郷土誌かすがい 第46号

ページID 1004444 更新日 平成29年12月7日

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平成6年9月15日発行第46号ホームページ版

ふれあい緑道のハニワ道

ふれあい緑道のハニワ道

昭和36年、春日井市史の編纂事業に伴い下原2号窯の調査が、名古屋大学に委託して行われた。それから30年後の平成元年、再調査が行われたが、その際、2号窯を中心として東山町字平橋の丘陵に10基の窯跡が確認され、「下原古窯跡群」として一躍脚光を浴びることとなった。この古窯は尾北地方に新しい焼き物である「須恵器」の招来を告げるものであった。しかも注目すべきは、この窯で須恵器とともに埴輪を焼いており、その埴輪も大半が須恵質であることである。この埴輪は、市内の国史跡「味美二子山古墳」に使用されたものとする指摘があったが、平成5年、二子山古墳周辺の調査が行われ、大量の形象埴輪(馬形・人物・家形)や円筒埴輪が出土するにおよんで、ほぼ決定づけられた。胎土分析の結果も、それを裏付けるものであった。
下原古窯で焼成された埴輪は、大型のものが多く、その運搬に際しては水路が予想される。今、下原古窯のすぐ下を流れる生路川が三ツ又公園で八田川に合流し、そのまま二子山古墳の近くを通ることを考えれば、この水運を利用した可能性が高い。この水路ぞい8キロメートルのおよそ半ばが「ふれあい緑道」として公園整備されている。市では八田川ぞいの緑道に市民の手による復元埴輪を並べ、「ふるさとの歴史」への理解を深めてもらうため、ハニワ道の復元を企画した。毎年秋に行われる「ハニワまつり」は、その一環である。

大下武   春日井市民俗考古調査室長

高蔵寺ニュータウンの変貌 住宅建設と人口・児童生徒数の推移を中心にして

小沢恵 本誌編集委員

はじめに
春日井市の東端に位置する高蔵寺ニュータウンは、現在人口5万2千人を擁する緑豊かで整備された“一つの住宅都市”を形成している。昭和30年代、高度経済成長に伴う大都市への人口集中から住宅供給の必要性に迫られた。そうした社会のニーズに応えるべく、高蔵寺ニュータウンの建設が計画された。ニュータウン建設は昭和36年の造成工事にさかのぼるが、ここでは特に昭和43年の入居開始以来27年の歩みを、住宅建設と人口の推移を中心に振り返ってみたい。

高蔵寺ニュータウンの歩み

人口と建設戸数の推移

土地開発及び住宅建設と人口の推移と若干の考察

  1. ニュータウン開発の概要
    ニュータウン建設に伴う土地開発は、昭和35年の地区決定を受けて、翌36年に開始された。事業名称は、「春日井都市計画事業 高蔵寺土地区画整理事業」と呼ばれ、全国先駆けの事業で、以後のニュータウン建設のモデルとなった。施工者は日本住宅公団(現住宅・都市整備公団)であった。春日井市東部の標高46~206mの丘陵地850haに、総事業費1,531億円(昭和41年度予定、昭和56年度4,576億円に変更)の巨費を投じ、昭和65年に約25,600戸の住宅を建設し、81,000人が住むという大規模住宅団地開発であった。この地が選ばれた理由は、
    〈1〉中央線もあって名古屋の通勤圏として便利であったこと
    〈2〉安値で広大な土地があったこと
    〈3〉愛知用水が使用できたこと
    〈4〉地元地域の協力が得られたこと
    であった。
    高蔵寺ニュータウンは低中高密度ゾーンを巧みに組み合わせた景観となっている。民間所有の30%弱の一般住宅地の利用については規制ができないため、公団がすべて完全に建設ができないことになり、公団の計画を優先させながらの開発であったということである。
    区画整理事業としては、正式には昭和40~56年度に実施され、ほぼこの期間で土地開発の骨格が完成された。すなわち、住宅建設に伴う道路・公園等都市施設、上下水道等供給処理施設、学校等公益・商業施設の整備がされた。その後さらに肉付けの時期に入り、今日に至っている。
  2. 住宅建設の推移から
    入居の最初の地区は藤山台で、賃貸の集合住宅を主としたものであった。当時“赤土砂漠”と呼ばれ、造成工事や住宅建設まっただ中でたいへん殺風景であったという。2DK、2LDK、3K、3DK等のタイプを中心に建設された集合住宅に限ってみると、各地区最初の建設年度は、昭和42年の藤山台につづいて、昭和44年岩成台、昭和46年高森台、昭和47年中央台、昭和49年高座台、昭和50年石尾台の順になっている。一般戸建分譲住宅等もほぼ同時期に建設が始まっている。なお、押沢台は昭和53年頃から一般戸建住宅が建設されている。
    住宅建設戸数をみると、入居開始から昭和50年代前半にかけては、集合住宅を主として、毎年ほぼ千戸以上が建設されている。昭和50年の1,384戸をピークにして、その前後の時期に多い。昭和57年以降は減少し、300戸~400戸前後である。
    この住宅建設の主体は、大きく3つに分けられ、日本住宅公団、愛知県・公社等、民間(会社等)の3者である。この建設主体からみると、当初の頃は集合住宅を中心に公団が主として建設していたが、昭和50年代後半に入ると、徐々に民間による戸建一般住宅に移行している。県や公社は公団や民間から土地を譲り受けて、昭和48年度から集合及び一般住宅の建設をした。現在公団や県等の住宅建設はほぼ終了し、残された造成地はほとんど民有地ということである。従って、今後急激な増加はみられないだろう。平成5年で建設戸数は、18,801戸、内訳は公団10,785戸、6,895戸、県・公社等1,121戸の順になっている。

