郷土誌かすがい 第50号
平成9年3月15日発行第50号ホームページ版
木造薬師如来立像 (国指定重要文化財)
熊野町密蔵院
如来とは悟りを開いた者を意味し、薬師如来は人間の病苦をいやし、内面の苦悩を除くなどの12の誓いをたてた如来で、その現世的な効能が人々に強くアピールされたためか、わが国では7世紀頃から盛んにつくられるようになりました。
如来の一般的な特徴は、頭部の肉髻(肉の隆起)・螺髪(ぶつぶつの毛)と身体には衲衣(1枚の布)以外のものをつけないことです。座像・立像ともに平安初期以降の像になると、左手に薬壺を乗せるのがふつうの形になりました。
密蔵院の像は、高さ97センチメートルで、寄木造りです。頭部は耳の後ろで前後にはぎ合わされ、三道(首の部分の3つのふくらみ)下で差し込まれています。素木で彫りが比較的浅くて、やさしく美しい像です。顔は慈悲にあふれ、丸くふっくらとしています。髪の生え際はやや上がり、螺髪が彫り出され、額の真ん中には小さな丸い白毫(白い巻き毛)がみられます。左手には薬壺を乗せ、右手は曲げて上げ施無畏印(人々の不安を除き、救済する)を結んでいます。全身を衣で包み、そのひだは美しく裾の方へ流れています。藤原時代末のものと思われ、寺の伝えでは伝教大師の作とされています。
多くの天台宗の寺院の本尊と同様に本像は秘仏で、現在は収蔵庫に安置されています。
開帳は不定期で、灌頂(修行僧が一定の地位に昇るときに行われる密教の儀式)時のみですが、一般の参観はできません。言い伝えでは、夏の日照りの時、雨乞いのため扉を開けると、たちまち恵みの雨が降り出すという霊験あらたかな仏です。
本像が安置されている密蔵院は、嘉暦3年(1328)に慈妙上人により開かれた天台宗の寺で、鎌倉末期には尾張天台宗復興の中心となり、末寺は全国11カ国700余りに達したと言われています。本像は大正3年8月25日に国の重要文化財に指定されており、同じく重要文化財の多宝塔とともに密蔵院を代表する文化財です。
市教育委員会事務局
郷土探訪
春日井をとおる街道13 御嶽登拝の道・下街道 その2
櫻井芳昭 春日井郷土史研究会会員
春日井の主な御嶽講
(1)関田誕生講
林島の藤ノ木公園の一角に御嶽神社がある。新しい玉垣とはためく幟(のぼり)に囲まれており、活動が盛んなことがうかがえる。
夏の夕暮れ、野良仕事を終えた農家の人が自転車を停め、口と手を清めて、お山へ進み、しゃがんでゆっくりと拝んでみえる。
この地は小木田神社の分身の置かれた所で、古くからの祭祀場のなごりを伝えている。現在は築山に20の石碑が並び、神聖な雰囲気をかもし出している。この最上段に御嶽神社、覚明行者の石碑があり、右に誕生講の始祖覚翁行者、2代の繁覚行者、左に3代の養覚行者の碑がある。これには関田における誕生講の起こりが刻まれており、弘化元年(1844)に中山和三郎が牛山の丹羽多治右衛門から当村へ伝えたことがわかる。そして、昭和60年建立の覚元行者まで25代に及んでいる。
現在の講員は32名でうち先達が8名あり年間を通して活動している。主な行事をみると、毎月8日の命日には先達(中座)宅で御祈祷を、13、23日(6、11月の農繁期を除く)は廻番の講員宅で覚明霊神の掛軸を掲げて祝詞・心経をあげる。
夏、秋、冬の御嶽登拝はバスで行う。2月には夜寒行の托鉢を1日約40戸、8日間行って、御嶽神社のお札を配布している。
年2回の大講には守山区の牛巻(日乃出講)、吉根(福寿講)、北区清水(福寿講)等から各2~3名を招いて行事を行っている。
地元完結型の講であるが、修験道山岳信仰の関係では、当山派の京都聖護院に属し、愛知連合金峯組のメンバーとなっている。
(2)日之出講
定光寺駅から200mほど西寄りの庄内川沿いの東海自然歩道入口に御嶽神社の石柱が建っている。ここから北へ徒歩約30分で境内に着く。拝殿の右奥一帯の樹々の間に30以上の霊神碑が並び壮観である。
この神社は当初は山の下にあったが、明治15年(1882)山上に遷座、明治40年には木曽御嶽神社より御分霊を勧請(かんじょう)した。この起こりは、慶応3年(1867)に玉野の森政吉氏が御嶽山教会所を建てて活動を始めたが、しばらくして衰えた。これを加藤豊覚氏が明治21年(1888)に継いで現在4代目となっている。
講員は玉野、下原、水野、尾張旭、土岐津等に拡がり、140名程あり、責任役人・信徒総代各5名、教師8名で運営し、神道大教院に属して活動している。
主な行事は、夏・冬の登拝、夏と年末の大祓(おおはらえ)で、玉野では月次会も行っている。
