郷土誌かすがい 第43号

ページID 1004447 更新日 平成29年12月7日

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平成5年9月15日発行 第43号 ホームページ版

十五の森

十五の森 松河戸町

市の史跡(昭和37年11月1日指定)となっている「十五の森」は、中央線勝川駅から南へ1キロメートルほどの愛知電機工作所南側駐車場の中にあります。
昔、この辺りは一面水田でした。通称六升池、堤越、十五、砂入などといった庄内川氾濫の跡を示す地名が現在も残っています。
「十五の森」の治水伝説は、今を去る約500年前、明応3年(1494)の旧暦6月、庄内川の氾濫に困った村人達は、京から来た占い師の教えに従い、水神様の怒りを静めるために15歳になる庄屋の娘を人柱にしました。それ以来、村には洪水の心配が無くなったと、村人の間で伝えられてきました。
松河戸の観音寺には、この童女の位牌と共に、童女の霊を鎮めるために造った薬師如来の像が祀られています。江戸時代の中頃(1721)この薬師如来の由来について書かれた「十五薬師記」もあります。また、観音寺の門前には、童女と童女の母の霊を慰めるために昭和44年5月、石の親子地蔵尊が地元の有志によって建立されました。
本年の5月5日には、松河戸区長、遺跡保存会、檀家総代の皆さんが中心となって、童女の500回忌法要が観音寺で盛大に営まれました。
この伝説を親から子へ、子から孫へと語り伝えると共に、童女の霊を祀った薬師如来や地蔵尊の参拝を毎月命日に続けておられる方々もあります。
なお、地元には「十五の森」に因んだ「薬師の井」や「塚のくろがねもちの木」などの話も語り継がれています。

斉木秀弘  松河戸町

郷土探訪

春日井をとおる街道10 下街道と村の本郷

櫻井芳昭  春日井郷土史研究会員

はじめに
下街道は、日本武尊の伝説のある古くからの道であり、内津と勝川とをほぼ一直線に結んでいる。
多くの街道は、曲がりくねりながら近隣の村々の要所を結び、人や物の交流に活発に利用されているが、これに対して下街道は、宿場以外は村はずれを通っており、沿道の村々の成立とは関係がうすいようである。つまり、いくつかの村を通り抜け、主要集落を最短経路で結び、人や物を迅速に運ぶ高速道の役割を有していたのではないかと考えられる。
とすれば、全国的にみて重要な地域を直結する道として、ある時期に計画的に築造されたものと予測される。下街道の成立にかかわる特性について以下で探ってみたい。

沿道村々の本郷と下街道

沿道村々の本郷と下街道  
 下街道が通る市内の 17の村について、村絵図や地名から本郷との 関係を示したのが第1表である。沿道の 村々は慶長検地の対象とな った古村である 。
   江戸時代の新村は、寛永14年(1637)に坂下新町として町並居屋敷取り立てが行われた和泉村、一色村と、承応2年(1653)に新田村として開かれた大泉寺村で、いずれも尾張藩の 街道繁栄政策によって実施されたものである 。(註1)
   集落の 状況をみると、西尾村では本郷の 西之浦は下街道から西に分かれた 入鹿方面へ通じる道沿いに あり、下街道筋には 海道新田、亥新田等新しく 開発された地域となっている 。
   明知村の本郷は中道沿いにあったが、江戸時代には街村形態の村で、下街道沿い に集落が集まっている。その 形成は檀那寺である明照寺が正保年中(1644~48)の 創建であることから、江戸初期から駄賃稼ぎを 始めとした街道交通との関係で成長したことが 推測される 。
   神屋村では、大屋敷、南屋敷など本郷につながる地域は、小牧への 道に沿っており、村の東寄りを下街道が通っている。上野村、神明村では、村はずれの山林地帯を 下街道が通っており、街道沿いに集落はない 。
   下市場村をみると、北よりの山林と畑の多い台地上を広い下街道が通っている 。集落は内津川に近い南部の水田地帯の 微高地にあり、郷中が本郷である。村の中心道は東西に 走っており、古くは両端に木戸があったと伝えられている 。(註2)
   下街道に 新開地ができて、出屋敷が形成されるのは、18世紀初期で、四ッ屋といい、当初4軒が移住したことがうかがえる 。
   下市場村は 、最も広い道である下街道との関係は、長い間希薄であったが 、江戸時代中期になって、ようやく一部の人々との 関係が深まったという状況である 。
   堀之内、関田、下原、上条、下条、松河戸の 各村での下街道は、いずれも鳥居松面の段丘上の 山林地帯を通っており、本郷からは遠く離れている。各村の 本郷は、水田地帯に近いところにある。しかし、江戸時代の 中期から後期になると用水の新設とともに、開発が進み、堀之内新田、下原新田、鳥居松、八田新田、上条新田、下条原新田、松河戸新田等いずれも近村から街道筋に 分家なり、移住して出屋敷に当たる集落が形成されている 。    鳥居松だけは既存の 村名と関係にない新しい呼称であるが、関田村から下条村に かけて下街道沿いの 町並みを総称する地名として定着したものである。この地名の 由来については、一つは、「大山村児権現社鳥居ありし跡なるゆえ、鳥居松と唱う。」とする 尾張徇行記の説である。大山寺は小牧市大山にあった 天台宗の巨刹で白鳳期の瓦が出土する 古寺。その第一の鳥居が下街道筋にあったからという 。
   もう一つは、通りの両側に松が並んでいたからというものである。鳥居松の 下街道筋は、下原新田と関田、八田新田及び上条新田と上条、下条原新田と松河戸では村の 境界となっている。かつては松林の 続く村の端が街道筋であったが、周辺農村からの 移住者によって次第に町並みが形成され、「寄り合いじんしょの 町(註3)」ができ、街道の両側を総称する鳥居松という地名が定着してきたと考えられる 。
   このように、街道筋が郡や里(郷)の 境界になる例は珍しいことではなく本郷から離れた無人の 地域を分ける具体的な基準として、双方が合意すれば、明確な 区分が可能で好都合である。また、下条原新田と 松河戸も村境となっており、古代から中世においては 内津と勝川以外の村々にとっては、集落と 関係なく下街道が走っていたといえそうである 。

