郷土誌かすがい 第60号

ページID 1004430 更新日 令和6年1月10日

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郷土誌かすがい第60号平成14年3月15日ホームページ版

大留遺跡発掘現場空中写真

出土した壺

現地説明会の様子

竪穴住居

大留遺跡現地説明会

竪穴住居復元推定図

春日井市の南東部に位置する大留町では、土地区画整理事業に伴って、平成10年度より発掘調査を実施してきました。遺跡のうち、大留町字六反田・相模に所在する大留遺跡六反田地区では、4カ年にわたって行ってきた発掘調査の成果を報告するため、平成13年7月20日に遺跡の現地説明会を開催しました。説明会では、調査で確認された縄文時代中期(約4500年前)、弥生時代後期~古墳時代前期(約1800から1600年前)、古墳時代後期(約1400年前)、鎌倉から室町時代(800から500年前)の遺構の説明と、出土した土器の展示を行いました。
当日は、大留町内をはじめ市内や市外各地から、小学生や親子連れ、お年寄りまでたくさんの参加者がありました。
この遺跡では、竪穴住居が遺構の中心となっており、縄文時代中期1軒、弥生時代後期~古墳時代前期16軒、古墳時代後期2軒の合計19軒の住居が確認されました。これらの竪穴住居は、長い年月を経ているため、調査では地面を円形や四角形に掘りくぼめて住居床面としていた痕跡や、柱穴などしか確認できませんでした。現地説明会の参加者からも「どうしてこの大きな四角形の穴が住居だと分かるの?」、「竪穴住居はどんな構造をしていたの?」と質問がありましたが、上の復元推定図のように、大留遺跡の竪穴住居も4本の柱を建てて屋根をかけた構造をしていたものと推定されます。

市教育委員会事務局

伝承による尾張古代考

「節分」のルーツ

いのぐち泰子 本誌編集委員

春日井の節分行事
1年中で最も寒い「大寒」が終わり、明日は「立春」という前夜、節分行事が行われる。
家々では夕方(昔は三叉路の分岐点などで)、イワシの頭をワラや豆の木で焼き、豆の木に刺したカブとヒイラギを戸口の両側の竹筒に刺し、「イワシのカブやきやき、鬼の目を突き倒せ」と唱える。新しい年に家に入ってくる鬼の目を刺し、臭いで退散させる意であろう。その後、炒った豆を神棚に供え、家の主人が恵方(その年の歳徳神がいる方角)に向かって「福は内」と唱えて豆をまき、奥の部屋から順に「福は内」「福は内」とやって、外に向かっては「鬼は外」「鬼は外」をくり返し、すばやく戸を閉める。この豆を年齢に1つ足した数(新しい年の年齢)だけ食べるとマメである(病気にならない)、という。
新しい年が福に満ちた年であるように、病気や災厄に遭わないように、と邪鬼を払う行事。
村の社寺でも豆まきや厄払い行事が行われる。

鬼を払う年末行事の始まりはいつ?
もともと我が国には古くから、春の初め、新しい年を迎えるにあたって、病魔や邪鬼を払う習俗があった。これに遣唐使による中国の習俗が結びつき、儀式化していったと考えられる。「追儺」という鬼払いの行事がそれで、「鬼やらい」ともいわれ、12月晦日に行われた。
初見は、『続日本紀』文武天皇慶雲3年(706)12月条の「この年、天下の諸国に疫疾ありて百姓多く死ぬ。始めて土牛を作りて大きに儺す」。遣唐使によってもたらされた中国の風習は、初めは伝来通りに、土牛や土偶人を宮城の諸門に立てて疫病を払ったが、平安時代には内裏の中で行われるようになった。儀式の様子は『延喜式』によれば次のようである。
12月晦日の夜、戌刻(午後8時)に、陰陽師、親王・大臣以下官人が内裏の正門の承明門前に集合し、宮中の4つの門に分かれ、鬼に扮する者と追い払う側に分かれて待機する。鬼たちは楯と矛をもち金色4つ目の仮面をつけ、儺う官人は桃弓、葦矢、桃杖をもつ。亥刻(午後10時)陰陽師が祭文を読み、鬼が矛で楯を打つ音を合図に儺人は叫びつつ、桃弓、桃杖で悪鬼を四門の外に追い払う。桃は記紀にあるイザナキノミコトを黄泉の国の死の穢れから救ったとされる木。
この宮中行事が、尾張、遠江、近江の神社に広がり、その後全国的に広がった。
以上のように、「追儺」は、12月晦日、悪鬼を払って新年を迎える宮中行事であった。

