。獲れた告天子は、藩士達へ組ごとに分配された。勿論肉を食用にし美味しくいただいて有難がったが、とりわけ告天子の腸を塩辛にすると、珍味として酒のさかなの最上のものとなった。義直も、その子光友も、わざわざ御殿内に告天子の腸の塩辛製造所をつくって、自らもさかんに賞味したと「鸚鵡篭中記」に記載されている。
義直が、しばしば春日井原へ来て鷹狩りを楽しんだのには、他の目的があった。
彼の一代の大事業であった入鹿池の築造効果を春日井原の開墾の進捗状況を見て確かめたかったからである。彼の鷹狩りのありさまと、当時の開墾の様子は「尾張徇行記」の春日井原新田の項にくわしい。これを読むと、戦後、私たちが目にした本地ケ原や小幡ケ原の、農地への開墾の状況を髣髴とさせるものがあり、小屋がけの開墾地の情景がそこにある。
「正保年中(1644~1647)、敬公御鷹狩の時、胡床(床几)にかからせられ、御茶召上り玉ひし折節、北に小家あり。公、見玉ひ、此の小屋は何者か承れと長斉に上意あり。長斉、行きて小屋をのぞき見れども無人故、時に御案内に出でし新田頭、田楽村、作右衛門を招き尋ねければ、此の処、寺地にしたき願望により、新徳寺二世荊州和尚の法弟、利蔵主、初めて小屋がけをし、荊州、寺号を新光寺と名づけたりと答ふ。此の由を公へ長斉申上げれば、公、それより、本寺の田楽村新徳寺へゆき玉ひ、荊州を召し御酒を賜わり、「新田の寺号能く相応に附けたり。」と上意あり。其の後正保4年(1647)の春、新田初めて検地により、荊州、其の時の御用人、小瀬新右衛門宅へ行き、公、御覧あるべし、此の度、春日井原新田検地いりしが、新光寺新地にて主僧艱難せし間、哀れ、境内、永々御除地になし玉はれと願いければ、小瀬氏、公へかくと申上げられしにより、「役人共へ申し渡し除地(税を納めなくてもよい土地)にすべし。」との上意を以って、此の時の検地奉行山口八郎右衛門、御代官取田才兵衛、境内山二反歩、畠二反一畝歩、永代除地となせり。」これは開墾時の様子だが、これから50年後「鸚鵡篭中記」の著者朝日文左衛門が友人と入鹿池へ遊んだ「入鹿紀行」の中にちょうど春日井原を通過した時の情景を次のように書いている。
「元禄五壬申歳(1692)三月廿三日、入鹿へ行く。……味鏡(鋺)水激シテ(水分橋付近)而白沙碝石(美しい石)一望極ク目ヲ。草塘(提)漸歩而松、挟ム街衢ヲ(町並)。又、不知ラ其ノ幾千万数ヲ。春日井之曠野、今ハ者只名而己有リテ多クハ成ル田畠ト、又、就クニ蓬廬ニ古昔ノ咸陽(秦の始皇帝の都)之壮観成。一炬忽為ス原野ト。
驪山(驪山=秦の始皇帝の墓。玄宗の宮殿などがある。)之赫奕(かがやくばかりに大きい)一朝ニシテ則チ生ズ煙塵ヲ。以テ之ヲ視ル之ヲ則チ栄枯忽チ替ル地ニ矣。而、小牧之市店往来絡繹トシテ……略。」
これをみると、原野のところどころが開墾され、その変わりようは急に大都市ができたようだが、家は小さなあばら屋で、ちょっと火をつけると、又再び元の原野にもどってしまいそうな頼りなさである、と書いている。
それから200年後、この付近の情景を徇行記は「寛永十一甲戌(1634)の年、入鹿の池を鑿し玉へるより処々に新田を開墾し、万民土着の地となれり、小牧街道南北十二町かかり、民戸其の間両面に建てならび、又、東西にも散在せり。こゝを上原と云い、竹木茂り、村立(暮らしぶり)大体よし。……略……此の辺の田畝、水すくいこみはやく早燥し騂剛渇澤(赤色のかたくてかわいた土)なり。」と記し、すばらしい、住みよい村になったが、土壌が悪く水不足であると記している。これは寛永4年(1664)木曽川の水で、新木津用水が通じて、やっと解消したのである。