古代の下街道
古代の幹線道のうち、この地域と関係が深いのは、東海道と東山道である。尾張国の東海道は、伊勢国桑名郡の榎撫駅から水路を馬津駅(現、津島市西方松川附近)(註4)へ入り、東行して五条川と庄内川の合流地点にある草津渡(現、甚目寺町萱津)を渡り、新溝駅(現、名古屋市中区古渡付近)から両村駅(現、豊明市二村山付近)を通って三河国へ入っていた。各駅の位置の比定については諸説あって未確定であるが、上記の説が有力と考えられている。
東山道は、不破駅から美濃国府(現、大垣市北部)を通り、大野駅(現、大野町)、方県駅(現、岐阜市北部)、各務駅(現、各務原市東部)、可児駅(現、御嵩町)を経て、土岐駅(現、瑞浪市釜戸付近)から大井駅(現、恵那市)へ通じている。
現在の下街道のうち釜戸から大井へ向かう経路は、東山道とほぼ一致している。土岐駅付近で分かれた下街道は尾張国へ入り、内津から勝川を経て、東海道の新溝駅を結ぶとともに熱田への近道であったものと推測される。つまり、東海道と東山道のバイパスとなる連絡路であったといえる。
また、勝川からは、安食庄の馬屋里を通り庄内川に沿って萱津へ出て馬津駅や津島へ出る古くからの道が想定できる。この経路は、東山道の垂井附近から南へ分かれて、墨俣渡から尾張国府を経て東山道へ戻って東行する場合には、便利なバイパスであった。このルートについて、足利健亮氏(註5)は、「庄内川北岸に安食庄馬屋里が比定されているが、これが延喜式以前の駅家であるとすれば、東山道のバイパス上の駅家であったと考えることができる。」さらに、強いて憶測を加えるならばと前置した上で、「奈良時代より前の極めて古い時代には、バイパスとしたものが東山道であって、延喜式のルートは飛騨路にすぎなかったのではないかとも考える。」として、下街道を通る経路が太古の時代にはむしろ幹線であったと推測している。その理由として、不破駅の駅馬13疋、土岐駅の10疋であるのに、その間をつなぐ、大野~各務駅の各6疋、可児駅の8疋と少ないことを指摘し、これは中路たる東山道の規定馬駅数十疋に対して、著しく少なく、大野~可児駅間は小路の位置づけであったことを示すものとし、東山道バイパスの存在を説明している。
下街道筋が東山道としての機能を果たしていたとすると、わが国の駅制が成立する大化改新前後から8世紀初頭の大宝令により拡大された時期に、街道は計画的に充実されたものと思われる。下街道は太古の日本武尊東征路としての伝説があり、尾張国の祖神である熱田神宮への道として、古代から存在しており、これをもとに直線的な幹線道として、当時の計画に基づいて仕上げられたものと考えられる。
下街道の最も大きい集落である勝川には、紀元前2世紀ころの弥生時代中期から江戸時代に至る複合遺跡があり、長期にわたって拠点集落(註6)であったことがうかがえる。白鳳後期の7世紀末ころは、古墳に代わる地方豪族の新しい権力の象徴である勝川廃寺がそびえる春日部郡六郷の中心集落であり、伊勢湾岸地域からの東北部の玄関口としての機能を果たしていたことであろう。

まとめ
下街道は、古今を通じて、信州と熱田、伊勢への要路であり、主要集落を直線的に結ぶこの地域の幹線路であった。
古代には東山道の垂井辺りから南下して尾張国府を通り、勝川から東北へ進んで土岐駅で東山道へ戻るバイパスの役割を果たしていたと考えられる。また、東海道新溝駅及び熱田と最短路で結んでおり、熱田から水路を使って、京都、大阪を結ぶ経路へとつながっている便利な道であったともいえる。
下街道の築造時期や尾張国府との連絡経路など、課題として残ったこともいくつかあるので、今後も検討を続けていきたい。

  1. 春日井市近世村絵図集(1964)、解説1、5頁 春日井市
  2. 春日井市史地区誌編別巻(1983)、44頁 春日井市
  3. 八事50周年記念誌(1989)、3頁 八事町町内会
  4. 古代日本の交通路1(1978)、109~111頁 大明堂
  5. 足利健亮「東国の交通」、日本歴史地理概説古代編(1975)、241~242頁 吉川弘文館
  6. 永井宏幸「庄内川流域の弥生時代~春日井市勝川・松河戸遺跡を中心に」、郷土誌かすがい第39号(1991)、2~3頁 春日井市教育委員会

ムラの生活

春日井の盆

井口泰子  本誌編集委員

盆と正月
「盆と正月が一緒にきたような」とは良く言われる言葉であるが、この二つはムラの最も大きな行事である。
もともと <盆> と <正月> は同じものであった。そう言うと、慶び祝う正月と、死者の霊を迎える盆が、なぜ同じかということになるが、これは、春の初めの満月の夜に、祖霊を迎えて祭る行事であった、といえば納得がいく。
正月も、前号の「ムラの正月」でも述べたように、もともとは今の小正月、15日に祖霊を迎えた祭りであったものである。現代でも元日よりも15日の小正月を大きく祝う地方もある。
<正月> と <盆> が同じものであると考えれば、なるほど共通の行事は多い。挙げてみると

