郷土誌かすがい 第56号
平成12年3月15日発行第56号ホームページ版
茶入れと蜀江錦の仕服
安藤家所蔵
下屋敷町の県道名古屋・犬山線と名鉄小牧線との間に、大きな門構えの安藤家(13代目安藤洋太郎氏)の屋敷があります。
初代安藤五兵衛は、寛永元年(1624)に如意村(現名古屋市北区)から当地に移り住みました。以後、一帯の開拓を進めて豪農として栄え、庄屋としての地位を築き上げました。 尾張家第14代藩主徳川慶勝は、参勤交代で中山道を利用する折や犬山城成瀬家に御成りの際、安藤家で御小休をされました。嘉永6年(1853)から3度にわたって立ち寄られたといいます。
安藤家では、屋敷から本街道までの道を殿様の通られる「御(お)成道」として、それまでの2倍の2間(約3.6メートル)に拡げました。
また、屋敷の西南には「御成の門」を建て、殿様のお休み部屋である「御成の間」と側近の家来が詰める「控の間」が用意されました。
明治4年(1871)の廃藩置県により、尾張徳川家は東京へ移住することになりました。その折、世話になった安藤家に対し、徳川慶勝より写真のような茶入れと仕服(茶入れ袋)が贈られました。茶入れは名古屋城内の御深井(おふけ)の庭で焼かれた壷で、「御深井焼茶入れ」と呼ばれ、象牙のふたが付いています。仕服は「蜀江錦」と呼ばれる厚地の絹織物で作られています。
村中治彦
伝承による尾張古代考4
尾張の天王信仰
いのぐち泰子 本誌編集委員
はじめに
尾張は、昔から「お天王祭り」が盛んである。春日井市内にも村々、島々に天王社、津島社があり、「天王祭り」「祇園祭り」「津島祭り」が行われてきた。尾張の夏祭りの代表で、疫病除け祈願の祭りである。祭神は「お天王さま」であり「スサノヲノミコト」である。では、
- お天王さまとは一体どういう神様なのか
- なぜお天王さまとスサノヲノミコトとが同じ神なのか
- なぜ天王祭りを祇園祭り、津島祭りというのか
- 天王祭りがなぜ疫病退散の祭りなのか
- 尾張に天王信仰が広まったのはなぜかこれらを考えてみたい。
1「天王様」は病魔を払う祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)の守護神
「天王」とは本名を「牛頭天王」といい、「祇園精舎」の守護神と伝えられる。では「祇園精舎」とはどういう精舎か?中村元氏の「釈尊の生涯」によると概ね次のようである。
シャカ族が属したインドのコーサラ国王にスタッダという長者がいた。彼は釈尊の熱心な帰依者であったので教団に雨期の間の僧院を寄進した。コーサラ国王の太子ジェーダから広大な土地を買い取り僧院を建てた。「ジェーダ太子の園の精舎」である。後、仏教が中国に伝わると、これが漢訳され、「ジェーダ」は「祇陀」という文字が当てられ、「ジェーダ太子の園」は「祇陀園」、その僧院は「祇園精舎」となった。
では、その守護神「牛頭天王」とは如何なる神か?元はインドの神の名で、梵語でGavagriva。漢訳されてgavaが「牛」、grivaが「頭」となった。インド古代信仰と仏教が習合して「祇園精舎」の守護神となったものであろう。
ではどんな神徳をもつ神か。「望月仏教大辞典」には「東方浄瑠璃世界の教主薬師如来の垂迹・大海中の沙竭羅(しゃかつら)竜王宮(りゅうおうぐう)に入り……」とある。
要約すれば、
- 祇園精舎の守護神
- 薬師如来の垂迹という「疫病から救う神」
- 「海の神」
- 牛の角をもつ恐ろしい忿怒の鬼神、となる。
この神が海を渡って日本に伝えられた。
2なぜ仏教の牛頭天王が日本古来の神スサノヲノミコトと同一視されるか
それは我国の「本地垂迹説」によるからである。では「本地垂迹説」とはどんな思想か。
6世紀に我国に仏教が伝来すると、この外来の宗教の受け入れをめぐって賛否両論に分かれ、蘇我氏と物部氏の争いなどが起きた。奈良時代に入っても、未だ古来の神を敬う念は厚く、ここに仏教を受け入れるための融合思想として神仏習合が唱えられ、平安初期に「本地垂迹説」として定着したのであった。簡単にいえば、仏(本地)は我国に日本の神として現われ(垂迹)た、と唱える説である。例えば天照大御神は大日如来が垂迹した、というように。そして「牛頭天王」は我国にスサノヲノミコト(須佐之男命)として現れたと考えられたのであった。
