郷土誌かすがい 第54号

ページID 1004436 更新日 平成29年12月7日

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平成11年3月15日発行 第54号ホームページ版

松河戸遺跡

土製人形

土製人形

(松河戸遺跡安賀地区出土)
春日井市の南西部に位置する松河戸字安賀には、稲作農耕が日本に伝わってきた段階での「環濠集落」が確認されています。この弥生時代前期(紀元前2世紀ごろ)のムラは、北東から南西に流れる幅約12メートルほどの自然流路を利用し、その両岸に2条の環濠とさらに外側に延びる1条の濠を巡らすもので、南北180メートル東西110メートルほどの規模が推定されます。環濠の内側からは多数の生活跡確認され、弥生時代から始まる外来系の遠賀(おんが)川系土器や縄文時代から継続する伝統様式の条痕文系土器、石鏃、石斧などの石製品の他に弥生時代前期の遺跡としては尾張地方では初めての木製品が出土しています。
土製人形はムラを区画する環濠内より検出され、全長(残存部)61ミリ、幅34ミリ、厚さ8ミリ(幅、厚さとも最大部)で両足は欠損しているものの全身を表現しており、右腕は肩からやや下がり気味に伸び、左腕を腰にあてた姿勢がうかがえます。首の部分には、首飾りを表現したと思われる細かい刻みと左肩から胸にかけて襷(たすき)掛けした痕跡がみられ、写実的であるという点で明らかに「縄文土偶」とは異なる系譜のもので、伝統様式と外来様式の錯綜する尾張地方での精神世界や生活を考えるうえで大変貴重な資料といえます。

市教育委員会事務局

郷土探訪

春日井を通る街道15 旅の記録にみる下街道

櫻井芳昭 春日井郷土史研究会会員

1.はじめに
江戸時代の下街道は名古屋から中山道の追分までおよそ58キロメートルで、1泊2日が標準であった。この道は脇往還なので旅の記録はそれほど多くないが、中山道と東海道をつなぐ便利な道であるので全国規模で旅をする人たちも通行している。
下記の12人の旅の記録から下街道周辺がどのように映ったか、記述の詳しい「内津草」を中心にまとめてみたい。

春日井郷土史研究会会員

No.

著者 書名 刊行年 主な経由地 方向

1

荒木田久老 「五十槻園旅日記」 天明6年
(1786)
善光寺 東行

2

司馬江漢 「西遊日記」 寛政元年
(1789)
長崎、江戸 東行

3

伊能忠敬 「尾三測量日記」 文化8年
(1811)
山陽、北九州 西行

4

牟田文之助高惇 「諸国巡歴日録」 嘉永6年
(1853)
諸国 西行

5

清川八郎 「西遊草」 安政2年
(1855)
善光寺、伊勢 西行

6

久左衛門 「金比羅参り」 元治元年
(1864)
伊勢、金比羅 東行

7

横井也有 「内津草」 安永2年
(1773)
内津、虎渓山 往復

8

徳田弥吉 「楠町誌・旅記録」 文化8年
(1811)
善光寺 東行

9

青墨智瑞印 「阿弥陀瀧縦覧紀行」 文政5年
(1822)
美濃阿弥陀瀧 東行

10

鬼熊・梅香・蝶女 「内津道中記」 天保11年
(1840)
内津、龍泉寺 東行

11

細野要斎 「感興漫筆」 嘉永4年
(1851)
内津、虎渓山 往復

12

荻須治右衛門 「稲沢市史・旅記録」 安政2年
(1855)
善光寺 東行

13

細野要斎 「感興漫筆」 万延元年
(1860)
内津、龍泉寺 東行

2.下街道に沿って
(1)勝川
横井也有は安永2年(1773)8月18日丑三つ(午前2時)を過ぎるころ名古屋の庵を出立して、内津の長谷川善正宅をめざした。

山田川、かち川を渡るほど、夜なおふかし。
この川々はかちわたり也。
八月の川かささぎの橋もなし
ずさども、あなつめたなど笑いののしる声に、
我は駕よりさしのぞきて、
かち人の蹴あげや駕に露時雨