宮中の「追儺」から庶民の「節分」行事へ
平安時代に儀式化した追儺は、しかし次第に行われなくなり、変わって節分行事となって一般庶民にも普及していった。

「節分」ってどういう意味?
「節分」は、文字通り、季節を分ける日のこと。冬から春へ、春から夏へ、夏から秋へ、秋から冬へ移る季節の分かれ目。故に年4回ある。
では季節はいつ変わるかというと、それは立春、立夏、立秋、立冬から。立春から春、立夏から夏…になる。となれば季節を分ける「節分」はその前日。
では立春、立夏、立秋、立冬は、何によって決められるかというと、それは「二十四(にじゅうし)節気(せっき)」による。「二十四節気」による立春は、春というにはまだ寒い。けれど光はキラめき、草木は芽吹き、春の気配を感じる頃。人々はこのときを春の始まりとした。

「二十四節気」とは。何のために作られたか
我が国など古代中国文化圏では、暦は長く「太陰太陽暦」(以下「旧暦」)を採用してきたが、これは月の朔望(満ち欠け)を元に作られた暦であるので、毎年の月日と季節が一致していない。(例えば桜の咲く時が、年によって2月の日付であったり3月であったりする)このように季節と日付が合わない暦は農作業にはなはだ不都合であった。種まき、田植え、収穫は毎年、同じ季節にやらねばならないから。
のため季節の標準を示すもう一つの暦が求められた。それが「二十四節気」である。季節の変化は太陽と地球の関係にある。故に二十四節気は太陽暦的要素の暦なのである。
これは1太陽年(地球が太陽の回りを1周する時間)を24等分し、その分点に、立春、雨水、啓蟄、春分、晴明、穀雨、立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑、立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降、立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒、と季節を表す名称をつけたものである。つまり一節気は、365.242÷24≒15.218となり、約15日ごとに次の節気が廻ってくる。
節分はその中の立春、立夏、立秋、立冬の前日であるから、年4回あった。現在に春の節分だけが残ったのは、春の節分をただ季節の分かれ目としてだけでなく、1年の締めくくりと考えたことによる。年の初めを立春と考え、新しい年を迎えるにあたり、鬼を払い、福を招く、最も重要な節分であったからである。

2つあった年末の概念12月晦日と節分
以上のように、人々は2つの暦をもっていた。暦法に基づいた旧暦と二十四節気である。
しかし、どちらも年の初めを、厳しい寒さが終わった初春におくという考えは同じである。そのため旧暦の正月は平均すれば立春と同日になるように設定されてはいるが、立春が正月となる年は少なく、年初は2つあることになる。
よって、まず旧暦の1月1日は初春である。(現代でも年賀状に「謹賀新春」とか「初春のおよろこびを」と書くのはその名残)。そして新年を迎える前日の12月晦日が年末である。為政者は暦法に従って政治を行うから宮中の年末は大晦日で、この日に「追儺」をして鬼を払った。
一方、「二十四節気」による年初は「立春」であるから、年末はその前日の「節分」となる。宮中でも追儺とは別に節分行事もあり、『枕草子』281に「節分違などして夜深く帰る」とあるように方違えなどをした。
しかし、庶民にとっては暦日より農作業に合った「二十四節気」の方が重要であり、従って年末は、大晦日より「節分」という概念が強い。宮中の12月晦日の行事が庶民レベルに移行すれば、節分行事となるのは当然であった。

各行事のルーツ

豆まき

円福寺観音寺(白山町)豆まき

イワシの頭とヒイラギ

また同書には「『聞鼻』という鬼がいて人を食おうとした。ここに『コイを炙り串に刺して家々の門に刺せば、その臭いを恐れて鬼は人を食わない』とお告げがあった」とある 。
また、『土佐日記』にはナヨシとある。ナヨシは春日井の古い婚礼献立などに見えるイナの 異称。庶民行事となってコイやナヨシがイワシに転化したものであろうか 。

