郷土誌かすがい 第59号

ページID 1004431 更新日 令和6年1月10日

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平成13年9月15日発行第59号ホームページ版

勝川地区の「馬之塔」

勝川地区の「馬之塔」

“わーっしょい、わーっしょい……”掛け声と共に、大きな飾りを付けた馬と白粉に長襦袢姿の人々が駆け抜ける勇壮な姿。上の写真は、「勝川馬之塔」です。
一行は勝川天神社を出発点として東・中・西の3ルートに分かれて練り歩き、大弘法通り商店街に集結します。
馬之塔は、江戸時代から尾張地方各地で行われていた、五穀豊穣を祝う伝統的な行事。その年の収穫に感謝して、“馬林”と呼ばれる扇型の飾りを付けた馬を神社や寺へ奉納します。ほとんどの地域で、戦争などによって廃れてしまったこの行事は、勝川地区でも昭和34年の伊勢湾台風を境にその姿を消していました。ところが、平成元年、地域の有志の呼びかけで「勝川馬之塔の会」が結成され、“わ(話)っしょい・わ(和)っしょい・わ(輪)っしょい”をスローガンに、ほぼ昔のままの形(馬林は“大豊作”時の仕様で行うこととした)で復活したのでした。以来、毎年準備には会員だけでなく、お年寄りや子どもたちも馬林作りなどを通じて参加します。地域住民が一丸となって形にする活気とパワーが、そこにあふれています。
現在、勝川地区では、安政4年の銘のある馬具を保有しているそうですが、お話してくださった木村さんは、「市内には、他にも立派な馬具を持っている地区がたくさんあるんですよ。だから、その気になれば、いつでも復活させられます。みんなで春日井まつりのパレードに参加したら、きっと、全国に発信できるような独自の祭りになると思いますよ(笑)」と、期待に瞳が輝いていました。皆さんの町にも、昔懐かしい活気を呼び戻してみませんか。

市教育委員会事務局

郷土探訪

春日井をとおる街道18 村の道-その1

櫻井芳昭 市文化財保護審議会委員

1はじめに
尾張地域の江戸時代の村は、生活・生産のまとまった組織であり、自己完結性が求められていた。村には、居住地域としての集落、生産の場である耕地、採取地としての原・山・川などがあり、道はこれら3つをつなぐとともに、祠、塚、寺社、遺跡、墓地など信仰の対象になっている所へも通じていた。村の道の特色について、下原村、下市場村、松河戸村を中心にまとめたい。

明治以前の道

表1春日井市内3村の道幅別郷内道

道幅

松河戸村

松河戸村
パーセント

下原村

下原村
パーセント

下市場村

下市場村
パーセント

2尺

21

17.7

3

5.8

 

 

3尺

30

25.2

5

9.6

8

7.3

4尺

15

12.6

7

13.5

12

11.0

5尺

12

10.1

2

3.8

23

21.1

6尺

26

21.8

21

40.4

29

26.6

7尺

5

4.2

14

26.9

9

8.3

8尺

6

5.0

 

 

20

18.4

9尺

4

3.4

 

 