「七月ならば七夕の夜に牽牛星に織女を会わせるため、かささぎが羽を並べて天の川を渡すという橋があるが、今は八月なので歩いて渡った」と詠み、従者たちの「ああ、冷たい」など笑いさわぐ声がするので乗ったままの駕籠からのぞいて、「川を渡る人の蹴あげた水しぶきが駕籠に露時雨になってかかっている」と表現している。帰りは増水していたので駕籠から降りて、手を支えられながら歩いて渡っている。
また、細野要斎も万延元年(1860)内津の祭礼に出掛ける人々でにぎわっている庄内川の様子について「山田村の堤上に至れば、灯を張りて菜果を売る者あり。行人多し。勝川に至れば、村夫出て、川を渡る者を負うて銭を取る。堤上堤下に、酒肴売る者あり。夜半の行客多きを以て也」と記している。
庄内川を越えるのは、渇水期(秋末~冬)は仮橋や浅瀬を歩き、増水期(春~秋)は舟であった。古義にも「勝川渡船一艘・自分造作船頭四人、舟駄荷十文、人六文、旱水には渉り也。」とあり、時期によって違っていた。「阿弥陀瀧縦覧紀行」文政5年(1822)8月では「山田川を歩渡にして瀬古村を通り御用水の石橋を経て勝川の渡口に至る。舟にて川を越え間の道を少し行きてほどなく勝川の駅に至る。」と渡舟であった。渡し賃は往来の人々が気軽に利用できるようにと、渡しに要する経費の一部を近隣の村々が納入しており、和泉村の場合は嘉永2年(1849)の村下用から勝川橋賃として金2分が支出されている。
勝川の徳川家康にまつわる話は有名だったようで、幕末の志士清川八郎の「西遊草」では、「勝川村を通る。この村長久手、小牧山の間にして、昔かち川といいしを、神君長久手の戦に大勝利を得給いし時、吉事なれば勝川と改め給うなり。秀次大将として、三河の御本国をうたんとはかりしは、神君早くも察し給ひ、此村の名主甚助を案内させ、しのびやかに長久手に御出馬ありて、大勝利をさし給う時、甚助を召され『甚助、また勝ちたり』と仰せられ給いし事記録に見えたり、甚助は今は甚九郎と改め、百姓なれども由緒ある家ゆえ今なお歴然たれば、その家に至り尋ねるに、御案内にいで長久手より帰るとき、当座の賞誉のしるしとして葵御紋所の片袖を切り裂き、甚助に下されたもの今に宝物としてあり。浅黄の地なり。その後にて御小袖二かさね下されしを長く宝物にいたしおきしに、以前の某代官に取り上げられたる由、由緒書にあり。主人留守にてくわしくは知れざれども、誠に当時のこと思いやり感慨にたえぬことなり。立札もなけれども、勝川というにて記録を思い出し、甚助を訪い珍しき宝物を拝見せしこと幸いなり。」と記述されている。「勝川」という縁起のよい地名は徳川家康によって付けられたと言い伝えられているが、応永34年(1427)ころの「醍醐寺領安食庄絵図」に勝川村の記載があり、実際には小牧長久手の戦以前から使われていた村名といえる。
細野要斎も安政4年(1857)長母寺から地蔵寺を訪れた折、甚助宅へ立ち寄っている。「東照宮より拝賜の品を拝観せんことをもとむ。甚助が宅は村へ入って半町ばかり西側にあり。これは別家にて本家は今は甚九郎という。村口より4軒北の東側也。甚九郎は家にいず。その妻小さな四角の竹籠を携え出てこれを示す。御熨斗目(のしめ)(麻上下の下に着た武士の礼服)の袖(御紋付)あり。同じ竹籠に由緒書等数通あり。拝し畢(おわり)て出る。」と詳しく記している。
また、嘉永4年(1851)の虎渓紀行では「十月二十五日瀬古を過ぎ勝川に至る。去年の秋の大水にて、堤崩れ家倒れ、田畑泥に埋もれ、民皆菜色有しが、今年は国中豊熟して、民蘇生の思いをなす」と豊かに実る田畑に安堵している。「嘉永三年七月二十一日夜暴風雨起りて、処々に損害を生じ八月五日より五日間の大雨のため、木曾川・庄内川・矢田川以下の諸水氾濫して堤防を破壊す」と濃尾平野全域に災害が起きたのである。沖積地の勝川地域は水害に弱いのは避けられないことであった。
さらに、測量に基づく日本地図を初めて作成した伊能忠敬は8次にわたのる測量旅行を実施している。このうち、文化6年(1809)7次の測量で、北九州・中国地方の内陸諸道から美濃に進み、文化8年(1811)小牧から勝川に入り名古屋まで測量している。日記には「三月二十二日朝曇天、勝川村又駅に別手と合測。坂部・永井ら春日井郡大曾根村地内大印より始め逆側。山田村(山田川土橋24間)瀬古村(勝川川幅30間4尺5寸)勝川村駅まで測。別手と合測1里3町21間4尺5寸」と記録されている。

(2)柏井・鳥居松

ゆくゆく月もかたぶき過ぎて、夜も明けなんとす。
麓からしらむ夜あけや蕎麦畑
鳥居松という所にて、わりごようのものとうでてよとていこふ。
夜と昼の目は色かへて鳥居松

柏井あたりの春日井原は一面の蕎麦畑で、ちょうど白い花が咲きほこっており「よく見れば霧ではのうてソバの花」という景観であった。だから、この辺りでは「夜明けは山の上から始まらず、ソバの白い花が光を受けて麓から明けてきた」という珍しい光景を詠んだところがおもしろい。
午前2時に名古屋を出て鳥居松で夜明けとなり、弁当箱を取り出して朝食をとっている。鳥居松の「鳥」にちなんで、鳥は夜と昼では目の見え方が違うことから、「鳥居松までは夜の目であったのが、ここで目覚めて昼の目に変わって辺りがよく見えるようになりすっきりした」という意味で、ここから杖をついて歩き始め大泉寺まで1里進んで駕籠に戻っている。

尻ひやし地蔵はここにいつまでも
しりやけ猿のこころではなし
坂下、明知、西尾などという里々を経つつ行く。
駕たてるところどころや蓼の花

「しりやけ猿」は「何事にも中途半端で、飽きっぽいこと」をいうのであるが、尻ひやし地蔵は泰然として霊験あらたかにおさまっているさまを軽妙に綴っている。
駕籠を止めるところにはどこでも蓼の花が咲いているといい、「たてる」と「たで」とのしゃれがきいている。蓼は今でも道端によく見かける植物で「たで食う虫も好き好き」の諺があるように、中でもヤナギタデには特有の辛味がある。

