郷土誌かすがい 第52号
平成9年9月15日発行第52号ホームページ版
高御堂古墳(市指定文化財)
堀ノ内町の県道沿いにあって、前方後方形をした全長64メートルの古墳です。味美二子山古墳などが鍵穴の形に似た前方後円形をしているのに対し、前後とも方形の組み合わせの珍しい形で、県下では4基ほどしかありません。
最大のものは犬山市の成田山裏山山頂にある全長72メートルの東之宮古墳で、あとの2基は小牧市の小木にある宇都宮古墳と浄音寺古墳です。
高御堂古墳は未発掘のため、はっきりした築造時期は判りませんが、小木の宇都宮古墳と形や規模が非常によく似ており、宇都宮古墳からは仿製(日本製)の三角縁神獣鏡が出土していることから、ほぼ同時期の4世紀後半の古墳と考えられています。
これまで市内で最古の古墳は、出川大塚古墳(円墳)とされてきましたが、それより古くなるわけです。
隣接地区の神領町には有名な神領銅鐸の出土地があり、弥生後期集落のあったことが考えられます。つまり、庄内川右岸に3世紀以来営まれた集落とその農業生産力を背景にして、4世紀の後半には大きな古墳を造るだけの力がはぐくまれたと考えられます。
ヤマトの影響が強い前方後円形に対して、この高御堂古墳のような前方後方形は、地域の強い個性が生みだした形といわれています。
大下武 市文化財課主幹
郷土探訪
家康公二百回御神忌への密蔵院住職・日光東照宮参向
櫻井芳昭 春日井郷土史研究会会員
1はじめに
平成8年12月、密蔵院(春日井市熊野町)で虫干しを兼ねた文化財公開が行われ、関心の高い人々でにぎわった。
この折、「日光御神忌二百回忌之時持参」と墨書された経典の包みが展示され、中には水晶芯に巻かれた比叡山からの経文8巻が納められていた。
家康公の二百回忌大法会という全国規模の行事に密蔵院から参向していることに興味を覚え調べてみた。
2東照宮と密蔵院との関係
元和2年(1616)家康公薨去(皇族又は三位以上の人の死去)の翌年、遺言によって久能山から日光へ神霊が遷座されて日光東照宮が成立した。
尾張藩主義直は列侯に先じて、元和5年9月16日名古屋城三之丸御蔵跡に東照宮を造営した。翌日、南光坊天海大僧正が導師を勤め、成瀬・竹腰の両家老が奉行として神像(主祭神の東照大権現、相殿に山王権現・多摩羅神)を奉安し、神宝(神衣、甲冑、太刀等)を納める儀式が行われた。同28日には正遷宮の儀式、翌日は勅使の列席を得て法会が挙行された。奉仕者として天海四天王の一人である上乗院珍祐権僧正が名古屋東照宮別当に任命され祭司を勤めた。
別当所は天長山神宮寺尊寿院と号し、日光輪王寺宮門跡の支配に属した。東照宮別当は社家の上に位し、東照宮の祭祀一切を取り仕切った。
比叡山南谷日増院から密蔵院へ転住した経歴の珍祐が東照宮別当に任じられたことから、以後の密蔵院住職は日増院と尊寿院別当を兼ねて代々勤めている。
義直は東照宮領として千石(田端村、牛毛村、桜佐村)を寄進した。別当の下に城下六坊と野田六坊があり、それぞれから出仕勤行している。(註1)
密蔵院には幕府から137石余が与えられ、将軍の代替わりには、御朱印状受領のため住職が江戸へ出向する慣例であった。(註2)
3二百回御神忌への参向
家康公の年回(命日)に当たる年を「神忌」と称して、江戸時代に13回行われた。毎年の例祭は神式であるのに対し、神忌は仏式を中心として神式も取り入れた祭礼である。
神忌には京都から公卿、殿上人、宮門跡、楽人等25家や各地の大名とその名代の参向のため、日光へ通じる街道では当分助郷の手配、街道・橋の整備、人馬小屋や休憩所の新設、本陣及び旅籠の修繕等の特別な準備が必要であった。