ここに義直の身近に仕える者として長斉という者がいる。義直は長斉に御用を申しつけているが、それもきわめて親近感のあるよび方で「長斉、長斉。」と可愛がっている。
春日井の地名に如意申というところがあるが、この西北方に隣接する小地域(山田ダンボールの南)に、「長斉新田」というところがある。徇行記によると次のように記されている。
長斉新田
寛文二寅年縄入(1662年)
高三十四石二斗七升一合
田、三町二畝二十九歩
内、高一石五斗四升二合
田、一反三畝十二歩 前々引
一、 定免 五ッ六分六厘
一、此ノ新田は、春日井原入鹿新田の中、東南の方、新木津渠よりにありて、小さき新田なり。覚エ書キに長斉新田は百姓なし。
春日井原新田附見取田二畝歩
定納米 六升
ここは、昔河床であったらしく、小石まじりの田で、終戦後の食料事情の悪い時でも、耕作者が不平たらたらで、耕していたのを思いだすが、わずか六升の年貢であったのは納得がゆく。
次に長斉だが、この人はどんな素姓の人で、どんな身分で義直に仕えていたのであろうか。
何々斉というのが、殿様の側近によく出てくる。例えば御右筆部屋の坊主「泉斉」奥御茶道に被仰付。の如くに主に茶坊主として登場する。
尾張藩士に元禄時代に自分の家の故事来歴を書かせて提出させたものをもとに、まとめた「士林泝洄」というのがある。この中に長斉について次の如き記述がある。
長斉、姓は三宅。幼時に尾張の清洲に住む士の、小笠原監物(2万石・清洲分限帳より)に仕えた。監物は、清洲城の主、松平忠吉の寵臣(家老)であったが、ちょっとした過失があって、奥州の松嶋の寺に寓居することになった。長斉も供をして松嶋にいた。
慶長12年(1607)春(3月5日)忠吉君は、江戸の芝の邸に薨じた(増上寺に葬る。法号性高院)。この訃報が松嶋に到った時、監物は机によりかかって、手紙を書いていたが、官報をみて大いに泣き叫んで、すぐ駕籠を命じた。江戸へ行き、殉死しようとしたのである。長斉も彼の供をして、江戸へ急行することになったが途中、監物はふと思ったのであろう。自分が死ぬと、この若者も死ぬであろう。ここはどうしても彼を死なせるわけにはいかない。そこに長斉に「私が大切にしており、寺に寄贈した自鳴鐘(和時計)があるのを、お前も知っていよう。しかし寺の僧侶たちは、取り扱い方を知らないので、用をなさいと思う。お前は前々からなぶっているので取り扱い方をよく知っているだろう。すまんが、ここから引き返して、僧侶に使い方を教えてやってきてくれまいか。」という。長斉は已むを得ず、走って松嶋に還って、取り扱い方を伝授した後、再び江戸へ向かった。
監物は江戸増上寺に致り、喉を突いて忠吉の死に殉じた。彼の死体を棺桶に入れようとした時、長斉が遠路を還り走りこんできた。彼は、泣きじゃくって言うには、
「私は、大変な御恩を御主人様には受けている。だから本当は義に殉じたいのだが、そうすると御主人様が私を生かそうとなさったお気持ちに背くことになる。だから私は、ここで小指をかじり切って、これを棺の中に納めて、忠義のあかしとしたい。」
といって、齧断した小指を棺に納めた。
その後、彼は本多豊後守康重(岡崎城主)に仕えたが、殿の仰せにさからったという理由で追放されしばらく浪人となった。
敬公へ仕えたのは、ある時、殿愛用の時計が止まったので、竹腰山城守の推せんで修理に伺ったのが縁で、彼がなかなか頭の回転が素早く、会話が気がきいていて、しかも働き方が敏捷なのを義直がみて、近侍として召しかかえられることになったことによる。応対の仕方に諧謔(ユーモア)があり、敬公の気持ちをくんで仕えるので、自然と気分がよくなる、と仰せられ、いつもおそばに置かれ、鷹狩りや江戸へのお供をした。俸、70石を賜い、細工頭を命ぜられた。(大工頭の対。城中の細工物の修理管理をする。)寛永19年壬午(1642)5月29日卒す。
