郷土誌かすがい 第44号

ページID 1004446 更新日 平成29年12月7日

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平成6年3月15日発行 第44号 ホームページ版

神領銅鐸

神領銅鐸

江戸時代末期の出土であるが、その状況が当時の記録に残る珍しい例である。「感興漫筆」(細野要斎・天保7~明治11年)には「神領村農民長蔵が次子仙左衛門、村東の堤畔を掘て、銅鐸二を獲たり」と記載されているし、銅鐸を収納した箱蓋の裏書きには「安政五季戊午(1858)九月得銅鐸二口於采地春日井郡神領邨、其一蔵干神領村一以家蔵 ……安政六年己未四月、鈴木重徳撰」の墨書がある。さらに昭和4年、考古学雑誌19巻9号で小栗鉄次郎氏が「庄内川の右岸堤防を隔たる西十数間、無格社木船神社の接している何等特長のない低い地点」で出土したことを紹介記事として掲載されている。
2個出土した内の破損した1個が、平成5年に復元され、神領区有の銅鐸として現在瑞雲寺に保管されている。鈕は3条の鋸歯文帯をもち高さ24.5センチメートル、身を含めた全体の高さは92センチメートルと推定され、大形のものである。身は6区の方形区画があり、突線帯式袈裟襷文の三遠式(三河・遠江に分布)銅鐸である。表・裏ともに、鋳造時の鋳型の土がかなりの範囲に付着している。この銅鐸と共に出土したと伝えられる完形のものは、梅原末治氏の「銅鐸の研究」に紹介されているものの、現在その行方は分からない。

大下武  民俗考古調査室長

郷土探訪

鳥居松工廠とその界隈

伊藤浩  市文化財保護審議会委員


徴用員赴任心得
服装

  1. 通勤服
    国民服ナルモ只今ノ處 如何ナル形式ニテモ差支ナキニ付 青年団服、洋服、靴等持合セノモノヲ着用ノコト 通勤服 国民服ナルモ只今ノ處 如何ナル形式ニテモ差支ナキニ付 青年団服、洋服、靴等持合セノモノヲ着用ノコト 通勤服 国民服ナルモ只今ノ處 如何ナル形式ニテモ差支ナキニ付 青年団服、洋服、靴等持合セノモノヲ着用ノコト
  2. 作業服
    入廠後一着限リ造兵廠ニテ貸与スルモ、洗濯替トシテ有合セノ作業服又ハ青年団服等アルモノハ持参ノコト
    作業帽ハ現在持合セアルモノハ持参ノコト

旅費

入廠後造兵廠ニテ支給ス
(出発前立替ヲ受ケタル者ヲ除ク)

宿舎

  1. 自宅通勤者以外ハ造兵廠近傍ノ所、宿舎ニ収容ス
    但シ希望者ニ対シテハ一定期間後、右宿舎以外ニ宿泊ヲ許可スルコトアリ
    宿泊費 一ケ月 壹円弐拾銭
    食費  朝夕二食付 約拾弐円(昼食ハ休業以外ハ造兵廠内二テ攝ル、一食分拾参銭)
  2. 食費ハ前納ヲ建前トスルモ 家庭ノ都合ニ依リ用意困難ナル者ニハ 一時立替スル等特に顧慮ス
自宅通勤者以外ハ造兵廠近傍ノ所、宿舎ニ収容ス 但シ希望者ニ対シテハ一定期間後、右宿舎以外ニ宿泊ヲ許可スルコトアリ 宿泊費 一ケ月 壹円弐拾銭 食費  朝夕二食付 約拾弐円(昼食ハ休業以外ハ造兵廠内二テ攝ル、一食分拾参銭)

寝具
持合セノアル者ハ可成持参ノコト 持合セナキ者ニ対シテハ造兵廠ニテ有料貸与ス

持参書類
左ノ書類ハ他ノ荷物等ノ中ニ混入スルコトナク 必ズ自ラ携行スルコト
徴用令書 履歴書(自筆) 戸籍謄本 身元証明書 以上各一通ニ写真三枚 国民労務手帳 軍隊手帳 青年学校手帳 体力手帳

携帯品
認印 平常着 寝巻 雨具 着替シャツ 巻脚絆(持合セアルモノ)

手荷物ノ輸送

  1. 手荷物ハ到着前日中ニ必ズ到着スル様発送スルコト
  2. 荷札ハ造兵廠規定ノモノヲ附ケ 記入事項ヲ明記脱落セザル様ニスルコト
  3. 運送者ヘ托送スル場合ハ、必ズ届先迄運賃前拂トスルコト

兵役関係
出発前本籍地、連隊区司令官宛所定ノ旅行届ヲ提出シ置クコト

給料ノ支給
造兵廠ニ於ケル給料ハ一ケ月一回拂ナルモ入廠直後ハ左記ニ依リ臨時支拂ヲ受ク

  1. 一日ヨリ十五日迄ノ入廠者ニ対シテハ入廠ヨリ十五日迄ノ分ヲ、其ノ月ノ二十七日ニ支給シ
  2. 十六日ヨリ月末迄ノ入廠者ニ対シテハ、入廠日ヨリ月末迄ノ分ヲ翌月ノ十一日ニ支給
    父兄ノ同行ハ混雑ノ折柄遠慮セラレタシ