  • 正月の七日正月に当たる盆の七夕、七日日。(満月の行事は半月の夜から始まる)
  • 門松に対する盆花(どちらも祖霊の依りしろ)
  • 正月の年棚と盆棚
  • 正月のどんど焼きと盆の迎え火、送り火
  • 正月小屋と盆小屋

など全国に同じものと考えられる行事が多々見られる。

祖霊迎えと仏教
このように、我国では、仏教が渡来する以前から、春と秋の初めの満月の夜に、祖霊を迎え祭るという日本固有の農耕儀礼が営まれてきたのであった。そこへ仏教が渡来して、盂蘭盆会と結びついたと考えられている。
盂蘭盆というのは、梵語の倒懸という意味。インドの農耕社会に広く見られる祖先崇拝に発したものであった。即ち、子孫が絶えて供養されない死者の霊は、悪所(地獄)に落ちて倒懸の苦しみを救うために飲食を供えるという古い民間信仰が、仏教の夏安居(僧が雨期の間外出しないで修行すること)の終わりの行事と結びついたものと見られている。
日本では、更にこれが古来の祖霊迎えの儀礼と結びついた。各地の盆行事は、盆の期間、仏壇を磨き、祖先や新仏の霊を迎え祭り、また餓鬼道に落ちた霊の供養を行っている。
祖先の霊を <お精霊さま> といい、盆は、もともとは、お精霊さまを迎えるめでたい日であったのだ。

春日井の盆
春日井の盆の行事は8月13日の夜から15日の夜まで。もともとは、旧暦7月15日の行事であったものが、新暦となってからは8月15日に行われるようになった。以下の盆の行事は、昭和初年頃、白山村、藤江家の話を中心に他の村との相違を交えて進めることにする。

8月1日
盆の準備は1日から始まる。この日に地獄の釜の蓋が開くといわれる。

8月1日~6日
お精霊迎えの場の清掃と墓掃除。古くは、お精霊さまは大空から高い山におり、そこから盆花に乗ってくると信じられていたから、その迎えの場を掃除するのである。迎えの場は、裏の山の上である。
また、それが、死んだ仏が墓からくるというふうにも考えられるようになり、墓を掃除し、墓参りをするようになった。墓に繁る笹の根やツバナ(チガヤの花)を鍬できれいに取り除き、花筒も新しいものに替える。

8月7日
この日を七日日という。いよいよ盆の行事が始まる。
まず早朝、朝ご飯の前に墓参りをする。やかんに水を入れて墓へ持って行く。高蔵寺村では墓参りの水は、やかんの蓋をしないで持って行った。
花を生ける。百日草や千日坊主など、家から籠いっぱいに持ってきた草花、抹香柴を新しく作った花筒に生ける。石塔に水をかけ、線香を2本ずつ立て、ナス、キュウリの輪切りにした物を一切れずつ、ササゲを一ふし、米ひとつまみ供えて、手を合わせる。土まんじゅうの上には、山から取ってきた赤土を撒いて清める。土まんじゅうの前にも、花、線香、お供えを供えてまいる。
夜には、親戚が集まって松明(たいまつ)を作る。松明は、山から取ってきたイリマツを、長さ3寸くらい(約10cm)、小指くらいの細さに割り、ワラで2本ずつ縛ったもので、新仏のある家は、迎え火用に108つ、送り火用にその半分を作った。

8月13日 お精霊迎え
村に新仏がある年は、喪主と隣組がお迎えに行く。午後、お精霊さまの降りる山の上、池の土手、川の堤などへ、酒1升、かぼちゃ、こんにゃく、角ふなどの煮物を詰めた重箱を持って行き、鉦を叩いて念仏をあげてから、それを食べてお精霊さまを待った。迎え火に、7日に作った松明を燃やす。子供達も行って重詰めをご馳走になった。子供たちはそれが楽しみで、すすんでお精霊さまの道案内に立ったものである。お精霊さまを迎えて夕方、家に帰った。
新仏のないときは、家々の前で門火を焚く。細く割った松明を燃やした。篠木、庄名など、辻々に迎え火を焚く村もある。
家々では、昼の間に仏壇のお磨きをして、精霊棚を作り、お精霊さまを迎える準備をしておいた。
仏壇の中から位牌(精霊)を出し、絹のハタキか鶏の羽バタキでほこりを払い、新しい布巾で清める。カワラケ(土器)を洗う。カワラケは盆の間のお精霊さまの食器である。
精霊棚は仏壇の前に戸板を置き、その上にコモ、マコモまたはゴザを敷き、位牌を置き並べる。それぞれの位牌の前には蓮の葉の上に薄板を敷いてお膳とし、箸(麻の茎を切って作ったもの)と食器のカワラケを2つずつ、後ろには担い棒と息杖(いきづえ)(どちらも麻の茎で作ったもの)を置いた。
また <一切精霊さま> という、いわば精霊代表を祀る位置を、棚の手前右端にとり、その前にもカワラケを一つ置く。一切精霊さまは、想像上の精霊であって、位牌といった目に見える物はない。家人が、「わが家の一切精霊さまはここにいらっしゃる」と思う位置にいらっしゃるのである。
お供えは、カボチャ、ナス、キュウリ、スイカ、モモなど。それに、ナスに麻の茎で足をつけた馬(ナスとウリで作るところもある)、花を供え、天井からは盆ちょうちんを吊す。ナスの馬は、ホズ(ヘタ)を頭にして作る村と、尾にして作る村がある。馬の背にはうどんを湿らせて斜め十文字にかけて手綱にした。
午後、お坊さんにきてもらい、棚経をあげる。お布施のおひねり(2~10銭)は棚の上に置いておく。金額を村で決めて前もって納めておくところもある。お精霊さまをお迎えする、いわば、歓迎の御経ともいうべきか。
夜はお精霊さまに食事を供える。これを初めとしてお精霊さまには、お帰りになるまで、毎度食事を差し上げる。この夜の食事はご飯と味噌汁。これをカワラケ(土器)に入れ、蓮の葉の上に薄板を敷いた精霊さまのお膳の上にのせる。味噌汁の実はナス、アゲ、盆の豆(大豆の早稲)など。食事を下げてからは、お茶と水をさしあげる。お茶は1回ずつ消炭程度の火で沸かした湯に、家で摘んだ新しい番茶を入れる。お茶と水は食事の度ごとに供える。
一切お精霊さまの前のカワラケには、食事の度ごとに一つまみずつお供えを入れていき、盆が終わるまでこれは下げない。盆が終わってお精霊さまが帰られるとき、3日分のお供えを柿の葉に包んで、馬の背に乗せて帰るのである。