3スサノヲノミコトとは
スサノヲノミコトは周知のごとく「古事記」「日本書紀」等に見られる、アマテラスオホミカミと並ぶ我国の代表的古代神である。
記紀によればイザナキとイザナミから生まれた三貴神の一神で、アマテラスオホミカミの弟神である。古事記には「タケハヤスサノヲノミコト」とあり、「猛々しく」「速く俊敏な」「すさぶる」神である。
さて、父のイザナキは3人の子にそれぞれの任務を命じた。アマテラスには天の国「高天の原」をツクヨミには「夜の国」を、そしてスサノヲには「海原」を治めるようにと。しかしスサノヲは亡母を慕って任国を治めなかったため、怒った父イザナキは彼を追放してしまった。
スサノヲは姉アマテラスのいる高天の原に上るが、ここでも「天の岩屋」事件を起こしてしまい、高天の原も追放され、出雲の国に天降る。
出雲でスサノヲは、その国の神の娘クシナダヒメを「八俣の大蛇」から救い、彼女と結婚して国を治めた。大蛇退治は神代の圧巻で、「十拳釼を抜きて、その蛇(おろち)を切り散(はふ)り給ひしかば肥河(ひのかわ)血に変りて…」と彼の勇壮さが描かれている。
以上からスサノヲノミコトは、(1)「海の神」であること(2)「荒々しいすさぶる神」であること(3)出雲で活躍した神であることが分かる。
この「十拳釼」を振り回して大蛇を退治する勇壮な姿が、1項で述べた仏法を守護し疫病を払う鬼神、牛頭天王に重ね合わされたのであろう。
4スサノヲノミコトに習合された蘇民(そみん)将来(しょうらい)
更にもう一つ習合したものは、蘇民将来の伝説である。蘇民将来も除疫の神である。「釈日本紀」7所収の「備後国風土記逸文」によれば、
昔、北の海に居た武塔神(牛頭天王の別名)が、ある日、南の海の娘を夜這いに行ったところ日が暮れてしまった。この地に蘇民将来、巨旦将来という兄弟がいた。神は金持ちの巨旦将来に宿を請うたが断られ、貧乏な蘇民将来に暖かく迎えられ、藁の夜具と粟飯を供された。
その幾年後、再び蘇民将来の家を訪れた神は、「実は私はスサノヲノカミである。お前の子孫は腰に〈茅の輪〉を巻くように。そうすれば疫病が流行してもお前の子孫は免れるであろう」と教えた。〈茅の輪〉の呪符を受けた蘇民将来の子孫は疫病を免れる事になった、とある。
この伝説は牛頭天王とスサノヲと蘇民将来が習合し、疫病退散の神となったことを物語る。
5天王信仰は平安中期頃から始まった
牛頭天王を祭神とする神社の代表は京都の祇園社と尾張の津島神社である。しかし2社とも後の祇園祭り、津島天王祭りに発展する大社であるにも拘らず式内社ではない。式内社というのは、延喜5年(905)編纂の「延喜式」の神名帳に搭載されている神社である。そこに記載がないということは、平安初期にはなかった神社ということになる。
従って津島神社も祇園社も、平安中期以後、急速に信仰が広まった神社であると考えられる。
6都で始まった天王(祇園)信仰
ではまず京都祇園社から。平城京、平安京という大規模都市が起こり、都市人口が増加すると疫病の発生は重大問題であった。当時、疫病流行は、死者の怨霊のなすところと考えられたため、御霊をまつる〈御霊会〉が盛んになった。祇園信仰はこれに基づくもので、平安京の八坂の地「祇園(ぎおん)感神院」に牛頭天王が祭祀され、〈祇園御霊会〉とよばれる御霊祭りが行われるようになった。これが今日に伝わる祇園祭である。
しかし、これは、新しい神社ができたのではなく、元々八坂にあった鎮守社(スサノヲノミコト祭祀か)に疫病流行による御霊信仰から牛頭天王が習合され祇園社となったのではなかろうか。
御霊会の行われる旧暦6月15日のころは疫病流行の兆しを見る季節である。また農村にとっては稲の害虫発生の時期でもある。疫病と稲の病虫害の退散を願って祇園信仰は夏祭りへと発展し全国各地、農村にまで浸透していった。その最たるが尾張の津島牛頭天王社である。