工廠正門

工廠生活(昭和16~17年)
昭和16年11月8日、名古屋陸軍造兵廠熱田製造所へ入所、工廠の中に入る。道らしい道はなく工場らしい建物がところ狭しと建ちならんで、軍需工場らしい圧迫感を受ける。その間を廻って宿舎で初めての一夜を明かすこととなる。
その夜の点呼の時、修学旅行で宿に泊まったぐらいの気持ちで、寝巻のまま廊下へ出たら、係の人から、「その恰好は何だ。これからは点呼の時は服を着て集まれ」と注意されることから始まった。点呼が終わると「これから一時間交替で、不寝番をやることになっているから、そのつもりでおれ」と軍隊調の訓示。
翌朝6時起床。全員が表に出て整列して、東を向いて宮城遥拝。次に「上官に対する敬礼の仕方を教えるからよく見ておけ」と、まず歩いて敬礼する仕方を、ついで止まっての敬礼を教えられた。これは直属の偉い上官の時にするものだ。こんな軍隊調から始まったが、しばらくすると我々は鳥居松工廠に行くことになった。
市電に乗って大曽根まで来て、中央線に乗り換えた。当時の中央線は単線で、もちろん汽車だった。鳥居松で降りて歩いて工廠の神社門(東門の北側)から入った。熱田工廠に比べて道路が広々としており、ノコギリ型の屋根の大きな工場が整然と並んでいる。これが軍需工場かと思われるほど広く明るい感じである。事務所の前で中尉が出て来たので敬礼すると「若手だな、明日から仕事になるから早く寮へ入って休め」と言った。
荷物は、まとめて自動車に積んであったので、そのまま寮に入った。建物は2階建で出来上がったばかりだった。我々は2階へ上がって12、13号室へ入った。夜8時に点呼があったが、その時1人がひどくたたかれた。集まりが遅いとかで寮長はひどくいばっていた。2日ほどした朝の点呼は表であった。点呼が終わると4列に並んで駆け足、どこへ行くかと思ったら、門から出て工廠の塀に沿って北門まで行き、それから下街道(今、郷土館のある道)に出て、本通りで曲がって帰って来るのである。しかし、この駆け足はしばらくの間で、寮長が変わって止めになった。
最初の仕事は、鉄材の払い出しをしたり、雑品の運搬をしたりする簡単なものだった。12月8日、日米開戦の知らせがあった。寮長は、点呼で皆を集めて「来るべきことが来た。皆がんばってくれ」と激励した。さて、どんな戦争になることやら分からない。
工廠の内部は何事もなく静かなまま作業が続けられた。我々も毎日鉄材を運搬して工場の間を往復した。年末年始は、31日と3日まで休みになるので、31日から2泊3日の外泊を寮長に願い出た。ところが3日も寮を空にしてはいかんといわれ、1泊だけになった。
戦争が進むにつれて仕事もだんだん忙しくなった。ある日、班長が風呂札10枚ほど持って来て「大きい第一浴場へ行ってこい」と言ったが、タオルもなく、石鹸もないので行かなかった。ところが、翌日班長が皆を集めて「昨日風呂札を渡しておいたので、行ったと思っておったが、事務所から札が残っていないということで、えらく恥をかいた。なぜ報告しないのか」と怒られ、2列に並び対抗ビンタをやらされたこともあった。
4月になって我々第1次徴用者は退寮することになった。4月5日、10人ほの退寮し、家の近いものは通勤するようになった。わたしは兄と一緒に生活するため、土井ノ口の県営住宅から通うこととした。自炊生活をしてみると、物が不足していることがよく分かった。食糧をはじめ、衣料日用品すべてが配給制になった。しかし、その頃は戦勝につぐ戦勝で、酒や菓子の特配もあった。
何月頃か、小銃月産1万挺達成があって、紅白の饅頭が配られ、皆が饅銃饅銃といって食べた。そんな中でも訓練があり、上官に対しての敬礼が厳しくなり、だんだんと軍隊調が強められて来た。
6月頃、廠内の郵便局で1枚2円の弾丸切手が売り出された。その頃には5円の貯蓄債券、壱円の報國債券も売り出され、強力に購入するよう勧められていた。
米は1日2合3勺配給であった。その頃のある日、鳥居松駅の時刻表を見に行った帰り道、町角に女の人が3人立っていて、私が近づくとその1人がそばへ寄って来て、純米の巻ずしを見せ「1本25銭だが買わないか」と、さそったので「よし、50銭持っているので2本買う」と50銭札を出すと、新聞紙に包んで2本くれたが、ずっしりと重みがあった。家へ帰って兄と1本ずつ食べたが、本物の米でうまかった。農家の人がやみで売っているもので、翌日行ったら、そこにはもう姿が見えなかった。
その後、土井ノ口の県営住宅を出て、大光寺のはなれの部屋に友達3人で居ることになった。ここから通って東門から入っていく日々。町まで随分遠くなった。
ある日のこと、事件が起きた。原木置場で夜勤者が疲れて眠っていたのを、巡寮の者が起こしたところ、言葉のやり取りから喧嘩になって、殴り殺されたが、時局柄厳重な口止め令が出て、結果はどうなったか不明のままだった。
町を歩く時は、不良グループに囲まれたこともあるので、夜は部屋のもの3人で出かけるように心掛けた。ある時、本通りを1人で歩いていたら、5、6人が私のそばに来て囲んだ。よく見るとその中の1人が、昼間原木を運んでいた男であったので、「なんだ、お前か」と聞いたら「何だお前か」といって、みんなに手を出すなと小声で言ったが、1人の奴がしつこくからんで来た。困ったと思っている中に、先の男が強く叱って遠ざかって行った。原木を運んでいた時、面白い話をしていて、知っていたので助かった。その後二度と見ることはなかったが、たかりの不良グループかも知れない。町へ出るのは、やみでもいいから何か食べるものはないかと探すためだが、ちょっとした路地に関東煮屋が1軒あるだけで、その外は殺風景なものだった。
その年の後半は、鷹来工廠へナマリを持って勝川廻りで行った。ついで薬萊箱も持って行った。1日に2回往復することが続いたが、その中に鷹来工廠へ通ずる道が開かれたので早く行けるようになった。