8

7.3

119

100

52

100

109

100

(注)資料:愛知県公文書館蔵「松河戸村、下原村、下市場村地籍帳」明治17年(1884)より

2村の道のいろいろ

1 下原村の場合
ア集落内の道
集落内の道は、屋敷と屋敷、屋敷と村の諸施設を結んでおり、下原村では 図1 のようである。村内の道の状況を明治17年の地籍図によってみると、52路線、総延長 9,566 間(17,219メートル)で、道幅は6尺道(1.8メートル)が路線数で40.4%・総延長で50.5%、7尺道はそれぞれ26.9%、26.1%と6尺以上が大部分で、当時としては広い道が多かったと言える。集落内の主要な道では、直交するところがほとんどなくT字やL字型の三差路が大部分であるため、慣れない者は方向を定めることが大変難しい道の構成になっている。こうした複雑な道になったのは、分家が出来ると道が付けられ、次第に周辺へ拡大していったものと考えられる。
南にはかつて木戸があり、西は見通しのきく田んぼが続き、東には生路川、北は八田川がある平地の集村である。南からの地名は前木戸、南木戸、くろ堀、西堀、松山、中しょうじ、奥屋敷と続くが、北へ直線的に通り抜ける道はなかった。特に、奥屋敷ではすべての道が行き止まりになっており、追い込まれたものは逃げ場を失うようになっていた。
村人は家の軒下や庭先をつなぐ近道の「かんしょ道」や「しょうじ」を使って、ちょっとした用事や触れ回りをこなしていた。
現在も昔からの道を多く残しているが、かんしょ道には木が植えられたり塀が設けられたりして、以前ほど気軽に利用できなくなっている。
村の昔からの中心的な道を本道と呼び、年中行事や婚礼の道行きでは、遠回りでも本道を利用していた。最大の村行事であるお祭りでは、津島祭り、本祭り、上祭りの3回とも馬が出た。津島祭り、上祭りには北島と東島で1頭、西島と南島で1頭出し、本祭りは4つの島で1頭ずつ出した。各島の馬宿で馬を飾って、各島のお天王へ参ってからお宮へ集合した。そして、揃って各島の宿とお天王、時には区長の家を巡って、最後に玉雲寺で解散するのが順路であった。

イ耕地・山への道
集落の周りには一面の田畑が広がっている。それぞれの家では生産の場である耕地へつながる道を、作道、作場道・耕道等と呼んで、いつも通う経路が決まっていた。これに関連して検見道や虫送りの道があり、耕地の主なところを回って、最後に隣村との境ヤマとの境で終わるのが慣例である。下原の虫送りの道は八田川沿いの西浦から出発して溝・あぜを通って、柿の木池下で竹を刺して納めていた。

ウ外と接する道
村と外部を結ぶ中心道は、勝川から八田川沿いに進む大草道で、善光寺道ともいい、神屋の長坂の弘法様から下街道へ出る最も近い道であった。また、現在の善光寺橋のところが、村の出入りの中心であった。「新修春日井市近世村絵図集」に下原村を北から俯瞰したカラーの図(年号不詳)が収録されている。大草道には旅人を乗せて馬をひく人、天秤棒で荷物を運ぶ人等が描かれており、外と接する道として機能していたことがうかがえる。
大草道と小牧をつなぐ市街道が出会う伊勢塚のあたりも村の出入口になっており、代参で社寺参詣する人たちの送迎、成瀬様から人足要請があったときの「ほら貝」吹きの場所等、村へのアクセスの拠点であった。
東からは屈曲しながら村へ入る道があり、白山、出川、大泉寺などの村々と結んでいた。南は下原新田村への里道が2筋通じていた。

2 下市場村の場合
ア集落内の道
内津川右岸の鳥居松面にある古村である。集落の中心は郷中で、ここを東西に走るのが中心道である。この道の集落の東と西の端には木戸があったと伝えられている。昔木戸の外で馬市が立ち、賑やかになるに従っていろいろなものが売買されるようになった。西の木戸の方を下の市場、東の木戸の方を上の市場と呼んでいたようで、下の市場の方が盛んであったことから下市場の地名がついたであろうという。堀ノ内には市道という地名があり、下市場の馬市へ往来した道が通っていたところで、別名善光寺道とも呼ばれていたという。
慈眼寺が南東角、墓地が北西角、神明社が西角に置かれている。また、豊臣秀吉に仕えた梶田出雲守繁政の五輪塔が集落の北にある。集落を少し離れたところの北方に山神森、富士森、西方に伊勢山がある。
下市場村郷中の集落では図2のようであり、全体としては北に行くに従って東西に広がった台形状で、道は神明社前の東西に走る2間余の道が主で、南北の道が支援になっている。村内の道の条件をみると、109路線、総延長13,720間(24,943メートル)で、道幅は6尺(1.8メートル)が路線数で、26.6%、総延長で29.7%と最も多く、次いで5尺道の21.1%、8尺道の18.4%となっている。6尺以上が60.6%であることから、広い道が多かったといえる。