7津島牛頭天王社の縁起と発展
では、わが尾張の津島神社は、どのような縁起をもち尊崇を集めて今日に至ったか。
社伝と江戸時代刊行の「張州府志」「張州雑誌」「尾張名所図会」には大略次のようである。
古くは津島牛頭天王社といい、牛頭天王(スサノヲノミコト)を祭祀する。
起源は、孝霊天皇45年、スサノヲノミコトの和魂が韓郷の島より帰朝し、先ず西海の対馬に光臨し、欽明天皇元年(540)に、この島(対馬)に光臨した。津島は旧名は藤波の里といったが、対馬から光臨したことにちなみ津島と改名。弘仁元年(810)正1位日本総社、正暦年中、天王社の号を賜った。諸国天王社の本社で全国に3千の分霊がある大社である。
神徳は、祭神が牛頭天王であれば当然、疫病の除厄と稲の害虫除け。祭日は旧暦6月15日。
だが祇園社と同じく津島神社も式内社ではない。しかし平安中期には式内社に比肩する勢力になり天王信仰は広く農村各地に伝わっていた。
8祇園社よりも古い津島神社
津島牛頭天王社の祭りが祇園祭りともいわれるのは、祭神が祇園精舎の守護神牛頭天王であるからである。しかし京都の祇園社から勧請されたという記録はどこにも見えない。つまり、津島神社は、祭神が同じだからといって京都祇園社らら遷祀したことにはならない。
確かに祇園信仰は都での疫病退散を起点として都から地方に広まった。津島もその信仰の影響を受けて総社にまでなったのであろう。
しかし、祭神は祇園社から勧請したのではない。元々尾張の藤波の里にスサノヲノミコトを祭る神社があった。京都八坂のスサノヲを祭る神社に牛頭天王が習合したように、尾張のスサノヲ社に牛頭天王が習合したと考えられる。
このことは創祀をみれば明らかである。津島神社は欽明元年まで遡ることができるのに対し京都祇園社は斉明2年(656)を遡らない。これは平安中期の牛頭天王を祭る祇園信仰が起こる以前からスサノヲノミコトを祀る大きな社が尾張にあったことを物語っている。
9津島神社はなぜ式内社ではないのか
それほど古い社であるのに式内社でないとは一体どういう理由か。それは神社のの名が変ったからではなかろうか。元は別の名であった神社が天王信仰と結びついた時点で独立して津島牛頭天王社となったのではなかろうか。元の神社は縁ある社としてそのまま残して。
「張州府志」「張州雑誌」の作者もいう。「津島天王社の前身は藤島神社であったか。あるいは憶感(おかん)神社ではないか」と。
私も考える。藤島神社も憶感神社もれっきとした式内社であり、現在の祭神は藤島神社はイチキシマヒメというスサノヲの娘神、憶感神社は日龍神で雨水を司る龍神。どちらのもスサノヲと縁が深い。またオカムという音はオホカミ(大神)に通じないか。「古事記」は、出雲を掌握しオホクニヌシに譲った後のスサノヲを「大神」と書いている。スサノヲは大神になった。また、オホカミは大和の大神神社にも通じ。大神神社の祭神は大物主神(大国主神の別名)。大国主神はスサノヲの子とも6世孫ともいわれる出雲の神。現津島神社の祭神は、主祭神建速須佐之男命、御相殿大穴(おおあな)牟遅命(大国主命)である。可能性は否定できない。
更に確かな論拠は津島神社の摂社の祭神である。「張州府志」等によれば、「居守社」「柏宮」はスサノヲノミコト。「一王子祠」はスサノヲの妃クシナダヒメ。「八王子祠」はアマテラスとの間の5男3女。「大黒祠」はオホクニヌシ(大国主神)。「若宮御前社」は大国主の長男コトシロヌシ。「蛇毒神祠」は八俣の大蛇の霊。「當下御前祠」はスサノヲの子イタケル…。というようにスサノヲ一族が並び、そこに「蘇民将来」や「神宮寺」の薬師堂などがある。
これからみれば、牛頭天王社が先にあったのではなく、スサノヲノミコト社に牛頭天王が習合されたことが明らかである。
10なぜスサノヲノミコトを祀る大社が尾張にあるのか
1つはスサノヲが「海の神」であること。そして尾張は元々海人族の地であること。