工廠生活(昭和18年)
12月も無事に終わり、昭和18年を迎え、正月休みに友達の家へ遊びに行った。
いろいろの話の中で、購買票の話になったとき、購買票は在庫があったので利用しただけであり、全員に渡すと不足するので今後はなくなる。紙の節約から小さなものになる。出勤カードも紙の節約からなくなるようだから、大きな声で話さないようにとのことで、物資の逼迫(ひっぱく)が身に迫ってくるようになった。
3月頃、一緒に下宿していた3人で竜泉寺へ行ったことがある。庄内川を下津尾の渡しで舟で渡って裏から登って見たら、工廠がまる見えであった。随分高いところだと感じた。ところどころに撮影禁止の立て札が立っていたことを覚えている。その帰りは、小幡駅まで歩いて瀬戸電で大曽根に出て、中央線で鳥居松へ帰った。
また、いつかの日曜日2人とも出て行ってしまって1人ぼっちになったので、町へ行ってみようと、本通りへ出て、この横道はどこへ行くのだろうとぶらぶら行くと、神明社に着いた。その境内で猿と犬の芸をやっていたので、しばらく見ていた。なかなか上手にやっていたので1時間ぐらい見た。行きなれた露地の関東煮屋の前に来たら、2人連れが入っていたので私も入って少し食べた。また、ある時友達と連れ立って松島屋へ行って、しるこを食べて来た。まずいもので高かったがまだ物があったし、廠内でも時々配給品があったので、小遣いをつかいすぎて困ったことがあった。

鳥居松工廠工場配置図

4月に入って、よく警戒警報が発令された。その中を電気自動車を運転することになったので忙しくなった。工廠内をあちこちと廻る中に建物を全部廻ることになった。
家庭では、金属供出が「家庭は小さな鉱山である」のふれ込みで、回収が始まった。最初は穴のあいたバケツ、ナベ、カマなどが回収され、2回目は、不用なもので無傷なナベ、カマなど、まだ使用出来るものまで供出した。家の外では、橋のらんかんに使用している鉄材を取りはずしたり、不用と思われるものは何でもはずされ、とうとうお寺の梵鐘まで供出ということになっていった。
つぎに関田の伊藤さん方に下宿することになり、例の関東煮屋の前を通って街道筋を通うことになった。食堂は末広屋があり、ここで食べることとなった。
6月1日、鳥居松村、勝川町、篠木村、鷹来村の1町3か村が合併して、春日井市となった。そのとき、村の人が話した面白い話を記憶している。それは、軍部は、面倒なことが嫌いであったので、鳥居松、鷹来に2つの大きな軍需工場のある関係上、種々の予算や、配給物資の分配の方法などがややこしいので、1つの市にしたいと考えた。それを4町村に押しつけたという。
この頃は交代で隣組が、夜12時に集まって歩いて熱田神宮に行き、戦勝と出征兵士の武運長久を祈願することが続いた。また、青年会が出征兵士の家族のため、鳥居松劇場で慰安会を開いたりした。変わったことでは、憲兵隊分所の横の広場で、有田サーカスが1週間ぐらい興行したが、9月12日の暴風雨で小屋が全部こわれてしまったことがあった。しかし、これは直ぐ復旧し興行した。
廠内でも9月には、慰安演芸会があって面白かったが、時局がらということで2回で中止になった。工場の方は、戦意高揚だとして鉢巻をして仕事をやれと命令が出た。そこで皆一斉に鉢巻をして作業したが、何だか窮屈で、巡視のない時は一人とり、二人とりで長続きしなかった。各工場の一般訓練では、またまた、上官に対しての敬礼の仕方を厳しく練習させられた。
10月頃、町へ出るとさつまいもを蒸して売る家があった。朝早くから娘さん達が買いに来るので、日曜日にはあの家、この家と売るところが増えた。1軒で10人分ぐらい売る。それも50銭とか1円とか買って行く。
日曜日に、家へ行くため駅に来たら、横の広場の片隅で露店が5、6店出ていて、靴の修理、靴磨きの店があり、工員が5、6人集まっていたが、戦争が激しくなってこれらもいつか姿を消した。
一方、軍部は武器の代わりに竹槍でもやれと、檄をとばし国民を励ましたが、こんなものでは間に合わないことは子供でも知っていた。竹槍については、こんな思い出がある。廠内でも戦意高揚のためと、竹槍を持って通勤することとなった。しかし、それを悪用して節のところに小さな穴をあけて、その中に工場の油を入れて持ち出す者があり、守衛室で一人一人を調べるようになったの。それでもうまく持ち出す者が絶えず、やがて竹槍を持つことは禁止になった。
いつか、野菜の買い出しにトラックに乗って2回出かけた。初めは知多方面へ、大根と玉葱を荷台に満載するほど買った。これで3か月分あるとか。2回目下原方面へ行った時、農家の人がたくさんいる部屋に案内された。そのとき炊事の班長が、「このような時期であるので、腐っていなければ折れた大根でも、傷ついたいもでもこちらへ回してほしい」と頼み込んだ。班長の後には酒2本と缶詰の箱が2つあったことを覚えている。
米が不足して来ると、飯の中に大豆や豆粕、いもが混じるようになった。その割合がだんだん多くなった。そのうちに、決戦料理の名で野草を食用にすることを奨励するまでになった。
12月の暮、夜風呂の帰りに久しぶりに関東煮でも食べようと、例の店に寄ったが戸が閉まっていた。あとから来た2人が「食料が不足しているのに何事か」となじられて止めたと話していた。