(3)坂下
他国の人が書いた旅日記を残した5人のうち4人が旅籠米屋半六に宿泊している。ここは大きな造り酒屋で坂下随一の旅籠でもあった。洋画の先駆者司馬江漢の「西遊日記」では寛政元年(1789)4月3日に泊まり「宿辺り山々ツツジ花さかり。」と山の美しさを描写している。細野正信著「司馬江漢」によれば、雨のため予約なしで坂下の宿屋柏屋善十郎に泊まり、ここで釜戸宿の桔梗屋、中津川の旧知の問屋羽間半平衛の親類であることを知って尋ね交流を深めたという。
剣術修行の佐賀藩士・牟田文之助高惇の「諸国巡歴日録」では、「嘉永六年(1853)五月二十六日晴天、朝つ五つころ、釜戸宿出足にて五十丁六里参り池田宿にて昼食。夫より三里参り、坂下宿米屋半六所に着く。道中いずれも山峠ばかりにて、はなはだ困り候。旅籠百八十銅」と道の険しさを述べている。
「西遊草」では安政2年(1855)4月23日に通り「また二里ばかり、一蹶(いっけつ)して坂の下村に至り、米屋半六に宿る。時七つ頃也。今日の道は山中なれども見晴らしよく、格別の高下もなく、百姓麦刈り盛り、また山ばたらきの真盛中にて、田畑に多くいでありき。五十丁道を余程来たりしゆへ、殊のほか疲れたり。むし暑くありしに、暮れ方に雨となる。早朝に宿を出て、次第に開ける平地に出て果てもなき沃野なり」と山間を越え、濃尾平野に出た様子を記している。

(4)内津
「西遊草」では「二里少しく山間を越え、うつつという駅にいづる。妙見大菩薩の宮あり。いたって人の信心する神にて、宮は小なれども誠に上手なる彫ものあり。念をこめたる作にて、近頃見あたらぬ立派な普請なり。裏に山水の庭あり。岩石そばだち、池に鯉鮒多く清らかな境地なり。七丁ばかり奥に不動尊の岩やその他見処もあるとぞ。」と内々神社の出来ばえに感心している。細野要斎「感興漫筆」の万延元年(1860)8月15日に内津山祭礼に出掛け、
「内津の巷頭細雨の湿ひあるを、人の踏み過ぎるを以って滑ること甚し。既にして内津山麓に至る。手を洗い口をすすいで祠前に拝し、なお雨を侵して山れいに至る。妻児皆従う。
くさぐさのつみ皆夢ときえぬべし
内津の山の神をちかいに陳
厳中の不動尊の前に、一枚を黏(ねん)するあり。この十七日、昼夜ここに籠もり、一日一食で般若心経を書写して祈願を満たすことを欲する也。今年の五月のことなり。何人のすることなりや。山を下りて、茶店にて酒飯を喫す。時に神輿頓宮より王祠に来たり、祠前に設けたる車楽に、神楽を奏するを見る。既にして雨はやみたり」と述べている。
鬼熊・梅花・蝶女は「内津道中記」で天保11年(1840)名古屋下南寺町の6人が内津と龍泉寺参詣の旅を小倉百人一首の替え歌と16枚の挿絵による道中記にまとめている。
「三月二十四日八つ頃内津へ入りにける。海道を行くほどにしだれ葉桜あまりに見事に思えこれを詠み、また道すがら絵にも及ばぬ山気色に興を催し口ずさみ、橋を渡り煎茶店を打ち通り茶屋町も打ち越して、はや御社に着き日頃より心をつくせし参詣をなし、また奥深く分け入りて奥の院に参るとて坂登りに笑を催し足もひょろひょろとして険しき山を打ち登り、みな故障なく山登りして岩洞や宮へ手を合せつつ、ただ感涙を流しありがたきもいやまさりて尊く伏し拝見。みなみな下山しはべりて道にて土産物を少々求め荷に入れる。」と念願の参拝を無事果たした感激を記している。門前付近には煎茶店、土産物店や土蔵造りの清めの茶所があった。
小倉百人一首の替え歌で沿道の景観を詠んでいる例として
「名にしおふ内津の道の茶の木ばた人につれられ見るもよしもがな
おぼつかな内津の山の道もせに山がつ杣(そま)は住やならえて
来てみれば内津の山の山気色山又山に山そびえけり
内津山中に峯よりおつる水の音いういうとして岩をも砕くがごとし。げにも恐ろしき山中に住なれるにや杣人は小屋たて風呂など拵えてあたかも山に寝起きする家居のごとし。」
として、茶の木畑や絵図には木引き小屋が描かれている。
也有は鞍骨(くらほね)を過ぎて内津にさしかかったところでは次のようである。

此あたりより山路ややさかしく、峯々左右に近くそびえ、大きなる岩ども道もせにそばだち横たわりて、決々たる渓泉いたる處にきく。
名もにたり蔦の細道うつつ山
ひるばかり内津山につく。此所のさま、妙見宮の山うちかこみ、杉の木立ちものすごく繁りて、麓につきづき敷家居つらなれり。
山は杉さとも新酒に一つかね

平安初期の歌人在原業平が伊勢物語の中で「駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり」と詠った宇都の山に景色も似ているが名も似ているというのである。
「内津山には立派な杉があり、里の新酒を売る店には杉の葉が一束立っている」というのである。酒屋では杉の葉を束ねて立てていたのであろう。高山では酒造業の象徴として、かつては新酒の出来た印に杉の葉を大きな玉にして軒下につるされていたが、最近では職人さんが見付からないので何年も同じものをかけているという。
内津に造り酒屋業があったのか地元で尋ねてみたが「聞いたことがない」との意見が多かった。しかし、也有が来訪したほぼ20年後の寛政期(1789~1800)と考えられる内津村の「寅年売買惣高書上帳」をみると、売買高が2番目に多い長谷川兵九郎は米を200石仕入れて、酒を120石、焼酎粕50俵、糠15俵などを売り上げており酒造業を営んでいたようである。