ヒイラギ
『土佐日記』に「ナヨシの頭、ヒイラギ」とみえ、都の民間のやり方であったことが分かる。

まとめ
古くから現代まで伝承されている節分行事は、

  1. 古来、我が国は年初を初春と考えていた
  2. 新年を迎える前日に厄疫を払う習俗があった
  3. 暦法が伝来し、暦日の大晦日と二十四節気の節分と、2つの年末があった
  4. 中国から伝来した追儺は宮中で大晦日に行われていた
  5. それが一般に波及すると宮中行事の追儺と庶民の節分行事が混ざり合って伝承され現在の形になったことがうかがわれる。

郷土探訪

春日井をとおる街道18 村の道その2

櫻井芳昭 市文化財保護審議会委員

松河戸村の場合
ア 集落内の道
119路線のうち、三尺道(25.2%)と六尺道(21.8%)が多くを占めている。三尺道は家々をつなぐ道であり、六尺道は島々をつなぐとともに、名古屋、勝川など外部を結ぶ幹線である。集落内は曲がった道や三叉路が多く、田の中の道は条里制地割の影響で直交する道が中心である。
家のオトグチ(玄関)の出た所から小路が屋敷の入口へ伸び、そして、公的空間である街道・往還へつながっている。屋敷内の一帯は「カド」といって、籾干しや子どもの遊び場など多様に使われる。
節分の時に「いわしのカブ(頭)焼き焼き、鬼の目を突き倒せ」と唱えながら、いわしを公道と私有地との境目であるカド先で焼くのが慣例である。
門田島では、軒下やカドを通って隣接する家を結ぶ経路が日常的に使われていた。往還へ出なくても直ぐ行ける通路として、ちょっとした用事や急ぐときには便利であった。この通路に対する固有の呼称は伝わっていない。
父親が数えの42歳で生まれた子は、箕に入れて四ツ角に捨てて親せきの人などに救い上げてもらう行事をした。道はけがれを消してくれると考えられていたからである。名前も捨てや拾いの字を入れて命名することがあった。
道役は10月の重要な行事であった。各戸から1人ずつ出て道の凹凸を直し、伸びた夏草を刈り、祭りの時に馬がひっかからないように木の枝を切った。欠席した家には出不足金を徴収する島も一部あった。島の人たちは欠席理由をお互いによく理解していたので、特別なペナルティは課さない島が多かった。

春日井市内3村の道幅別郷内道

道幅

松河戸村

松河戸村
パーセント

松河戸村

松河戸村
パーセント

下市場村

下市場村
パーセント

2尺

21

17.7

3

5.8

 

 

3尺

30

25.2

5

9.6

8

7.3

4尺

15

12.6

7

13.5

12

11.0

5尺

12

10.1

2

3.8

23

21.1

6尺

26

21.8

21

40.4

29

26.6

7尺

5

4.2

14

26.9

9

8.3

8尺

6

5.0

 

 

20

18.4

9尺

4

3.4

 

 

8

7.3

119

100

52

100

109

100

資料:愛知県公文書館蔵「松河戸村、下原村、下市場村地籍帳」明治17年(1884)より

松川戸村の道

村の中心道は中切村から入り、中小路、八ツ家、川原の島を通るAからFを結ぶ六から九尺道で、各島の本道はこの経路に入口があり、島の家々を結んでいた。(図参照)
村の慶事には 本道が優先される 。たるおまんとの祭り行列の経路は、島ごとの宿から各家を XからYの葬式道を避けて本道をつなぐ入り 方で巡回する習わしであった 。嫁入りの時は、島ごとの本道を通って村人に披露しながら家へ入っていた。これに対し、葬式の時は墓地への道を野辺の送りの行列が進むのである 。

イ耕地や外と接する道
郷中と外部をつなぐ道は、東は玉野道で庄内川沿いの古村を結ぶ道であり、西は堤防へ出て下街道から名古屋へ行く道、この辺りの中心・勝川への道、北は小野小学校へ行く学校道、柏井へ通じる「こじき道」(さみしい裏道の意味か)、南は庄内川を渡って川村へ通じていた。川の向こう側にも松河戸村の新田があったし、小幡・川村から嫁入りした人も多く、往来は相当あったと考えられる。
西国三十三観音めぐりや御嶽参拝など、遠国への旅の出発には、お宮で安全祈願をした後、村境まで見送るのが慣例であった。
稲の害虫を追い払う虫送りの行事は、観音寺住職のくじにより、その年の納め所(村境の西の塚が耕地整理で消滅したので、最近は東の庄内川堤防になった)を決めて、田のあぜ道をジグザグに進んで行っている。