工廠生活(昭和19年)
昭和19年を迎えた。元旦の朝、娘さんたちがふかしいもを買いに行く姿を見かけたので、まだ売っている家があるかと思った。いもの自由販売は米の代わりにせよということだが、それを口実に売っていたが、直ぐ止めさせられた。
以前からあった鳥居松湯が1軒だけ続けていた。狭い昔作りの小屋みたいな所であったが、れっきとした風呂屋であった。時には湯が濁っていることがあった。それによく履物を取られるので「どろ湯」と陰口を言う人もあった。私も履物を取られた。その頃の風呂代は6銭であった。10銭出すと4銭おつりをくれる。その時の1銭のアルミ貨がなつかしい。今もとってあるが、昭和19年は最も小さくなった1銭である。
2月中頃の日曜日、本通りに出て何するともなく歩いて行くと、20人ほどの人が一目散に駆けて行く。その後に帰って行く憲兵の後姿が見えた。風呂屋の前は大道商人が荷物を片付けて立退きさせられているところだった。何かやみの品でも売っていたのかも知れない。
廠内は、上空から見ると道路が光って見えるとかで、主な道路にコールタールを流して、カムフラージュをしてあったので、工員が帰りの時両側の砂地のところを歩いて行けばよいのに、真中を歩くとすべってころんでよく服を汚したものだ。工場の外壁は黒で色彩模様をつけた。何となく見苦しいが、これも工場を守るためでは仕方がない。一般訓練では益々上官に対しての敬礼が厳しくなり、工場の班長でも敬礼せよと命ぜられた。
廠内で風船爆弾の風船をつくるようになった。相当大きな風船であると聞いただけで、秘密でその外のことは一切分からない。ただ、その紙のはりつけ用に使う糊になるコンニャクいもの粉がたくさんあり、隠れてよくコンニャクをつくって食べた。
だんだん物資がなくなり、配給も少なくなったあるとき炊事場へ行き、人を捜すため誰も入っていけない所へ迷って入ってしまった。そこには大きな魚があった。マグロかカツオか知らないが、誰が食べるのか? 肉も少しあったが上官の食べ物だろうか。上官と工員は食べ物が違っていることは確かだ。
夏に近づいたある日、食料の不足を補うために、いもの苗を持って来て空地に栽培して、炊事場に供出せよとの命令が出たので、各工場はそれぞれ、空地を掘り起こして苗をさして手入れした。収穫のときは皆が少しずつ持って帰るので、炊事場へはそれほど集まらなかった。また「ヒマの油を取るから栽培せよ」との命令が来たので、いも同様に栽培したことがあって、秋の取り入れで実をたくさん供出した。
ほどなく、我々の倉庫も疎開が始まった。倉庫内の物品を全部廠外へ出すのである。初めに東山町の杉崎家の鶏小屋へ油を入れるため、毎日掃除に行った。当直のため寝泊まりの出来る部屋も作った。油は1,500缶ほど運び込んだ。夜は2名ずつ当直をし、日中は私1人で約3週間ぐらいで、他の人と交代した。関田の崖に穴があり、ここにも油500缶ほど入れた。しかし、ここはその後穴が崩れたので、油は奥地への疎開のとき土岐津へ送ったと思う。また、関田の木材置場は、銃床の原木が1,500本ぐらいあって、ここも夜間は2名の当直がいた。鈴木牧場へは弾薬袋を運び込んだ。

密蔵院観音堂

工廠生活(昭和20年)
昭和20年になって、空襲が続くようになると、廠内全部が疎開するため、機械をロープで縛り、みんなで曳いて廠内の列車のホームまで引っ張って行く。どこへ持って行くか知らないが大変な仕事だ。こんなことで生産が低下しているにもかかわらず、一般訓練だ。「上官に対しては敬礼をしっかりせよ」との達しの厳しさだ。内地の兵はもとより、外地の兵にも小銃がない部隊ばかりと聞く。そんなことで戦に勝てるであろうか。
2月頃、班長が今日はコンニャク粉を疎開させるので、工場工員と一緒に行けというので、待っていた自動車に乗って小島属さんと熊野の密蔵院へ行った。ここは天台宗の大きな寺で、建物がたくさんあり、その観音堂へ20俵ぐらい入れた。
その月の末、千種工廠へ自動車で部品を取りに行ったとき松河戸を通って行くと、何か人がたくさん働いている。何を造っているのかなと見たら、運転手が高射砲陣地だと教えてくれた。
丸い形の盛り土が3つあって、規模の小さなものだと見えた。帰りには出来上がり、藁や草がかぶせてあった。
3月に入って、弾薬袋と背嚢を稲口の吉田家へたくさん入れた。はじめ急いだので、めちゃめちゃに入れた。それを3日ほどかかって整理して、「やれやれ」これで済んだと思ったら、2、3日たつと全部払い出しの命令が出て、折角積み上げたものを全部移すことになると、班長に話すと「そんな馬鹿なことがあるか」と怒ったが、それから4日ほどたつと全部払い出し伝票が来て、土岐津へ持って行った。
熊野から上って来て19号線との交差点の近くでも、高射砲陣地を構築中であった。小寒い朝、土岐津へ向かうトラックの中から見たが、かなり大きな陣地だった。近くを憲兵が監視して人夫が10名ぐらい働いていたと思う。径5メートルぐらいの円形のものが2つ3つ見られた。しかし、帰りには草や藁がかぶせて隠してあった。あたりには人家などなかったので、知っている人はあまりいないと思う。
この年、5銭10銭が金属の不足から紙幣になった。その10銭札を見たある老人は、「大正時代でも、5銭10銭の紙幣が出たら、ほどなく世界大戦が終わったので、この戦争も終わりになるだろう」と話していた。
タバコの配給は、1日5本から3本に、主食の米の配給は、大人1日2合1勺になった。はがきが3銭から5銭、封書が7銭から10銭に値上げされた。ちなみにその頃米1升が15円、大根1本が2円、炭1俵が50円であった。なお1月の給料は、40円から60円であった。 3月25日、夜間空襲の折は当直で関田にいた。夜中にうつらうつらしていると、何だかおかしな音がするので窓を開けて外を見ると、ちょうどB29が竜泉寺の山の上を低空で東に飛んで行くのが見えた。そして、工廠の方向に赤々と火が上がっていた。外へ飛び出して見たが、中央線からの引込線の土手で見えない。しかし、何かあったと感じた。当直をすまして朝工廠へ行ったら、がやがやと大騒動であった。急いで自分の倉庫へ行ったら、廃品庫とバラック建の倉庫が吹き飛んで無い。爆弾の落ちた跡の大きな穴が3つあり、その土で原木が埋まっているので、それの掘り出しが大へんだった。昼頃、共栄会へ行ってみたら、板金工場がペチャンコ。機械が丸裸になっていた。第2炊事の食堂のガラスが全部なく、これだけですんだとは不幸中の幸いとかいっていたが、あとで、工員が5、6人戦死したことを聞いた。それに所長も直撃弾で戦死されたと聞いて驚いてしまった。
廃品庫へもどった。ここは私がいつも空襲になると、非常配置に着く場所であるが、この時、私は外の当直に代わったため、そこへは代わりの人が工場の要員5、6名を連れていった。空襲警報が鳴ったので直ぐ隣の防空壕へ入ったら、爆弾が落ちて来た。間一髪で全員助かることが出来た。外の者たちからは全員戦死したものと思われるほどのきわどい一瞬だった。とあとで聞いた。もし、1人でも遅れたらどうなっていたことだろうが。
その後、土岐津の疎開地へ行くことになるかも知れないとの噂が流れていたが、6月1日長野行の命令が出た。その長野の目的地は奈良井だった。