妙見宮に詣す。舎よりいと近し。なお奥の院へ参らんというに、こよのうさかしき道なめり。(中略)左右大なる杉どもの枝さしかわして、日の影ももれず。細き道の苔なめらかに石高し。右の方に天狗岩といえる世に知らず大きなる巌そば立てり。只一つの山とこそ見しらるれ。かかる怪しき岩は、他の国にもおさおさなしとぞ。
はいのぼる蔦も悩むや天狗岩
次第に道さかしく、岩を攀、木の根にすがりて、七町ばかり登りて、小足とどまる所に休らう。ここに仰げばこうごうしき拝殿見えたり。それまで十間ばかりことにあやうき坂あり。社はなお奥まりてましますよし。ここまで登しだにも、我にはこちたきわざなり。今はふようなりとて、ここにぬかづきて帰る。
杉ふかしかたじけなさに袖の露

「大きな杉が深い木陰をつくっている奥に、社が見える。あたりの静寂な雰囲気、何となくありがたい神威にいつの間にか感涙で袖を潤すものがある」というのであり、袖の露は涙と季節の露をかけたものである。杉の巨木に囲まれて、神秘さが漂っていの情景が遺憾なく描写されている。

3.おわりに
剣術修行の佐賀藩士・牟田文之助高惇は「諸国巡歴日録」嘉永6年(1853)5月25日に「晴天、夫より上海道、下海道とて追分あり。上海道は木曾街道なり、難所十三坂とてあり。但し下海道は尾張道なり。この道近道の趣きに付き、下海道を三里参り、釜戸宿藤屋甚左衛門所に着宿。道中難渋に付き、人足を取り詰め参る也。旅籠二百銅。」と記している。
また、清川八郎は安政2年(1855)4月21日「十三峠を少しく越え、茶屋の並びある追分より左にくだり、下道という伊勢街道に入る。一里ばかりして竹折村の丸屋に宿る。いまだ八つ頃なれども明日の都合あるゆえ宿る。中山道のにぎわいもまたさりて、ひとしお物さみしき道中となる。馬夫の話に、追分の処に竹折村より高大なる大鳥居を建て、伊勢大神宮に奉納せしに、誠に美事にて旅人見物ながらいずれもこの街道のみ通り、細久手の往来さみしくなりしに、悪徒ども鳥居を切り倒しけるに、三日過ぎざる中にその者の家より失火ありて、細久手のうちその事に荷担せし者皆焼失せしとぞ。そもそも神威のあらわるるものか」と追分の鳥居にまつわる話を伝えている。下街道の様子について「間々に旅籠屋ありしといえども、野鄙にして伊那往還よりはるかに劣れり」と評している。
街道の呼び方は下街道が一般的で、下道、伊勢街道とも呼んでいる。下街道に対して中山道を上海道と呼称した初見は今のところ明暦2年(1656)「大湫村書上候控」の「名古屋へおか道拾六里上海道、拾三里下道」である。
下街道で旅日記に出てくるのは、内津妙見と勝川渡しが6と最も多く、次いで坂下の5、虎渓山、釜戸、追分の各3となっている。特に内津については描写が詳しく、感動を伴った書きっぷりが多い。また、地名で多いのは、内津・勝川が8、大曽根7、名古屋・坂下6、釜戸5である。
宿泊地は2泊の場合、坂下と釜戸が3例あり、1泊では内津、坂下、池田、松本や堀之内の知人宅などいろいろである。
下街道は脇往還であったので、国中を旅した人から見ると「ひとしお寂しき道中」として描かれているものが多いが、伊勢や木曾へ行く便利な道であったので、経路の特性を知っている人は計画的に利用していたといえる。

〈主な参考文献〉

  • 石田元季「註釈校定鶉衣」1928、春陽堂
  • 野田千平編「稿本うづら衣」1980、笠間書院
  • 岩田九郎「完本うづら衣新講」1958、大修館
  • 岡田弘「矢田河原を描く内津道中記」1997
  • 春日井市教育委員会「下街道」1976
  • 春日井市史資料編1963

郷土散策

春日井の下街道を歩く2 下街道から国道19号への変遷

永田宏

勝川地区図

勝川天神社より愛宕社まで
勝川は江戸時代、下街道の宿場町であった。名古屋から多治見方面へ向かう下街道と、名古屋から小牧へ向かう小牧街道への分岐点でもあった。文化年間(1810年代)には165戸、792人、馬が15頭、村高は1,115石であった。
行政区画でいえば、明治11年(1878)には春日井郡(同13年2月より東春日井郡)勝川村、同26年3月に勝川町に昇格、同39年(1906)に周囲の味美村、柏井村、春日井村を合併して勝川町となった。明治、大正を通して郡の中心であり、明治4年3月新しい郵便事業の開始に伴い、翌年7月内津と共に郵便役所が創設された。以後、郡役所、警察署、裁判所、税務署などが設置され、銀行も進出した。
明治33年7月に町の中心部より約1km東北に中央線勝川駅が開業した。大正時代から徐々に駅前に店舗が出来始め、昭和10年頃には、駅前商店街としてはほぼ形が整い中心部は駅前に移った。そして昭和18年6月1日、勝川町、鳥居松村、篠木村、鷹来村が合併して春日井市となった。

(1)勝川天神社付近
地蔵川に架かる地蔵橋の西南、地蔵ケ池公園の一角に天神社がある。古くから勝川村の氏神として人々から崇敬されている神社である。正面右にある黒御影石の由緒書には次のように彫ってある。