8月14日
朝、墓参り。7日の墓参りと同じようにする。
精霊棚のお供えは、餅と味噌汁。餅は丸餅で、2つずつ位牌の前に供える。お餅につけるアンコも、きれいに洗った柿の葉の上に1匙ずつのせる。近年ではアンコなしも多い。これを下げてから、お茶と水。アンコを乗せた柿の葉は洗ってから縛って棚の下に置いておく。お精霊さまが帰るとき持って行けるように。
昼、ご飯、かぼちゃの煮つけ2切ずつ、ナスの味噌和えを柿の葉に盛ったもの。
夜、ご飯とササゲの煮物などの精進料理。

8月15日
朝、お精霊さまは、八坂の市へ帰るときのみやげものを買いに行かれる。ナスの馬に乗って行かれる。家人は早くに起きてご飯と味噌汁を作って送り出す。この日の味噌汁の実は、アゲ、ゴボウ、ナス、盆の豆、大根の抜き菜、ダツイモ(里芋のダツを輪切りにした)など。ダツはエグイから、お精霊さまは「エグかったなあ」と新物を供えたことをよろこんでくださる。
お精霊さまが買物を済まして帰られると、うどんを供える。2、3筋のうどんと、ゴマを入れたおつゆも別の器に入れて供える。
昼、お精霊さまはお施餓鬼のお経を受けに寺へ行かれる。
施餓鬼というのは飢餓に苦しめられている生類、無縁の霊に飲食を施す法会で、日本では空海より始まり諸宗に広まったというが、浄土真宗だけは行わない。春日井は禅宗、天台宗が多い。
新仏のある家へは、寺のお精霊さまへのお供えを親戚の者が持っていく。施餓鬼のお供えは <袋実> といい、男の仏には三角形の晒の袋、女の仏には四角形の袋に米を(その代用には麦、蕎麦など)1升入れて、1軒に1袋ずつ持って行く。この袋は盆に入ってから(7日以後)縫うと、その家に袋を被った子供がうまれるという言い伝えがあるから、お供えを持って行くときは、盆に入る前に縫って準備しておいた。新仏のある家は、もらったこの袋を持って親戚一同で寺へ行ってお経をあげてもらう。
法会の後、卒塔婆、五色の施餓鬼旗を持って墓参りをし、その後、精進落としとして、うどん、すし、丸餅、おまじりご飯、お茶などをいただく。客はうどんを持っていった。
新仏のない家では、お寺で檀家4、5件ずつ、まとめてお経を上げてもらう。その後、寺でいただいた卒塔婆を持って墓に行き、これを立てて施餓鬼が終わる。
お精霊さまが家に帰ってこられると、米の粉で作ったお団子を3つぼ供える。それにお茶と水。
夜は、ナス、アゲ、新ゴボウの味噌汁にご飯。ナスを細く短冊に切って塩をかけタデもみしたものを柿の葉に包んでしばり、おみやげを作った。これはナスの馬が背に乗せて持って帰る。
以上でお精霊様に供えるご馳走は終わり。お精霊さまはお帰りになる。

精霊流し

8月15日
夜、送り火を焚いてお精霊さまを送る。一切お精霊さまのお供え全部をコモ、蓮の葉で包んだもの、柿の葉に包んだアンコ、ナスのタデもみ、担い棒、息杖を川や小溝に流す。ナスの馬の背中に線香を4、5本立てて、お精霊ちょうちんをつけて、その家の男の人が精霊流しに出て行くと、家の者がむしろを叩いて盆の行事を終わる。
味美地区八田では川縁に棚を作り家々から持ちよったナスの馬、おみやげのマコモのつと(味噌、塩、ご飯が入っている)を並べる。その上にちょうちんをつけならべ、さい銭箱を置く。お坊さんのお経の後、棚のお供えを川に流す。ナスの馬にはロウソクをつけて流す。新仏がある家ではロウソクでなく提灯をつけて流す。精霊流しは昨今では、川を汚さないようにと、流すのを止め、一カ所にまとめて浄火で焼くところも多くなっている。

8月16日
この日はお精霊さまのお世話をした人の骨休め。家庭の主婦が休養をとった。
こうして春日井の盆の行事は終わる。

主に話を聞いた人
藤江てふ、長谷川正夫、小林初雄の各氏。

春日井の人物誌

小坂孫九郎雄吉3

石川石太呂  春日井郷土史研究会員

幼時の頃より吉田の城で養育された千代太郎(孫九郎)は、修練者覚然坊なる者より棒術等の武芸を教わり、その秘術を前野清助や九郎兵衛等に伝授しています。また体格も非常にすぐれていた様でした、前野文書にも「……祖父孫九郎尉は六尺余りの大兵の人にて……」とあります。
天文11年(1542)8月の三州小豆坂の戦には、比良の佐々党と共に孫九郎の大身の穂先2尺5寸余の長鑓(やり)をふるっての奮戦は、味方の織田軍からも高く評価されています。天文、弘治の頃は日毎戦に明け暮れていました。