入村する人・物・情報・文化
外と接する道からは、人・物・情報・文化や悪霊を始め、あらゆるものが入ってくる。
集落では、不浄なもの、危険なものは外へ出し、悪霊などは入り込まないように、入り口でくい止めようとしている。
下原村では、各島にお天王があり、疫病が侵入しないようにしている。
各村では、津島神社へ毎年祭礼の日に代表が参ってお札を受けて帰り、村でお天王祭りを行ってきた。
受けたお札は、村境に縄を張って下げたり(神屋・坂下・松河戸)、字の境の道路脇に青竹の先につけて立てたり(春日井原新田)、青竹に挟んで自分の田へ行ってかざして回る(如意申新田)など、地域によりさまざまである。
村へ来る人は、薬・小間物・野菜などの行商人、社寺の御師、野鍛冶などの職人、芸人などさまざまである。下原村へは知多の大野(常滑市)から毎年野鍛冶が回って来て、鍬や備中の修理をしていたが、このうちの1人が下原の女性と御縁ができたので、下原で鍛冶屋を始めることになった。この鍛冶屋は、明治時代から平成4年まで2代にわたって続いた。

道の管理
村の道の普請や修繕は自前で行うのが原則であった。尾張藩では道の管理について、たびたび通達を出して修繕を促している。正徳4年(1714)には、「最近は村の道橋が破損していても放置しているため、往来人馬が難儀をしている。道が狭くなっている所もあるので、よく調査して往来の多い道は勿論、脇道に至るまで以前の通りに広げ直すこと」と指示している。また、2年後には、「村の往還並びに脇道、田畑道について、道幅を決めたとき両脇に杭を打ったので、この2、3年通行が順調であったが、近年は両方から切り欠いて土を取ったため、人馬の通行に困難をきたしている所がある。村内の道は勿論、立会道も相談して先年の通りに広げ直すこと」と達し、さらに享保8年(1723)には、「村々の道橋についてたびたび触れても、なお粗末にしておく村があるのは遺憾である。低い所には置き土をし、先年から決められた道幅に直させ、郷内の道にかかる藪・木の枝は通行の邪魔にならぬように切ること」と村の庄屋宛てに再度達している。
また、文化9年(1812)には、「往還を始め村々の通い道、作業道、野道等はいつとはなく細道になり、人馬の通行に差し支えが出ているのは不埒なことである。各村で定まった道幅があるので、村役人が立ち会いの上、定杭を打って今後の目安にすること」と道直しの基本方針を確認している。天保14年(1843)にも同趣旨の触れが出され、翌年にも不行届きの村があるということで、庄屋・組頭が立ち会いの上、勘定奉行から申し聞かせるかたちを取って一層の徹底を図っている。
道直しは、村をあげての重要な年中行事であった。全戸から男1人が出て、共同作業で村内の道を修繕するのである。下原村では毎年10月上旬に各島ごと一斉に行われている。
道幅については、地形等の自然条件に大きく影響されるので、地域によってさまざまであるが、村の小道について尾張藩は、寛文3年(1663)に三尺と通達している。水野代官所から天保14年(1843)に出された「道直し村定」では、「田畑道四尺、人馬通行道六尺、馬之塔道九尺、往還通り二間及び三間」と拡大されている。
村の道は交通需要の増加に伴って道幅が拡大されたようで、天保7年(1836)に下原村と下原新田村との間で話し合いがついた例がある。下原村から「名古屋往来道は幅二間であるが、下原新田村に入ると幅四尺の作道なので車の通行に不便である。だから、下原新田村の六軒屋島裏から西島まで約九丁(982m)を拡幅したい」との申請を水野代官所に出したところ、両村の代表が代官所に出頭して条件を詳しく協議した結果、「道幅七尺とすること。敷地代は下原新田村が九割負担すること。道直し人足は下原村が出すこと。完成後七尺幅を狭めることがあれば下原新田村で直し、車で崩すようなことがあれば当人が修繕すること」でまとまり、済口証文を交わしている。ただし、2年後の覚には「未だ道普請でき申さず」となっており、予定通り進まなかったことが推察される。車の通行に不便との理由による道の拡張工事ということであるから、幕末になると牛馬に代わって、荷車が農村でも次第に増えてきたことがわかる。尾張藩の車政策は、「城下町など特別な地域で、焼印を打って許可された車だけ使用を許される」という限定主義であった。これは、伝馬や軍用馬の減少を懸念してのことであった。しかし、荷車は便利だということで、無許可での利用が徐々に広がっていた。こうした実態を反映して車政策を転換したのは安政4年(1857)で、「小車を希望する村は、高100石に付き、1輌を認める」という内容であった。