男女別年齢別人口グラフ

人口や児童生徒数の推移と若干の考察

  1. 入居初期(昭和43~53年)の急増期 
    大規模住宅建設、それに伴う人口の流入による人口の爆発的増加、これは当然の流れである。入居初年度のニュータウン人口は、わずか1,426人であったが、その後住宅建設戸数に比例するようのに、昭和52年ごろまで年3千から4千人の割で人口が急増している。昭和47年には、最も多い4,725人の増加をみている。年齢構成は、10歳未満の子どもその親の25~35歳未満の層が10~20%と高い比率を占めている。まさに若い町を象徴していた。
  2. 10年経過以後(昭和54年~現在)の漸増・横ばい期
    昭和54年以降は千人を越える増加が続いたものの、住宅建設の減少とともに人口増も鈍った。昭和63年5万人を越えたが、集合住宅から他地域への転出もあって増加はさらに鈍った。その後今日まで2千人程度の増加でほぼ横ばい状態が続いている。バブル期には地価や建設費の高騰も重なって、増加がさらに鈍るとともに、平成に入ってマイナスになっている年さえある。そのバブル崩壊後は逆に住宅建設が促進され、また少し増加に転じている。ただ、住宅建設が少しずつ増加し、かつ世帯数も増えているにもかかわらず、人口減か微増であるのは、1世帯構成人員が昭和55年3.46人から平成5年3.05人のように、核家族化が進行していることを証明している。住民の年齢構成は極端に比率の高い年齢層はなくなって次第に平均化する一方、高齢者も増え住民の年齢も全体に上昇している。
  3. 児童生徒数の推移からみて
    ニュータウンという若い町を示すように、若い世帯が流入することにより児童生徒数の急増という現象につながる。児童生徒数の急増は、即学校建設のラッシュとなる。高蔵寺ニュータウン最初の学校は、藤山台小学校と藤山台中学校である。昭和45年のことである。以後昭和47年藤山台東小、岩成台小と建設が続き、昭和52年度までに小学校が6校、昭和53年度までに中学校2校が開校された。児童生徒数の急増で継ぎ足し継ぎ足しの校舎建設であった。学校建設が間に合わず、教室が足りなくなり、プレハブ教室でしのいだ時期もあった。1学級の定員を越えて指導しなければならない学級が何クラスも出た学校も珍しくなかった。その一方で転出入の激しいこともこのニュータウン地区の学校の特色であった。例えば、昭和55年開校の石尾台小学校は、2年目にかけて461人の増加があり、毎日転出も含めた手続きで担当の先生が悲鳴を上げたという話である。
    その後も住宅建設地区が順次変わっていくとともに、児童生徒数も地区を変えて増加した。児童数は昭和59年にピークで、6,696人を数えた。生徒数は昭和62年がピークで3,412人に達した。それに伴い、さらに小学校は3校、中学校は2校開校された(以上計小10校、中4校)。児童生徒数は、ピークを過ぎると減少期に入り、特に近年は予想以上の急減をしている。平成6年度でみると、小学校はピーク時の約60%、中学校は約70%まで減少している。これはニュータウン住民の年齢構成が高くなってきたこと、すなわち若い世代の象徴であったニュータウン住民も、ニュータウンの成長とともに高齢化が進んだことを証明している。全市的傾向とはいえ学齢児童の急減で、学級数はピーク時の半分から3分の2程度に減少し、空き教室も60教室を越えている。その活用が望まれる。

児童・生徒数の推移

おわりに(ニュータウン変貌の若干の考察)
大規模住宅団地開発の先駆けとなった高蔵寺ニュータウンも今、成熟期を迎えたといえる。その変容について次のようにまとめられよう。

  • 公団主導の区画整理事業による開発であったが、民間も入り交じって当初の苦労は大変なものであった。今日、人口5万人強の町に成長し、人工的には当初目標とは隔たりがあるものの町の規模としては適度な成熟をし、良好な居住環境と景観をもつに至っている。
  • 人口急増により学校を始め公共施設等の整備・充実は、地域エゴも加わって厳しい時期もあった。しかし、地域住民・行政・公団等の努力によって克服されてきている。新旧住民との一体化という課題も大きな山を越え、全市一体化が進んでいる。
  • 周辺地域の施設・設備の整備を含め、春日井市のニュータウン以外の地域への刺激的役割も果たしてきたのではないか。
    駐車場確保の問題、近い将来訪れるであろう集合住宅の老朽化に伴う建て替えの問題、今後進む住民の高齢化の問題等ニュータウン自身の抱える問題もある。これらを克服し緑豊かで明るく住みよい町づくりが進められ、住民の春日井市民としての意識がより一層高められることを期待したい。

ムラの生活

ムラの経済〈講〉

井口泰子   本誌編集委員

古くよりムラには集落としての生活をよりスムーズにするために、いくつかの助け合いの組織があった。それを広く〈講〉といった。
そもそもの〈講〉の成り立ちは、村人が親睦を深めるための集まりであり、田の神講、山の神講、庚申講、お日待ち講、月待ち講といった、いわゆる民族の原始信仰からはじまったものであったが、そこに仏教思想が広まると、念仏講、観音講、地蔵講などが加わり、更に近世になると、社寺への〈お参り〉が流行したため、その費用を協同で賄おうとしたところから、経済性が加わったものと考えられる。また、一方では、ムラの中の生活困窮者を救済しようという目的もあった。そしてついには信仰性の少ない、村人の物品購入のための金融機関としての〈講〉が発達してきたものである。
したがって〈講〉は、その目的によって様々な名称がある。

  1. まず本来的な、田の神講や念仏講といった純粋に信仰的、親睦的なもの。
  2. 伊勢講、津島講、善光寺講といった、信仰面と、お参りの費用を集団で考えるという経済的な面も兼ね備えたもの。
  3. 布団講、自転車講といった金額が張る物を購入するための講。
  4. 草葺き屋根を葺くような、費用も労力も一軒の家ではできないことを共同組織で輪番していく屋根講といった金と労力2面の講。
  5. 全くの金融機関としての頼母子講(たのもしこう)、無尽講(むじんこう)など相互扶助の経済的なもの。