ヤマトタケルも尾張の海人族イナダネの協力で東国平定できたし、「熱田太神宮縁起」は「海部氏は尾張の別姓」と明記している。また宣化紀元年にも、筑紫の軍備に「尾張の連を遣して尾張国の屯倉の穀を運ばしむ」と、尾張氏の海運を頼んでいる。海原を制するスサノヲを海人族の尾張氏が尊崇するのは当然であろう。
2つは、津島の地形がスサノヲ伝説に似ていること。スサノヲは新羅から対馬を経てきたとも伝えられる神。津島は古木曽川48流とも称されるデルタとして形成された地。それが対馬になぞらえたのではなかろうか。
3つは「八俣の大蛇」伝説。大蛇を河川の氾濫と考えれば、木曽川はじめ河川の氾濫に悩む尾張が氾濫を治めた農耕の神として尊崇したか。
4つは、尾張氏はは尾張南部より北上して拡大した氏族と考えられ、ヤマトタケル時代、国造イナダネの本拠地は現名古屋市緑区、熱田区辺りであった。しかしそのもっと以前、尾張氏の祖は、祖先神スサノヲを奉じて津島にやってきたのではなかろうか。津島神社の摂社居守宮の社伝には「天王が初めて来臨した時、神船を寄港したのは馬津の渡しの東……」とある。
とすれば尾張氏の奉ずる祖先神はスサノヲノミコトということになり、本誌第54号の尾張の祖神アメノホアカリとくいちがってしまう。
これをどう解釈するか。
ここで極論が許されれば、もしや「アメノホアカリノミコトはアマテラス系の天孫ではなくスサノヲ系の子孫ではないか」と推論される。
これを是認すれば、出雲を追われ、次に大和を追われた出雲族が、尾張に流れ着き、その地の豪族との婚姻によって勢力拡大していったとき、祖先神スサノヲノミコトを尊ぶも、その子ホアカリが尾張氏の祖となるのも当然であろう。(これについては別号で述べる)
おわりに
かくして遠つ祖スサノヲノミコトを祭神とする大社が尾張南西部に尊崇され続けてきた。そこへ本地垂迹説により牛頭天王の祇園信仰が結びついた。それが春日井を含む尾張の村々で現代まで脈々と、天王信仰としてスサノヲノミコトを祀り続けられていると考えるのである。
郷土探訪
太清寺十王堂(阿弥陀堂)の今昔
長谷川良市
はじめに
春日井市勝川町2丁目の龍源山太清寺の境内にある十王堂は、阿弥陀堂とも呼ばれ、阿弥陀如来の両側に5人ずつの恐ろしい顔の十王尊が並んでおり、人は死後生前の善悪を十王尊によって順次裁かれて冥府に送られると言う。
現在の十王堂は昭和55年(1980)に建てられたものであるが、戦国時代には狼煙として焼失し、江戸時代には下街道(現国道19号)沿いの勝川札の辻(勝川町3丁目北部付近)に移り、約400年を経て再び太清寺境内に移されている。本稿ではその変遷について述べることとする。
阿弥陀堂の焼失
太清寺の昔は醍醐山龍源寺と呼ばれたが、創建は定かではない。尾張国安食荘は醍醐寺領の一部として知られているが、昭和55年京都醍醐寺より発見された柏井荘との境界に関する中世後期の絵地図には勝川村の記載もあり、龍源寺は真言宗派の寺であったと推察される。
龍源は清水の湧く地といわれ、庄内川流域から最初の段丘地となるこの辺りの小川には、昭和初期になってもイモリの生息も見られた。
天正12年(1584)4月、小牧長久手の戦いに徳川家康は小牧山を出発して、豊場・如意を経て勝川に入り、龍源寺内の東方八間四方の阿弥陀堂に休憩後、戦の前の鎧・兜の着装をした。家康は庄屋長谷川甚助を呼び、大川(庄内川)の深さとこの土地の名を尋ねたところ「徒歩(徒)にて渡れる徒歩川、かち川にございます」と応えた。家康は戦を前にして勝つ川とは縁起がよいと喜び、また甚助の妻が差し出した牡丹餅を食べようとしたが、箸が1本折れて顔を曇らせた。甚助が「これはまさしく天下は一本に成るの吉兆でございます。と申し上げたところ笑顔となり、単衣など沢山の褒美を与えている。初代甚助の墓は太清寺境内にある。
尾張徇行記は、更に家康は出発の際阿弥陀堂を焼き払ったとあり、日本戦史小牧役では篝火(かがりび)をもって小幡城に出発を知らせ、小幡城からも火を挙げてこれに応えたと記述している。当時の戦法では火を放つことも勝つための常套手段であったと思う。
阿弥陀堂の再建と千村家