犬山勢、柏井原に侵入
「信長公記」の中に「犬山謀叛企てらるるの事」として記載されています。天文18年(1549)1月17日の犬山勢が柏井庄に侵入し、御台地横領を計った戦の様子を、前野文書には次のように書かれています。
「……信長殿危き折り、岩倉七兵衛(信安)尉殿とともに謀り御台地の篠木、柏井の両所横領を企て、軍兵を柏井原に差し向けて乱暴狼藉のみぎり、柏井を守り候ところの孫九郎、並びに佐々平左衛門、同蔵人等へ罷り越し来たるは、大久地(大口)目代中島左衛門尉使者と相成り訃厳(信清)殿の趣意を相携え来たり増(ます)る。左衛門尉の申し様は、大留の村瀬作左殿はすでに我等に同心、岩倉七兵衛尉殿も犬山に兵を寄せ備えたれば、御辺も我等に同心あれば守山の城を抜くは容易き事なれば、後後は此の御台地を御辺御支配たるも構いなし、よくよく御勘考あって御返答ある様との強談にて候。右あるにより孫九郎尉ただちに大留の(村瀬)作左殿挙動不審の儀なりとて是れを正し増るところ、作左殿様呈不審無之候。過日、成程我等に犬山方より誘発あり、然れど河口、梶田と申す者共相断(談)仕るところ、我等は御存知の如く(蜂須賀)彦吉殿、(少)将(前野)右殿と一身たれば異心有間敷く候。御台所は備後殿(織田信秀)の頃よりの相恩忘れ難し、義理の叶わざるは我等古来よりの法度なり、と言葉荒荒しく申し上げ増すれば、孫九郎尉左様に候とて此度の急変清須の上総殿(信長)に至急一報せんと、柏井衆評議一決に及べば、飛方書面を懐中に清須へと駆け出でけるとぞ、また一人飛び候いて守山の(織田)孫三郎殿に伝え候。然れば守山の孫三郎どの手勢三百有余をもって守山の城に構え増る。斯して佐々蔵人殿、孫九郎尉、村瀬、河口、梶田の惣勢と、孫三郎どの手勢合せ六百有余、そこら彼処の森陰に潜み隠れ犬山勢の寄せ来たるを待ち受けたり。誠に出入り馴れたる手下ども引き連れ野伏、柏井地侍身軽く立ち働き、退くと見せて打ち懸り増る。犬山勢は放々の様子にて散々に崩れ北原口へ引き退き増る。柏井原北口、犬山十郎左殿これにて柏井は断念仕る由にて、柏井竜泉寺裏より柏井原へと崩れ行く犬山方を慕い追い討ち候。柏井衆また面白き後物語りにて候……」とあります。

桶狭間の合戦と柏井衆
尾張の国においても、信長の生涯においても最も重要な戦であった、永禄3年(1560)5月の桶狭間の合戦においての、孫九郎等柏井衆の戦の状況を“前野文書”では次の様に書かれています。
「柏井竜泉寺表に参集の面々は、柏井衆、蜂須賀党、佐々党、前野党三百余詰め居り増る。すでに細作、飛人およそ三拾有余、これ等は一両日前より東海道筋を東下、様をかえて敵の動静を窺い増る。これは上総介様かねて仰せ出でられ増る秘中の約束にて御座い増した。……この秘事に働き候面々は、蜂須賀小六、前野小右衛門、蜂須賀小一郎、小木曽平八、村瀬兵吉、武藤九十郎、前野左衛門等究竟なる輩衆参拾九人の覚えにて候……また一方の飛人稲田大八郎、竜泉寺表へ参集仕る佐々蔵人成政、同隼人、孫九郎尉柏井衆に伝えけるは、辰の上刻までには街道筋まで駆け付けられよ、されば主人申す様この度の出入りは尋常ならず、南無三念じ一途に切り込み働き候え、格別の心得は軽身のよそおい上策なりとて、主人の心得伝え候と……この鳴海取合いの面々、佐々内蔵助、同隼人、同平左衛門、前野小兵衛、同左門、吉田九郎右衛門、同九郎助、村瀬兵吉、武藤九十郎、前野平内、同新兵衛、村瀬作左、同九兵衛、梶川権六、稲田修理、同九郎右衛門三百有余人、群がり寄せ来たる駿河勢に立ち向かい……然れど敵は新手新手と押し返し来たり増る。遂に叶わず山麓まで一先ず退きたれば、手負者多く佐々隼人、九郎助始め味方討死仕る大半討ち取られ、また四散残るは僅か八拾有余人、血路を開き一息入れともに気付き候は、殿の御身危く相成る事を……重なる不運に心気転倒余りあるも、ようやくにして田樂迫間に到着仕る時、すでに身方は大勝勝鬨天地の間にこだまし渡り増る。一代の不覚にて候。大将佐々内蔵介始め我等の面々何れも面を伏せ眼屢叩き打ちしおれ居り増る……」