下市場地区旧道

イ外と接する道
郷中はこの辺りの主要道である下街道から隔たった位置にあるので、江戸時代になって支郷として下市場新田である四ツ谷集落ができた。
郷中と外部をつなぐ道は、東は内海道道といい、内々神社へ詣でる道で内海道道とも呼ばれ、古くは「原下街道」ともいうべき村々を結ぶ道であったと考えられる。北から西にかけては、大泉寺への道、豊場道へ出る孫左定納界道、関田への勘右道、下街道へ出る名古屋道があり、いずれも下街道と接続している。南の内津川方面へは南城道、堀ノ内への道がある。主な道の幅は、下街道2間5尺(5.1メートル)、豊場道と名古屋道1間2尺(2.4メートル)であった。
神明社の南西角に「これより右ハつしまみち、左ハなごやみち」と刻まれた道標が立っており、現在は境内に移されている。津島道は豊場道へ出て清洲に至り、美濃路を南下して枇杷島から津島街道に入り、甚目寺、勝幡を通って津島へ行っていた。神明大明神社には津島神社の境内末社がある。
集落内の主な道は6尺以上で、幹線の郷中道は2間余と広く村の中心であることがわかる。郷中の北東部の四差路付近をみると、東西の道から各家へ南北の小さな道が分かれており、屋敷への入口や門は必ず南東方向に設けられている。
屋敷へは南東から入り、入口から母屋への道を「しょうじ」と呼んでいる。婚礼ではしょうじから出て本通りを通り、嫁ぎ先ではしょうじから屋敷へ入り、葬式の場合はしょうじから出て本通りを通って寺へ行き、帰りは北の裏口から屋敷へ入るのが慣例であった。

主な参考文献
伊藤守雄「しもはら」1971、下原区
下市場土地区画整理組合「下市場誌」1998
春日井市「春日井市史」地区誌編2、1985
春日井市「春日井市史」地区誌特別編、1983
春日井市「新修春日井市近世村絵図集」1983
小牧市「小牧市史」資料編3、1979
一宮市「一宮市史」資料編8、1968
愛知県公文書館「下原村地籍字分全図、地籍帳」1884
愛知県公文書館「下市場村地籍字分全図、地籍帳」1884
水本邦彦「近世の景観」日本通史12巻所収、1994、岩波書店
山本光正「村の道」歴史公論2巻10号所収、1983、雄山閣
福田アジオ「道と境」日本村落史講座II所収、1991、雄山閣 
櫻井芳昭「尾張の街道と村」1997、第一法規出版
樋口忠彦「日本の景観」1981、春秋社
木村礎「村の語る日本の歴史」1983、そしえて
足利健亮「さまざまな道」日本民俗文化体系6(標泊と定着)1995、小学館
八木康幸「民俗村落の空間構造」1998、岩田書院

郷土散策

まちおこし報告平成坂下寺子屋について

伊藤浩 春日井郷土史研究会顧問

寺小屋

1はじめに
坂下まちおこしの一つとして、萬寿寺で昨年11月から始めた親子教室を「平成坂下寺子屋」と名付けました。
教室となった本堂の入口には、桧板に墨書した新しい看板もかけられました。第1期の寺子となった親子は8組。師匠始め3人の会員の補助で始まりました。
まず、学習開始の合図は寺の板木を打って、はじまりのあいさつを交わします。次に、時間を計るために線香に火をつけて立てます。師匠は寺子屋の雰囲気を出すため、作務衣を着て、馬の絵の描かれた衝立を背にして、教本・硯・線香鉢などがのった机の前に座ります。寺子たちは師匠の机の前にコの字型に並んで座ります。馬の絵についてですが、江戸時代から昔の寺子の入門(入学)は、旧暦の“初午の日”と決まっていました。馬は従順で、物覚えが良いとのことからこの日になったといわれます。