文化12年(1815)3月の中山道大湫宿(現岐阜県瑞浪市)では、日光へ向かう青蓮院尊真法親王、梶井承真法親王、近衛右大臣基前公、六条前大納言、徳大寺中納言の二百回御神忌の通行が12日間続き、4月5日には臨時奉幣使、飛鳥井宰相一行の宿泊があり、継立人足400人で対応している。(註3)日光例幣使街道の八木宿では総計助郷人足4,203人本馬343疋、軽尻馬7疋と記されている。(註4)
幕府はこの行事を極めて重視していたので、公家衆へは装束料、道中賄料を事前に届けて、参向を要請している。神忌担当惣奉行には老中牧野備前守を任命し、支援する若年寄、大目付等30数名を配して万全を期している。
二百回忌の日程は4月7日から19日までで、その主な行事は次のようである。
4月6日御経習礼(前日)
4月7日御経開闢(かいびゃく)(初日)
4月11日御経中日
4月16日御経結願(けちがん)
上使・臨時奉幣使・贈経使・高家楽行事、例幣使参拝
4月17日御祭礼(延年舞、神輿三社渡、東遊、田楽等)
御名代、大納言、惣奉行等御拝礼
4月18日勅会(天皇からの使者によって行われる法会)、御経供養、舞楽、振鉾(えんぶ)
4月19日曼荼羅供、舞楽、振鉾
7日に法華経萬部法会が開始され、16日の御経結願では、御尊師青蓮宮、証誠(しょうじょう)(法会の論議・問答で解答の可否を批判し、判定する人)を輪王宮・梶井宮、御手替を修学院僧正、そして、惣礼回向を日増院(註5)が勤めている。この日の次第をみると次のようである。
- 一番鐘衆僧伶人(楽人)参宮
- 二番鐘武家参宮各々着座
- 惣礼、御法則、御経始
- 一之座奏楽、三御門主次第
- 二之座巡堂、奏楽
- 三之座
- 四之座上使拝礼
〈衆僧中食〉 - 五之座伶人奏楽
- 六之座
- 七之座武家参迎
- 八之座御読誦、御経畢鳴磬、御法則畢、回向附楽
三御門主御幣殿御拝
衆僧自持経机退散、伶人退去
この日は、京都から下向した奉幣使御贈経使等の儀式が行われた。まず、例幣使が神前へ詣でて宣命を告げ、幣帛を供進し、次いで臨時奉幣使飛鳥井宰相雅光卿が臨時宣命を読み上げて奉幣、次に3人の贈経使が経本を奉献して退出。そして、馬寮官人が神馬2匹を牽き納めて式典を終了した。夕刻には三神輿を仮殿に安置して当日に備えた。
17日は御祭礼当日であり、盛大に催事が行われた。尾張藩主斉朝は江戸東照宮紅葉山東照宮での神忌に将軍家斉(いえなり)に従って参拝しており、日光では名代が多く尾張藩からは家老の成瀬隼人正が出席している。(註6)
密蔵院に残っている日光東照宮で読誦された8巻の法華経には、「奉献妙典壱部八巻珍祐僧正御霊前比叡山東塔南渓」「同、本院本谷」などと一巻毎に記述されており、名古屋東照宮初代別当珍祐(密蔵院31世)の霊前に贈経された経典であることが読み取れる。
経典の包装紙には「尾刕密蔵院寺中惣代常林坊宣頭」と書かれており、円阿住職とともに、文化12年4月に日光へ駕籠で参向し法華八講等で活躍したものと考えられる。
4名古屋東照宮祭礼と御神忌
名古屋城下最大の御祭は東照宮祭礼であった。毎年4月16、17日は尾張の士民一体となって、名古屋を創設した家康公の遺徳を顕彰し、神輿、山車、舞楽等によって祭典絵巻を展開した。この日は藩主も上覧所から行列を観覧し、庶民も三之丸東照宮参詣を許可された。
宗春時代の享保18年(1733)の祭礼行列は6,800人を越える大規模なもので、楽人、山車、から繰り人形、練物等で趣向を競っていた。「本年より町奉行、年寄衆等供奉等を始められ、騎馬等すべて美麗となれり」と最高潮のころの様子を伝えている。別当尊寿院の輦(てぐるま)(神輿)は東照宮神輿とこれに続く山王権現、日光権現の神輿の次に位置していた。その後、元文4年(1739)の倹約令で半減された。(註7)