(3)尾州下街道福寿講
大泉寺の八幡社の向かいに、下街道から長い参道のある御嶽神社がある。これは大泉寺山の県有地を陳情して許可を取り、分霊を祀って明治17年(1884)までには完成している。拝殿の両側には、覚明霊神始め25の石碑があり、伝統のある御嶽講社であることがわかる。
拝殿が昭和34年に再建されており、その時に寄附した人たちは、稲口、二軒屋、如意申、出川、大泉寺等であり、当時の信者の多い地域が読み取れる。現在は、如意申が中心で、稲口、気噴、出川、白山、勝川等の約30人が講員で先達は2人であり、神道大教院に属している。
中心の行事は春の大祭と夏・冬の御嶽登拝である。4月のみたま祭は、地元の大泉寺の人たちも参加して盛大に行われる。
御嶽登拝
名古屋周辺からの御嶽詣は10日前後の日程であった。米野木(現日進市)の農民の明治19年(1886)の旅行届では、「今般長野県下信濃国御嶽神社エ志願ニ付、社参仕度、就テ者、本日出立、同十一日迄、日数十日間旅行仕度」と記し、9月2日に戸長に提出している。(註1)
春日井では新しいわらじをはいて出発し、内津で昼食、釜戸か大井で泊まり、木曾谷でもう1泊し、御嶽山に近い村で泊まって4日目から頂上を目指したと思われる。
文化7年(1810)本草学者水谷豊文の御嶽登山の部分をみると、8月10日夕方黒沢村を出発して若宮へ参り、赤岩橋を渡って登り始め、中小屋・湯屋あたりで日の出を迎え11日になった。赤岩、平岩から頂上へ着き御嶽大権現へ参り、大滝村へ下っている。
中央線が明治33年(1900)年多治見まで、同35年中津川まで、同43年木曾福島、翌年塩尻まで全通している。鉄道が開通するごとにその終点から御嶽をめざし、下街道から御嶽詣の人たちの姿は消えていった。
中津川まで開通してからは、付知―白巣峠―王滝村から頂上をめざすルートもにぎわい、付知には宿屋が5軒ほどあったという。(註2)
明治43年(1910)8月、西春村を中心とする元出生講の一行93人が、勝川駅に集合して木曾福島まで開通早々の中央線を利用して御嶽登拝している。運賃は勝川から木曾福島まで1円13銭、宿泊料(2食付、ふとん代、茶代、心付を含む)は1円48銭余で黒沢口5合目の千本松原見晴小屋に宿泊している。(註3)
米1俵(60kg)が5円36銭の時代であり、鉄道運賃が割高で相当な出費になったが、全日程は半分以下に短縮されて便利になり、時代の先端を行く団体参詣であった。
昭和初期と思われる尾州福寿講の春日井駅集合の例をみると、(註4)夜の8時に春日井駅を出て木曾福島に午前零時に到着、休憩後歩いて午前6時ごろ里宮着、登り始め、霊人場と八海山で勤行(ごんぎょう)し、8合目の小屋で宿泊。早朝出発して山頂で御来光、御座立てをして黒沢口へ下山、里宮勤行して1合目の旅館に投宿して精進落としをした。百草、杓子などのみやげを買い込んで帰宅する4日間の行程であった。
戦前の関田誕生講では、春日井駅から汽車に乗り、木曾福島で下車して、夜通し歩いて夜明け前に3合目で泊まり、早朝出発して8合目の関田の霊神碑が集まっている所で勤行してから頂上めざした。下山して6合目で宿泊し、翌日帰宅した。服装、杖の使い方、排尿等のマナーがとても厳しかったという。(註5)
昭和40年代から観光バスの利用が次第に増加し、最近は1泊2日や温泉地を加えた2泊3日等多様な行程となっている。
おわりに
御嶽山を一般の人が登拝できるようにした覚明行者の誕生地ということで、春日井では江戸末期から明治時代にかけて、誕生講を中心に大部分の市域で御嶽講が結成され、下街道は御嶽参りの人々でにぎわった。そして、多くの先達が輩出し、市内各所に霊神碑が林立するお山が分布している。
現存する講を御嶽信仰の上部団体との関係でみると、御嶽教はなく、神道大教4、木曾御嶽本教3、地元完結型3である。(註6)
全国的組織の大講社へ加入すれば、その内規と権威によって運営することになり、先達の資格や装束もきちんとしてくる。しかし、経済的負担が増し、地域の伝統が薄らぐことは避けられない。市内では、地元先達を中心として日常的な結びつきを重視し、経済状況に応じた無理のない運営で大字規模の講が多かった。最近では上部団体とのつながりのある講の割合が高くなっている。
日常信仰の拠点となる施設は、拝殿のある神社は少なく、築山や神社境内の一角がほとんどで、全体として小規模で質素である。
講員の高齢化、先達等指導層の後継者不足、新規加入者の減少等のため、御嶽講の活動は縮小傾向にあるが、夏山登拝は参加者も多く中心行事となっている。