おわりに
道はわが家より発し、大道につながっている。村の小道は自分たちの必要に応じて自前で造った村共有のもので、村の開発の歴史を反映した構成になっている。例にした3つの村(下原村・下市場村・松河戸村)とも集落は川の水による災害の危険性の少ない周囲より高い州の上にあり、村の本道は本郷から発して各島を結んでいる。祭礼や嫁入りなどハレの行事には本道の経路が、葬式、精霊流精霊流しなどにはウラ道が使われ、行事の質に応じて道の利用に違いがあった。
村境は旅への送迎地点であるとともに、悪いものが村へ侵入するのを防ぐため、お天王などを配置しており、村境を意識した道にからむ習俗が存在することがわかる。また、道端には、地蔵、秋葉、観音、山神などがあり、日常的な信仰の対象が設けられている例が多い。
春日井地域では、街道、往還、小路、閑所道、カドなどの名称で村の道を呼んでいる。また、おまんと道、葬式道、作道、虫送りの道、本道などは行事や機能に応じて使い分け、生活に潤いを醸し出していたといえる。近世の道を追求することで、歩く道の大切さ、曲がった道の味わい深さを再認識でき、現代の車優先の生活を見直す切り口が得られたような気がしてならない。

〔参考文献〕

  • 春日井市『春日井市史』地区誌編2(1985)
  • 春日井市『新修春日井市近世村絵図集』(1988)
  • 一宮市『一宮市史』資料編8(1968)
  • 福田アジオ『道と境』日本村落史講座II 所収(1991)雄山閣
  • 木村礎『村の語る日本の歴史』(1983)そしえて
  • 足利健亮『さまざまな道』日本民俗文化体系6(漂泊と定着)(1995)小学館
  • 八木康幸『民俗村落の空間構造』(1998)岩田書院

白山信仰28 春日井を通った三山道中

村中治彦 本誌編集委員

本誌第48号、49号で、文政6年(1823)6月6日から7月11日まで35日をかけて、水野代官所の役人が友人と2人で、白山、立山、富士山の三山登拝をした「三の山巡」の道中記を紹介した。
全くの偶然であるが、2日違いの文政6年6月8日から7月28日までの51日を費やして、知多郡大府村の13人が白山、立山、富士山を巡っている。
この旅の様子を記した『三山道中記』が著者平七の子孫のお宅に現存している。
それによると、13人の内訳は、大府村の江端郷より喜蔵、太蔵、南郷より栄蔵、和七、中嶋郷より政吉、常七、利八、向山郷より竹四良、平七、富四郎、北嶋郷より利平、里左衛門、八十七となっており、村内各郷の講集団の代参であったものと推測される。
『三山道中記』の裏表紙には、「此帳いすれ迄もつづく也持主平七」とあり、51日間に及ぶ旅を病気や事故もなく、無事に成し遂げることができた自信と誇りを感じさせる。

三山道中記

「六月八日大府より名古屋廣こうじ
知多屋に泊り百六拾四文つつ
一志みずへ六り
此間に川有あじ満川八文
一原一り
一古満き一り
中飯四拾八文茶屋与八
一いぬや満三り
九日
一かつや満一り半
泊り百三十弐文坂井屋
善三郎泊り以下略」

三山道中記写真

とあり、6月8日に大府を出発し、この日は名古屋城下広小路の知多屋に泊り、1人160文ずつを支払っている。翌9日には清水へ出て、木曽街道(本街道)を通り、味鋺の渡しで庄内川を渡って渡し賃八文を支払っている。その後、味鋺原新田、春日井原新田を通り、小牧宿で昼食をとり、48文ずつを支払っている。
犬山へ出て内田の渡しで木曽川を渡ったものと推測されるが記載されていない。鵜沼宿から中山道に出て、この日は勝山で泊り、1人132文ずつを支払っている。
翌10日には中山道と別れて関へ向かっている。「此間にせき川有」とあるのは、肥田瀬ノ渡しで津保川を渡ったものと思われる。
関からは長良川に沿って郡上街道を北上している。
大府村からの三山登拝の背景について少し考えてみたいと思う。
本誌56号で、知多郡阿野村(現常滑市)の高讃寺と同郡大野村(現常滑市)の松栄寺との間で富士・白山両先達所を巡っての争いがあり、本寺である密蔵院(春日井市)が裁定を下している例を紹介した。大府市には密蔵院末の延命寺があり、しかも境内には白山堂がある。
密蔵院前住職(故山田圓鳳大僧正)のお話によれば、昭和17年頃まで、村の青年団が白山堂でお籠りをする行事があったという。
文政の頃まで、延命寺が関係する白山先達所の系譜があったのであろうか。
白山、立山、富士の各講ごとの記録は、それぞれ檀那帳として残されている部分もあるが、三山登拝の事例がどの程度あったかという点については、今後の課題である。
諸賢のご教示をお願いしたい。