文化12年の二百回忌のとき、名古屋東照宮では4月16日から18日まで祭礼が催される予定であったが、激しい雨が続いたため延期され19日に実施された。そして20日に後半の仏事が行われた。
この年の主な行事は次のようであった。(註8)
4月15日法華経第六読経、神輿三基渡御
4月16日法華八講、舞楽、法華八講講座
4月19日御祭礼、法華懺法、御旅行御法要、罪人行赦の儀
4月20日胎曼陀羅供
この時の法会は、尊寿院末寺衆僧70人が集まり、内30人が役僧となっている。また、元治2年(1865)二百五十回忌法会は尊寿院末寺衆僧で行い、最も重要な尊師役は各場面で尊寿院僧正が勤めている。(註9)春日井市内からは、大光寺、日輪寺、高蔵寺、妙見寺から参加している。
また、神忌は全国的慶事ということで罪を犯した者に特赦が与えられた。これが罪人行赦の儀で尊寿院別当が町方吟味役・検使役・目付等の列席する桜門前で大赦の慈命を伝えた。二百回忌では115人が赦免となっている。(註10)
5おわりに
江戸幕府は天海を始めとする天台宗を重視していたので、尾張天台宗で中世から寺格が高い密蔵院住職が東照宮別当を兼ねることになり、中央でも重要な役割を果たしていたことがわかった。しかし、神仏分離が行われた明治時代以降は、東照宮との関係はなくなったが、関係する文化財や文書は引き継がれ(註11)当時をたどることができた。江戸時代の密蔵院については今まで中世ほど注目されなかったが、多くの興味深い課題があるように思えてならない。こうした契機をつくって下さった密蔵院住職の山田圓鳳氏に心から感謝する次第である。
註
- 東照宮祠官某雑記鶴舞中央図書館蔵
- 春日井市史資料編(1963)102~104頁
- 土岐市史2(1971)659頁
- 丹羽健蔵「近世交通運輸史の研究」(1996)472頁
- 日光叢書社家御番所日記16巻(1976)740頁~748頁
この日増院は密蔵院でなく、「日光の日増院」と考えられる。 - 名古屋叢書3編14「金明録」(1986)321頁
- 田中善一「名古屋東照宮」社道史研究12―6(1963)74頁
- 東照宮二百回御神忌関係書付(1818)密蔵院蔵
- 東照宮二百五十回忌神忌祭礼行列鶴舞中央図書館蔵
- 東照宮二百回忌御神忌御詫帳鶴舞中央図書館蔵
- 徳川美術館での「名古屋のまつり」展(平成9年7月12日~8月31日)では、密蔵院から名古屋東照宮本地仏「薬師如来像」等8点が出品された。
郷土の自然
庄内川の礫
竹谷雅彦 松山小学校教諭
庄内川は岐阜県恵那市の山中に源流を発し、瑞浪市、土岐市、多治見市を土岐川として流れ春日井市へと入って来ます。愛知県では庄内川と呼ばれ、春日井市と瀬戸市の境を経て、さらに名古屋市の北、西側を通って伊勢湾へと流れ込む全長約80kmの中規模の河川です。土岐市~多治見市間と古虎渓、定光寺付近では、古生層の岩盤を侵食し美しい地形をつくっています。
また、高蔵寺付近からは川幅も広がり、所々に大きな河原が形成されています。河原では上流から運ばれてきた堆積岩、火成岩、変成岩など幾種類もの礫を観察でき、庄内川流域の地層・岩石を学習する格好の場となっています。
庄内川に見られる礫の概要
〈第3紀層からの礫〉
岐阜県東濃地方から愛知県にかけて広く分布している瀬戸層群と呼ばれる砂礫層中に含まれている礫が、そのまま庄内川へ流れて来ます。庄内川の礫の大半がこの礫で、礫種はチャートが主です。このチャートは古生層中のものに比べ、赤・緑・茶など色鮮やかなのが特徴です。他には幾種類かの火成岩(花崗斑岩・石英斑岩、流紋岩・石英安山岩・安山岩など)、希に碧玉(ジャスパー)・メノウ・珪化木などを見ることができます。