関田誕生講 | 日之出講 | 尾州下街道福寿講 | |
---|---|---|---|
結成 | 天保3年(1832) | 慶応3年(1867) | 明治中期 |
施設 | 関田御嶽神社 | 玉野御嶽神社 | 大泉寺御嶽神社 |
講祖 | 覚翁霊神 (丹羽多治右衛門) |
豊覚霊神 加藤豊覚 |
寿覚霊神 (木村周右衛門) |
組織 | 講長・先達・講員 | 教師・世話人・信徒総代 | 教師・世話人・信徒総代 |
人数 | 32 | 140 | 30 |
地域 | 関田・下市場 | 玉野・下原 | 如意申・気噴・稲口 |
上部組織 | なし | 神道大教 | 神道大教 |
行事 | 月次会 登拝夏秋春 寒行 大講2回 |
登拝夏冬 例祭4月15日 大祓夏年末 |
登拝夏冬 大祭(みたま祭) |
霊場 | 黒沢口8合目 | 黒沢口7合目 | 黒沢口4合半 |
註
- 日進町史資料編6(1985)887頁
- 河村廣康「御嶽とともに」(1994)124~125頁
- 西春町史民俗編(1984)950頁
- 志段味地区民俗調査報告書(1985)224頁
- 長谷川新一氏談(関田町在住)
- 愛知県宗教法人名簿(1994)愛知県総務部資料
私の研究
王子喬と春日井
森まさし 大学講師・専門学院理事
第49号で内々神社に残る1枚の絵馬について、これに描かれた人物は中国の神仙の王子喬であると指摘し、如何に春日井と関係が深いかを書いた。漢文が多かったので、一般向けの郷土誌に掲載することには筆者自身でも多少戸惑いを持っていた。しかし、流石教養人の町春日井だけに中々の反響を戴き、有り難く感じている。
さて、王子喬と春日井の関係は実はもう一つ考えられる。それは、天台宗との関係である。王子喬は中国道教では、中国の天台山の守護神でもあるのだ。天台山は日本の天台宗にとっては本山である。仏教では道教やその他の土着神を護法神として祀っている。中国天台山の神としての王子喬への崇敬を、物語的由来譚として著しているのは神道集の『熊野本縁』に含まれる「熊野権現御垂迹縁起」である。この縁起は、かなり流布していたらしく、その始めと終りの部分は、長寛元年(1163)の三重権現の勘文にも引かれている。原文は漢文だが、ここでは、読み下してみる。
往昔甲寅年、唐の天台山の王子晋(註1)旧跡也。日本国鎮西日子(彦山)の峯あめ降り給ふ。其体八角なる精の石なり、高さ三尺六寸なるにてあめくだり給ふ。……中略……甲子年、淡路国の遊鶴の峯に渡り給ふ。……紀伊国無漏郡切部分の西の海の北の玉那木の淵の上の松木本に渡り給ふ。次に五十七年を過ごし、庚午の年三月廿三日、熊野新宮の南の神蔵峯に降り給ふ。次に六十一年庚午の年、新宮の東の阿須賀の社の北、石淵の谷に勧請し静まり奉つる、……(そして、この後に王子喬が自ら)我を熊野三所権現と申すと仰給る(のである)
つまり、「熊野権現御垂迹縁起」で、王子喬は天台と結び付く。更に熊野信仰に一体化する。もちろん、白鳥に乗って聖蹟を遊行する姿は、先号で誌した日本武尊の面影を引摺っている。
ここで、春日井にある天台宗の名刹、密蔵院の所在地を熊野町と言うことを想起されたい。天台宗密蔵院は、明治の神仏分離まで内々神社に社僧を送り込んでいた寺院である。
まとめると、内々神社の1枚の絵馬によって、中国道教の神としての王子喬・中国天台山・日本の天台宗・密蔵院・熊野信仰・日本武尊信仰が1本のラインで繋がるのである。
この絵馬は、日本神道・中国道教・日中の仏教の混淆された複雑な中近世信仰の貴重な生き証人でもあると言えよう。
註
- 王子晋は王子喬と同じ、『列仙伝』に「王子喬は、周霊王の太子の晋なり」とある。
郷土散策
地蔵川物語
長谷川良市
勝川橋の北方約300メートル、地蔵川に架かるこの橋を地蔵橋という。昭和33年に改修工事の始まる前までは、この川は約100m南方にあり、土地の者は川を地蔵池、橋をどん橋と呼び親しんできた。どん橋は土橋が訛ったもので、昭和初期には名古屋の森下から坂下を結ぶ乗合バスもこの橋を通っており、橋の両側はひょうたんの形の如く川幅が広く膨らんでおり、初夏から秋にかけて貸しボート遊覧も行われていた。
どん橋の北側には、丸石を積んで土台とした常夜灯が2基立ち、西方にある天神社の参道の入口になっており、秋祭にに「おまんとう」(馬之塔)の奉納馬に「だし」(馬りん)を飾り、青年会が長襦袢着に化粧をして、町中を引き廻した後、この参道で「おっぱ」といって馬の手綱を放して囃したて、追い立てる勇壮な祭事が行われていた。