  • この文は鈴木竹一氏(瀬戸市東山町)の手記を参考にしたものである。

春日井の人物誌

小坂孫九郎雄吉4

石川石太呂  春日井郷土史研究会員

小牧、長久手の合戦と柏井衆
小牧、長久手戦記ものの中に前野文書「武功夜話」第12、13巻には、織田忠辰嫡子織田(後、津田姓)太郎左衛門知信(尾張藩馬廻役千石)から借用して写した「吉田家本本長久手記」に吉田家記録を追加して「天正長久手記」が掲載されています。「犬山城主中川勘右衛門高之の討死の事」には、勢州峯城より忍び出て犬山に帰らんとした途中、旧恨の難に会って討死したとあります。相手は信雄の足軽大将で500石の禄高であった梶川平右衛門で、遺恨の理由は(写本原文)梶川の妹おきみという美女を勘右衛門が深々惚れて、人を頼み娶らんとしたが断られたので、信長公に讒言したため、梶川は浪人となった恨みで、池尻辺に待ち伏せて勘右衛門を討ち果したとあります。
孫九郎は勢州に出陣にて、上条城の留守を預かるは森川権六、吉田城は前野新蔵、大留城の村瀬作左衛門と篠木、柏井で軍備を固めておりました。
森川氏は、比良に住む佐々氏と同族の宇多源氏佐々木支流で、堀部、堀場と改め比良に住んで信秀に仕えていましたが、飯尾致実の配下に属していた母方の伯父森川助右衛門は今川氏直に仕えていましたが、飯尾氏と共に永禄7年(1694)家康に通じたので、氏直の襲撃をうけて共に殺されましたが、家康はその義を感じ翌8年に助右衛門の縁者氏俊を捜しだし岡崎に呼び寄せ、堀場を改め森川を名乗らせました。大日本史料(天正12年3月24日条)等に「比良村小幡村両砦御取立也。小牧、清須への繋(つなぎ)に比良村に砦御取立也。幸(さいわいに)比良村に佐々内蔵之古屋敷有て此処御取立なり」松平家忠日記「比良の城譜請に越候」とあります。比良は森川氏の故地で、比良城を修築し一族と共にこれを守らせました。家康は安部信勝を守将として比良を任すとあります。また、墨俣築城の際孫九郎手の者として森川権右衛門の名があります。
田楽砦築城には「…前野新蔵、森川権六等柏井衆二千有余人の人夫を相集め、夜を日につぎ二千有余一度に押し付け上方勢の攻め口を塞ぎ候。柵を備え鹿垣を結び九町の間取り構え候」とあります。前記比良城修築にも森川一族や柏井衆人足の働きがありました。
上条城の防備については「…作左殿一揆の輩を合わせ一千五百有余、権右衛門(権六か)一千有余併せ大よそ四千有人の人数相備え小牧山つなぎの出城といたし相守り候…されば是の地六町に渡り築塁、小牧山城の備え候…」とあり、上条城域6町の範囲に防備設備を行っています。また吉田城においては「…柏井吉田の御城留守仕るは前野新蔵三十九余人……」とあります。
孫九郎は3月14日、秀吉方の池田勢等により犬山城が落城した事を聞き、急遽柏井に立帰り、各城の防備の急務を留守隊に申し渡し、信雄より清須城西北にあたる加賀野井城の守備に援軍を命ぜられ、同15日には手勢を引き連れて加賀野井城に向かいました。長子の助六雄善(かつまさ)は清洲の城に入り、同行しておりません。
4月6日夜半より行動を起こした秀吉勢は、楽田より大草、関田を経て篠木、柏井と、三好秀次を総大将に池田父子、森武蔵守、堀久太郎秀政、遠藤但馬守、長谷川藤五郎等役2万余の軍勢が7日に「…柏井、篠木道々七、八町の間生便敷(おびただしき)人馬一夜に取り入り来たる…」とあり、また、小瀬甫庵著太閤記には「…篠木、柏井の両村一帯の二里四方に一尺の余地もないまでに陣をしいた…」とあります。
そして、近在諸村の辻々に「軍勢乱入狼藉の事相無事敵対致さず御身方に入り候えば、篠木、柏井の内二万石御給地安堵取らせ置く者なり。右条々違乱有間敷者なり…」等の高札が立てられました。小瀬太閤記22巻の内9巻には「…両村の地侍達にも秀吉公より五万石の地を賜るとのさたがあったため陣中の意気が大いにあがった……」ともあります。
以前犬山城主でもあった池田恒興は、柏井衆約4千余の調達をも目的にしていましたが、柏井衆の相談がなかなかまとまらず、ついに村瀬作左衛門が案内役を引き受けることで決まり、8日亥の刻(午後10時)に全軍を3縦隊に分け第1陣は池田父子、第2陣の森武蔵守隊は大留大日の渡しを、第3陣の堀秀政隊は野田から中の瀬渡しを、総大将三好秀次等の隊は野田から中の渡しを渡って進撃しました。その頃柏井衆の者が小牧山城の家康のもとに状況を知らせに走っております。
家康、信雄の連合軍は井伊直政を先備に、旗本衆松平家忠、奥平信昌等と共に4月8日夜に小牧山を出陣し、小針、豊場を通り9日早朝に勝川に着陣しました。案内役は如意村の石黒善九郎が務めていました。約9,300余の連合隊は小幡城に入り、これより長久手の合戦に向かいました。
村瀬作左衛門は岩崎城兵の鉄砲に当たり相果て、嫡子九郎右衛門は乱戦と相成るに及び、竜泉寺まで退き柏井に逃れたと「武功夜話」には述べられております。
家康は冨士ケ根に本陣を張り三好勢を崩し、池田父子、森武蔵守も討死し秀吉方の散々の敗北となりました。
9日昼過ぎには楽田の秀吉本陣のもとに敗北の報が届けられました。秀吉は約3万余の軍勢を率い春日井原、関田、下津尾を通り長久手に向かいましたが、家康等は小幡城に帰ってしまいました。秀吉はすぐ引き返して竜泉寺城に入り対決しようとしましたが、家康等はまたもや小牧山城へ引き揚げてしまいました。秀吉は竜泉寺城に火を放ち軍団をまとめて楽田に引き上げました。殿軍をつとめた堀尾勢に柏井衆は鉄砲等で追撃しております。その中に堀尾吉晴の舎弟も加わっております。
前野文書のなかに「…然れど茂助殿の御舎弟修理殿は此度柏井一揆に相加り候、首(かしら)にて候えば是非なき事にて候……」とあります。