当神社は正和2年(西暦1313年)無盡禅師によって創建されたと伝えられている。もとは高山という処にあったが後世今の地に移し、神仏混淆の時代には地蔵寺の僧が祭祀を掌ったという。尾張地名考に陸奥國二本松城主丹羽加賀守の屋敷の鎮守であったとも伝承されている。明治40年10月村社に指定され同42年勝川地内にあった神明社、洲原神社、山神社、神明社4社を合祀し古くから勝川村の氏神として人々の厚い信仰を得ている神社である。終戦と同時に神社は国家管理を離れ宗教法人「天神社」として今日に及んでいる。

天神社狛犬

社殿は平成8年5月、天神社建設委員会により全面改築された。神殿の右側に建てられた「天神社全面改築高額寄進者」と題した石碑の裏に、
「天神社の創建は正和2年(1313)と伝えられているが定かではない。取壊した神殿内の記録によれば、現存していた社は嘉永5年(壬子)から安政5年(戊午)の7年で奉築されたものと思われる。」とある。東側入口の常夜灯には「嘉永七寅年八月」とあるので、これは丁度その頃の奉献されたものであろう。
西側入口にある狛犬1対は「昭和九年二月建之」とあり、「寄付人勤先岐阜県大野郡白川村平瀬発電所勝川長谷川作一四十二才」と彫ってある。勤務先まで彫ってあるのは珍しい。勤務先に誇りを持っていたのであろうか。
平瀬発電所は岐阜県大野郡白川村にあり、庄川水系に属し有名な御母衣ダムの下流にある。大正9年(1920)4月発電開始、昭和5年5月合同電気株式会社に所属、出力1万1,000キロワット、現在は関西電力株式会社に属している。
この話を友人のTさんにしたところ、たまたまTさんは関西電力の関連会社に勤務しておられたとの事で調べられた。その結果、この長谷川さんの奥さんは100歳の長寿で畑仕事をする程,で今なおご健在であり、平瀬で電気商を経営している70歳の息子さん夫婦と一緒に暮らしておられるとの事であった。図らずも65年前と現在とがつながった珍しい話である。
神殿の左側空地に「忠魂碑」の類が3基ある。
最も古い石碑は明治31年(1898)8月、勝川従軍兵士が建てたもので、高さ約1メートル、幅約90センチメートル、題額に「祝凱旋」とあり、下に「明治二十七・八年日清交戦役従軍記念碑」とあって7名の官等級氏名が彫ってある。その左にある石碑は大正6年3月、勝川区尚武会が建てたもので、高さ約3メートル、幅約1.2センチメートル、表には「忠魂碑陸軍中将仙波太郎謹書」とあり、裏には日露戦役戦病死者(3名)、日露戦役従軍者(30名)、日獨戦役従軍者(4名―海軍のみ―永田)、臺灣討伐出征者(1名―明治7年の台湾出兵か―永田)の官等級氏名が彫ってある。
もう1基は、これらと鍵の手に南面して建てられている。幅約3.5メートル高さ2.5メートルの自然の青石に横長の黒御影石が嵌め込まれ、表に題額として「平和の礎」とあり、その下に「戦没者名(順不同)として90名の氏名が彫ってある。
裏には建立の趣旨と、高額寄進者名とが彫ってある。建立は「平成九年五月吉日」とある。戦没者は、満州事変以後か、支那事変以後か不明である。
天神社境内より東の木立の中に御嶽教の霊神碑などがまとまって祀ってある。霊神碑が7基、行者の碑が5基、そのほか右に不動明王と彫った碑、左に庚申と彫った自然石がある。下街道沿いで、これだけ霊神碑がまとまって祀られているのは、ここと大泉寺の御嶽神社だけである。


地蔵池懐古碑

(2)地蔵池懐古碑など
この公園の東に石碑が2基ある。
ひとつは、昭和43年3月に建てられたもので、幅約1.5メートル、高さ約1メートルの大きさで、表に「春日井都市計画勝川西部土地区画整理事業記念碑」とあり、裏には事業概要が彫ってある。それによればこの事業は、昭和34年6月から同43年3月にかけて施行され、面積は41万2,786平方メートル、事業費は2億4,853万5,000円であった。
これと並んで右側の碑は、昭和42年10月8日、勝川西部土地区画整理審議会が建てたもので、幅約80センチメートル、高さ約1.5メートルと縦長で、題額には「地蔵池懐古碑」とあり「愛知県知事桑原幹根書」とある。題額の下の文は次の通りである。

この池は往昔の醍醐荘勝川村発祥の池である。改修前の地蔵川は沼をなし俗に地蔵池と称していた。大小の魚族が蕃殖し、かつてはとくに尾州侯の禁漁池として広く知られていたが、明治維新後は一般庶民に解放された。しずかな池面に釣糸を垂れる人も漸く多く、池辺の天神社、地蔵寺等の古風な景観と相俟って、のどかな情景はこの地における一種の風物詩として郷人のいたく愛賞するところであった。
里伝によれば、今を去る七百余年前文永年中、池中より地蔵尊の霊佛が出現されたので、承久役の忠臣山田明長公を開基、無盡禅師を開山第一世とする瑞雲山地蔵寺を池辺に建立したといわれる。
爾来幾星霜、地蔵池は大雨ある毎に池水氾濫し、近傍に多大の水害を及ぼしたので、遂に寺を現在地に遷すに至った。茲に郷人地蔵池懐古の情にたえずその由来を石に刻み以て不朽に伝える
池も寺も変えてそのかみの
葦の葉ずれを聴くよしもなし
安藤直太朗撰書