2学習の一例 「下街道」
読み・学習
下街道は、江戸時代には“善光寺街道”とも呼ばれ、名古屋(東海道)と大井(中山道)を結ぶ庶民の道で、商売や信仰の道でした。坂下は、その宿場町の一つとして栄えました。
読本資料―「春日井の歴史物語」・「広報かすがい」(平成12年10月1日号特集記事)・「下街道散策図」・「白地図」
手習い・習字
手本を見て、親子で書き順に注意をしながら毛筆で書きます。書き上げた一枚はウオッチングの際に、ふれあいの館「坂下の宿」のロビー壁面に展示します。
ウオッチング(現地視察)
坂下の町並みをいろいろ観て歩いたり、道標の刻字を手でさぐったりします。

道標 「右江戸ぜんこうじ道、左大山さく道」
建物 「旅籠米屋」…米屋半六といい、造り酒屋も兼ねていた。
「旅籠藤屋」…この先から旧下街道の道幅より少し広いぐらいで潮見坂、尻冷し地蔵へ続く。
「札の辻」…高札がある場所。高札を読む。

第1期生の感想文

寺子屋に行って
坂下小5年伊藤雅大

ぼくは、寺子屋に行って、萬寿寺やかいことかいろいろなことを、いっぱいおしえてもらいました。ぼくは、印象に残ったのはかいこのことで、まゆから糸ができるなんてぜんぜん思っていなかったことです。あと、坂下町のたくさんの家でかいこをかっていて、せい糸工場が近くにあるなんてぜんぜん知りませんでした。先生には、ほんとうにたくさんのことをおしえていただき、ありがとうございました。

平成坂下寺子屋学習表(平成12年11月から13年3月)
月日 学習題 ウオッチング(現地)

11月11日

寺子屋と萬寿寺 萬寿寺
坂下行在所跡

11月25日

下街道 道標旅籠跡
米屋萬屋藤屋

12月9日

坂下の地名
源敬さま
坂下御殿跡
札の辻高札

1月13日

養蚕と製糸工場 長谷川製糸工場跡
永井製糸工場跡

1月27日

ヤマトタケル 御手洗さま

2月10日

坂下神社と平和の碑 坂下神社平和の碑

2月24日

民踊塚
わがまち坂下
民踊塚
歌と踊り

3月10日

春日井のたんじょう
地名
廻間1号墳
神屋古窯
  • 教科書は「春日井の歴史物語」を使用
  • 学習時間午前10時から1時30分前半は萬寿寺、後半は現地にて行う

安藤秀元

第2期生のことば
安藤秀元くん(坂下小6年)
学校の先生に勧められて、この坂下寺子屋に参加しました。
わかりやすく教えてくれるからよくわかるし、社会科の勉強にもなります。


湊千恵

湊千恵さん(坂下小6年)
坂下の昔の事が知りたくて参加しました。ローソクで時間を計る事とか、難しい漢字の読み方とか、知らない事を教えてもらえるのがイイです。

郷土の自然

築水の森

内海勇夫 高森台中学校教諭

本校(高森台中学校)の北に広がる丘陵地帯は、築水の森と呼ばれています。ここには、春日井市少年自然の家があり、築水池の周りを含めた地域には、遊歩道が整備され多くの人が散策に訪れるところとなってきました。
また、少年自然の家や都市緑化植物園では、季節ごとにイベントが行われ、多くの市民に親しまれています。

地質について
このあたりの地質は、弥勒山・道樹山を形成する秩父古生層の上に第3紀層と呼ばれる砂礫層が積もってできています。また、約7,500万年前に地下のマグマが、地上付近に出てきたと考えられる、花崗岩や石英斑岩も見られます。築水池近くの道沿いには、この古生層とそこに貫入した石英斑岩の層の上に第3紀層が不整合に重なっている様子が観察されました。しかし、今では植物に覆われはっきりしなくなってしまいました。

湿地模式図

湿地について
湿地というと、尾瀬沼に代表されるような泥炭湿原が思い浮かびます。これは、寒冷地の湖沼に生えた植物が腐らずに堆積した草原です。しかし、築水池の周りに見られる湿地は、粘土質が露出している丘陵地帯に見られるものです。このような湿地は、東海地方に多く分布しており、東海地方固有湿地と呼ばれています。湿地はごく小規模で、築水池に流れ込む小さな流れや、湧き水の部分に、点々と分布しています。また、湿地の部分は木が茂らず、比較的明るくなっています。このように日光が充分に差し込むことも湿地の特徴です。