また戦時には、日参団の子供達やお百度まいりの家族達が毎日天神社に通い、また出征兵士も壮行会の後軍歌に送られて、どん橋を渡り勝川橋の北詰まで見送りをした。この中の幾人かが再びこの橋を渡ることができなかったことは惜しまれてならない。
精霊流しもこの川で行われ、またこの年に妊婦に不幸のあった家は、4本の竹に台座を作り49日間通行人から塔婆に水供養を受けるように、水桶と杓子を置く川施餓鬼の棚も見られた。
地蔵川の名は、文永年間(1264~1275)に川の中より地蔵尊が発見された由来により、近くに祀った寺を地蔵寺と言った。地蔵寺は昭和3年水害の多いこの地を避けて、現在の大和通に移転されている。本堂西隣の地蔵堂に祀られている等身大の木製の座像は、川の中より発見された地蔵尊といわれている。
庄内川と八田川と地蔵川の合流していたこの地域は、肥沃な土地であり早くから水稲耕作が行われ、東部の段丘には古墳群があり、徳川家康の小牧長久手の戦に関わる名の残る古墳もあったが、度重なる洪水で消滅し、現在では勝川町4丁目にある愛宕古墳を残すのみとなっている。「勝川の水かぶり」「味美の稗だんご」という子供達の喧嘩言葉がある。庄内川の水位が上昇している間は、勝川に溜った雨水は、雨が止んでも引くことがなく、水浸しのままで、年によっては数日間も水がひかず、またこれが年何回にも及ぶことがあった。従って住居は石垣の上に建て、米俵を納める小屋は更に高いところに建てられていた。稲の花の咲く台風期に水害となると、その年は不作となり、農家では豊作祈願のため美濃のお洲原まいりや、熱田神宮の「花のとう」、津島のお天王まいりと出かけ、秋には天神社で豊作感謝のお祭を年中行事としてきた。
昔、勝川と瀬古・山田は同じ春日井郡内であった。承久の変で京都方に味方した山田の庄の豪族山田次郎重忠の奉納といわれる天満宮菅原道真の束帯姿の軸をご神体として、天神社では毎年交替で唐櫃に納め渡御の祭事を行ってきたという。天保のころ一晩に庄内川が増水して、勝川村の総代は帰るに困ったという。勿論庄内川に橋のない時代のことである。この話を山田天満宮に尋ねたところ「その話は聞いている。お軸に神酒(みき)をお供えすると、天神様の顔はいつも赤くなられた」と付け加えられたが、この軸は残念ながら行方不明という。当時の天満宮は天神橋近くにあり、橋の名も神社の名前が由来である。
また勝川北部の高台は荒地であり、反対に水がなく米作りは苦労の連続であった。最近古老から次の歌のあったことを聞いた。
- 名は勝川と言うけれど
お米は水にはかけられぬ
ひえのだんごにみの笠で
田ごと田ごとに水の番 - 夜昼かけてみな口に
立っても立っても水は来ん
竹やり研いで若い者
命かけての水けんか - 明治十年十二月
黒川技師と言う人が
木曽川堤をくり抜いて
木津の水を連れて来た
作詞
味美尋常高等小学校長木内太吉
味美小学校の記録によると木内校長は大正15年から昭和4年までの在職であり、毎年9月25日には新木津用水記念祭を開催して、旗行列や徒競走・相撲などを勝川・味美・春日井3校の合同で行っていた。古老より運動会は、この歌を唄い庄内川と新木津用水の合流する河原で行ったが、相撲はよいが、徒競走では砂に足を取られて走り難かったと聞いた。
黒川治愿は当時の愛知県土木課長であり、新木津用水路の拡幅工事を農民と共に苦闘を重ね、明治17年(1884)木曽川の水を堀川までつなぐ偉業をなし遂げた。明治13年6月明治天皇のご巡幸に際して、地蔵池付近の雨期の氾濫を恐れて、急きょ勝川の町並を抜け右折する津島みちに行程を変え、この時造った橋の名を御幸橋と名付けて、現在もこの付近の町名にもなっている。
水害のないときの勝川はまた平和そのもので、古来より文人墨客がこの地の感懐を残している。安永2年(1773)名古屋の俳人横井也有が、坂下の長谷川三止を尋ねたときの紀行文内津草の中に
八月の川かささぎの橋もなし
かち人の蹴あげや駕に露しぐれ
麓からしらむ夜あけや蕎麦畑
がある。当時の旅は夜中から出発して、庄内川を徒歩渡りして下街道を内津に向かったものである。蕎麦の白い花と夜明けのしらむ風景を洒落て詠んだものである。また鶴叟の
稲が香や里はめでたき彼岸かな
この句も稲穂の垂れたこの地の風景がよく詠まれていると思う。