などである。
(1)の信仰的な念仏講や観音講、庚申講、秋葉講、恵比寿講などについては、本誌第23号・24号・25号号の「円福寺さんの昔語り」で既に述べたので、ここでは(2)-(5)の経済的な講、つまり庶民金融的性格の強い講について述べる。
この金融的性格の「講」は、どのような組織であるかというと、大体次のようなものである。
たとえば、「伊勢参りをみんなでやろうではないか」という発起人が同志の会員を集める。発起人を親方または元方といい、会員を講衆あるいは講中という。親方と講中は一つの規約に従って定期的に所定の金銭(これを掛け銭、掛け米という)または労力を出し合う。
お伊勢参りの費用が10円かかるとして、会員が10人であれば1回の掛け銭はその10分の1の1円。会(講)を10回、定期的に開く。
これを入札や抽選によって講中に順番に金品を融通した。伊勢参りに行く順番はクジで決めた。
伊勢参りに一度行けば、その権利はなくなるが、毎回の掛け銭だけは、その後も払わねばならない。金銭のかさばる講では、落札者が金品を受けるには担保または保証人を立てるのが通例であった。
そして全員が一度ずつ伊勢参りをすれば、その講は終わりとなる。
次にそれぞれの講は実際にはどのようであったかというと。

(1)お参りのための講
一番代表的なものが伊勢講。その他、善光寺講、津島講、洲原講(美濃市の洲原神社)、御岳講、稲荷講(豊川稲荷)、池田講(多治見の池田稲荷)、近くでは妙見講(内津妙見)などがあった。
伊勢講の1回の掛金は、明治、大正で1回10銭程度、昭和10年頃で50銭から1円であった。伊勢参りは2泊するのが一般的な参り方であった。伊勢の内宮、外宮へお参りしてから、神宮寺である朝熊山の金剛証寺へ参り、そこから二見の浦を見物して帰るのが決まりのコースであった。伊勢参りの費用が1円かかるとすれば、小遣いが1円必要であった。講の会員や隣近所への土産を買うためである。土産は、まず御札。それに赤福、太鼓、色づけした貝殻(網にはいっている)、江戸絵という伊勢や二見の版画などであった。
農業の神様の洲原神社へのお参りの土産は、御札。それからツバクラ(紙で作ったツバメ)を子どもたちに。お砂は苗田に撒くように。洲原の江戸絵など。これらのみやげに添えて、米の粉で作った大小2コのだんご(真ん中がくぼんでいる。オカズという)、付け木(木片の先に硫黄をつけたマッチの前身)などを配ったものである。
(2)物品を買うための講には、リヤカー、自転車、布団、蚊帳などの購入があった。
(3)金融機関としての頼母子講・無尽講
金融機関としての講は、古くは鎌倉時代に遡り、村人が相寄って少しずつ金穀を出し合い、困っている人に融通し救済したのが始まりで、それが神社や寺の維持、修繕費も賄うようになり、またお参りの費用を融通するために利用されるようになり、と次第に金融機関としての性格を強めていった。この相互扶助機関としての〈講〉は、銀行がムラにない時代に現金は秋の収穫時と養蚕以外に動かなかったムラの生活で重要な役目を担っていたのである。
たとえば神社の修繕では、明治20年、内津の妙見寺の文書が残っている。それによれば、拝殿新築の為の経費、2千余円を各国の妙見講に寄付を募っており、そこに5千有余もの講社があると記録されているのである。
また、純粋に金融機関としての頼母子講、無尽講には、明治初年頃の『御融通講仕方』という、次のような古文書が残っている。

御融通講仕方
一、人数二百十人組合一組と定む
一、掛け銭毎月壱人三百文づつ掛けること 
御掛け銭会日前日までに世話人が集め持参の事、掛け銭の受取り、銘々え相渡し候事
一、会日例月四日巳刻(午前10時)
一、毎月壱組壱人づつ当り、クジとり者は退き相成ること
一、当りクジえ相渡し、御銭会日の翌日掛け銭請けとりの通ひと引き替え、相渡し申すべき事
一、百ケ月にて満会、但し会銭取引きの儀は時の相場をもってとりあつかひ申すべき事
一、クジ当り、渡り銭、初会より満会までの割合左記の通りに候事、但しクジ当りこれなき者は割戻し銭の儀は末ケ条の通りに候事
一、初会より五会まで 弐貫文
一、六会弐貫四百文
一、七会弐貫七百文
一、八会参貫文
一、九会参貫参百文
一、十会参貫七百文
(略)
一、十四会五貫文
(略)
一、三十一会より三十五会まで壱拾壱貫文
(略)
一、六十一会より六十五会まで弐拾貫文
(略)
一、八十一会より九十会まで弐拾六貫文
(略) 
一、九拾六会より百会まで参拾壱貫文 
一、満会の上残り百十人え三十一貫文づつ
御割戻し相成り候事
御融通講元方
伝馬町菱屋喜兵衛
杉野町美濃屋勘七
知多郡東端村前野小平治
以下合計二十二人

この古文書から見れば、1人300文ずつ、100回、納めるのであるから、満期まで待てば1人あたり30貫文ずつになるはずであるが、10回目に欲しい人は、3貫700文しか貰えない。31回会より35回で貰う人は11貫文、96回より100回で貰う人は31貫文である。また、満期までクジに当たらなかった110人には、31貫文が支払われるとある。故に96回より100回の5人と残りの110人には1貫文の配当があることになる。
また、〈講〉は、貸付も行った。貸付けには、抵当を設定し、保証人を立てるのは、現代の銀行と同じである。
下は、明治27年の古文書で、講を利用した人の借用証である。

講金借用証書
一金五拾円也 但し一割二分五厘則ち一回六円二十五銭宛九会返金ら事
こら抵当として拙者所有地 尾張国東春日井郡不二村大字白山字aa一田壱反歩 外四歩畦畔
右は要用に付き前記講金五十円なり借用仕り所確実なり。返金の儀は壱割弐分五厘掛け通し則ち一会に金六円九十五銭づつ満会まできっと返金申すべく候。もしいち本人に於て返金不行届きの節は保証人引受、会毎ら返金いたすべく候。後日のため請け金借用証券よってくだんの如し
明治27年旧十一月二十一日
aaa様借主aaaa
保証人aaaaa