阿弥陀堂の焼失後の龍源寺は荒廃が続き、名古屋宝林寺の舊岩和尚がこれを嘆き、弟子宗悦によって慶安4年(1651)宝林寺の末寺として再興した。更に寛文3年(1663)には寺号を龍源山太清寺と改め、享保11年(1726)には妙心寺の直属の禅寺となった。
一方阿弥陀堂の再建は承応2年(1653)であり、焼失から約70年を経過している。
安藤直太朗先生の郷土文化論集に、熊野町にある密蔵院末寺の十王堂が牛毛にあり、延宝4年(1676)の大洪水により十王尊が勝川地蔵川まで流され、阿弥陀堂の合祀されたと考証されている。
尾張徇行記に美濃久々利(現可児市)の代官千村平右衛門重長が、阿弥陀堂の焼失した余木をもって、阿弥陀如来像を彫刻し堂宇を建立安置したと記述している。千村家は木曽山村家と共に関ヶ原の戦いに軍功があり、幕府直参となっていたが元和2年(1616)より尾張藩の所属となり、重長は尾張藩への往来の都度必ず阿弥陀堂で休息していたという。
重長の没年は寛文元年(1661)であり、その10年前には太清寺、8年前には阿弥陀堂が再建されていることを考えると、寺に深い関わりがあったものと思われる。
太清寺の古文書の中に元禄5年(1692)前述の下街道札の辻地内に、阿弥陀堂用地、間口4間1尺、奥行き25間を地主新八から買い入れた証文がある。焼失後の再建用地を、商人や善光寺、伊勢まいりの通行人の多い下街道沿いに買い増した証文である。この地は名古屋から最初の宿場であり徇行記には旅舎15戸とある。
最近阿弥陀如来像を安置していた白木作りの厨子の裏側に、文字が記載されているのが発見されたが、約150年を経過した墨痕は薄れ、辛うじて読むことが出来たのは次のものである。
尾州春日井郡勝川郷龍源山太清寺
阿弥陀堂大基宗悦首座造建焉
這厨子濃州久々里
千村十左衛門時重寄附
宝暦六己子三月再修堂住鯨海祖寛
宝暦6年(1756)に千村家が堂宇や厨子を再修した記録であり、再建から約100年を経過している。堂宇より1段下った南側の石垣脇に等身大の灯篭が立ち、文政12己丑(1829)村内安全と刻まれていた。
また最近太清寺から発見された千村家宛の控えと思われる文書には、天保12年(1841)丑12月とあり「御願申上候御事」と始まりその大意は次のようである。
「当時の控の阿弥陀堂は、先年酉年の天保8年(1837)の台風により格別の被害を受けた。お屋敷様が名古屋へお出掛けの折は常時ご休憩頂いていたが、現在ではお堂の内外とも荒廃して、念仏や読経の声も聞かれず、献灯や供花もなく嘆いております。先に千村十左衛門時重様から、宝暦6年再修のご寄附を頂き、今回も同様の思し召し賜りますようお願いいたします。」
太清寺から千村平右衛門様宛になっている。
明治以降の十王堂
十王堂は2間半と3間のお堂の裏に、16坪の庫裡があり、住職の中でここに隠居後住まわれた人もあった。
お堂では疫病退散の祈願などの百万遍の大数珠を、夕食後の一刻、村人が寄り車座となって供養した。隣接した津島神社の祠では、田植え後にお天王様の提灯まつりも行われたが、民家の密集地のため火災の発生を懸念して、提灯山まつりは半僧坊と金比羅宮の小祠のある部落から離れた土地に移された。
提灯山まつりは太平洋戦争前までは毎年続けられていたが中止となり、平成5年復活した。
阿弥陀堂を十王堂と呼んでいたことは前にも述べたが、地元ではこれを訛って「オジョウドウ」と呼び、親しまれてきた。
明治初年、十王堂の向い側には「真守座」という芝居小屋があった。北側には愛宕社を祀る古墳が現存しており、この周辺は勝川でも一番発展したところと言われている。
お堂の建つ敷地は3尺程高くなっていたが、洪水による浸水を避けたものであろう。敷地の半分は道路面と同じ高さであり、昭和初期には通学団の集合場所となり、椋(むく)の大樹がそびえていた。その木に登り「ミンナミンナハヨコントイッテイッテシマウゾ」と呼びかけたものである。
まとめ
昭和55年(1980)国道19号の拡幅工事のため、再び太清寺に移築完成した。
1階は納骨堂、2階は外廊下を持ち、45坪の本堂奥には、阿弥陀如来が金箔の厨子の中に安置され、南側に十王尊を従えておられる。