長斉には3子あり、長男を弥三郎、次男を江三郎、3男を尾三郎という。長男弥三郎は、義直の子光友の小姓となり、江戸勤番であったが、誤って高い所から飛び下りて骨折し、治療のため尾張へ還って養生していた。この間、杉山左平太という人に書道を学んでいたが、この人の僕(召使い)が発狂して急に斬りつけたので、重傷を負ってしまった。召使いを刺殺し、そのため士をやめ、剃髪して「無心」と号していたが、或る日、浴場で倒れ、創口が破れ、破傷風で死んだ。
正保二乙酉(1645)正月朔日卒。
次男の江三郎は竹腰山城守(尾張藩家老)に仕えたが喧嘩早く、家臣と争って浪人し、江戸へ行き、遊び人になったが、喧嘩して殺されたという。
3男の尾三郎は、10歳の時、自分の部屋へ入って来た盗賊を鎗で刺殺したほどの武勇の士であった。この事を敬公(義直)が聞いて、その勇を賞し、召出され、御通番(身のまわりの用達をする)とした。以来、江戸勤番となったが、慶安四辛卯年(1651)、他藩の者といざこざを起こし、改易(家屋敷をとりあげ、平民に身分をおとす)となった。
このように長斉に家は、子の代に消滅したが、彼の名を冠する長斉新田は今に残った。ここを彼が鷹狩りの途次、藩主に願って拝領したのか、私財で荒れ地を購入し百姓に開墾させたのか、資料がないのでよくわからないが、どちらもできる立場には在った。春日井原の新田は藩士の私有地も多く、年貢を払って、屋敷、田畑、山林を私有している。いわゆる「控屋敷」「控地」としてよく出てくるが、八田新田の例をあげると、
「堀 己休 控
野方見取二町、此ノ内畑二反五畝。松山一町七反五畝歩。定納米七斗九升。
須野崎 清入 控
野方見取五町九反七畝廿五歩。此ノ内、屋敷一畝廿六歩。畑九反五畝十九歩。」
といったように隠居した印の号を名のっている。堀は治部右衛門といって尾張藩船奉行。須野崎は、清兵衛といって船奉行、大目付等をつとめた尾張藩の重臣である。彼らは家臣も多いので、耕す人の手には事欠かず、百姓に貸す人も多かった。
長斉も、このようにして自分の采地を手に入れたのだろうが、私は、前者の義直に、直接荒れ野として与えられたケースだろうと思う。鷹狩りの縁である。(註、尾張藩では、原則として新田は給地とせず、蔵入地である。)
義直は、鷹狩りの途中、休息できるよう行殿を春日井原に営んだが、その場所は、曾て長斉に小屋がけした新光寺を、最初にたずねさせた跡という。新光寺は、その後、やや西北に除地を与えられ(現、西屋町)建築されたが、義直はこの地が気に入ったらしい。現在御殿公園のある位置であり、付近に御殿橋があるが、よくこの位置が、しっかりと伝承されて来たものと、驚嘆せずには居れない。
徇行記に云う。
朝宮御殿跡。見取畑一反一畝十八歩。
定納米二斗四升。
張州府志に云う。
朝宮行殿、在リ味鋺原ニ、昔、敬公放鷹ス止宿シ于此ニ今ハ只存スルノミ外垣ヲ。(註、味鋺原は春日井原の誤り)
春日井原が立派な田畑になって、大勢の人が住むようになると、告天子は、庄内川の河原に移動して大繁殖した。昭和20年代の終わりごろまでは、春の告天子の大合唱は、ものすごいもので、私たちも卵やヒナをよく見つけたものだが、ここが知らぬ間に開墾され、耕地化されて以来、めっきり絶えてしまった。庄内川の名物は、清流と鮎と揚げ雲雀であった。徇行記によると、義直は、坂下の方へも鷹をもってきて、雉をとったと書いてあるが、ニワトリぐらいある雉を、それより小さい鷹がどうして獲ったのだろうか。鷹狩りの専門家に聞くと、大きな雉も鷹の姿を見ると、その場へうずくまってしまうということである。