湿地の植物
このような湿地には、他の場所では見られない植物が分布しています。その特徴のひとつは、食虫植物です。食虫植物は葉に粘液の出るモウセンゴケの仲間と、捕虫嚢を持つミミカキグサの仲間に分けられます。
ここには、コモウセンゴケ(トウカイコモウセンゴケ)がたくさん見られます。春から夏にかけてピンク色の小さな花を付けます。葉には、粘液の出る腺毛を持ち、小型の昆虫をとらえます。
黄色の花が咲くミミカキグサは、花が終わったあと、がくが大きくなって実を包み、耳掻き状になることから名が付きました。
薄紫の花を付ける、ホザキノミミカキグサも見られます。日本産のミミカキグサのなかでは最も背が高く、他のミミカキグサと違って花後のがく片が耳掻き状になりません。
次に、この地方にしか分布していない植物や、多くがこの地方にある植物群があります。これらは、東海丘陵要素・周伊勢湾要素などと呼ばれています。シデコブシはその代表といえるものです。湿地ではありませんが、モンゴリナラもその一つです。その他には、ハルリンドウ・ショウジョウバカマ・カキラン・サワギキョウ・ウメバチソウなど貴重な植物がこの小さな湿地に見られます。

コモウセンゴケ

ミミカキグサ

シデコブシ

尾根の植物
この付近の植生は、シイ・カシ・ツバキを中心とした常緑照葉樹です。ここにもツブラジイ・アラカシ・ヤブツバキなどが残っています。しかし、燃料にするための伐採や山火事のために昔からの自然林はほとんどなく、その後に生えてきたアカマツ・コナラのいわゆる2次林に変わっています。このような変遷の結果、この森には、いろいろな樹木が見られます。
春にまず目を留めるのはマンサクです。黄色の小さな花ですが、春のスタートを飾る花です。春先に、「まずさく」のでこの名があるともいわれます。その後には、スズラン形の白いアセビの花が咲きます。漢字で書くと「馬酔木」。馬が木の葉を食べると酔っ払ったようになることからこの漢字が当てられているようです。学名では、ピーエリス・ジャポニカ。ピーエリスは知的活動をつかさどる女神に由来し、その白い小さな花にぴったりです。秋になると山を彩るのが、かぶれの木の仲間です。ヤマウルシ・ヤマハゼ・ヌルデはその主役です。これまで登場したもののほかに、どんぐりの木の仲間には、アベマキがあります。この木にはカブトムシなどの昆虫が集まります。樹皮にコルク層が発達するこの木は、クヌギに似ています。この地方には、クヌギの分布はほとんどないようです。
また、樹下には草花やシダの仲間など多くの植物が見られます。

終わりに
湿地には、貴重な植物とともに動物も生活しています。自然に関心のある人にとっては関心が尽きないところです。しかし、このような湿地は、ちょっとした環境変化で壊されてしまいます。遊歩道が整備されたときに、植栽のために腐葉土が入れられました。気持ちのよい遊歩道は、犬を連れて散歩に来る人もあります。しかし、こうしたことは環境を破壊する大きな原因になります。腐葉土も犬の排泄物も、貧栄養地に育つ植物を追い出し、湿地は急速に消えていってしまいます。
照葉樹林が消えてしまったように、今ある築水の森や小さな湿地がなくならないように、自然のままの姿で保全され守られていくことを願っています。