以上のように、講は、元来は村人の協同の相互扶助から発生したものであったが、時代が下るに従って、金融機関としての色彩が濃くなり、近代に入って、信用組合となり、地方銀行へと発展したのであった。

(助言者伊藤浩、口述者藤江てふ、小林初雄各氏)

私の研究

春日井の黄金伝説

小木曾正明   高蔵寺高校教諭

3つの伝承地
黄金伝説は日本の各地に存在します。有名なところでは佐々成政が埋めたと伝える富山県鍬崎山の黄金伝説がありますが、その謎めいた「朝日射す夕日輝く鍬崎に七つ結び七結び黄金一杯光輝く」の里歌は広く人口に膾炙(かいしゃ)し、聴く者をして黄金発見の夢に駆り立てるものです。
ところで我が春日井市にも黄金伝説は存在します。かつて人々を金堀りに奔走させたとも伝える件の地は次の如くです。

  1. 「朝日射す夕日輝くその下に黄金三升」の言い伝えのある上野三升坂、即ち旧国道19号(下街道)が坂下を過ぎて潮見坂方面にかかる上り坂辺り。(註1)
  2. 「朝日射す夕日輝く鳥の松いけたる金は五万両」の言い伝えのある五万両山、下原古窯背後の高台即ち現桃花園団地の一角。(註2)
  3. 「朝日射す夕日輝く」場所に金の縄と銀の宝物が埋めてあると伝える大草城趾、即ち生地川を隔てて春日井市に接する小牧市大草福厳寺の一角です。(註3)
    地図を参照して頂ければ直ぐ分かる通り、極めて狭い地域に伝承地が集中しています。共通して鍬崎山の場合と同様に「朝日射す夕日輝く」下に黄金の場所を伝えるのも面白いのですが、これは黄金伝説の一般的表現様式でもあった様で、全国的にも多くの例が見られるものです。問題は、それ等が春日井市から小牧市の一部にかかる丘陵地帯にしていることです。春日井市周辺にも黄金伝説の一つくらいあってもおかしくはないのかも知れませんが、何故さして広くもない丘陵地帯の一角に、重なる様にして3つも伝承地が存在しているのでしょうか。「伝説」が成立し、また長期に渉って継承されるには、何らかの背景があるはずです。その事情を探って行けば「黄金」の正体も見えて来るはずですし、たとえ黄金ではないにしろ、郷土の埋もれた歴史の発掘作業という事にはなるかも知れません。

黄金伝説の理解
「朝日射す夕日輝く」下に黄金が埋められているという伝説が全国的なものだという事は先に触れましたが、これは民俗学の分野では「朝日夕日伝説」或いは「朝日長者伝説」として分類されるものです。『日本伝説名彙(めいい)』では富裕招福・長者伝説の代表格として黄金を手にした全国の「朝日長者」を紹介し、更にそれに因んで「朝日さす夕日輝く云々」で始まる「朝日夕日伝説」を並べています。『名彙』ではこの他、黄金に恵まれた長者として「真福長者」「炭焼長者」云々等の沢山の長者も紹介されています。その数ある長者の中でも「炭焼長者」と「朝日長者」は双璧を為すものなのですが、この炭焼長者に関して、柳田国男は「炭焼き小五郎が事」(註4)という論考で、非常に重要な示唆を行っています。即ち「炭焼き」の徒は単なる炭焼きではなく、金工冶金鋳物に携わった人々=「金屋」の徒であったという指摘です。これについて此処では詳しい事は割愛せざるを得ないのですが、この柳田の指摘以来、若尾五雄・高崎政秀・谷川健一等々気鋭の研究家によって日本の黄金伝説の或る部分には、非農耕民としての「金屋」即ち「産鉄民」の営みが大きな影を落としているのではないかと考えられる様になってきました。(註5)
「朝日射す夕日輝く」下にある黄金は所謂「GOLD」ではなく、「鉄」を指すと考えられるならば、黄金を産する金山でもない土地にも広く黄金伝説が分布している理由が論理的整合性を以って理解されて来る訳です。
古来、山陰地方は優良な砂鉄の産地として鉄の精錬が行われていました。鉄穴流しと呼ばれる方法で大規模な砂鉄採集が行われてきたのですが、彼の地での往時のたたら製鉄の在り方が、江戸期に書かれた『鉄山必要記事』という文献に伝えられています。(註6)その記事の中に、古伝承に属す「金屋子神祭文」が引かれており、「朝日長者」が砂鉄を吹けば鉄の沸く事限り為しと記されています。砂鉄の事を粉金(こがね)と呼んだのはこの記事のみならず。当時の一般的な言い方でもあった訳で、この様な事から「朝日さす夕日輝く」下の黄金とは「こがね」即ち砂鉄に因む鉄ではなかったかと考えられて来るのです。名古屋市の金山駅付近の金山神社はかつて「鉄山明神」となっていました。「かね」が鉄であった時代は遥かに長かったのです。