殿様の鷹狩りの場は、百姓には立ち入り禁止で、告天子も善光寺街道(現、国道19号)の西は「御拳場」と指定され幕末まで捕獲を禁じられていた。獲物は増えるはずである。殿様が熱中される鷹狩りは、庶民にとっては迷惑なことが多かった。名目的には、「野うさぎや野ねずみを鷹がとるので、百姓衆は大助かりだろう。」ということであったが、鷹に追われてきた鳥が、自分の家の庭先へ傷ついて落ちて来た時、だまってもらっておくと、重大な罪を負わされたし、農耕作業中、鳥が落ちてくると、わざわざ手を休めて、放置せず、届けに遠くに居る鷹師の所まで、出かけねばならなかった。中には、子どもが鳥黐をぬった竿を持っていただけで、一家入牢になった例がある。具体例を示すと、海東郡に采地のある横井伊右衛門という藩士が預かっていた鷹が、逃げて鷺を追った。鷺は疵ついて弥之右衛門という百姓の屋敷へ落ちてきたので、召使の又平という者が鷺をこっそりと隠した。これが曝れて横井伊右衛門が訴えたので、百姓弥之右衛門は所払いとなり追放、召使の又平は牢に入った。
これほど盛んであった鷹狩りが下火になったのは貞享4丁卯年(1687)に施行された生類憐令によってであった。はじめの間は、犬のみが対象で野犬の収容施設をつくり、餌を与えたりしている程度であったので、殿様たちも今までどおり鷹を飼育していたが、6月になって江戸で一つの事件があった。6月の12日の朝、水戸中納言の上屋敷の門番が門をあけたところ、鴨が1羽、矢を負って死んでおり、これの犯行の詮議がきびしく行われた。この追及の仕方も異常で、旗本、御家人はもとより、各藩士からも残らず、「絶対に私ではない。」という誓約書を提出させたりもした。これが原因となって、鳥類の飼育も徐々に差し控えられるようになり、各藩主も自分の飼育している珍鳥を山へ放したりした。尾張藩でも小牧山へ喜鵲という鳥を雌雄とも放鳥した。この鳥は尾が長く、背と腹に美しい紺碧色のあるもので、この鳥が鳴くと、よろこばしいことが起こるといわれており、藩主も大事に飼っていたものである。しかし鷹については依然として飼育されており、事情を知らぬ朝鮮人が、よく訓練された鷹を寄付してくれたりしていたので、藩でも小澤八左衛門とか早川長左衛門とかに、新たに鷹の御用を命じるなど、鷹狩りは自粛しても飼育だけは放棄したわけではなかった。元禄6癸酉年(1693)5月21日の触状では、藩士の内で鷹を飼育したい者もあろうが、これからは鷹匠として免許された者以外は、飼育も訓練もしてはいけなにい。もし、鷹を飼っているという噂でもあれば、罪罰を申し付けることになるから十分注意されたし。という内容のものを藩内に公布した。
しかし、半年後の10月23日、藩主光友は、長年飼育訓練したすべての鷹を、放鳥することに決し、定光寺へもって行って国境外へ放った。また、江戸の屋敷にいる鷹も放鳥を命じ、江戸屋敷の鷹の世話を命ぜられて江戸へ下る途中の御鷹師衆も、箱根まで行った時に早飛脚が来て引き返してきたし、江戸にいる鷹匠も早急に名古屋へ呼び戻された。
将軍綱吉も、自分の鷹をすべて、紫野その他あちこちに放鳥した。
このようであるから、江戸の人々の有様は戦々兢々としていた。生き物を憐むことは結構だが度が過ぎ、犬、鳥はては昆虫にまで対象が拡大されてきたからである。