加賀野井の戦い
楽田に引き返した秀吉は、近郊の諸城を攻撃し、4月29日には小牧山城を攻めると虚言を流しながら退き、5月1日には富田の聖徳寺に陣を張りました。
加賀野井の城には信雄からの援軍も加わり、小坂孫九郎を初め千草三郎左衛門、神戸与五郎正式、千賀半之助、牧村掃部、浜田与右衛門、小泉甚六、楠木十郎、林与五郎、子見十蔵、弟松千代、平井駿河守、加藤太郎右衛門等に城主加賀野井重実等の城兵約2千余が守っていました。秀吉方は城の追手口へ細川忠興、搦手口には蒲生氏郷らをあて包囲攻撃を行わせました。
太閤記によれば「五日の日には一年分が残らず降る程の大雨で、風もまた激しかった……」とあります。豪風雨の夜半に城兵は、秀吉勢の猛攻にあい城内に侵入されて破れ、逃げ遅れた城兵を追い回し千2、3百が討ち取られました。千草三郎左衛門、林十蔵、加藤太郎右衛門、楠十郎は生け捕られまして、後で首をはねられました。その他、平井駿河守ら主だった武将もことごとく討死し、6日朝方には落城してしまいました。
孫九郎は九死に一生を得て柏井に逃げ帰りましたが、その時、秀吉は「戦上手で豪勇だった小坂孫九郎も加賀野井の戦で討死した」と流言しているほどで、小坂孫九郎の存在が大きいことを知ることができます。
加賀野井の城は秀吉方の稲葉右京亮をして守らせました。奥城も落城させ、12、13日頃には竹鼻城を水攻めにかかり、ついに6月10日守将の不破広綱は城を開けて伊勢長島に退きました。秀吉はその後大坂に帰りました。
加賀野井の城跡は、慶長11年(1606)小信村の築堤が決壊して、木曽川が一筋になった折、川底の中になってしまっています。

秀吉、信雄の密約
秋も深まる11月に、秀吉は伊勢進出を計り、伊勢の羽津、藤原等に砦を築き桑名に進み、桑部、柿多等の砦を奪い長島に向かって軍兵を進め、白子に出て海路で三河を襲うとも揚言しながら、信雄へ支援する家康を分離し、有利な条件で早く和睦に導きたいと計りました。
幾多の小競合いの戦況のなかで、秀吉はひそかに信雄と会見し、両者間で密約ができました。前野文書に次のように記載されています。
「就今度織田羽柴両家和議之儀、無事相調畢(おわんぬ)、然者於各陣所早々惣人数解放、猶俄懸リ城並諸取出致破毀速可反共之状 条々
一、城壱ケ所併取出弐ケ所於柏井、上条外造作之取出弐ケ所
一、前野方取出弐ケ所犬山往還通行為自在、棚並鹿垣等取除事
孫九郎日限切承り違乱有間敷候」
とあります。11月12日付で長島の滝川三郎兵衛から孫九郎宛に和議成立の内容をしたためた書状が届けられています。
秀吉、信雄の単独和議は10月22日、矢田川原(桑名)で家康ぬきで行われました。いずれにせよ書状の内容によれば上条、柏井の両城、諸砦は取りこわされることになりました。
和議により家康は二男の於義丸(後の結城秀康)石川数正の二男勝千代、本多作左衛門の子仙千代等に、小坂孫九郎二男孫八郎も人質として大坂におくることになりました。

九州陣で孫九郎病に倒る
天正13年(1585)秀吉は、四国を平定後の翌月関白の位を賜わりました。九州の島津義久は家柄と名門を誇り、秀吉に反発し九州一円をわがものに戦を続けていました。
天正15年(1587)初め秀吉は九州出陣の号命を発し、5畿内、北陸5カ国に、南海、江州、尾張、伊勢、伊賀等37カ国の動員兵力25万余人と馬2万頭に兵糧等を携え、先陣として宇喜多秀家が1月25日に大坂を出発しました。孫九郎は信雄の代将として軍役惣勢1千2百余名を率い、清洲より大坂表に参集し、2月21日大坂を出発しました。軍船にて赤間関(下関)より九州肥前に向かって出動しましたが、病を得て歩行不自由となり陣を退きその地で養生していましたが、同年9月に郎党丹羽弥曽二郎、林大作両名の介添と、秀吉の特別な計らいで小倉から大坂まで軍船で帰途につき、大坂表より山駕籠で在所(前野村)に帰っています。「…大坂表より山駕籠にて在所へ罷り帰候。然りと雖も病状はかばかしく平癒いたさず在所に養生仕る…」と前野文書に記されています。

前野村、孫九郎屋敷絵図(吉田竜雲氏蔵)