地蔵池周辺は、尾張藩の禁漁池となっていたが、明治になって解禁となり魚の宝庫となっていた。中でも火ぶり漁法は、肥料の豆粕や魚粉を川に播いて魚が満腹となって動きが鈍くなるのを待って、突いたり網でとる漁法である。魚の鈍くなる前に自分が眠くなり、川に落ち水浸しになることもあったという。川の下流にはタライ程の鬼蓮や河骨(註1)が川面一面黄色の花を咲かせ、子供達は河骨の茎を表面の皮を残して交互に折り首飾りとした。また秋になると沢山の鳰(註2)がきた。オヨメと呼んでいたが、子供達が「オヨメ引っ込め」と叫ぶと偶然首を水に突っ込む鳰もいて、自分の言うことを聞いたと自慢して、更に大声を張り上げ合った。
尾張藩士御畳奉行朝日重章の「鸚鵡籠中記」の一部に
元禄九丙子歳流霞、八月八日夕後予、勝川へ殺生に行、夜に入、鮎八打、鯉も有、戌九刻皈(かえ)る。
と極めて詳細な記述がある。この地によく殺生にきているが、当時は禁漁池でなかったのかと疑問も残る。
昭和42年、この近くの地蔵ケ池公園に安藤直太朗先生の
池も寺も所を変えてそのかみの葦の葉ずれに聞くよしもなし
の碑が建立された。当時を知る私達にとって、すっかり面影を失ってしまったこの地域の情景を、新しい世代に語り継ぐための記念碑としてふさわしいものと思っている。
註
- スイレンの一種
- カイツブリの古名
郷土探訪
「いもコーヒー」から「澱粉工場」へ 校長室から、子どもたちへ
落合善造 松原小学校長
戦争中や戦後間もない頃は、薩摩芋は米や麦についで大切な食糧でした。米や麦は長く保存することができますが、薩摩芋は寒くなると腐りやすくなります。そのため、農家では小屋の片隅や軒下などに大きな穴を掘り、底や周りに藁を並べ、その中へ薩摩芋を入れ保存しました。しかし、収穫した芋全部を穴に入れることはできません。そのため、六軒屋の農家の人たちは、収穫した後、秋から冬にかけて焼き芋用の芋として名古屋市の大曽根や岐阜県多治見市の問屋へ出荷することもありました。ここでは、いつも決まった量は買い取ってくれず、収入も不安定で農家の人たちは厳しい生活が続きました。また、薩摩芋を、大きな藁でできた袋につめ出荷することも大変つらい仕事でした。
六軒屋の人たちは、地元で、薩摩芋を原料にした工場ができればどんなにありがたいかと待ち望んでいました。
青山惣一さんは、「いもコーヒー(註1)のあと何を作ろうかと多くの人たちと何回も何回も相談を重ねました。ある人は「いもあめ」を作ろう、又、別の人は「いもきり」を作ろうなどと様々な提案をしました。しかし、それらのほとんどはすでに近くで作られていたり、難しい条件が付いたりして思うようにはいきませんでした。そんな中で一つだけ条件が揃い全員賛成したのが「澱粉づくり」だったのです。ジャガ芋や薩摩芋からはたくさん澱粉を作ることができます。そこに目を付けたのです。
昭和23年ごろ惣一さんは、六軒屋の人たちと春日井農産加工協同組合(組合員63名)を設け、澱粉工場を作ることにしました。(註2)真っ白で上等な澱粉を作るには、きれいな水が必要です。当時、この辺りは水道が引かれていませんでしたので、井戸を探さなければなりませんでした。この水とは別に、土の付いた薩摩芋を洗う水も必要です。また、工場(註3)で使った水を流す川が近くになくてはなりません。これらいくつもの条件がすべて充たされないことには工場を造ることができません。そんな場所を求め風の吹くまま今日は東、明日は西へと方々を探しました。
最初に発見した場所は、現在の消防署の西側の辺りでした。みんなは期待と不安をもって井戸掘りを見守りました。するとそこからは豊富な水が湧き出て、全員大喜びでした。さっそく、柱がむきだしの、屋根だけ付いたようなバラックの工場を建て、「澱粉」づくりにとりかかりました。しかし、いざ作り始めてみると思わぬことが次から次へとわかってきました。この「井戸水」は「澱粉」を作るには適していない「中水」であること、近くを流れる「三田川」(註4)では、土の付いた芋を洗うだけの水量がない、又、工場で使った汚れた水を流すだけの大きな川ではないこと、澱粉工場にはもっと広い土地が必要であることなど都合の悪いことがわかりました。
希望に燃え、澱粉の生産にかかりましたが、中止せざるを得なくなりました。仕方なく次の場所を求めることにしました。また、一からやり直しです。しかし、情熱に燃える人たちばかりです。すぐ次のことへ向けて相談が始まりました。せっかく建てた工場もとり壊しです。重い足を引きずり、次の場所を求めて歩くことになりました。