さらに、同年12月10日になると、無用となった御鷹匠たちは、皆、役を免ぜられ、或は新御番に、或は50人組に、或は御馬廻にと役がえとなった。同心鷹匠(鷹匠の助手)となると、もっと悲惨で、35人の者すべて御暇を頂戴することとなったが、中には、たちまち明日から暮らし向きに困る者居り、当分の間、3人扶持(1人扶持は1日米5合、女は3合)ずつ下しおかれることとなった。
成瀬隼人正の組に奈須九左衛門という人がいた。彼は鉄砲の名手であったので、隼人正に可愛がられていた。彼は役宅の庭に築山をし泉水をつくり、鳥をうまく飼いならして、放し飼いにしていた。ちょっと見ると、贅沢な暮らしをしているように見え、これを訴える者があり、」「鳥を飼っている」というだけで改易追放となった。
この頃、堤防などで鳥を捕り、これを売って細々と生活している者がいた。ところが鳥を売買したり、持っていると罰せられるという噂が流れたので、全然、鴈や鴨が売れなくなり、値段がつかないので生活に困る者が出て来た。
また、大須の観音(真福寺)で売っている絵馬に、赤い鬼が虎の皮のふんどしをしているのがあった。これが柿羽織(刑事)の目に止まって、生類御法度としてとがめられた。
翌年4月3日には、御餌さし頭(鷹の飼育係の頭)山本作内、鈴木彦右衛門が小普請組に入れられ、彼の手下の餌さしの者たちは「移し役」という、鳥が居ないのに鳥を取り移す役に役替えとなった。
しかし、さしものこの禁令も、綱吉の死ぬ2、3年前には、緩みはじめていた。公布から20年もたてば庶民の気も変わりはじめる。
宝永2年(1705)、尾張藩では次の内容の廻文を出した。藩内の処々から、「鷹をつかっている。」という情報があったからである。
「先年、公儀(尾張藩)は鷹をすべて放ち、御鷹場も閉鎖し、瑞竜院様(光友)も、泰心院様(綱誠)も鷹をそれ以来お使いになってはいない。しかも老臣たちへも語って堅くお禁止になっている。
しかし、最近、領内で鷹を拳に据えて歩いている者を見たという者が多い。老臣たちも鷹を飼っている筈がないので、藩外の者が聞いたら何と思うだろうか。しかも据えおる鷹は、若鷹だという。もし、このような者を見かけたら、何者でもよいから押し込めておいて、名前、苗字などを聞いておくこと。百姓の場合は、蔵人地(城内の藩主の倉に入る米を作っている土地)、給知(藩士の采地)、いずれの者でも、御国奉行へ申し出なさい。その他のところ(山中、原野など)の者も、付近の役所へ申し出ること。もし、このような者を見逃したり、隠し場を与えたりした者は、あとで曝れた時、厳罰に処するから心してもらいたい。
鉄砲を持ち、鳥を捕獲し、鳥の殺生したのを持っている者についても同じである。正月」
こういう廻文を流しながら、尾張藩では、城内庭園で飼っていた4匹の鹿を、ひそかに、水野陣屋に移して飼育させていた。ほとぼりがさめたらもとに戻す魂胆であった。
宝永5戊子年(1708)、綱吉は死を迎えた。彼の死により殺生解禁となった。しかし亡霊の如くこの法は幕閣をつつみこみ、次の家宣、家継の時代にも、まだ鷹狩りは行われなかった。
8代将軍になった吉宗は、はじめの間は鷹狩りに消極的であった。
すでに、綱吉の死の前々年にも、「鸚鵡篭中記」の著者、朝日文左衛門重章は、京都への公務出張の帰り途に、鈴鹿峠から桑名の東海道で、大勢の鷹を据えた連中を見て驚いているが、この頃すでに禁令無視の連中が増えはじめたのだろう。
宝永7年(1710)庚寅11月3日、市ヶ谷の尾張藩上屋敷に朝鮮人から、立派な進物の鷹が届けられた。赤林定右衛門という者が受けとったが、飼育の仕方がわからないので、篭に絹の覆いをかけ、魚屋で「はぜ」を買って来て、すりつぶして与えたところ、よく食うので毎日これを与えながら尾張から新しい御鷹匠の速水藤左衛門が到着するまで何とか持ちこたえた。