孫九郎の晩年

天正18年(1590)関東の北條氏が立て籠る小田原征伐が起きました。孫九郎はまだ病が癒らず参戦は出来ないので、助六尉の二男孫八郎が出陣しました。信雄の軍は伊豆の韮山城を攻めますが、北條氏政の弟氏親は6千余の城兵と共に抵抗し、信雄の約2万の兵力をもって1か月余り攻撃しても落城しません。秀吉は援兵を送り、どうにか落城させましたが、信雄の失敗を咎(とが)め、尾張勢の帰陣を足留めさせ、尾張、勢州の領地没収と信雄を改易し下野国(栃木県)那須へ配転させました。尾張は三好秀次が継ぐ事になり、孫九郎の所領地も没収されました。在所に蟄居の孫九郎は秀次に願い出て、本貫地の前野村95貫文を格別の御仁慈を給わり安堵されました。其の後380貫文を許されています。
天正19年(1591)辛卯霜月、ご領内御検地があり、奉行平野彦三郎より案内役孫九郎と仰せがありましたが、足腰不自由のため、名代として助六が勤め70余日かかって勤めました。文禄2年(1593)2月朝鮮征伐には、常真(信雄)様に最後のご奉公と鎧を着け出陣しましたが、肥後名護屋まできた所で一歩も前に歩む事が出来ず、再び船で大坂に戻り在所に帰っています。床に臥したままになり慶長4年(1599)9月13日、76歳にて戦国武将孫九郎は永眠しました。孫九郎の室は丹羽勘助の娘(病死)、後室は三輪五郎左衛門の娘にて、蜂須賀小六の室お松の方の姉とされています。子供は4男1女と6男2女の系譜がみられます。

郷土の自然

身近にあり 食味・薬効のある山野草

右高徳夫  春日井自然友の会会員

古くから食され、現代ではグルメブームで一層珍重されている山野草、しかも、私たちの生活の場に身近にあり、食味良く、薬効まで期待される山野草、その例を紹介します。

ヤマノイモ(ヤマノイモ科)

ヤマノイモ(ヤマノイモ科)
山野に野生するので、自然薯とも呼ばれています。同類のものに、八百屋の店頭に売られているナガイモ(中世の頃、中国から渡来した)銀杏薯、つくねいも、いせいも、ヤムイモ(アフリカ・熱帯アジア原産)等があります。地中に伸び多肉性の太い根(イモ)を持ち、茎は、つるとなって長く伸び、左巻きに他のものに巻きつき、葉のつけねには、大きいもので直径1センチメートルくらいのムカゴを数多くつけます。
野生のヤマイモは、土の中で小石や木の根に邪魔をされ、曲がりくねって成長します。山でのイモ掘りは、1メートルもの深さの穴を掘るために何時間も費やすわけです。イモ掘りは、地上の茎が枯れてからの方が味が良いのですが、ただ、この頃は、地上の茎が枯れ、ばらばらになっていて、イモの根元がわかりにくくなってしまい、見つけにくいわけです。葉の茂り具合で、目やすをつけ、充実したものを狙って掘ります。また、晩秋の山道を歩きながら、葉のよく茂ったヤマイモのつるが目につくことがあります。空中に子イモをならせています。これが「ムカゴ」です。さわるとぽろぽろと落ちてきます。ザル、手持ちの傘、虫採り網、帽子などで受けながら落とすと、多く採れます。

ヤマノイモ(ヤマノイモ科)

  • 薬効として
    一般には、強精強壮食品として知られていますが、糖尿病にも顕著な薬効があることはあまり知られていません。糖尿病は、疲れやすく、喉が渇いて水を多飲するため、頻尿となりますが、毎食ヤマノイモを60g程度食べていると、喉の渇きや頻尿が解消されるといわれています。
    生薬の山菜は、ヤマノイモやナガイモから作ります。外側の皮を除いて乾燥します。粉状、円柱状や板状のものもあります。「神農本草経」によれば、「虚弱体質を補って早死にしない。胃腸の調子をよくし、暑さ寒さにも耐え、耳・目もよくなり、長寿を保つことができる。」とあるそうです。
  • 食べ方
    春に摘んだ若葉は、天ぷらやゆでておひたしや和え物にします。(似た仲間、オニドコロはすごく苦い)秋にはムカゴを採り、甘辛煮、塩ゆでや炒めもの、たきこみごはんにします。あくが気になる場合は、塩ゆでして、あく抜きをします。晩秋から冬にかけてイモを掘り、とろろ汁や山かけ、磯部揚げ等とし、細かく刻んだものにのりをかけて酒の肴にします。煮物、いもがゆ三杯酢、みそ和え、汁の実などがおいしい。

クズ(マメ科)

クズ(マメ科)
日当たりのよい林のへりや土手に大群生しています。つる性で、秋の七草の一つ。春に地中の太い根から芽を出したクズは、繁殖力旺盛で、つるになって木にからみつき、大きな葉で木を覆って日光をさえぎります。陰になった木は、衰弱して枯れるため、林業では、雑草として」嫌われています。
若芽や若葉、花などは摘んで食べられます。夏に赤紫色の花を総状につけ、下の方から咲きだします。根は肥大し、1メートル以上にもなります。

  • 薬効
    根は、夏から秋にかけて掘り、葛根湯の原料となります。花は、開花時の8月頃摘みとり、風通しのよいところで日干しをし、葛花をつくります。健康飲料で二日酔いによくききます。又、葛湯は、かぜのひき始めや、病後に飲むとよくききます。
  • 食べ方
    新芽、若葉、花穂を摘みとって用います。新芽、若葉は、塩を入れた熱湯でゆで、ごまあえ、煮びたし、油いために、生のまま天ぷらにします。花穂は、ゆでて酢のものや、生のまま天ぷらにするとおいしい。

シュラン(ラン科)