収蔵民具紹介

下駄作り道具 坂下のヤマヨさんを訪ねて

下駄作り道具

現在、春日井市教育委員会文化財課の収蔵民具は、市民の皆様のご協力のをかげで、1万件を超えました。今回は、その中からめずらしい「下駄作り道具」(鼻緒をつけ完成させるもの)を紹介させていただきます。
そもそも下駄は、弥生時代の「タゲタ」が原形であるといわれています。木製の台部に鼻緒を装置した履物でしたが、板と鼻緒だけでは歩きにくく、すぐ磨り減るので、2つの歯をつけた形になりました。どんなときにも気軽に、さっとはけるので、昔から庶民の暮らしに大変役立っていました。
写真の「下駄作り道具」は、坂下町の故長谷川徳武氏から寄贈していただいたものです。そこで今回は、長谷川さん宅に徳武氏の妻の鈴枝さんを訪ね、これらの道具の使い方と当時の店の様子についてお話を聞かせてもらいました。
大正生まれの鈴枝さんが長谷川家に嫁いできた当時は、長谷川家では舅の米三郎さんが「ヤマヨ」という屋号の大きな小間物屋を営んでみえたそうです。学用品やおかし、下駄などさまざまな雑貨を販売していたそうです。鈴枝さんは店を手伝ううちに、下駄の作り方を覚えたそうです。下駄の台の部分と鼻緒は問屋から仕入れ、台を磨き、鼻緒をつけて、店先に出していたそうです。お客さんの希望の鼻緒と下駄の台を組み合わせて、オーダーメイドの品を作ったこともかなりあったそうです。

下駄

しかし、鈴枝さんの夫の徳武さんは教員でしたので、結局店の仕事を継ぎませんでした。やがて「ヤマヨ」の店は米三郎さんの代で閉めることになり、一時期は店舗を閉店していたそうです。
昭和20年代後半に、ほんの少しの期間ですが、鈴枝さんが下駄屋として店を開いていた時期があったそうです。
道具の名称については、はっきり覚えてみえないそうですが、その使い方について鈴枝さんが、実際に道具を使ってていねいに説明してくださったので、最後に紹介させていただきます。
写真の右側2つの道具については、形状から判断して、何をする道具か想像がつきますよね。これらは台の部分に鼻緒用の穴を広げるための道具です。先が少し折れてしまっていますが、細い方で穴をあけ、円錐形のヤスリ状の道具で穴を拡大するそうです。
しかし、左側の2つの道具についてはなかなか想像がつかないでしょう。実はこれらは台を磨く道具です。陶器製の取っ手型のものは、桐のような高級下駄台を磨く道具です。一番左の茶筌のようなものは、台に塗った砥粉を磨き落とす道具だそうです。

春日井の民具こぼれ話

明治のオルガン

西尾小学校開校当時のオルガン

明治時代、日本はヨーロッパの音楽を生活や教育にとりいれると同時に、自分たちの手でヨーロッパの楽器を作り始めました。明治20年代にはリード・オルガンの国産化が実現し、リ-ド・オルガンは唱歌教育を目的とした学校現場を中心に、急速に国内に普及していきました。
それ以降、現代に至るまでオルガンは学校教育の場で使われ続けてきました。どの世代の人にとっても、オルガンは小学校のころの思い出とともに、心に残るなつかしい楽器なのではなのでしょうか。
さて、そのオルガンにまつわる話です。
市の北東部、国道19号と県道内津勝川線の合流するあたりに春日井市立西尾小学校があります。明治43年に開校し、昭和43年に現在の場所に移転しました。旧小学校施設は、そのまま「青年の家」として市民に利用されることとなりました。
その旧校舎の一室に、とっくに使われなくなった、開校当時の古いオルガンが眠っていました。ところが、青年の家の施設を新しく建て直すために、旧校舎は取り壊されることになったのです。当然、オルガンも廃棄されることになりました。