〈古生層からの礫〉
土岐市、多治見市や古虎渓、定光寺付近では古生層という硬い岩盤をつくっており、それらが砕かれ礫になり流れてきます。岩石の種類は砂岩・頁岩・チャートなどの堆積岩ですが、圧力や、火成岩の接触・貫入によって多少の変成・変質を受けています。そのため、変成鉱物である菫青石(きんせいせき)や珪線石、黒雲母などが見られるものや、ホルンフェルスと呼ばれるモザイク状に石英が再結晶したものなど、変成岩と呼べる岩石も見ることができます。これらの礫は前者に比べ供給源が比較的近いことと硬質であるため、やや角張っているのが特徴です。また、庄内川で礫岩と呼ばれる岩石も古生層中に存在するものです。
〈火成岩類の礫〉
花崗岩は、東濃地方から愛知県にかけて広く分布しているため、それが礫となって流れて来ます。花崗岩は春日井市にも局地的に見られます。また、花崗斑岩や石英斑岩は濃飛流紋岩類と呼ばれ、岐阜県の飛騨地方から東濃地方にかけて広く分布しており、そこから流れて来ます。さらに先に述べた古生層への貫入岩体として、花崗岩と、閃緑岩が所々に見られ、それらが砕かれ礫となって流れて来ます。
主な礫の紹介
〈チャート写真1〉
庄内川に見られる礫のうち約8~9割がチャートと呼ばれる珪質の非常に硬い堆積岩です。そこに含まれる放散虫化石から、今から約2億5千万年前の古生代の海底での堆積物であることがわかります。
色は、赤・緑・茶・黒など、様々な色がありますが、それらは堆積環境の酸化の度合いによって鉄化合物が異なり、色合いが変わってくると考えられています。成分は主に二酸化ケイ素です。
〈頁岩写真3〉
古生層中に見られる岩石で黒くて硬く、やや変成を受けています。写真の頁岩の下部のものは、変成鉱物の菫青石の粒が肉眼で見られます。顕微鏡で見ると、珪線石や黒雲母なども確認できるものもあります。
〈礫岩写真4〉
庄内川で見られる礫岩は古生層中のもので基質は頁岩の場合が多く、礫も基質とほぼ同時に生成されたものと考えられます。
〈花崗岩写真5〉
花崗岩は火成岩の深成岩で、石英・長石・雲母の鉱物が大きく結晶したものです。庄内川流域では、恵那、瑞浪、土岐、瀬戸に多く見られます。花崗岩は風化しやすくもろいため、砕かれやすく、礫の数としては比較的少ないようです。石英は変質しにくいため砕かれて砂の成分となります。
〈閃緑岩写真6〉
閃緑岩は花崗岩と同じなかまの岩石です。定光寺あたりの古生層を貫く閃緑岩の岩脈が所々に見られます。花崗岩との違いは、細長い角閃石の結晶が見られることです。内津付近の採石場でもこの岩脈を見ることができます。
〈花崗斑岩・石英斑岩写真7・8〉
これらは、濃飛流紋岩類といわれる飛騨地方から東濃地方にかけて広く分布している今から約1億年前にできた岩石です。両者は斑晶の大きさで区別します。花崗岩に比べ岩質が緻密で硬く風化されにくいため、春日井市の河原でも比較的多くの礫を見ることができます。
〈軟珪石写真10〉
古生層が花崗岩の貫入によって接触変成を受け、ホルンフェルス化(石英などが再結晶しモザイク状になること)したものです。高蔵寺付近では耐火レンガの原料として採掘されていました。高座山ではこの作用によってできた小さな水晶を見ることができます。
〈珪化木写真11〉
珪化木は木の化石で、上流の瑞浪地方の第3紀層中に見られます。川を流れる過程で硬い部分だけが残ったものです。また、瀬戸層群の砂礫層中にも礫として含まれており、これも庄内川に流れて来ます。