こうなると鷹狩りの復活は、目睫であった。10月15日には、どこから集められたか不明であったが、昼頃、鷹2羽ずつを1つの篭に入れたものが、12篭、大勢の人夫にかつがれ、阿部喜左衛門が宰領して名古屋城の門をくぐっていったのがみられた。
さらに11月27日には、山奉行であり、水野代官の水野久次郎が、大昇網というのを使って鷹を生捕にして3羽を献上し、御褒美として銀3枚を戴いた。放った鷹がまだ近くにいたらしい。
藩でも御鷹匠頭であった戸田久助の息子戸田五助を新御番より転じて御鷹匠頭に任じた。
幕府も鷹に対する庶民への啓蒙として、下のような布告を行った。
「鷹が道にいると、皆、馬から下りるなどしているのをよく見かけるが、このようなことをするには及ばない。ただ鷹が怖(おじ)じないように、そっとよけて通って下さい。狭い所で行き違う時は馬をとめて片側に寄せて下さい。歩いている人も片側へ寄って下さい。呉ぐれも鷹を驚かさせないようお願いします。牛車や大八車で荷物を満載して通る時や竹竿などをかついでいる時は鷹を見かけたら、少しの間止まって下さい。
遠い所に鷹がいる時は、こんな気遣いは無用です。こうすれば御鷹匠に権柄づくになられることもないでしょう。」えさに困った鷹が町の中でも、うろうろしはじめたのである。享保2丁酉年(1717)1月28日、尾張藩は富田勘左衛門(寄合より)、横井伊右衛門(寄合より)、吉田加兵衛(御馬廻より)を御鷹匠頭に復活させ、次いで2月22日、鷹の敵である鳶(とび)の巣があれば、すべて取って捨てさせよと下令した。
江戸の幕閣でも大猷公(家光)の御代の御鷹場が復活した。
- 王子の近郊、沼田村
- 玉川の上流、世田谷、中野
- 板橋の上の方、戸田村
- 王子のさき、平柳村、千寿桑山、淵江
- 本庄の松戸川前、八條村
- 葛西
- 品川 がこれである。
そして江戸中に触れて、この御鷹場十里四方で堅く殺生を禁じ、これを破る者は少年でも容赦しないので、平生から覚悟しているように、とした。さらに御鷹番所という所を所々につくり、いつ将軍が鷹狩りを仰せ出されても、すぐ対応できるように鳥の繁殖がはかられた。しかし吉宗は、なかなか「やろう。」とはいわなかった。
このごろ尾張藩江戸屋敷でも50人組であった吉田作之右衛門、吉田久次郎、が御鷹匠を仰付けられた。
享保2年(1717)の11月30日、吉宗は側近にすすめられて初めて鷹野に出た。始めてみると意外におもしろいので、病みつきになり、しばしば出掛けるようになった。彼が出掛けるとなると、通る道筋に触れが出され、掃除をすることや、商店ののれんの位置まで、細かく指令されるので庶民にとっては大変な迷惑であった。この声が吉宗に届き、これ以後は、掃除したり、のれんの位置などそのままでよいとされたため、風呂屋や芝居小屋は大変に喜んだという。
尾張藩第6代の継友公も病みつきになった一人である。
彼がはじめて鷹狩をしたのは享保2年の4月13日であった。彼は名古屋城内の下御深井の弁天島へ行き、はじめて拳に据えた鷹で五位鷺を捕らえた。大喜びした彼は近侍の富田勘左衛門や吉田嘉兵衛と祝酒を飲み、彼等に紋付の羽織と着物を与えた。5月11日になると、やはり名古屋城内、山神天神付近で自分の拳で「うずら」を16羽、供の者が5羽。鉄砲で鴻1羽を落とした。さらに5月18日には、自分の拳で鷭(水辺に住む茶色の鳥。クイナ科)を11羽。鷺を2羽。小姓衆方で鷭6羽。その他の人で鷭40羽を捕らえた。