方々を探すうちに、現在の三つ又公園より西側の、八田川に面したところがいいようだと話がまとまり、井戸を掘ることにしました。ここは水さえ出れば、他の条件はすべて充たされていました。みんなの期待にこたえるかのように、そこからは吹き出るように水が出ました。しかし、前回の失敗があります。慎重には慎重を期し、こわごわと保健所へ「水」を持っていき検査をしてもらうことにしました。検査の結果の通知は、首を長くして待つもなかなか届きませんでした。みんなは口には出しませんでしたが、心のなかでは「大丈夫だろうか」という不安を持っていました。
そんなある日、赤い自転車にのった郵便局の人が何通かの封筒を届けに来ました。青山惣一さんはその中の1通を取り上げ、目を通すうちに笑みが浮かんできました。取り囲んだみんなの顔も自然にほころんでいました。今度は、その1枚の通知の奪い合いです。だれとはなしに「やったー」、「よかったー」、「でかしたー」と歓声が上がり、お互いに肩をたたきあい喜びました。
今度こそ大丈夫だと、みんなの表情にも明るさとやる気が以前にもまして感じられました。中には、口笛を吹いたり、歌を口ずさむ者もいました。
さあ、今度は、本格的な工場づくりです。その予定地は、一面雑木林で、とくに松の木が繁っていました。暑い時期でしたので枝を払ったり、木を切り倒したり、木の根っこを掘り起こしたり、土をならしたりの作業は大変厳しく、つらい仕事でした。また、ほこりと松毛虫との闘いでもありました。
お金が十分なかったので、新しい資材を買わず、壊した前の工場の資材を運んだり、足りない分は、また、前のように篠木小学校の近くにあった「四ツ谷補給廠(しょう)」跡から、古い材木を運搬し、利用して造ることにしました。今のように、大きなトラックも少なく、ほとんど馬車とか大八車で運びました。犬も人と同じように大八車をひっぱるのを手伝いました。
工場は、大工さん達に任せるのではなく、ほとんど素人の自分達の手で造ることになりました。朝早くから、夕方遅くまでの厳しい工場づくりでしたが、誰一人不平を言う者はいませんでした。むしろ、この工場は自分達の手で造り上げてしまうんだという自信と誇りを持っていました。
休憩時間には、流れる汗を手ぬぐいで拭きながらも、笑顔が絶えず、楽しい話で盛り上がりました。澱粉をつくる過程では、芋を洗う水槽、芋をすりつぶしどろどろにしたものを貯めておく水槽などいくつもの水槽を必要とします。それらも自分たちでセメントをねり、造りあげてしまいました。
このころになると持ち合わせていたお金もすっかり使い果たしていました。働く人たちもそのことについてはよく分かっていたのか、給料が十分もらえなくても誰一人不満を洩らす者はいませんでした。
工場の中に備え付ける機械は渥美半島の田原から取り寄せました。機械を取り付ける人が愉快な人でみんなを笑わせ、一時でも苦しいことを忘れさせました。
十分なお金をかけることもなく、明るく、楽しく、みんなの協力のもと、わずかな期間で工場を造り上げることができました。工場が完成した日、組合員の人たちは今迄の苦労話や、これからの澱粉製造の夢など、夜を徹して語り合いました。
自分たちで造りあげた工場では、一部始終勝手が分かっていたのか、何の不安、ためらいもなく澱粉の製造にとりかかることができました。みんなの表情も明るく自然に力も入りました。深く大きなアルミの弁当箱を開け、食事をする時などは笑いの渦が絶えませんでした。
澱粉工場の生産は順調に進み、名古屋の問屋へは定期的に出荷することができました。澱粉の評判も上々、みんなは勇気づけられ、一層仕事に精を出し働きました。
六軒屋の農家の人たちも、もう安心です。芋作りについつい力が入るようになりました。
澱粉が製造される過程で出る搾りかすは、豚の餌として使われ、農家の人に大変喜ばれました。味美や小牧の方からもリヤカーや大八車で買いにくる人がいました。中にはお手伝いで来る小中学生もいました。
作れば売れるという景気のいい時代もそう長くは続きませんでした。やがて、昭和30年代に入ると大きな、新しい施設を持つ工場で大量生産される澱粉に押され、ついに生産を中止せざるを得なくなってしまいました。しかし、ここでへばってしまうような組合員ではありませんでした。次に何を生産するか、また、真剣な話し合いが始まりました。(つづく)
註
- 「いもコーヒー」はすべて生産を中止するのでなく、澱粉工場の片隅でささやかではありますが作っていました。
- 澱粉工場と合わせ昭和20年後半から大根の漬物「春日井沢庵」を生産し全国へ出荷していました。
- 澱粉工場は、汚れた水を川へ流していましたが、当時ではあまり問題になりませんでした。今だったらどうでしょう?