(3) 愛宕社
勝川町3丁目、国道19号のすぐ東に愛宕社がある。社殿は塚の上に建てられ、小さく古い形態で、祭神は火具都知命、傍らの由緒書には次の通り書かれている。

愛宕社

「当社の創建は定かでないが、張州府誌に氏神天神社の創建と同じく正和二年(1313)古墳の上に鎮座されたと記されている。
明治初年地租改正で境内地は官有地となったが終戦と同時に国家管理を離れ、更に昭和五十九年愛知県施行の区画整理事業により現況の如く境内地が整備され、且つ神殿も美しく再建されたのである。」

愛宕社のやや北で下街道は東に折れ、真っすぐ行くと本街道に通じた。
愛宕社より、200メートから300メートル東の住宅街の中に春日井市勝川地区資料館・勝川西部地区集会施設がある。地籍図や古い道筋の写真などが展示されている。勝川地区の役員が運営しており、土曜日のみ開館している。他地区の一般の人にあまり知られていないのは残念である。

伝承による尾張古代考3

尾張氏の祖神 天火明命

いのぐち泰子 本誌編集委員

ホアカリ系図

本誌第52号「ヤマトタケルとミヤスヒメ」で、尾張氏の祖先神はアメノホアカリノミコト(天火明命)であると述べたが、では、アメノホアカリなる神様とは一体どういう神なのか。古代文献の系譜から浮かび上がらせてみたい。

1.出生―どういう神の子?―
まず、「古事記」上巻の天孫誕生によると、アメノホアカリノミコト(以下ホアカリ)は、高天の原を治(し)らすアマテラスオホミカミ(天照大御神)の長子アメノオシホミミノミコト(天忍穂耳命)を父、タカミムスヒノカミ(高御産巣日神)の娘、ヨロズハタトヨアキヅシヒメ(萬幡豊秋津師比売)という織物上手な神を母として生まれた(即ちアマテラスの孫=天孫)。
アメノホアカリは兄で、弟は天孫降臨で知られる高千穂の峯に降ったホノニニギノミコト(番能邇邇藝命)である。(以下系図参照)。
次に「日本書紀」を見ると、出生は2通りある。1つは、「古事記」と同じく、オシホミミとヨロズタクハタチヒメの間の2人の男子の、兄をホノアカリノミコト(天照国照彦火明命)とし、「これ尾張(おわりの)連が遠祖なり」とする。
もう1つは、オシホミミの子は、ニニギノミコト1人とし、このニニギが天つ国から高千穂の峯に降臨して、その土地の神の娘、カシツヒメ(鹿葦津姫=コノハナサクヤヒメ)と結婚し、その間に生まれた3人の御子のうちの1人をホノアカリノミコトとし、ここもまた「尾張連が始祖なり」としている。
つまり、記紀(「古事記」と「日本書紀」)では、アメノホアカリは、アマテラスの孫または曾孫で、尾張氏の始祖または遠祖としている。

2.ニギハヤヒノミコトという神
次にホアカリが「古事記」にでてくるとき、彼の名は「ニギハヤヒノミコト」(邇藝速日命)という名になっている。
「古事記」中巻の神武東征によれば、
ニニギの曾孫神武天皇が、まだカムヤマトイワレビコと呼ばれていたころ、日向の国を出発して大和に向かい、浪速(なみはや)(大阪湾)から大和入りしようとしたところ、トミのナガスネビコ(登美の那智須泥毘古=トミビコ)の逆襲に遭って果たせず、紀伊半島をぐるりと回って熊野に上陸し、吉野、宇陀を経て、ついにトミビコを討って大和入りした。ときに「ニギハヤヒノミコト」という神が出迎えて言った。
「天つ神の御子さまが天降られた(天つ神のご子孫がいらっしゃった)と聞いて降参しました」
彼は、自分が持っていたアマツシルシ(天璽瑞)奉って帰順した。これは彼が天つ神の子である証拠の品であった。又、ニギハヤヒは、トミビコの妹トミヤビメ(登美夜毘売)を妻として、2人の間に生まれたウマシマジ(宇摩志麻遅)は物部氏の祖となる。
「日本書紀」を見ると、ここのところは次のように書かれている。(神武即位前紀)。神武が熊野から大和入りし、トミビコと最後の決戦をした時、トミビコは神武に使者を送って聞いた。「実は、あなたがくる以前、この国に『私は天つ神の御子である』と名のる方が天の磐船に乗って天降られたのです。クシタマニギハヤヒ(櫛玉邇藝速日命)という方です。私はこの方を君として仕え、妹と娶合せ、2人の間には子もなしています。それなのに、あなたもまた『天つ神の御子』とおっしゃる。どうして2人も天つ神の子がいるのですか。察するにあなたは天つ神の子と偽って此の国を奪うつもりに違いない」
すると神武は、
「では、お前が仕える者が本当に天つ神の子ならば証拠の品があろう。それを私に見せよ」
というと、トミビコは、ニギハヤヒの持っていたアメノハハヤ(天羽羽矢)とカチユキ(歩靱)を見せた。神武はそれを見て、「真(まこと)なり」と認めた上で、自分も同じ羽羽矢と歩靱を見せると、トミビコはどちらが本物の天つ神か判らなくなり混乱してしまった。
ニギハヤヒは、神武の方が天意に叶った天孫と知り、トミビコを裏切って殺し、帰順した、とある。
以上の記紀をまとめると、ニギハヤヒなる神は、神武が大和入りする前に大和入りしていて、彼もまた天つ神の子孫と名乗り、その証拠の神宝を持っていたが、神武が大和入りすると神武に神宝を奉り恭順した、ということになる。