十王堂正面の掲額は、名古屋徳源寺の瑞雲軒老師の揮毫になる「無礙光」であり、人間のあらゆる煩悩に阿弥陀如来は慈悲の光をお授けくださるの意と教わっている。堂の入口脇に江戸時代の俳人横井也有がこの地で詠んだ句「かち人の蹴あげや駕に露時雨」の句碑がある。
郷土散策
春日井の下街道を歩く3 下街道から国道19号への変遷
永田宏
勝川駅周辺
(1)勝川公園
JR勝川駅南西600メートルの所に勝川公園がある。
この付近はかつて兜塚といわれており、野墓もあったが、区画整理により住宅街となり、少し北の頭上には東名阪自動車道と城北線とが走り、地上には国道302号が走っている。ひろびろとした空間が確保されているが、濃い緑が欲しいところである。公園にある記念碑によれば、春日井都市計画事業勝川土地区画整理事業は、昭和54年2月から平成4年3月にかけて総事業費113億円を要して行われ、施行面積422,809平方メートルであった。
公園の道を隔てた西南の一画に記念碑やお堂がある。
墓地対策委員会が昭和57年4月に建てた、台座共で幅約3メートル、高さ約1.5メートルの黒御影石の記念碑には、題額に「温故知新」とあり、その下に次のように彫ってある。
ここ勝川はその昔、賀智里といって早くから開けた村で、庄内川や地蔵川などのお蔭で穀倉地帯であったが、一たん大雨が降ると、きまって河川がはんらんして折角の美田も土砂に埋まり、家や寺も幾度か危険にさらされてきた。それでも村の人たちは、この土地を見捨てないで、共同して復興に努め、以前に勝る肥よくな田畑をよみがえらせてきた。
こうした厳しい水との戦に明け暮れた村の人たちの間に、自然に培われた根性は、土地への強い愛着心と、強固な結束力であった。史上希な惣中結成の大業(注)はこれを端的に物語るもので、あたかも勝川を象徴するかのように今だにその名をとどめている。
中世になって、下街道の中継場として栄え旅館業や飛脚、馬喰など職業も多様化し、村は活気を呈した。古書には戸数135、人口694、馬28とある。
はるか元禄の昔、ここ兜塚の一角を選定して祖先永眠の聖地としてから悠久288年間続いた野墓は、昭和56年秋、春日井都市計画勝川土地区画整理事業の一環として取り除かれ、潮見坂墓園や檀那寺境内へそれぞれ集団で移転した。
この画期的大事業は勝川の歴史を塗りかえて、明日への躍進を約束してくれることであろう。
昭和57年4月
【(注)「史上希な惣中結成の大業」とは具体的に何を指すのかは不明である。江戸時代の勝川村の村絵図に惣中の地名があり、今も惣中町がある。安藤直太朗先生の説によれば、「中世、勝川村は醍醐庄と称したことがあり、その中心の意味を持った惣中という地名であったのではないか」(区報かちがわ―昭和49年1月1日―長谷川良市氏のご教示による)とある。】
この記念碑の前に60センチメートル程の高さの石の地蔵さんが7体、等間隔に並んでいる。一番右の地蔵さんには、「元禄五年申三月十五日勝川村念佛講」と彫ってある。記念碑の右には、正面3間程の瓦屋根の観音堂がある。11体の観音様が安置してあり、お堂の中の説明文によれば次のとおりである。
「……天明や文化の年代に勝川村念佛講建立と記されたものがある。古書に当時の村人五百余人とあり阿弥陀佛を中心に左に観世音菩薩、右に勢至菩薩を配して阿弥陀三尊と七観音と称される聖(正、大慈)、十一面、不空羂索、千手、馬頭、如意輪、准の七観音と思われる。
昭和六十一年三月吉日観音堂移転対策委員会」
(2)城北線
JR勝川駅の南西約900メートルの離れた所に城北線勝川駅がある。城北線はJR東海の関連会社の東海交通事業株式会社が経営しており、平成5年3月18日に開業した。勝川から東名阪自動車道とほぼ平行して全線高架で名古屋市の北部を回り、JR東海道線の枇杷島駅まで、延長約11.2キロメートルである。途中の駅は、勝川から味美、比良、小田井、尾張星の宮、そして枇杷島で所要時間16分、運賃は430円と割高である。電化はしておらず、気動車で運転回数は平日は1日26本、土曜・休日は20本、直接名古屋駅までは乗り入れていないので不便である。利用客は全線で1日平均1,000名で、ここ数年間あまり変わらない由である。