(写真)『三山道中記』深谷秀和氏蔵
(協力者)青山郁博氏大府市歴史民俗資料館

新池公園と水槽

新池公園

竹谷和夫 元小学校長

高蔵寺駅を北へ500メートルぐらい行くと、ニュータウンの入口に新池公園がある。
新池公園に接する池は、周囲900メートルほどの緑に囲まれた美しい池で、中堤で2つに分かれている。上の池(洞口池)には東屋があり、年中水草の中を鳥が泳いでいる。下の池(新池)は深緑の水面に移りゆく四季の姿を静かに映している。
この池は、人間であれば亡くなった名古屋のきんさん・ぎんさんと同じ年ごろである。明治24年(1891)、濃尾地震による玉野用水の決壊の復旧にあわせて、新しくかんがい施設として北の山沿いに流れる身洗川を高い堤防を築いてせき止めてつくられた。
その水は、西は現在の高蔵寺中学校から南へ中野外科医院辺りまで続いていた田に、東は高座保育園から山本耳鼻科医院辺りまであった田に取り入れられていた。満水になった時に堤が切れるのを防ぐため、山の中腹の岩ばんを掘削して、高さ3メートル、幅5メートル、長さ100メートルぐらいの排水溝もつくられた。
池ができた7年後、明治33年(1900)に中央線が開通、7月25日の高蔵寺駅の開駅にともなって戸数が増加してきたが、池の工事が行われた当時の高蔵寺は、まだ玉川村の一部で、戸数も5から60戸、人口は300人程度であったと推定される。山間の小さな村の人たちでこのような困難な大工事を成し遂げるのは、とても大変なことであったろう。
老若男女がこぞって工事にあたり、明治26年(1893)8月、完成した。この池は、村民の努力の結晶であった。

記念碑と説明版

明治28年(1895)、記念碑が堤の東の山に池を見下ろすようにして建てられた。
碑は、高さ1.3メートル、幅1.1メートル、厚さ0.2メートルのたたみぐらいの石で、大きな石の台の上に建てられた。
上部に尾張徳川家の徳川義礼が書いた「因害為利」の篆書の文字が刻まれ、下部に県参事会員の堀尾茂助の漢文が刻まれている。
内容は玉野用水の決壊の復旧にあわせて池をつくった説明に続いて、

因害為利転禍為福
害によって利となし、禍を転じて福となす
聖澤維浹賜比豊穀
天皇の恵みは行き渡り、豊かな実りを賜う
春日井郡高藏寺郷
東春日井郡高蔵寺の里は
田水滾滾場圃穣穣
田の水こくこくと流れ、畑は穣々と実る
勿謂地僻勿懈耕し
僻地というなかれ、耕すことを怠るなかれ
垂髫優游戴白楽熙
おさげの子は楽しく遊び、老人は楽しみ喜んでいる

水槽

と3首の喜びの銘が書かれている。
洞口池の南側、道の上の少し入った木陰に半分ほど土に埋まったコンクリートの水槽がある。縦2.5メートル、横2メートル、高さ1メートルぐらいのこの水槽は、高座小学校の水道の水源だった。当時は小さな沢で、そばの泉からいつもきれいな水が流れていた。夏にはサギ草が咲いていたのも思い出される。
高座尋常高等小学校は、明治41年(1908)4月に創立開校、11月に現在の高蔵寺農協駐車場のあたりに校舎が建てられた。
その後、何度も増改築を行って校地も広げられ、昭和2年には約1070名と児童数も増えた。