地図

西山製鉄遺跡
ならば先の3つの伝説地には製鉄の痕跡を伴うのかという事になります。先の五万両山と大草城址の中間、大池の近くに金谷浦という場所があります。金谷も金屋も同義で鋳物や鍛冶に因む地名です。(註7)当地にはかつて鉄仏が祀られていました。鉄製の仏それ自体文化史的には大変貴重なものですが、それだけでなく、その付近即ち国道155号を挟んで隣接する西山の畑地には現在でも鉄滓が出土します。この鉄滓こそ当地が産鉄に因む金屋であった動かし難い証拠となります。当地の鉄滓については公式な考古学的調査が為されてはいませんが、膨大な量である事は間違いなく、今でも表面採集は可能です。この西山遺跡については地元の梶田元司さんの研究(註8)があり、故井塚政義教授も深い関心を持たれた所でした。(註9)私も昨年夏、梶田さんの案内で此の地を訪れましたが、鉄滓を直接手にした時の強い衝撃はいまだに忘れる事は出来ません。春日井市に製鉄遺跡が存在する事は意外に知られていませんが、この事はもっと認識されても良い様な気がします。
ではその鉄の素材は何だったのでしょうか。私はかつて尾張の鉄遺物の素材として、この地域一帯に豊富な褐鉄鉱を想定してみた事もあるのですが、西山遺跡の場合は砂鉄であったと断言出来る様です。と言うのは、この地に隣接する丘陵では豊富な砂鉄が出るからです。この丘陵一帯は高速道路及び宅地造成で景観が一変しましたが、それでも砂鉄の出る場所は残っており今でも採集は出来ます。そこは東名高速道路と中央道が合流する小牧ジャンクション付近の崖地で、かつて梶田さんは此地で砂鉄を200kgも採集され、関の刀鍛冶に頼んで立派な日本刀を2振り作られた程です。私も現地で実際に採集してみましたが、磁石を使えば短時間に相当の量が採れます。雨上がりには黒々とした砂鉄が竜の様に浮き上がります。そう言えばすぐ近くの大池には雨上がりに竜が現れるとの伝承(註10)がありますが、或いはこの事を言っているのかも知れません。福厳寺の池にも竜が住んでいたと伝えられています(註11)。竜の伝説を追えば又それなりに面白い事柄も多いのですが、本論の目的ではありませんので此処では省きます。
ところで、この砂鉄産地ですが、地図を見て頂ければ直ぐわかる様に現在では高速道路によって分断されていますが、「朝日射す夕日輝く」の黄金伝説を伝える福厳寺に隣り合っています。そして、この福厳寺の北、かつて西尾道永の居住した大草城址から谷一つ隔てて、もう一つ、製鉄遺跡が在りました。

狩山戸製鉄遺跡
この製鉄遺跡は今では存在しません。それは小牧市桃花台丘陵と東名高速道路の接点、即ち高根のホウトク産業の近くで、狩山戸遺跡と言います。地図を見れば大草と目と鼻の先の距離にある事が理解されると思います。此処でのかつて膨大な量の鉄滓が出土しました。現在では調整池に変じ昔の様子を窺うことは出来ませんが、小牧市教育委員会から詳しい発掘調査報告書(註12)が出されています。私もこの報告書で狩山戸遺跡の存在を知ったのですが、隣に平安末期頃の古窯が何基か並んでおり、たたらの稼動期はほぼこの頃ではなかったかという事です。 
一帯は桃畑になっていますが、確かにこの周辺を歩くと今でも白瓷系の土器片が確認されます。この遺跡の様に古窯と製鉄址の併存が見られるのは大変興味深い事です。何故ならば須恵器窯の高温技術が鉄の還元にも応用された事を示唆するものだからです。鉄は周知の如く800度くらいから還元を始めます。これは私が能登の博物館学芸員の方から直接聞いた事ですが、彼の地では中世炭焼窯跡から鉄滓が発見された例もあるそうで、製鉄と言えば高殿を持つ大掛かりな施設を連想しがちですが、案外簡便な方法では鉄は得られていたのかも知れません。報告書ではこの製鉄遺跡以外にもまだ幾つかの製鉄遺跡が存在していた可能性にも触れられていますが、今となっては不明となっています。 
この製鉄遺跡背後の丘陵には篠岡古窯群として知られる無数の古窯がありました。一方西山製鉄遺跡には隣接して須恵器生産で有名な下原古窯群がありました。その両者に重なる様に黄金伝説が付随しているとすれば、「こがね」の正体と、伝説を育んだ歴史的な背景が透かし彫りに見えて来るのではないでしょうか。


下街道周辺
2つの黄金伝説地についてはこれで或る程度は自分なりに納得がいったのですが、残る三升坂についてはどうでしょうか。この地に鉄の痕跡はあるのでしょうか。
当地での鉄滓や砂鉄といった明確な物証を残念ながら今の所得ていません。しかしながら目を周辺に拡げると、かつての下街道周辺には少なからず鋳物や鍛冶に因む字名が点在する事に気づきます。例えば庄名には「鍛冶屋敷」、松本及び神明に「金地蔵」、出川近くの「金カ口」といった具合です。この他、下街道沿いには西尾に「鋳物師洞」の字名があり、此処ではかつてマンガン鉱山が稼動していました。それらの字名が金屋に因むものである事は疑いを得ません。地名を一つの化石資料と考えるならば、物証を欠くものの、或る時期下街道周辺に金屋の営みがあった蓋然(がいぜん)性は否定しきれないと思われます。これを補うものとして、『白山円福寺寄進帳』に出る「鍛冶屋前」の記事や寺宝の「金谷済」銘文等も挙げる事が出来るかと思います。(註13)
実はこの地域の金屋について思いを馳せたのは、私一人ではなく、故井塚政義氏も下街道上野一帯に金屋の存在を想定された方でした。井塚氏は先の西山製鉄遺跡から出土する鉄滓を主な論拠とし、当地上野を有名な水野太郎左衛門の故地と主張されたのでした(註14)。水野太郎左衛門家は周知の通り江戸時代を通じて、尾張藩の鋳物の総元締めを行っていた由緒ある鋳物師の家柄です。初代は上野太郎左衛門とも称しましたが、その「上野」とは太郎左衛門家が代々居住した名古屋市千種区鍋屋上野から来る、とするのが一般的通説です(註15)。しかし、井塚氏は敢えてそれを春日井市の「上野」と考えられたのでした。
この問題は、太郎左衛門関連史料中最も初期に属する大永2年(1522)「尾州山田庄上野郷太郎左衛門範家」の鰐口銘文中の「山田庄」の解釈が絡んで来ますので、話が若干ややこしくなります。山田庄は元亀3年(1572)頃には春日井郡に編入されており、水野家文書中の由緒書には出自が「春日井郡上野」となっていて、この「上野」が千種区上野と春日井市上野と両方に解釈される余地を残すのです。この問題を此処で深く論ずる余裕はありませんが、最近の『愛知県地名大辞典』や『愛知県姓氏人物大辞典』にも春日井市上野が水野太郎左衛門の故地と解説されている事だけは紹介しておきたいと思います。(註16)
春日井市周辺では近世以前にはむしろ、犬山の羽黒鋳物師(註17)が世に知られていました。戦国末期頃、この羽黒鋳物師の衰退と水野太郎左衛門家の興隆とがパラレルな関係で推移しますが、この辺の動向とも照らし合わせながら「上野」の金屋の問題を考えて行くべきかと、今は考えています。(註18)