- 「三田川」はあまり目立ちませんが、長安寺の南から春日井農協本店南へと流れています。そこから南は暗渠となっています。地元の老人は「さんで」となまって発音します。
(注)この話は、長縄功様(元市議会議長)からお聞きしたことをまとめたものです。
春日井の郷蔵
富山 博 市文化財保護審議会委員
1 郷蔵とは
郷蔵は、江戸時代から続いているような古い集落において、年貢米を収納や保管、あるいは凶作に備えて穀物などを貯蔵するために使用された社会的施設である。江戸時代の農村において郷蔵は領主・代官にとっても、村役人にとっても、また一般村民にとっても深い利害関係を持っていた。そのために郷蔵には、当時の人々の生産と生活とに関係する記念物的な意味があるといえよう。しかし明治以後制度の解体により、本来の意味で使用されることが無くなり、今は所属する集落の共同倉庫として、共有財産や祭礼用具等の保管に使われている。
2 市内の郷蔵
江戸時代に市内の集落に郷蔵が存在したことは、たとえば「寛文覚書」には勝川村と外之原村が、「尾張徇行記」には外之原村と大手村とにそれぞれ郷蔵屋敷が記されてあることからほぼ推定される。そのほか宝暦9年(1759)「白山村家並改帳」に年貢地のなかに郷蔵1軒と記されており、また年代が不明の「廻間村絵図」には草葺きの郷蔵の絵姿が描かれている。
市内の郷蔵については「春日井市史」資料編4に掲載してある。当時の調査は昭和47年に行われ、民家の調査は既にすんでいたので、民家に付属した建物や、郷蔵建築などについて調査した。当時はまだ内津・西尾・外之原・木附・玉野・下大留・出川・東野・下原・下市場・四つ谷・朝宮・田楽南条・味美白山・中新町の15か所に残っていた。
また失われていても、場所などが確かめられたのは、明知・高蔵寺・白山・気噴南・下津の5か所であった。
3 郷蔵の建築
市内の郷蔵は土蔵である。規模に関しては比較的小さい例が多く、大きなものでは、3間(約6メートル)に2間(約4メートル)、小さなものでは、2間に1間半(約3メートル)程度で、また中2階を持つ場合と平屋の場合がある。屋根は切妻形式、入口の多くは妻入り形式で、一部に平入りがある。
郷蔵の骨組みは、先ず壁に沿って柱を立て、貫を通して柱を繋ぎ壁体を固める。小屋組の架構は、屋根棟に棟木(むなぎ)を載せるが、棟木の下に大きな地棟と呼ぶ材を通す場合が多い。側柱の上からは斜めに合掌梁を地棟にかける。この形式は、小屋裏が梁に妨げられず利用出来るので有効である。妻壁側は地棟を支えるのに、柱3本に掛かる天秤梁による方式がみられる。天秤梁の下に、全梁間を通す梁によって支えられることもある。地棟を使わない場合には、より低い位置を通す、敷き梁形式の例もある。なお小さい郷蔵では地棟を必要としない。
入り口(戸前)の、通常土塗りの引戸や板戸が付く。戸口や窓の回りは、漆喰で透き間がないように塗られ、また装飾的に飾られる。よくみられる例は、妻壁の上方に、地棟部分の外壁が、丸く突起することを利用し、そこに集落の名を示す、四本の矢(四つ谷)とか嶋(東野)を描くことがある。
一般に郷蔵における米の収容石数は、坪当たり40から50石程度と見られる。中2階がある場合には、天井が低くなることから、30石程となる。
4 郷蔵の現状
前にも述べたように、昭和47年の調査の時には15棟あった。それから24年後、1996年末の調査では内津・木附・玉野・四つ谷の4棟だけで、残りは失われてしまった。失われる早さは驚くべきもので、きわめて残念である。いずれも土地区画整理などに際して、地元の人達からみて、古くなったし、あまり効用がないという理由で、取り壊されている。しかし郷蔵は手入れさえすれば、未だ寿命があったし、意匠的にも特徴のある瓦紋や壁に集落の名などの付いたものであり、惜しいものであった。
現在残っている郷蔵は、内津は以前旧国道の南側、妙見社前にあったが、近年山車倉の側に建て替えられたもので、木附は道路沿いに広場を囲んで残っている。建築年代は江戸時代末期か、明治初年のものと見られる。玉野は五社神社の入り口脇に建ち、明治初期の建築とみられる。四つ谷は小規模の郷蔵で、旧下街道と秋葉堂の入り口に建つ。明治末期の建築とされる。
5 郷蔵をどうするか
江戸時代が終わってもはや130年、郷蔵も当初の姿をとどめているものはほとんどなくなった。春日井でも、「町並・集落の景観を保存しよう」という動きがある。保存といっても、なにを残せばよいのであろうか。郷蔵はありふれていたので、保存への関心が低かった。今では郷蔵は、祭礼用具や山車等の保管の場所となってしまったが、せめて今残った郷蔵のなかでいくつかは、集落の中心として、残したいものと考える。そして先祖の暮らしや、郷土や社会教育に生きた教材としても利用していきたい。
6 県内及び県外各地の保存状況