現在工事中の勝川駅付近連続立体交差事業が完成すれば、城北線の高架が延びてきて、JR勝川駅とひとつになり、少しは便利になるであろう。
(3)JR勝川駅
中央線の経路は明治27年(1894)に決定したが、勝川の駅の設置場所は、結局当時の勝川の中心部から1キロメートル以上も離れた現在の所(当時は小野村)に決定した。
名古屋から多治見間が開業したのは明治33年7月25日で、平成12年7月には開業100年を迎えることになる。駅設置の経緯並びに開業時の状況は『庶民の道下街道』などに詳しいので、ここでは省略する。開業した当時はお客も少なかったが、駅前の通りに東春日井郡役所などが移転してからは次第に賑やかになった。
開通した時は、1日に4往復の列車しかなく、名古屋まで38分(途中の駅は千種駅のみ)、運賃は3等で15銭と一般物価に比し高額で、名古屋に用のある人は行きは歩きで、帰りだけ汽車を利用したという話も残されている。今では1日約50往復の電車が走っており、名古屋まで約20分(途中の駅は5つ)、運賃は230円で、春日井の西の玄関として発展している。
最初は列車の長さは約50メートルであったものが、今では電車10両編成で長さが約200メートルのこともあり、駅のプラットホームは、最初は低く短かったが、列車の床が高くなり長さが長くなるにつれて、次第に高く左右に延びてきている。その最下段には開業当時のままと思われるイギリス積の赤煉瓦があり、大変貴重なものである。前に述べた連続立体交差事業により、これが壊されるのではないかと思うが、何とか一部だけでも残してほしいものである。
この事業の高架化の区間は長塚町から柏井町まで2.5キロメートル、交差道路は17路線、平成9年6月より工事が開始された。
なお、ここで春日井市内及び名古屋までの中央線の開業状況などを年代順に簡単に紹介しておく(信号所、仮駅などは省略)。
- 明治33年7月25日
- 中央線開業、千種、勝川、高蔵寺各駅開業
- 明治44年4月9日
- 大曽根駅開業
- 大正13年1月1日
- 定光寺駅開業
- 昭和2年12月16日
- 鳥居松駅開業(昭和21年5月1日春日井駅と改称)
- 昭和12年4月21日
- 鶴舞駅開業
- 昭和26年12月15日
- 神領駅開業
- 昭和37年1月25日
- 金山駅開業
- 昭和39年4月1日
- 新守山駅開業、名古屋から高蔵寺間複線化完成
- 昭和41年7月1日
- 名古屋から瑞浪間複線電化完成(普通列車の電車化は昭和43年10月1日)
勝川駅前
勝川駅周辺総合整備計画として、上記中央線の事業を始め全部で11の事業が行われている。(この中には(1)で述べた勝川土地区画整理事業も含まれている)。
この10年ほどの間に駅前の状況は昔の面影を全く留めていない、といってもよいが、既に完成したものを簡単に紹介する。
ア勝川駅前ルネック
地上7階、地下2階建で、平成2年1月に着工、同4年10月に竣工した立体換地ビルである。ルネックとは、ヨーロッパのルネッサンスと勝川のKをつないだ造語である。1階は銀行と書店、3、4階は店舗、5階は市民サービスコーナー、ふるさとの歴史コーナーなどがあり、NHKや各テレビ局、春日井小牧コミュニケーションテレビの放送を見ることができる。
イ勝川駅前地下駐車場
平成10年4月1日にオープンした。駐車収容台数は242台である。
ウホテルプラザ勝川
地上10階、地下1階、客室は90室、各種宴会場などを備え、平成9年10月着工、同11年9月8日にオープンした。
収蔵民具紹介 ひなまつり
3月3日のひなまつりは、もともとは中国で古くに行われていたお祓いの行事でしたが、日本に伝わり、平安時代の女の子の人形遊び「ひいなあそび」と混ざり合って、江戸時代の中頃から節句の行事として定着しました。
その頃に現れたのが、「内裏ひな人形(親王飾り)」です。大正時代の終わりになると、御殿を中心に内裏ひな、三人官女、五人囃し、左・右大臣、三体の仕丁を飾る「御殿飾りひな人形」が主流となってきました。