白山円福寺「かねば」
坂下から一歩高蔵寺ニュータウンに入れば高森山が目につきます。山頂に古墳を伴ったこの高森山にもかつてマンガン鉱山が稼動していました。いわゆる狸掘り採掘の跡が今でも残っていますが、鉱山跡に接して鉄分の濃い、分厚い褐鉄鉱の脈が浮き出ています。山下の高蔵寺高校のある一帯でも造成中には沢山の高師小僧即ち褐鉄鉱が見られたそうです。褐鉄鉱自体は特に珍しいものでもありませんが、高森山は露頭としてはかなり大きなものです。この褐鉄鉱が鉄素材になり得るかどうかは従来議論のあるところでしたが、近年、大同工業大学・横井時秀教授の製鉄実験によって充分用を成す事が証明されています。この実験は新聞にも紹介され、私も実際に見学する機会を得ましたが、簡単な設備で鬼板から玉鋼が採れる事に正直驚きました。しかし、それにしても褐鉄鉱は尾張東北部には一般的なものですので、高蔵寺ニュータウン界隈に鉄を探る試みとしては、如何に高森山が厚い鬼板層であるとしても、やや不足と言わざるを得ません。
何故私が此処で高蔵寺地区にこだわるのかと言いますと、高座山の麓の五社大明神社には、此の近隣では余り見られない天目一箇神が祭られているからです。この神は周知の如く金属・製鉄神として良く知られた神で、此の地に天目一箇神が祭られる以上何かの特殊な事情がなければならないからです。
この天目一箇神については前から心に引っ掛かっていたのですが、昨年夏旧高蔵寺町在住の日比野実氏からお手紙を頂き、白山神社の裏手丘陵にかつて「かねば」と呼ばれる豊富な砂鉄を含む場所があった事を教えられ、理解の糸口を掴んだ様な気がしました。
件の地には今は住宅が密集していますが、かつては椎の木池と呼ばれる雨池があり、そこから流れる繁田川の川底には砂鉄が黒光りしていたという事です。又丘陵下の湿田に「かねのき」と呼ばれる木が戦後まであったそうです。そう言えば『高蔵寺町史』にも白山地区の明治頃の字名として「金子木」が出ていたのですが、日比野氏の指摘があるまでこれを「かねのき」と読むには思い至りませんでした。「かねば」は私の知る限りでは、例えばこの近くでは瀬戸や多治見にも同様の地名があり、2例とも「鐘鋳場」から来るものでした。(註19)とするならば、白山地区の「かねば」も恐らくこの地の砂鉄を用い、白山円福寺の鐘を鋳た場所であったのでしょう。
「かねのき」の場所は腰までつかる湿地帯だったという事です。とすれば天文17年の奥書を持つ『尾張白山寺縁起』(註20)記事中の十一面観音を得たと伝える「田中松島」というのは或いはこの付近であったかとも考えられます。又、「かねば」に関しては、多治見の伝「鐘鋳場」付近に「朝日射す夕日輝く南天のもと金の鎖が百たぐり」の伝承地がある事も付記しておきたいと思います。(註21)

砂鉄層脈
その後、高蔵寺中学裏の崖にも、かつて豊富な砂鉄層があった事を同中学出身の友人から聞きました。磁石で幾らでも砂鉄が採れたという事でした。この白山から高蔵寺にかけての豊富な砂鉄層と、先の高速道路小牧ジャンクション周辺の砂鉄層は80mの等高線上に存在します。そして興味深い事に、先の3つの黄金伝説地もやはり等高線80mラインに並んでいるのです。一体、これ等の事柄は何を物語っているのでしょうか。
この80mラインの地層は、地質学上の新第3紀層即ち瀬戸層群矢田川累層に当たります。新第3紀は古東海湖の時代で湖底に重い鉄分が広く堆積した時代でした。従ってこの地層に豊富な砂鉄脈が存在するのは不思議ではありません。その層脈が地表に露頭した場合、それが「こがねの地」であり黄金伝説の地であった、と考えてみると一連の事象が一貫性を持って理解されて来る様な気がします。そして又、この「こがね」の地に「朝日射す夕日輝く」云々の伝説を後世に残したのは、「こがね」を生業の基とした産鉄民・金屋の徒であったろう、という結論が得られる様に思われるのですが、如何でしょうか。