三州梅ケ坪の合戦
“信長公記”巻首の中に「翌年四月上旬、三州梅ケ坪の城へ御手遣り推し詰め、麦苗薙ぎせられ、然して、究竟の射手ども罷り出で、きびしく相支へ、足軽合戦にて、前野長兵衛討死候。爰にて平井久右衛門よき矢を仕り、城中より褒美いたし、矢を送り、信長も御感なされ、豹の皮の大うつぼ、蘆毛の御馬下され、面目の至りなり……」とあります。前野文書の中には、「……佐々蔵人相守り候三州梅ケ坪の取出、三河勢多勢を憑み押出し増る。信長梅ケ坪手薄にて候へば、此の時馳せ参じ増る柏井衆凡そ三百余の軍勢にて御座ひ増る。前野長兵衛討死仕るは此の梅ケ坪取合ひで御座ひ増る。孫九郎尉若党、平井久右衛門、信長様御前にての働き、また殊勝なりとて、信長様より御馬一疋賜増る。久右衛門儀誠に誉高き郎党の由今に伝へ在り。平井久右衛門美濃苗木牢人にて、元は流れ来りし者にて御座ひ増る。譜代の家人なかれど心たしかなる者にて、久右衛門倅、源太郎、後年関ケ原御陣の時、親助六尉と共に、敵首三個討取り高名在り、源四郎は源太郎の舎弟なり……」

美濃州の俣、軽身取合いに不覚とる
永禄3年(1560)秋より翌4年まで4度の出入りで、佐々成政と共に州の俣に1年以上もの長陣をしていた時の事でありました。
「……酉四月濃州軽身出入り書留仕る……手前の郎党平井久右衛門手前に続き向い来たる敵に切って掛り候。黒甲冑に身を固め鹿毛の馬に打ち乗り四、五人と覚しき郎党引き連れて三ツ引の旗差物差したる武者馬を寄せ来たる、手前六尺棒にてこの敵に打ち向い数合打ち合い仕るところ、三ツ引の郎党我の馬の腹したたかに突きたれば馬竿立ちに成る。為にそれがし不覚にも落馬、堂と土手下に落ち行けば、彼の敵してやったりとて進み来たり候えば、思わず太刀に手をかけんとせしかば太刀さや走り抜け落ちたるか柄に手をやれども太刀無し、南無不覚なりとて小さ刀を引き抜き立ち向わんとせしところ、平井久右衛門ツツト進み寄り、太刀にて彼の三ツ引の武者を肩先より割り付けたれば、彼の武者堂とその場に倒れ増るを、久右衛門首を掻き切り高名揚げ候。九死に一生を得たると出入り心得度き事。太刀はさやより抜け落ち間敷く手当の事、一に肝要大事の事と誌し有り……。」

墨俣築城と柏井衆
美濃攻めより帰陣した信長は、永禄5年6月丹羽郡大久地(大口)城を攻撃にかかります。そして犬山方の反撃に対する守備のため、前野村内山名瀬山塁で警備についた孫九郎は、同7年まで前野村に在住しています。清洲より小牧山新城に信長は移ったので、大久地衆も手出しができなくなり、孫九郎も柏井上条に帰陣しました。そして永禄9年(1566)、信長は京へのぼり天下布武を計ろうと、まず美濃の堅固な稲葉山城を攻略しにかかります。信長の命令で敵前の墨俣に塁を構築しようとした佐久間信盛、柴田勝家らは、美濃勢の再三の奇襲にあって失敗しています。
この度、木下藤吉郎は土地の土豪等や盟友の蜂須賀小六、そして前野小右衛門(孫九郎舎弟)孫九郎率いる篠木、柏井衆等による土豪地侍編成の軍団の働きで、墨俣築城を成し遂げます。“前野文書、永禄墨俣記”より関係分を列記して築城戦況をみてみますと
「墨俣押出惣勢子、前野小右衛門 312人、日比野六大夫250人、稲田大炊介650人、山方衆是は八曽七曽衆含むものなり、河口久助156人、梶田隼人186人、長江半之丞222人、草井船頭衆48人、犬山船頭衆75人、大工棟梁方26人、御大将木下藤吉郎 足軽鉄砲隊75人、蜂須賀彦右衛門手の者133人、鉄砲隊 青山新七 〆惣勢子2,148人。」道具と食糧の調達は、前野小(将)右衛門、孫九郎の手の者達。築城用材木等の伐り出しから運搬とそれを護衛するのは梶田隼人、長江半之丞、河口久助、日比野六大夫、稲田大炊介等で、惣勢の半数以上をこれにあてています。