5月19日には、家老の犬山城主成瀬隼人正に、「やってみんか。」とさそったが、彼が「鷹を持って居ない。」と答えたので、その場で、「はいたか」(「はし鷹」が正しく、小さい雌(めす)の鷹。)と、「このり」(はし鷹の雄(おす)を「このり」という。)を与えた。
5月29日には、御鷹師の吉田作之右衛門に、自らへの教導を褒賞し、2石御加増があり、吉田は20石5人扶持となった。(註、石は禄で春4分の1、夏4分の1、冬4分の2にわけてもらう。扶持は玄米で毎月もらう。1人扶持は1日5合)
6月28日には50人目付けで江戸詰めの石川武左衛門を、江戸より呼び寄せ、御鷹匠に任命した。7月2日、先日、鷹を殿より拝領した成瀬隼人正は、早速城内で鷹匠より指導を受けた。7月9日には、石川逸平治が江戸より呼ばれ、御鷹匠を仰せつけられた。
このようにして、着々と鷹野復活が計られたが、まだ訓練不足で遠出は控えられた。しかし鷹の数が増え、城内で飼育するのが手狭になったので、建中寺の中の隠居屋敷が空いていたので、ここを飼育部屋に小普請に命じて改築させ、御鷹部屋と名付けて菱田太左衛門に管理させた。
8月28日にちょっとした事件があった。
織田丹下の組の足軽が、日頃から鷹の敵となる鳶や烏を撃つようにと指令されていたので、命令通り、巾下で烏を見かけたので鉄砲で撃ったところ鷹であることが判った。この件について年寄衆がいろいろと手を入れ、御鷹匠頭からも、「確かに烏である。」旨、申し上げたので烏を撃ったことにされたが、撃った足軽は内緒で暇を出された。
その頃になると横井十郎左衛門とか阿部縫殿とか庵原平左衛門とか鷹好きな重臣達は、自分の屋敷でも多くの鷹を飼育し、獲物を競うようになったが、鷹を持たぬ重臣たちは、殿の御前の獲物自慢の折には、自分の采地の百姓にわざわざ鳥類を運上として獲らせ、御覧に入れるという者も出た。
継友公の鷹狩りは、漸く「狂」の部類に属するまでに昂揚するに至った。まず出発の風景が物々しい。夜明け前の暗黒の中に、ろうそくを千挺余立て並べて御供の支度をさせ、180人程の人数を揃え、4斗樽の酒樽の鏡を抜いて彼等に飲ませ、亦、十分に金を与えて派手で潤沢な出発をする。帰りは夜になるが、この人数を率いて、重臣の家へ突然に訪問し、鷹狩りの獲物を「土産じゃ。」といって台所へ運び入れ、妻君とにこやかに談話し、そのまま台所で朝まで飲酒する。来られた家は、何しろ突然のことで準備もなく、夜も遅いこととて御馳走を作るのに材料がないので往生したし、台所に居すわるので何もできず大いに迷惑した。大導寺駿河守、庵原平左衛門など、たびたび来られて困った方だが、殿様の方も、羽織とか時服とか鷹とかをその都度持参して下されるなど内心では気を使っていたようだ。継友の悪い癖は、すぐ「小間物屋を呼べ。」と言う事であった。夜中に呼ばれた小間物屋は、それでも御殿様から、刀の鍔などを買ってもらい、代金として18両も支払いを受ける者もでるなど大変によい商売をした。
成瀬隼人正も病みつきになり、自分の領地の本宮山や尾張富士近辺で、さかんに鷹狩りを催したし、勢子3千人を動員して、鹿狩りも行った。継友は、鷹野でも笠を冠らなかった。その理由はわからない。鷹狩りは完全に復活した。
御鷹方の御用人は、横井十郎左衛門と津田民部の2人であったが、気の毒なほど多忙を極めた。
郷土探索
白山信仰14
村中治彦 春日井郷土史研究会員
美濃洲原神社の事
当社は旧武儀郡洲原村の神社であるが、現在同村は美濃市に合併されている。長良川中流域右岸の国道沿いに位置し、境内全域が社叢として県天然記念物に指定されている。また、天然記念物洲原神社仏法僧繁殖地として国からも指定されている。