3.アメノホアカリとニギハヤヒは同一人物
さてここに、「先代(せんだい)旧事(くじ)本紀(ほんぎ)」という書物がある。この中の「天神本紀」および「天孫本紀」という項を見ると、アメノホアカリの本名は、「天照国(あまてるくに)照彦天火明櫛玉饒速日尊」という恐ろしく長い名前で、略して「天火明命」「天照国照彦天火明命」「邇藝速日命」というとある。両親は記紀と同じアマテラスの子のオシホミミとタクハタチヂヒメ。即ち天孫である。
ここにおいて、ホアカリとニギハヤヒが同一人物であることが解明され、記紀の注釈はこれによっている。

4.ホアカリとニギハヤヒを結ぶ「先代旧事本紀」(以下「旧事紀」)とは
「旧事紀」の序には次のように書かれている。「この書は、(記紀成立より約百年ほど前)推古二十八年(620)、聖徳太子と蘇我馬子が編纂した史書である。太子は途中で薨去したが、志を引き継ぎ二年後の推古三十年に完成した。」
しかし、実際には平安初期の事項も収録されているため、太子当時の文献を基に平安初期に書かれた書、というのが現時点での見解である。
しかし、この中の「天孫本紀」や「国造本紀」には、記紀に書かれていない記事が多い。
事実、推古朝に史書が編纂されたことは日本書紀でも推古28年12月条に見える。
「この年、皇太子・嶋大臣(蘇我馬子)共に議りて、天皇記及び国記、臣、連、伴造、国造、百八十部、併せて公民等の本記を録す」
また、その存在は、17年後の有名な大化の改新のクーデターの記事からも読み取れる。
皇極4年(645)六月十二日、蘇我(そがの)入鹿(いるか)が暗殺され、その翌十三日、入鹿の父蝦夷(えみし)は「天皇記・国記・珍宝を焼く炎の中で自らの命を断った。この時、船史(ふねのふびと)恵尺(えさか)という者が火の中に駆け込んで焼ける国記を取りだした。」とある。
聖徳太子当時編纂の史書と、船史が火中から拾いだした国記が同一のものなのか、はたまた、国記のみが拾い出されたのか、それは判らない。しかし、記紀以前に史書の編纂があったことは事実であろう。「古事記」「書紀」も「旧事紀」も、その資料を大いに使って書かれたものであろうことは想像に難くない。が、どちらが先かは複雑なところ。「旧事紀」の最終的な成立年代は記紀より下るとも、その序にあるように資料は聖徳太子時代の資料なのかもしれないのである。
また、記紀は、天武天皇の意思によって編纂されたものであるから、たとえ「旧事紀」と同じ資料を使ったとしても、その意図に合わない事項は省かれたり、時に歪曲されたと見られるが、「旧事紀」には、記紀で省略、歪曲される以前の事項が多く記載されている。
その一つが記紀にはごく簡略化されているホアカリ、ニギハヤヒなる神の系譜なのである。

5.天孫ホアカリ(ニギハヤヒ)の降臨
では、ホアカリ(=ニギハヤヒ)は、どのように天から降臨したのか。我々がよく知っている高千穂の峯に降臨したニニギノミコトとの関係はどうなのか。そのあたりを「旧事紀」の「天神本紀」、「天孫本紀」を要約すると次のようである。
高天の原という天上の神アマテラスは、地上の豊葦原の千秋瑞穂の国を治めさせるために、オシホミミとタクハタチヂヒメとの間に生まれた2人の孫のうち、まず先に兄のホアカリを天降らした。(ニニギはまだ降っていない。)
しかも、この時、ホアカリは、三種の神器ならぬ十種の天璽瑞宝を持って降りた。十種の神宝とは、沖つ鏡、辺つ鏡、八握の剣、生く玉、死に反る玉、あし玉、道返る玉、蛇のひれ、蜂のひれ、品物のひれ、である。アマテラスは、「お前が困難にあった時、この神宝を『一二三四五六七八九十』と唱えて、ゆらゆらと振りなさい。死人だって生き返るのです」と教えた。
母方の祖父、タカミムスビノカミは、
「背(そむ)く者があれば、よくこれを宥め平定せよ」
と護衛隊として32人の伴人、及び武人を多数付けて天から降らせたのであった。
その32人の筆頭が、アメノカゴヤマ(天香語山命)という神で、別名をタカクジラ(高倉下命)という。カゴヤマ(=タコクジラ)は、ホアカリの子で、ホアカリが天降りする前に、天上でアメノミチヒメ(天道日女命)という女神との間に生まれた第1子である。父とともに地上に降ったカゴヤマは「尾張氏らの祖」と書かれている。
(春日井の高蔵寺町の高蔵も高倉山も高座山も、みなこのタカクラジにちなむ地名である。また庄内川を挟んだ東谷山の頂にある尾張戸神社は、尾張氏の祖先神を祭る神社であるが、その祭神は、天火明命、天道日女命、天香語山(かごやまの)命の親子神と、彼らの子孫である尾張氏の乎止与命、建稲種命の親子神の計5柱である)
カゴヤマは、紀伊の国、熊野邑に住んだ。
さてホアカリは天磐船に乗って天降り、どこへ降りたかというと、河内の国の河上、哮(いからが)峯に降りた。そこから更に大(おお)倭国、鳥見(とみの)白庭山に移った。この時、
「大和の国のどこに降りようか」
と天磐船に乗った空から大和の国中を探したので「そらみつ倭の国」とやまとの枕詞になった。
ホアカリは大和の豪族トミビコの妹と結婚し、ウマシマジが生まれるが、出生前にホアカリは亡くなり遺体は天上に引き取られた。ウマシマジは後、物部の祖となる。
さて、ホアカリが亡くなったので、高天の原からは、次に弟のホノニニギを日向の高千穂の峯に降らせた。その曾孫イワレビコ(神武天皇)は九州から大和へと東征し、前述のように紀伊半島を回って熊野から大和を目指した。ところが熊野の邑に入ると悪神がいて、その毒に当たって神武と供の者は意識を失ってしまった。
この時、熊野にいたカゴヤマ(タカクラジ)は夜中に夢を見た。夢の中で、アマテラスがタケミカヅチノカミという武神に言っている。
「豊葦原(とよあしはら)の国で吾が子孫はなかなか平定できず困っているようだ。汝が往ってこれを征せよ」
するとタケミカヅチが答えた。
「私が行かずとも、かつて私が地上の国(出雲)を平定したときの剣を下せばよろしいでしょう」
そしてカゴヤマに向かって言った。
「予の剣、フツノミタマを今、汝の倉の中に置く。汝はこの剣を持って天孫に奉るがよい」
カゴヤマは夢覚めて翌朝、倉を開けてみると、果たして剣が倉の底板(しきいた)に逆さまに突き刺さっていた。すぐさまその剣を取って神武に奉ると、神武はたちまち正気を取り戻し士卒も蘇った。
この功により、神武はカゴヤマを臣下とした。
ここでもホアカリの子カゴヤマは神武に服従したのである。