結語
黄金伝説にふと目が止まり、調べていく中で、それが春日井市東北部の一角に集中している事への疑問から、自分なりにその納得の行く理由を求め、思考の曲折を経て一応の結論を得るに至りました。春日井市東北丘陵一帯が鉄に因縁浅からぬ地であった様子が、「こがね」を追って行く中で浮かび上がって来た訳です。この地の金屋が何時頃、如何なる状況下でたたら業を展開させたかについては、今の所、当地の須恵器生産に陰りが見え始めた時期、そして白山修験が美濃馬場から積極的に教線を拡大し始めた情況等を漠然と想定してもいるのですが、これらの事柄については尚多くの問題が残っており、今後の課題としたいと思います。
従来、尾張の鉄に関する系統的な研究というものはそれ程多く成されている訳ではありません。この方面で纏まったものとすれば『東海鋳物史稿』があるのみで、無論、部分的には優れた研究も無しとはしませんが、総じて遅れている領域と言えます。しかし、目を転ずれば木曽川流域のみならず、一宮、稲沢、犬山、熱田台地等にも産鉄の痕跡は見て取れます。かつて我が春日井市にも規模の大きい産鉄の営みが存在し、そのかすかな記憶が時を隔てて黄金伝説として今に伝わったとするのは、いささかロマン的過ぎる見方なのかも知れませんが、あくまで蓋然性の問題を論じた訳で、知のトレンチと受け取って頂ければ結構です。
この間、伝説の背景を尋ねてあちこち歩き回りましたが、その過程で、我が郷土は歴史の大いなるロマンをまだまだ包み込んでいる土地だと感じたものです。或いは私にはこの事が一番の収穫であったかも知れません。この間、梶田さん、日比野さんを始め、地学の長縄先生、郷土史の伊藤先生、梅村先生等々、色々な方々から助言や親切な案内を頂きました。この試みが曲がりなりにも何とか一つの結論に辿り得たのは全てこの方達のおかげです。誌面を借りて御礼申し上げる次第です。

  1. 伊藤浩『春日井の地名物語』(昭和62年)42頁
  2. 伊藤守雄『しもはら』(昭和46年)23頁、梶田一男「下原の思い出」(『郷土誌かすがい・第30号』昭和62年)
  3. 小牧市篠岡中学校『篠岡百話・第1集』(昭和44年)26頁
  4. 『定本柳田国男集・第1巻』(昭和38年)
  5. これらの研究はしかしながら長い間、正統民俗学の立場からは異端視されて来たのも事実です。というのも柳田民俗学は農耕民即ち「常民」の学問として、農耕儀礼に力点を置き続けたからです。しかし最近の歴史学では、民俗の多様さにも注目が為される様になって来ました。東海地方の金屋に関しても、かつては体系的研究と言えるものは『東海鋳物師史稿』があるのみで細々としたものでしたが、昨今網野喜彦氏の『中世鋳物師史料』或いは村瀬正章氏の『美濃国勅許鋳物師盛衰記』等の基礎資料が上梓されるなど、学問的照明が投げかけられて来ています。
  6. 谷川健一監修『日本庶民生活資料集成・巻10』(昭和45年)
  7. 例えばこの近辺で言えば守山区金屋は東区長母寺境内にあった鍛冶の名残りですし、同様の例は犬山市金屋、可児市金屋の場合でも証せられます。
  8. 梶田元司「春日井西山製鉄遺跡」(『郷土誌かすがい第4号』昭和54年)及び「西山古代製鉄址2」(『郷土誌かすがい第8号』昭和55年)後者では西山鉄滓の分析結果と共に成分は砂鉄であるとの貴重な報告が成されています。また同氏の「西山製鉄址3」(『郷土誌かすがい第35号』平成元年)では砂鉄産地と砂鉄で作られた刀剣の事が詳しく紹介されています。尚前掲伊藤守雄『しもはら』にも西山の鉄くずの紹介があります。
  9. 井塚教授は早くから中世の製鉄技術革新に及び尾張在地の鉄文化に関心を払われ一連の『戦国の光と影』(昭和50年)・『庶民の世紀』(昭和56年)を著しておられましたが、梶田元司との出会い後この地の製鉄址に注目され、「尾張鉄地蔵随考」(『名古屋栄養短期大学紀要・第7号』昭和57年)を書かれ、更に構想を『和鉄の文化』(昭和58年)に発展させておられます。
  10. 前掲『しもはら』20頁
  11. 『篠岡百話・第2集』(昭和45年)137頁
  12. 小牧市教育委員会『愛知県小牧市大字上末下末―桃花台沿線開発事業地区内埋蔵文化財発掘調査報告書』第7章「狩山戸遺跡の調査」(昭和52年)
  13. 円福寺『円福寺遺芳』(昭和59年)95頁、寺宝については39頁。尚この『寄進帳』の関連記事前後を見ると庄名の付近に「鍛冶屋前通野」なる地が存在した様に受け取れます。この段には更に「金谷妙見江御供ノ為ニ寄進申候」なる記事も見えており、この「金谷妙見」が何を指すのか不明ですが、或いは西尾の日吉神社を指すかとも考えられます。西尾にはマンガン鉱山の在った「鋳物師洞」が隣接し、日吉神社は内津の旧妙見と伝えられるからです。白山円福寺も日吉神社も天台宗ですから或いは相互の関連があったのかも知れません。
  14. 井塚政義『和鉄の文化』34~43頁
  15. 『東海鋳物史稿』、『愛知県の地名』、名古屋市博物館『尾張の鋳物』小林元『千種村物語り』etcはこの立場です。一方『愛知県地名大辞典』は「鍋屋上野」の項で名古屋市東区鍋屋説を載せ矛盾が見られます。
  16. 小和田哲男「英吉の出自と職人集団」(『戦国期職人の系譜』平成元年)にも春日井市上野説が主張されています。
  17. 羽黒鋳物師については『東海鋳物史稿』(昭和42年)の随所に記述があります。纏まった研究としては名古屋市博物館・部門展『尾張の鋳物』(昭和58年)があります。他に横山住雄『犬山の歴史散歩』(昭和60年)26-28頁、滝喜義『山姥物語とその史的背景』(昭和61年)65-66頁、吉野家記念出版会『梶原七人衆と山姥物語』(平成元年)268-269頁etcに論及があり、数百年にわたって羽黒では金屋の業が営まれていた事が知られます。
  18. 蛇足を付すならば、戦国期春日井野伏せりの筆頭格曽呂利宗八の「火車」の伝には、かすかに鉄の匂いが感じられる様な気がします。谷川健一氏は『鍛冶屋の母』で火車伝説を産鉄に起因する特殊な伝承と論じられましたが、曽呂利の死骸を火車から救ったのは隣地に砂鉄の山と黄金伝説を抱合する福厳寺の盛禅和尚であった事、福厳寺には火伏せの秋葉信仰が当初から伝わっている事、それは金工の徒の信仰対象となっている場合が多い事等々から考えると、曽呂利を頂点とする春日井野伏集団も単なる「豪壮勇悍而以盗為業」の「極重悪人」(『日域洞上伝』)であったのかどうか再考の余地はある様な気がします。彼に繋がるのかどうか、同じ曽呂利を名乗った秀吉伽衆の一人曽呂利新左衛門が刀鍔を扱う人物であったとされるのも私には引っ掛かる点です。近世に於いても春日井原が金屋業に全く無縁でも無かった事は、春日井群上末村で田島茂助が松平忠吉から「御てっぽう薬合」として150石を賜っている事からも言えるのではないかと思われます(下村信博「松平忠吉と鉄砲技術者」『名古屋市博物館だより・53号』昭和61年)。鉄砲や大砲の鋳造は無論鍋屋上野住水野太郎左衛門系統に一任となりますが、江戸初期に於いて、当地が鉄砲生産に関連して多少なりとも注目のあった事が推測されるのです。
  19. 瀬戸警察署有志『瀬戸の地名由来』(昭和62年)、多治見市立小泉小学校『ふるさと小泉』(昭和51年)239頁
  20. 前掲『円福寺遺芳』83頁
  21. 佐々木英夫『聞き書き』同書は多治見市史編纂室所蔵、未刊