当社は美濃国における白山信仰の中心になった神社の一つで、前宮とも呼ばれていた。長良川沿いに郡上街道(国道156号)を北上すると、美濃白鳥に長滝寺白山中宮があり、白鳥町前谷から156号線と別れて更に奥へ進むと石徹白白山中居神社がある。いずれも大社である。
ここから奥は、白山への登山道のみで人家はない。山頂御前峰(2,702メートル)には白山奥宮がある。即ち、奥宮に対する中宮、中居神社であり、前宮であったと推測される。
社伝によれば、養老5年(721)泰澄大師により創建され、古来「正一位洲原白山」とも称せられたという。
祭神は伊邪那美命、伊邪那岐命、大穴牟遅命である。特に農業の神様として厚く崇敬されており、当社の「御蒔土」を田畑にまけば、災いを除き、必ず豊作に奇瑞があると信仰されている。
江戸時代から「お洲原まいり」として名高く美濃、飛騨はもとより、尾張、三河、信濃、近江、伊勢、遠くは北海道、西は九州に至るまで全国から多数の参拝者があるという。
白山のお洲原まいり
本誌第42号で井口泰子さんが白山村の正月の様子を紹介された中に、洲原神社への代参を初寄りで決めたという記事があった。
そこで、白山町の藤江てふさん(92歳)に取材の協力をお願いしたところ、ご快諾をいただいたので4月17日の日曜日に出かけた。
てふさんの記憶によると、父親の景重さんは日露戦争に従軍し凱旋の後、明治の終わり頃の或る年に村の洲原講代参人に決まったという。
この時の代参人は、臼田清重氏、藤江景重氏、松本彦三郎の3名であった。苗田に蒔く「御蒔土」を受ける目的で出かけたということであるから、旧暦4月8日の例祭に出かけたものと推測される。
日帰りの予定で払暁に出発したが、予定以上に時間がかかり、帰途篠岡村(現小牧市)にさしかかった辺りで夕暮れとなったために、藤江景重氏の奥さんの里(現小牧市大字林)に泊めてもらったという。
どのルートを通ったかは定かではないが、白山―池之内―楽田―犬山―鵜沼―関―美濃―洲原と最短コースを通ったとしても、約45kmの道のりである。
これは成人男子の1日里程である。この時期、朝午前5時に出立して午後6時半に帰着するものとして計算してみた。神社に参拝してお礼と御蒔土を受け、みやげ物を買って昼食を取る等の時間と途中休憩を含めて2時間を取ったりすると、往復の平均速度は8キロメートル弱となり、健脚による速歩で頑張ることになる。
尚、洲原神社名誉宮司横家弘一氏(96歳)の話によると、当時の春日井市域近辺からの参拝者の多くは、1泊2日の日程で参詣していたという。この点については次号で詳述したい。
さて、お洲原様の受けてきた御蒔土は苗田に少しずつ捌いた。お札は各島(7島)へ配り、各戸で神棚に祀ったようである。
白山には、ニュータウン造成前には、繁田川の東側に古木の茂った所があり、「お洲原山」と呼ばれていた。これはお洲原まいりと何か関係があったのかも知れない。
お洲原まいりでみやげとして、てふさんの印象に残っているのは燕の形をした「つばくろのおみやげ」であった。頭部に糸が付けてあり竹にしばると風車のように風になびいてよく回ったという。
この「つばくろ」は子どもの愛玩品としてもてはやされたが、本来は「田の神様の燕」としての稲の虫除けのおまじないであった。
旧暦4月8日の祭礼日に社前の店で売られるもので、持ち帰って竹につけて田の畦(あぜ)に立てておいたという。
<協力者>
藤江一成氏 洲原神社宮司横家勉氏
発行元
平成6年9月15日発行
発行所 春日井市教育委員会文化振興課