シュラン(ラン科)
人里近くのこなら林や赤松がところどころに見られます。日当たりのよい山林に多く自生しています。3、4月、根ぎわから直立して出る花茎は、緑色のない肉質で、数個の淡い黄緑色の花をつけます。がく片は、倒披針形で、その質はやや厚く、花弁は、がく片と同形で、やや短く、白色で濃い紅紫色の斑点があります。
中国春ランは、昭和の始めから愛培され、ラン特有の良い香りがあります。日本春ランも、現在では、多くの花色、変化花、縞葉等が発見され、愛培されています。香りは殆んどありません。

  • 別名方言のいろいろ
    ホクロ、ジジババ、ホクリ、ホックリ、ホッコリ、ヤマデラボーサン、コウボウタイシ等。
  • 薬効
    ひび、あかぎれに、乾燥した根の粉末を、ハンドクリームにねり合わせ使用するとよろしい。
  • 食べ方
    つぼみ、花を花茎ごと摘みとり、サラダの彩りとしてなまで食べるほか、薄い衣をつけて天ぷらにしたり、少量の酢を入れた熱湯で、さっとゆで、椀だねや酢のもの、和え物にします。3倍量のホワイトリカーに漬けて花酒にもします。蘭茶は、花を塩漬けしたものに湯を注いで、香りを楽しむ飲みもので、古来から、おめでたい行事のお茶として用いられています。
  • 蘭茶の作り方
    (ア) シュンランの花だけを切りとって水洗いします。
    (イ) 海水くらいの濃さの塩水を煮立てて冷まし、この中に花を1週間ほど漬け、別の容器にとり出して、塩をまぶして蓄えておきます。
    (ウ) 湯のみ茶わんに1輪入れて熱湯を注ぎ、蘭茶として用います。

ヨモギ(キク科)

ヨモギ(キク科)

  • 薬効として
    ヨモギ酒はゼンソクに。煎じて飲むと健胃・貧血に。ヨモギふろは、腰痛・腹痛・痔の痛みによくききます。
  • 食用として
    早春の若芽を摘み、たっぷり熱湯でよくゆでて、水にさらし、ごま、すみそなどの和え物にします。又、細かく刻み、餅につき込んだり、生のまま衣をつけ、天ぷらにしてもおいしい。

その他
ツユクサ(ツユクサ科)、ドクダミ(ドクダミ科)、イタドリ(タデ科)、ぜんまい(ゼンマイ科)、せり(セリ科)、はこべ(ナデシコ科)等、天ぷらや和え物としてもおいしい。
わらび(ワラビ科)はおいしく食することができますが、ビタミンA等を分解する酵素が含まれていて、目の健康に良くないとか、発癌性物質が含まれているという説などがあります。

郷土探索

白山信仰13

多宝塔北側碑文

村中治彦 春日井郷土史研究会員

真盛上人と一志白山信仰
三重県一志郡白山町には現在白山比咩神社が5社あり、他に合祀された旧白山比咩神社2社を含めて、俗に七白山と呼ばれていた。
この七白山の背景には、前号で述べた真盛天台の影響が考えられる。
明応3年(1494)、小倭城主新長門守の屋敷地に成願寺が落成した。これを機に開祖である真盛上人に対して、信徒が次のような2通の起請文を出している。

  1. 真盛上人様依御教化、存難有、於末代成願寺江如在仕間敷候、小倭百姓衆以起請、定申条々事、

      一 就田畠山林広野等、境をまきらかし、他人作職を乞落、一切作物を盗穏、作物を荒地畠、諸事猛悪無道なる事、不可仕、(以下略)
     
  2. 真盛上人様江申上候条々事、

      一 於此人数中、自然公事出来之儀在之者、為一家中、任理非可有裁許、縦雖為親子兄弟、不可有贔負偏頗事、若為対于事、不及分別者、山雄田於神前、可為御鬮、(以下略)

(1) は8月15日付で百姓衆360余名の連署による5か条の起請文のうちの第1条である。
この文は下から上への誓願の形をとっており小倭郷の百姓と寺院や地侍の被官が名を連ねている。
(2) は9月21日付の5か条の起請文のうちの第1条である。文書は真盛上人へ申し上げるという形をとりながら、内容的には46名の地侍等による一揆連判状となっている。
文中の「一家中」という形で、擬制的な血縁関係を持ち「山雄田於神前、可為御鬮」とあるように、山雄田の小倭白山神社の神前に集まり加持祈祷によって、白山権現に対して起請している。
これは白山信仰を精神的な拠りどころとして宮座集団を組織していたものと推測され、その集団の実体は、白山神社と成願寺によって一揆を形成していた在地土豪衆の連合であった。
ところで、この2通の起請文について、瀬田勝哉氏は「中世末期の在地徳政」の論文の中で、大略次のように考察しておられる。
小倭百姓衆起請文の各条文は、「不可取之」とか「不可打博」のように禁止事項になっている。その内容からは、当時の小倭郷内における百姓衆の激しい違乱行為が推測される。
そして、それらの違乱行為が個々単独に行われたのではなく、多くは集団としてまとまりつつあった百姓衆の結合により行われたため支配者の土豪衆には脅威であった。地侍は己が地位を守るために百姓衆に起請文を書かせ、行動上の規制を誓わせた。
そして、地侍衆らも白山神社を中心として、一揆の強化を図るという積極的な百姓衆対策をたてる必要があったであろうと考察している。
いずれにしても、2通の起請文が真盛上人に対する誓いの形で出されていることは、上人の教化指導力の偉大さを物語っていえるといえよう。
上人の父小泉藤能は、伊勢国司北畠教具の侍大将であったことも影響して、戦国期の小倭衆は北畠氏の配下として活動した。
しかし、北畠氏→織田氏→豊臣氏と支配者が変転する中で、天台宗と白山信仰によって団結し、地域的な結合を以って行動していた小倭衆も、次第にその結合を弱めていったのである。

<参考文献>
『伊勢白山信仰の研究』吉田幸平著、『三重県の地名』(日本歴史地名大系24)

発行元

平成6年3月15日発行
発行所 春日井市教育委員会文化振興課

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