〈碧玉写真13〉
庄内川の碧玉を土岐石と呼び、全国の愛石家の間では特に珍重がられています。色は字のごとく深緑や青緑が多いのですが、紅・赤・橙・黄・茶・焦茶(飴)などの色があり、いずれも色鮮やかで緻密で硬いのが特徴です。成分は質の悪いタンパク石で、色の違いは酸化度の違う鉄鉱物のためです。成因として火山性のものと、化石(珪化木)の2種類があるようです。
〈鬼板写真14〉
第3紀層の砂礫層中に板状に見られるもので、酸化鉄の沈着したものです。この成因は鉄イオンと、粘土のコロイドイオンとの反応によるもので、リーゼガング現象と呼ばれています。壷石や高師小僧、メノウの縞模様などができるメカニズムもこの現象です。
資料紹介
標本及び解説書『春日井市の岩石・鉱物』(小・中学校用)、ビデオ『Whatisチャート?』(中学校用)、いずれの春日井市理科資料作成委員会によって制作されたものがある。
伝承による尾張古代考2
ヤマトタケルとミヤスヒメ
井口泰子 本誌編集委員
「ほおっ、なかなかの美女ではないか」
ミヤス姫が(宮酢媛)酒杯を捧げて宴の席に入ってきたとき、タケル(日本武尊)は思った。彼女は、ちらとタケルと目を合わせると、かすかに微笑んだが、タケルには一瞬、辺りがぱっと輝いたように見えた。
父の大王、景行天皇から、「東の方十二カ国を平定せよ」と命じられたタケルは、途中、伊勢にいる叔母のヤマト姫(倭姫)に出征の挨拶をした後、尾張まで来たのであったが、副将のタケイナダネ(建稲種)から、
「尾張の氷上邑(ひかみむら)は私の故郷です。ぜひお立ち寄りいただきたい。妹のミヤス姫もおりますから」
と誘われたときは正直いってあまり気が乗らなかった。というのは、ミヤス姫はかなりの年増らしいということであったし、利発といえば聞こえはいいが、しっかり者とも聞いていたから、たおやめ好みのタケルとしては食指が動かなかったのである。
しかし、大和朝廷にとって、東国征伐は、是が非でもやり遂げねばならぬ大事業であったし、それにはどうしても尾張勢力の援助が必要であった。尾張氏は、その先祖に孝昭后、崇神妃を出してきた名族で、イナダネの父、ヲトヨ(乎止与)の代からクニノミヤツコ(国造)としてこの地を支配している豪族なのである。助力の大きさが期待できるものであった。タケルとしては、
「イナダネの妹を娶って尾張氏を引き込むか」
という腹づもりがあったし、イナダネが妹を大和の皇子タケルに差し出すことで尾張氏が大和朝廷に深く食い込もうという下心でいるということも分かっていた。その上で、まあ、しぶしぶ姫と会うことにしたのであったが。
それが、思っていたよりずっと美しかった。初々しさにはいくらか欠けるものの、利発さがきらきら光って見えた。宴の席でのタケルの歌に、さりげなく、しかし打てば響くように返してくる歌も見事であったし、肩になびかせた薄絹の頒布の下に透ける肌の輝きがまぶしかった。「いや、なんとたおやかな……。都にもこれほどの姫はいまいものを」
と、タケルは参ってしまったのであった。
タケルは快く酔い、この館にしばらく逗留した。その間に、尾張の総力を挙げ東国遠征の軍備、船団が調えられ、イナダネとの2軍編成で出発したのであった。イナダネは山つ道(後の東山道)から、タケルは海つ道(後の東海道)から東国をめざしたのであった。