郷土散策

白山信仰15

村中治彦   春日井郷土史研究会会員

お洲原詣の道
本誌45号で明治末の白山村お洲原詣代参の例を紹介したが、ルートがはっきりつかめなかった。その後調査を続ける中で、白鳥町の上村俊邦氏より「阿弥陀瀧遊覧紀行」(註1)という書物を紹介いただいたので、それによりルートを辿ってみたい。
この紀行文の筆者は不詳であるが、内容は文政5年(1822)8月に春日井郡新福寺に寓居していた美濃郡上郡長瀧寺阿名院の住職青墨智瑞法印が、友人恵了師を誘って阿弥陀瀧(註2)を遊覧したときの話を聞き取って記したものである。
法印一行は8月25日五更(午前4時)に出立して、大曽根から勝川まで下街道を通り勝川札の辻から里道を抜け犬山街道に出ている。
入鹿新田、外山、小牧宿、久保一色、楽田、羽黒、橋爪を通り、犬山城下で昼食を摂っている。内田の渡しで木曽川を渡り鵜沼宿で木曽路の本街道に出ている。
白山村の一行は池の内から楽田へ出たものと推測されるので、楽田からは同じルートを辿ったものと考えられる。明治の末といってもこのルートは大きな変化はないように思う。例えば内田の渡しは、江戸時代と同様に舟渡しであった(註3)。
法印一行は本街道左手の山の岩肌にある岩尾観音に参詣しているが、白山村の一行も同様に参詣して道中の無事を祈ったことであろう。
勝山の道標を左折して北へ取り、深萓追分の道標を左へ取って関へ向かう。この辺りの様子を紀行文は次のように記している。
「…関ヘ行道標ノ石アリ邑ヲ出離レ田面ノ道ヲ行野原ニ出ル比所細キ道幾筋モ有テ分リ難シ……中略……道殊ニ悪シ途中行人ニ逢ズ淋シキ道ナリ……」
白山村の一行は、先輩から道順を詳細に聞いて書き留めてきたであろうが、それでも小川に架けてあった板橋が取り片付けられて無くなっていたりという思いがけない出来事の一つや二つはきっとあったことと思われる。
法印一行はこの後、田原村を通り、肥田瀬ノ渡しで津保川を渡り、鋳物師屋村を経て七ツ(午後4時)頃関に到着した。そして、吉田観音に参詣した後、本町の宿屋に泊まって3いる。名古屋から関まで10里(約40キロメートル)の道を12時間費やしている。
翌日、法印一行は街道から外れて、善光寺大佛、圓泰寺(註4)、中池、高沢観音等の名刹・名勝を訪ね、上有知に宿を取っている。
関から上有知までは2里、さらに曽代村を経て立花(橘)の渡しで長良川を渡り、山坂を登り降り地蔵峠を越えて長良川沿いに行くと須原村に出る。上有知から須原までは2里で、この辺りは今も、旧郡上街道の面影をよく残している。

洲原大神社図

洲原神社について紀行文は次のように述べている。
「……木戸アリテ番所ノ如キモノアリ是ヨリ内ハ社家両側ニアリ(註5)又行ハ反橋アリ其傍ヲ通リテ楼門ニ至ル内ヘ入ハ拝殿神楽殿御供所等アリ宮ハ三社ニテ前面ニ玉垣アリ宮ハ何レモ南面ニシテ祭神ハ木栗姫命(註6)左ノ社伊弉冉尊右ノ社大巳貴命境内木立森々トシテ大樹数多繁茂シ社頭タタスマヒ殊勝ニシテイト神サヒタル宮居ナリ
此御神ハ神威殊ニ厳重ニシテ霊験著シク諸人ノ尊敬大方ナラス毎年十一月晦日神人前面ノ郡上川ニ入テ七十五度ノ垢離ヲトリおごそかニ神事執行アリトナン……」

  1. 神谷三園翁の蔵書「梅處漫筆」(諸家紀行文8編所収)より安政5年に細野要斎が筆写したと思われる肉筆草稿本
  2. 郡上郡白鳥町前谷から石徹白へ通ずる県道の途中標高750mほどの所にある。
  3. 犬山橋の架設は大正14年(1925)
  4. 尾張藩家老竹腰山城守の菩提寺
  5. 大鳥居前参道の両側にあった屋並は、昭和38年の国道156号改良工事のため立ち退きとなった。
  6. 洲原神社御由緒略記には御本殿の祭神は伊邪那岐命となっており、菊理姫命は外苑鶴形山の社に祀られているという。

協力者
洲原神社宮司横家勉氏
洲原神社名誉宮司横家弘一氏

発行元

平成7年3月15日発行
発行所春日井市教育委員会文化振興課

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