電子オルガン

当時、ボーイスカウトの指導者としてこの施設をよく利用し、オルガンのことを知っていたA氏が、「きっと多くの人が親しんだであろうこのオルガンを、このまま処分してしまうのは惜しい。何とかならないものか。」と考えました。結局、A氏は自らオルガンを引き取り、さらに自費で修理に出し、自宅に保管することになりました。その後、青年の家は平成6年に新しく「ハーモニー春日井」として、りっぱな建物に生まれ変わりました。
開校90周年を翌年に控えた平成11年、偶然、西尾小学校のPTA会長にこのオルガンの話が伝わり、無事に同校へ戻されることになりました。所々傷みはあるものの、A氏の厚意によってきちんと修理されたオルガンは集会の場で全校児童に紹介され、その場で校歌の伴奏をつとめました。
その後、明治45年の「ヤマハオルガンカタログ」を参考に調べたところ、このオルガンは明治時代に製造された「山葉オルガン第貮號」とほぼ同じ仕様である事がわかりました。おそらく開校当時から使用されていたものではないかと推測されます。まさに西尾小学校と歴史をともにしてきたオルガンです。
明治・大正・昭和と多くの子どもたちが、このオルガンの伴奏で元気な歌声をみろくの山に響かせていたことでしょう。
現在の西尾小学校には電子オルガン(写真)が全学級に設置されています。時代は変わりましたが、毎日オルガンの伴奏で子どもたちの元気な歌声をみろくの山に響かせています。

市教育委員会事務局

【資料】
山葉オルガン第貮號仕様
高さ二尺六寸九分(約82センチメートル)横幅二尺九寸二分(約88センチメートル)
奥行一尺三寸二分(約40センチメートル)価格二十八円
明治45年の「ヤマハオルガンカタログ」より

郷土散策

白山信仰27

弁天社

村中治彦 春日井郷土史研究会

外之原弁天社狛犬の事
外之原町の小林藤雄氏宅に江戸時代の陶製狛犬があると聞き、取材をお願いしたところ、ご快諾をいただいたので、平成12年12月3日に同家を訪問した。
この狛犬は小林一族(外之原町4軒、細野町2軒)のご先祖が弁財天を祀った社に奉献されていた。
外之原白山神社境内から東へ、細い山道を100mほど行くと弁天社の小祠がある。この社の由緒は詳らかではないが、高蔵寺町誌によると、宝物として古棟札3枚があげられている。最古のものは宝暦5年(1755)とあり、江戸中期にはすでに祀られていたことがわかる。
小林一族に伝えられているところでは、小林家のご先祖は戦国時代に落武者としてこの地に来往したという。弁天社が祀られている付近の土地は、昔「カンペイ屋敷」とよばれ、馬場があって小林家の先祖が武技を練ったものと伝えられている。
白山神社の陶製狛犬が昭和20年代の後半頃に盗難にあってから近くに住む小林藤雄氏宅に保管されるようになった。

狛犬

陶製狛犬について調査をさせていただいた結果、次のようなことが判明した。

  • 高さ 阿形31センチメートル
    吽形32センチメートル
  • 銘文 阿形・吽形共、「奉獻御神前嘉永二酉年當村丑年願主小林松助」釘彫りの上からコバルト(呉須)による筆書きが施されている。
    古棟札の中に嘉永元年11月に納められたものがあるところから、弁天社が新たに造営された翌年に、この狛犬が奉献されたことがわかる。
  • 施釉全体に白釉で仕上げられており、瞳には呉須による染め付けが施され、青色を呈している。
  • 作行阿・吽共に角があり、たて髪・衿毛をもっている。面相や耳の形は瀬戸深川神社蔵の藤四郎作と伝えられる狛犬に似ている。

狛犬

胴体は中空になっているが、底部で台座に接合している。足まわりは前足と後足が独立し、爪も丁寧に作られている。
台座は本体に良くマッチし安定感がある。全体に正統派の作風を感じさせる上作である。
吽形の右耳の一部が破損しているのみで、保存状態も極めて良い。
小林一族により、大切に祀られてきた様子がうかがわれる。
現在でも3月下旬~4月上旬の日曜日と8月10日頃に、小林一族が集まって、先祖供養をしている。
当日は、各戸から1から2名ずつ参加して提灯を灯し、狛犬を祀り、供え物をして参拝する。昔は小林家以外の人も参拝したので、参拝者には団子を配ったという。
〈協力者〉小林光躬氏

発行元

平成13年9月15日発行
発行所春日井市教育委員会文化財課
春日井市柏原町1-97-1
電話0568-33-1113

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