それから2年余。東国平定は終わった。今度の平定ではタケルは、前の熊襲(くまそ)征伐の時とは比較にならない辛酸を嘗めた。駿河では大和に従わぬ豪族、クニノミヤツコの奸計(註1)に陥ち、危うく焼き殺されるところを、ヤマト姫から預かった草薙の剣で死地を脱した。走り水の海では、オトタチバナ姫(弟橘媛)を海神のいけにえにしなければならなかった。これら各地の激しい抵抗を乗り越えて、平定し、帰途はタケルが山つ道を、イナダネが海つ道をとり、いよいよ明日はミヤス姫の待つ尾張へ凱旋、となった内津峠で、イナダネの遭難という悲報を受けとったのであった。イナダネは駿河の海を渡る途中、美しい鳥を見つけ、それをタケルへのみやげにしようと追いかけている間に高波が起こって海中に沈んだというのである。
タケルの傷心。それにまさる、クニノミヤツコを失ったミヤス姫はじめ尾張一族の悲しみと困惑。しかし、気丈なミヤス姫は、この一族の危機を自らが一族の長の座につくことで乗り越えようと、タケルの力強い援助を支えに尾張経営に乗り出す。
タケルは、しかし、いずれは大和の大王の元に帰らねばならない身。尾張が一応の落ちつきをみせると、たまたま伊吹山の荒ぶる神の征伐を訴えられたのを機に、帰還の途につくことにした。
別れを惜しむ姫に、タケルは、
「この剣を私と思って床の辺の守りとされよ」と、草薙の剣を姫の元に置いたのであった。もう一人の副将、オオトモノタケヒ(大伴建日)が、
「霊剣をおん身から離してはなりません」と激しく諫めるめるのも聞かずに。
が、都への帰還のついでに征伐するはずであった伊吹山の神に、タケルは逆に散々に痛めつけられ、それが因で重病の身となり、ついに途上、三重県亀山の能褒野で息絶えてしまう。瀕死の体で、タケルはミヤス姫を恋い慕う歌を歌い続ける。
“尾張に直(ただ)に向へる一つ松……”
“をとめの床の辺に我が置きしその剣はや……”
一つ松や剣に託したミヤス姫への思慕……。
一方、兄と夫を相次いで亡くしたミヤス姫は、この時から持ち前の稟質(註2)を発揮する。ミヤス姫のもとで尾張は拡張し、さらに揺るぎない力を蓄えた。
このころ、ミヤス姫は、兄と夫の思い出の地、内津にタケイナダネとヤマトタケルを祀る内々神社を創祠し、(後には自身も祀られるが)、東谷山(尾張山ともいい、当国、即ち尾張をさす)の山頂に父祖を祀る尾張戸神社を創建した。
もっとも、その以前に、タケイナダネやミヤス姫の父、ヲトヨは、その地方豪族の娘マシキトベ(真敷刀俾)を妻とし、タケイナダネも丹羽郡の豪族、オホアラタの娘、タマ姫(玉姫)を妻にして、婚姻によっても着々尾張の地歩を固めていたから(古代においては地方神に仕える巫女との通婚は、服属あるいは合併を意味するものであった)、ヲトヨ、イナダネ、ミヤス姫の3代にして、尾張氏は大きく版図を広げることができたのであった。
内々神社や尾張戸神社は、ミヤス姫によって広がった、このころ尾張氏の版図を示すものであろうか。ミヤス姫が尾張戸神社に祀った父祖は、兄のタケイナダネノミコト、父のヲトヨノミコト、そして尾張氏の祖と仰がれるアマノカゴヤマノミコト(天香語山命)、その父、アマノホノアカリノミコト(天火明命)、母、アマノミチヒメノミコト(天道日女命)の5柱である。(系図参照)
ちなみに、ミヤス姫は、「宮主姫」とも書くことができ、文字通り尾張の宮の主であった。彼女は、タケルの言葉を守って、草薙の剣を床の辺の守りとし、生涯独り身を通したと伝えられる。
こうしてミヤス姫は兄の子の成長を待った。イナダネとタマ姫の間には2男4女があったが、ミヤス姫は、尾張を、その一人シリツナネ(尻綱根)に譲ったある日のこと、親族を集めて相談した。
「私も年を取りました。余命いくばくもなく、この先、タケル様からお預かりした剣を守っていく力もありません。ここに一社を建てて剣を安置し、我が一族の守りとしてはいかがでしょう」