また、庶民の間では、明治から大正にかけて嫁方の実家などから贈られた「土人形」(型取りした粘土を素焼きし、絵具で彩色した人形)を節句の時に飾る習慣が広まりました。
民具収集にご協力ください
春日井の文化、生活様式等を後世に伝えていくため、民俗資料の記録・保存を行っています。昔使われていた道具や古くから伝わる物など、よろしければ文化財課へご寄贈ください。
郷土散策
白山信仰24
村中治彦 本誌編集委員
密蔵院と白山中宮長滝寺
密蔵院は天台宗中本寺格の寺院として、この地方の白山信仰とかかわりを持っている例を紹介する。
岐阜県郡上郡白鳥町長滝寺に次のような古文書の書入が伝えられている。
「明徳四癸酉七月十九日ヨリ開白、眞詠大般若経一部、妙円寺ノ宝泉坊千部経大講堂ニテ人数百余人云々、尾張国篠木能化(註1)上首(註2)シテ門徒人々上院等覚坊十四人池坊八人宝泉坊五人廊坊十人学佛坊十人、本院経聞坊五人□坊十二人眞如坊五人常住院十一人円城坊六人執行坊九人」
長滝寺は養老年間泰澄開創と伝えられる古刹で、当初は法相宗であったが、天長5年(828)天台宗比叡山延暦寺末となった。
同寺は白山三馬場(ばんば)の美濃馬場にあたり、白山本地中宮長滝寺と呼ばれた。鎌倉・室町時代に「六谷六院、神社仏閣三十余宇、宗徒三百六十坊」という全盛期を迎えたが、戦国末期以後浄土真宗の拡大などにより衰えていった。
この古文書の書入によれば、明徳4年(1393)7月19日より、大般若経六百巻すべてを一通り読むという大法会が大般若経を千回読んだという大講堂に百人余の僧が集まっておこなわれ、尾張国篠木郷密蔵院第5代奝栄(しゅうえい)上人かまたは上人に代わる一山の院主並びに供の僧が招かれたことが推測される。
密蔵院現住職のお話によれば、当時、長滝寺は密蔵院の末寺であり本寺として大法会に招待され、遠路を出かけたものと思われるとのことであった。
当時の密蔵院はこの地方の天台寺院の中枢として、尾張・美濃を中心に十一か国、七百余か寺の末寺を持っていた。
密蔵院文書に見る白山先達
密蔵院所蔵の文書の中に写真のような文書が伝えられている。
この文書は、知多郡阿野村(現常滑市)の高讃寺と同郡大野村(現常滑市)の松栄寺との間で、冨士先達の権利を巡る争いについて、本寺密蔵院より両末寺に対して出された両先達所再確認の判物(はんもつ)である。
文意の概要は次のようである。
「今度、冨士・白山両先達所について争いが起きているが、珍瞬僧正の代に白山先達は高讃寺、冨士先達は松栄寺が勤めるようにと申し付けてある如く、今度又申し付けるので違反のないようにすること。もし今後、かりそめにも両先達所の旦那を互いに奪い合うようなことが聞こえたならば、度々の争いは寺法の上からもよろしくないので、必ず住職を罷免する。」
貞享4年(1687)に第34代密蔵院住職から両末寺へ同じ文書が出されている。文中の珍瞬僧正は第33代に当たる。
先達とは信者を特定の寺社や霊山に導く修練の功を積んだ修験者(山伏)を言う。御師(おし)のもとにあって、壇(だん)(旦)那(な)と呼ばれる信者を社寺や霊山に導いたり、お札・薬草・参詣案内図などを配って初穂料等の寄進を受けた。
この先達職やそれに付随した檀那が経済的利益をもたらすことから、これが入質・売買の対象となっていった。
石徹白白山御師の場合、夏は登拝信者の先達として山の案内や宿坊を提供し、10月頃から3・4月頃までは檀那場を回った。
白山先達の力が衰えた江戸時代になっても、檀那場を一回りしてくると、金50両、米50俵などの寄進があったこともあるという。
貞享4年という江戸前期であれば、まだかなりの寄進があったものと推測される。
註
- 一宗派の長老
- 一座の上位の者、上座
協力者密蔵院住職山田圓鳳師
参考文献『郷土文化』第5巻第4号「長瀧寺と長円寺」
発行元
平成12年3月15日発行
発行所春日井市教育委員会文化財課
春日井市柏原町1-97-1
電話0568-33-1113