墨俣押出総勢子の出身地

墨俣押出総勢郷土の名簿

「墨俣押出し道具」は手斧20丁、掛矢20丁、槌30丁、鎹30丁、鍬30丁、鋤30丁、畚5丁、棒30丁、橇10丁、縄5駄(10連1組1駄50組)、藤つる5駄(10連1組1駄90組)、干飯1駄等でした。
書き留められた廻状や覚え書の中に「……此の度の美濃責墨俣押出しの儀尋常の戦にあらず、蜂須賀彦右衛門、兄者孫九郎相謀り此の押出しに相加ふるものなり。兄者は上条に拠る村侍勇士を集む。彦右衛門尉宮後に陣す……祖父孫九郎尉篠木上条城に拠りて村瀬作左衛門、森川権右衛門と共に働き者野伏、山伏、修験者等聚め置く者也……父助六尉(孫九郎長男)は墨俣初陣也、小右衛門殿に従って参戦仕る拾六歳の初陣也。 ……助六尉出立緋の帷子、半袴、二尺一寸小太刀、鑓は一間柄素鑓也……菊組後詰惣勢子一八二人、寄合場所宮後八幡前河原の備、熊の坂より打上げのろし見て勇みしと後物語り之有……一番の難儀は小越(起)渡し場との事。敵鉄砲打かけ参りしとの事、助六尉喜平次殿の背にてふるえ居りて後物申されず川中の事也。」等は孫九郎の孫にあたる孫四郎雄瞿(かつかね)が寛永戌(5)年(1628)に前野将右衛門が書き留めた墨俣記を「拙者天下平定世の中相変り百姓仕るも此処に一党武功誌し置く者也」と書いています。篠木、柏井衆は前野小右衛門の組に加えられています。
また戦に参加した内に女子が約10名程名前がみられる中に、上条より冬乃、於まつ、きり乃、於さだ等の名前がみられます(女子仂き者共荷物と共に舟にて渡り申す事……)とあります。美濃方で攪乱を起こさせる忍びの者は、念佛僧、陰陽師、針売りで昼間歩き、山伏、修験者は夜眼よくきく者。菜売り、百姓、万商人は町屋を丹念に歩き廻り。乱、飛、角など各役割をもって適地に潜入しますもので、孫九郎の手の者も多く参加しています。9月12日夜半行動をおこし前野小右衛門、蜂須賀彦右衛門、松原内匠等の隊は築城の道具や食糧をもち大工達と陸路をとって墨俣へ向かい、稲田大炊介、梶田隼人、長江半之丞等の隊は、材木を積んだ車をおしたり、筏に組んで川を下り水路を利用して墨俣へ進みました。
築城の規模は縦が60間(約180メートル)、横120間(約216メートル)で周りに壕を掘りその土を内側に土居として築き、外側の周囲は柵を設け、土居の内側四隅と中央の真中に高櫓を配置し、南側に大手門、東北に搦手門を設け、それに長屋3棟と小屋敷のみで、壁に麻布と紙を貼り遠目にはわからない見せかけ普請で、屋根は茅葺きの簡易なものであった。むしろ砦と考えた方がよく、わずか3日半日で作っています。
城の完成をみた信長は、15日に早速手勢1,500人を率いて入城しました。

勢州への長陣
墨俣築城後帰国した孫九郎は、翌10年春頃まで上条にいましたが、小牧山城よりの御陣触の沙汰があり、7月には軍備を整え勢州へと出陣しました。先軍は滝川左近将監(一益)を総大将にし、小坂孫九郎、生駒八右衛門家長、森甚之丞正成、森久三郎雄成、森清十郎正好等一党も総勢一千たらずでこれを付され、勢州河内中江に居陣しました。柏井の留守居には前野新蔵直高が任命されました。孫九郎は、永禄10年(1567)7月より同12年まで勢州で長陣をしていて、稲葉山城の攻撃には参戦しておりません。
永禄4年に蟹江城主となっていた滝川左近将監は、同10年、勢州一円を攻略すべく、多度附近に出兵し、員弁、桑名、朝明の諸城主の多くを調停工作で滝川軍に降し信長の出陣を要請しました。信長は約3万余の兵力を率いて勢州に出陣し、朝明郡の萱生(春日部氏)等はわずかな防戦で服従させました。楠城の楠十郎貞孝のみは勇敢に防戦しましたが力尽きて降りました。
梅戸城(員弁郡大安町)も攻め落とし、この時、曽(か)って元亀元年(1570)5月、京からの千草越にて信長を狙撃した杉谷善住坊を捕えました。彼は梅戸城主梅戸左衛門高実の抱え僧で、梅戸加納山円通寺の住職でもあり北勢48家の1でもありました。信長に捕えられた善光坊は、天正元年(1573)9月10日清洲城下にて鋸引の極刑にされました。墓は高須にあるといいます。
次いで信長は神戸家(関氏一族)の家臣山路弾正少弼の高岡城に迫りますが、武田軍が美濃を襲う気配をみせたので北伊勢の押さえを滝川左近将監、孫九郎等に任せ、岐阜へ帰城し、翌年(永禄11年)再び北伊勢へ進出します。しかし、三重郡千種城、高岡城等は容易に落城せず、神戸城主神戸蔵人友盛の娘「鈴与姫」に、3男信孝を婿養子とする政略を企て和睦します。(信孝はその後、神戸氏を内部から崩壊させ、元亀2年に本家関氏を滅ぼし、天正2年養父友盛を追放します。)さらに、八田城(一志郡嬉野町大多和氏居城)を落とし搦手の山道伝いに阿坂城、岩内城、坂内城方面へと進撃し、雲出川以北の北伊勢を信長軍は平定しました。
北畠一門の阿坂城主木造兵庫介は手固く守り落城しませんでした。その子沙弥法師は父兵庫介の助命を願い出て、その条件で開城を約束しました。蜂須賀彦右衛門は添人として城内に入り、開城を約束を果たしました。滝川左近将監はこの沙弥法師を還俗させ、滝川の姓を与え、滝川三郎兵衛雄利と名乗らせます。彼はのちのちまでも孫九郎と深い親交を持ち続ける盟友となります。