県下では、尾張旭市が、狩宿地区の郷蔵を市の文化財に指定している。なお西尾市には、西尾藩当時の貴重な義倉があるが、指定の動きは停止している。
[尾張旭市の狩宿郷蔵]
江戸時代末期か明治初期の建築。桁行2間、梁間1間半。中2階、平入り屋根桟瓦葺き。
[西尾市の義倉]
安政6年(1859)の建築。伊文神社の境内にある。桁行10.9m、梁間6.3m、中2階、妻入り。屋根桟瓦葺き。
全国的にみて、郷蔵などの指定はまだ十分とはいえない。福岡県甘木市須賀神社の社倉は、県指定、文政5年(1822)。前橋市上泉郷蔵は県指定史跡、寛政8年(1796)。最近文化庁の手によって、郷蔵ではないが、江戸時代の藩蔵が調査されており、ようやくこの種の建築にも目が向けられてきたようである。
〈参考文献〉
富山博「江戸時代の郷蔵建築1敷地を中心として」中部工業大学紀要31967
富山博「江戸時代の郷蔵建築2遺構を中心として」中部工業大学紀要51969
富山博「西尾市の義倉建築について」建築学会東海支部研究報告1988
浅川茂男「橋津の藩蔵」奈良国立文化財研究所1996
創刊50号記念
郷土誌かすがい50号発刊に思う
伊藤一郎(創刊時教育長)
「郷土誌かすがい」が昭和53年に創刊されてより第50号、時の流れの速さに驚き、片や、今日まで続けていただいた研究者、編集者の皆さんのご労苦に感服する次第です。
この誌は、史跡、考古、建築、芸術、民俗等々広範にわたり、新しい調査研究結果を、研究者の見解により、一般の方々、専門的な方にも興味ある内容をと、欲深いねらいをもって発刊されました。
果してどんな内容となるか、何時まで続くかと若干危惧の念もありましたが、見事に50号を達成されましたこと、感激の極みであります。
いつか古老より耳にしたこと、子供の頃心待ちにした年中行事、身近にある建造物、土産を楽しみにした講参りなどが重なり合った解説、掘り下げられた研究内容が盛り沢山、次々と出刊され、郷土誌にふさわしいものであったことが、今日を迎えるに至ったと思います。
この一つ一つが尊い研究結果であり、50号を記念して一部に編集し後世に残せたらと勝手な期待をいたします。
改めて関係の皆さんに感謝いたします。
「郷土誌かすがい50号」を迎えて
梶藤義男(創刊時編集委員長)
顧みますと、郷土誌かすがいが創刊されたのは昭和53年12月1日のことで、早や19年経って、今昔の感がいたします。
最初は大下武、櫻井芳昭、佐々木明久、比叡訓子の皆さんと小生の5人が編集委員となり、おおよそ次の方針で原稿募集・依頼がなされたと思います。
- 一般市民はいうまでもなく、中学生の皆さんも読者の対象と考えます。
- 郷土を一地方に限定しないでより広い範囲を考えます。
- 文化財のみでなく民俗信仰、伝承や地誌といった親しみ易い内容とします。
今や回を重ねるにつれ、絵画などはモノクロのみでなくカラーを入れるようになりました。時代要請にこたえ、皆さんに愛される読み物となることを望みます。
ふる里発信の増加を
櫻井芳昭(創刊時編集委員)
藤田東谷氏の題字「郷土誌かすがい」をまず最初に見つめると、時に応じていろんな思いがイメージできるので、その味わい深さにいつも感じ入っている。
市教育委員会が発行する郷土誌は尾張地域では珍しい。それだけに多彩な人たちが読んでみえることを実感する。思いがけず恩師から声をかけられたり、文化財担当の方から励まされたり、地元や近隣市町の方から質問されたり、時には資料提供して下さることもあるからである。
創刊から18年余りで50号を迎えたのは半端であるが、これは年度後半にスタートし、途中年4回発行から2回へ変更を余儀なくされたからである。ふる里の便りは忘れたころにやってくるよりは、興味が持続する間隔で読めると楽しさも倍増する。今後、ふるさと研究が一層盛んとなり当初のように季刊へ復元することを期待したい。
郷土誌かすがいの発刊が始まって、本号で第50号を数えるに至りました。取り上げられたテーマも、「郷土史探訪」は「郷土探訪」に「民俗研究講座」は「郷土のむかし」・「春日井の人物誌」に、「ふる里の歴史」は「ムラの生活」へと、名を変えながら今日まで継続され執筆されています。その他、「みんなの広場」、「私の研究」、「郷土散策」、「郷土の自然」等のテーマも取り上げられ、時宜をとらえて執筆されてきました。
本誌が19年間の長きに渡り続いてきたことは、執筆者のみなさんの地道で真摯な研究の賜だと思います。わが郷土「春日井」を明らかにし、発表いただいたことに、心から敬意と感謝を申し上げたいと思います。
そして、もう一つ忘れてならないことは、今日までご購読いただいた市民の皆様の力強いご支援です。今後も市民の皆様が、郷土「春日井」への愛着をもっていただくとともに、ふるさとの歴史やくらしに、より一層関心を高めていただくよう大いに期待するものです。
本誌編集委員
村中治彦
井口泰子
小澤恵
発行元
平成9年3月15日発行
発行所春日井市教育委員会文化振興課