昭和3年(1928)、現在の高蔵寺中学校の地に学校が移された。広い運動場を囲むように西側と南側に木造校舎が建てられ、さらに北の山の前に南向きの鉄筋コンクリート2階建ての校舎(教室12、特別室1、露台2)が建てられた。それは当時としては近在には見られない立派なものだった。そして、この校舎にふさわしい水道施設のための貯水槽が新池の南につくられ、約500メートルの水道管で運ばれた水は、校舎の東側の2階の露台の貯水槽を通して全校に給水された。
それ以来、この水が1200名ぐらいの児童の学校生活を支える水となり、30年以上も続いた。当時は一般では水道などなく、先人の前向きな姿勢と努力には頭がさがる。
昭和16年から22年まで小学校は国民学校となり、戦争のため南校舎の一部が工場として使われた時代であった。
昭和22年、六・三制が施行され、高蔵寺中学校と高座小学校が同居していたが、昭和24年に不二、玉川小学校が独立、昭和27年に高座小学校が新しい校舎に移り、旧高座小学校の校舎が高蔵寺中学校になった。
春日井市は昭和32年に勝川地区に上水道を開設した。高蔵寺は昭和35年3月に東部簡易水道が竣工して給水が始まり、高蔵寺中学校の給水も行われるようになった。
新池が現在の姿になって、もう35年にもなる。

新池全体の様子

私の記憶では 昭和40年ごろ、池の一部が埋められて道路ができ、ニュータウンと高蔵寺駅が直結した。高蔵寺駅の 北口にバスレーンごとの乗車場ができ、高蔵寺ニュータウンにふさわしい駅となった。周りには高い建物が 立ち並び、周辺の田畑はなくなってしまった 。
かんがい用の 新池の役目は終わった。玉野用水を利用していた田も、今では二反田池の 下の方の2枚の田が残っているだけである 。
「ゆく河の 流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」。方丈記の文が思い出される。
いま、記念碑は中堤に移され、池は市民憩いの場所として生まれ変わった。休日などには 子どもたちと一緒に釣り糸をたれている人を見ながら散策を楽しんでいる人たちも見られる 。
きっとこれからも 新池はいつまでもみんなに親しまれていくことだろう。
新池のことを書いていたら、何だか池をつくった人たちの笑顔が見え、声が聞こえたような気がした 。

2件の文化財が市指定文化財に指定されました 指定日平成13年12月14日

有形文化財(彫刻)木造薬師如来坐像

木造薬師如来坐像

高蔵寺の薬師如来坐像は、木造檜材の寄木造りで、玉眼を嵌入する半丈六の大像です 。
定朝様を思わせる、安定して整った体つきでありながら 、細身で引き締まった存在感があり、全身は 婉曲で繊細な気品に包まれています 。
頭部は 小ぶり。螺髪も小粒で密着感があります。顔は 温和な少年相で、目鼻口が小ぶりで端整です 。
衣文は優しく等間隔性を保ち、特に足膝部では鎬立った浅い小波を交え、わずかに動感を示しています 。
これらの 特徴から、本像は平安時代後期に活躍した円派に関係した仏師により造顕されたものと思われます 。
平安時代と 鎌倉時代のわかち合う時代にあって、両時代の特徴を備えるという点で貴重な遺品であり、また、素木像であることも、壇像としての価値を持つ貴い尊像といえます 。
(注)玉眼嵌入…水晶やガラスなどでつくった眼を仏像の顔の部分にはめ込む手法。

田代有樹女 市文化財保護審議会委員

有形民俗文化財玉野山車附(たまのだしつけたり)からくり

有形民俗文化財玉野山車附

この山車は、名古屋地区に多い山車本体(台輪)の外側に車の付く外輪形式で、車の周りには輪掛けが付きます 。
全体に素朴であり、高欄はあるが彫り物は少なく、上山の屋根は雨障子が使われています 。
これは 、名古屋の山車などでは初期に使われていたとみられる形式です 。このような例の残存は少なく、貴重なものとみられます。
古い形式であることは 、

  1. 上山屋根が固定式で、上げ下げ出来ない
  2. 上山屋根の破風板がむくりの付いた切り妻である(普通は唐破風)
  3. 高欄が擬宝珠高欄で、組み高欄が使われていない
  4. 高欄部支えの肘木が隅で斜め1本だけである(後の物は3本で支える)
  5. 箱の底に明治元年の年号が残されている精巧なからくり人形(唐子―前たち・恵比寿・大黒・瓶―帆掛け船※正確な制作年代や作者については不明)を持つことなどから知ることができます。

富山博 市文化財保護審議会委員

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