信雄公より「雄」の一字を賜る

永禄12年(1569)8月、信長は勢州へ3度目の出陣をしました。
国司北畠具教父子の立て籠る大河内城を包囲して攻撃しますが、防戦は続き8月29日早朝より大手口からの池田信輝、浅井長政軍の総攻撃で、9月9日漸く城門を開き降服しました。
“信長公記”に「十月四日、滝川左近、津田掃部両人に相渡し、国司父子は笠木坂ないと申す所へ退城候ひしなり……」とあります。
前野文書“武功夜話”には「……かくて伊勢責め参陣の諸将、一先ずその地において御暇下され思い思い帰陣候なり。しかる間、勢州在番は滝川左近将様、一遍に仰せ付けなされ、御茶筅様(信雄)御後見役は津田掃部殿仰せ付けられ候。此度御茶筅様の御袋様に因縁ある(生駒氏)をもって、祖父孫九郎尉、森甚之丞、御茶筅様の傳役仰せ付けられ候の仕合せ、これに従い勢州に相留り候の次第……」
「……ここに北畠具教、茶筅様に北畠を襲わしめ御元服、北畠信雄を作る。信雄卿、雄(かつ)の一字名賜るなり。小坂孫九郎雄吉、初名宗吉という……巳年以来勢州に相留り御役を相勤め、茶筅様元服、雄の一字名を拝領有難たき仕合せ、落度なき様心に相懸け勢州田丸御城に罷り候ゆえ、したがって元亀庚午年(元年)の江州陣は罷り立たず候……」「……元亀庚午年(1570)雄の一字名を拝領の時三千貫文御加増なり……」とあります。
“尾張志”内にみられる「小坂孫九郎雄吉。前野村の人にて信雄公に仕ふ、信雄卿従士分限帳に小坂孫九郎、三千貫文、かしわ井村、やさご村と見えたり。天正の石直しにあてて二万四千石ほどの所帯也」とあります。

郷土散策

白山信仰12

村中治彦  春日井郷土史研究会員

真盛上人と密蔵院

真盛上人と密蔵院
密蔵院多宝塔の北側に天台真盛派宗祖真盛上人修学之地という石碑がある。
これは昭和55年3月に、真盛上人鑽仰会により建立されたものである。真盛派の寺院は滋賀県坂本の西教寺を本山として、全国に410カ寺を数える。その大部分は三重県(213カ寺)・滋賀県(98カ寺)・福井県(80カ寺)の3県に集中している。毎年6~7カ寺からバスを仕立てて参詣者が来山するという。
上人は嘉吉3年(1443)、伊勢国一志郡小倭郷大仰城主小泉左近尉藤能の子として誕生し、幼名を宝珠丸といった。7歳のとき近くの光明寺に預けられ、盛源律師に師事した。14歳で剃髪出家し、名を真盛と改めた。16歳のとき密蔵院の徳蔵坊に入って顕密瑜伽の大法を学び更に修業を続けていたところ、父の死により学資が途絶え、18歳で帰郷した。
しかし向学の志やみがたく、学資の援助者を求めて伊勢神宮に参籠祈願し、度会郡藤原の里兵衛太夫に出会い、その縁者木存法印をたよって比叡山に登った。そして修業に励み、25歳で阿闍梨位、33歳で伝灯大法師位、35歳で大乗会講師(宮中進講師)を命ぜられて権大僧都に任ぜられた。
しかし40歳のとき、一時山をくだって母の死をみとったことが上人にとって大きな転機となった。そして、これまで比叡山で続けてきた大僧正、探題を目ざしての修業の道を捨て、人の生死の問題を解決するための道を求めて、遁世者の潜む黒谷の青竜寺へ隠棲した。
黒谷の法然上人の旧跡で念仏に救いを見出しさらに、伝教大師の廟所極楽浄土院に参籠して恵心僧都の『往生要集』の本義を極め、念仏の信心を体得した。43歳のとき伝教大師ゆかりの地、坂本の生源寺で自分の念仏の信念を説き、済世利生の第一歩をふみ出した。その後、同地の西教寺へ招聘され、同寺を修理再興して布教済世の中心道場とした。
上人の足跡は中部・近畿の一帯に及んでおり明応4年(1495)2月30日、52歳の生涯を閉じるまでの10年間に各地を巡化し、その間、宮中での道講、足利将軍の勧化、各地の豪族の教化等自己の信念に従って巾広く信仰を勧めた。
宮中での上人の尊崇の厚さを物語るエピソードとしては、後土御門天皇が「真盛上人」大書して下賜されたことや、尊盛法親王が宮中で難事件に逢ったときに上人に指示を求め、その指導に対する感謝の意をこめて、「南無真盛上人」と書いて贈ったりしたことなどである。
また、将軍足利義政は夫人の日野富子と共に上人に帰依し、数回にわたって談義を聴聞したのみでなく、その臨終には上人が枕辺で念仏を勤めた。(『蔭涼軒日録』)
上人の人となりについて、直弟真生が上人の入寂直後に書いた『真盛上人往生伝記』によれば、「形容に威儀を具すれば則ち、たとい強力の俗士たちと雖も、惶怖を成すこと主君におけるよりも甚だし。顔貌に快笑を含めば則ち、また幼稚童蒙たりと雖も、恋慕を懐くことなお父母におけるがごとし」と伝えている。

上人と伊勢白山信仰 
   伊勢における神社821社中、白山比咩命を祭神とする社は26社あったのが現在では10社にしかすぎない。これは伊勢神道の影響が強く、蚕食されて、廃社あるいは合祀された結果である。
   伊勢信仰や神明信仰の根拠地であり、古く熊野・吉野修験の信仰圏の中にあって、伊勢一志郡において仡然として白山信仰が渤興したことは、大いに興味をひかれるところである。
   真盛上人の伊勢での教化活動は、延徳2年(1490)安濃津に西来寺を建立したことに始まる。そして白山の地に足跡を印したのは明応2年(1493)で、小倭城主新長門(ながと)守の招請によるものである。
   長門守は真盛上人に帰依して真九法師と号し一志郡小倭成願寺建立の発願者となった。上人は成願寺を不断念仏の道場として布教活動を展開した。ここに真盛天台が渤興して熊野・吉野信仰が白山信仰へと転移していった。
   尚、真盛天台と一志白山信仰の関係については次号で述べたいと思う。

協力者
密蔵院住職山田圓鳳先生

参考文献
『伊勢白山信仰の研究』吉田幸平著
『三重県の地名』(日本歴史地名大系24)

発行元

平成5年9月15日発行
発行所 春日井市教育委員会文化振興課

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