6.ニニギ系神武天皇に屈服したホアカリとカゴヤマその子孫の尾張氏
以上をまとめると、アメノホアカリはアマテラスの2人の孫のうち長孫で、彼には2人の男子があった。天上時代に生まれた長子がカゴヤマであり、「旧事紀」によると、尾張氏はカゴヤマの子孫で、カゴヤマを第1世と数えてヲトヨは11世に、タケイナダネは12世に当たる、ということになる。
しかし、ホアカリは本当にアマテラスの孫なのだろうか。後から天降ったニニギ系の神武に屈服、臣従することになるホアカリ系は、もしかするとアマテラス系とは全く異なる氏族であったかもしれず、諸説著しいところである。

参考文献
先代旧事本紀(吉川弘文館新訂増補国史大系)
古事記日本書紀(岩波古典文学大系)

白山信仰 22

村中治彦 本誌編集委員

昭和の洲原詣 その1
江戸末期に誕生した洲原講は御師(註1)の活躍により各地に広まった。春日井市域の村々からも代参として、或いは気の合った者の仲間で、1泊2日の日程かまたは日帰り強行日程で、五穀豊穣の祈願に出かけた。
既に本誌第45号で明治の白山村の例、第48号で大正の外之原村の例を紹介した。
第1次世界大戦中に国産自転車の生産台数が増え、昭和に入ると一層普及が進み、自転車による洲原詣が多くなった。洲原神社名誉宮司横家弘一氏の話では当時、旧暦4月8日の例祭日は参拝者の自転車で参道が一杯になったという。
松河戸町の河本鑅一さん(明治40年生)に、太平洋戦争前に、3回から4回自転車で参拝された当時のお話をうかがった。
苗代の済んだ5月上旬頃、会社勤めでなく都合のつく者2人から3人で朝7時頃出発し、夕方暗くなる前に帰宅した。
ルートは、小牧―犬山―鵜沼―勝山―関―美濃―洲原の筋と、内津峠を越えて池田・小泉等を経て現在の国道284号沿いで関に出る道筋を利用したりした。
昼頃神社に着き、参拝をしてお札と「御蒔土(おすな)」を受けた。その後近くの長良川の川原で弁当のお握りを食べた。途中の店でうどんを食べたこともあった。
祭礼以外の日は鳥居の中まで自転車で行くことができた。「御蒔土」は自分の苗田に蒔いた。
また、同じく松河戸町の長谷川良一さん(大正6年生)は、昭和26、27年の頃、苗代の仕事を済ましてから、近所の者同士5人から6人で、小牧・犬山・勝山経由のルートで出かけたということである。
かなり長い道のりではあったが現在の美濃市の町並みを抜け、長良川の堤防道路に出ると、顔に当たる春風が心地好く、ペダルも軽く感じられてという。
朝7時頃出発し、神社に昼頃到着した。参拝してお札と「御蒔土」を受けた後、川原で休憩して昼食をとった。祭礼ではない日に出かけたので、神社は静かであった。
往きは登り坂が多くてきついが、帰りは下り坂のため少し楽であった。夕方4時頃小牧に着いて、街道端の居酒屋へ寄った。毎年行く人はこれが楽しみでもあったそうだ。途中の心配はパンクとブレーキの故障であったが、一度もトラブルはなかった。「御蒔土」は自分の苗田に蒔いた。

案内掲示

昭和2年に越美南線が美濃洲原まで開通すると、多治見・美濃太田経由で鉄道を利用した参拝も見られるようになった。
昭和38年に国道156号が改修されると、観光バスを仕立てた団体参拝も行われるようになった。写真は洲原神社に残る当時の案内掲示である。この掲示にある参拝団の地域や実施時期は不明である。ご存知の方がありましたらご教示いただきたく存じます。

註1
身分の低い神職で、神社の崇敬者に御札を配って初穂料を集めたり、参詣者の案内や宿泊を業とした。「太太御神楽祭礼」時には一軒の御師宅に150人を宿泊させたという。伊勢講では「御師(おんし)」と読む。

発行元

平成10年9月15日発行
発行所 春日井市教育委員会文化財課
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