即座に一同は同意し熱田に社を建てたのであった。後の熱田神宮の始まりである。
その後、ミヤス姫は故郷の氷上邑に帰り、そこで余生を送った。姫死して後、タケルの御子、仲哀天皇4年、姫の館跡にミヤス姫を祭神とする社が創建された。「氷上姉子神社」である。姉子というのは、刀自とか、今でいえば女史といったところ。タケルが甲斐の酒折(さかお)りの宮で姫を偲んで詠んだ歌(うた)
“あゆち潟火上姉子は我れ来むと床去るらむやあはれ姉子を”に依るとも。
ミヤス姫の墓所は、姫が守り通した草薙の剣を祭る熱田神宮の近く、神宮公園内の断夫山古墳との伝承がある。すぐ近く白鳥町には三重県、能褒野で薨(こう)じたタケルの魂が白鳥となってミヤス姫のいる熱田に飛んできたと伝えられる白鳥御陵古墳があり、姫はこの傍らに鎮もっている。
その後(系図参照)、ミヤス姫の後継者、シリツナネは、妹の1人をタケルの弟、イホキイリビコ(五百城入彦)の妃とし、2人の間に生まれたホムタノマワカ(品陀真若)の妃に、もう1人の妹を入れた。更に、この間に生まれた3人の姫は3人とも応神天皇の妃となり、中の姫が仁徳天皇の生母になった。これらの縁の故に、シリツナネは、「尾張の国(くにの)造(みやつこ)」から応神朝には「尾張の連(むらじ)」となり、応神、仁徳朝の重鎮となったのであった。その子、つまりタケイナダネの孫、3人はムラジとして仁徳朝の大臣となり、更にその子孫は、履仲朝、允恭朝の寵臣、というように代々ムラジとして栄え、後年、平安朝末期には源頼朝の誕生をみるに至る(後項で述べる)。
タケイナダネからミヤス姫、次のシリツナネの時代、尾張氏勢力は、大高、鳴海、熱田から拡大し、東谷山から庄内川を挟んだ、今の高蔵寺町一帯、内津、犬山へと広がっていた。東谷山を中心とする古墳群にはそれを物語るものが多い。前記の尾張戸神社はその現れであろうし、高蔵寺町には五社明神があり、かつて熱田神宮の奥の院ともいわれた高倉明神(アマノカゴヤマ)やヤマトタケルを祀っている。その近く玉野町の五社神社もヤマトタケル、ミヤス姫、タケイナダネを祭祀し、東谷山麓の白鳥塚古墳はタケルの白鳥伝説を残し、すぐ近くの勝手神社もタケルを祀る。尾張戸神社の中社はヲトヨの墓という伝承があり、松川橋を渡った守山区の川嶋神社の祭神もヲトヨノミコトである。大留町の神明社の摂社、中務卿宗良親王社の神官はヲトヨの末裔とも。またイナダネの妻は、丹羽の大県主である大荒田(大県神社)の娘の玉姫(大県姫の宮と田県神社)であった。またシリツナネの子、つまりタケイナダネの孫、ハリナネ(針名根)は犬山城のすぐ近く針綱神社の祭神である。
これらの伝承から尾張氏の当時の版図に想像の翼を広げることは容易である。
参考文献(伝承による尾張古代考1<49号>と2
古事記日本書紀(岩波古典文学体系)
先代旧事本紀(吉川弘文館国史大系)
張州雑志(愛知県郷土資料刊行会)
神統記上下、熱田神宮縁紀尾張国熱田太神縁記、熱田太神宮御鎮座次第本紀、尾張名所図会など
守山区の歴史(愛知県郷土資料刊行会)
神社辞典(東京堂出版)
愛知県史(愛知県吉川弘文館)
愛知の地名(平凡社日本歴史地名大系)
尾張地名考(愛知県海部郡教育会)
東春日井郡誌(東春日井郡役所)
日本地誌第12巻愛知県岐阜県(日本地誌研究所)
春日井市史(春日井市)
春日井の神社、春日井の地名、春日井の歴史物語、春日井風土記、春日井の昔話(春日井郷土史研究会)
高蔵寺町誌(愛知県東春日井郡高蔵寺町)
天翔る白鳥ヤマトタケル(小椋一葉河出書房新社)
ヤマトタケル(森浩一・門脇禎二編大巧社)
註
- わるだくみ、はかりごと
- 天からうけた生まれつきの資質
郷土散策
白山信仰20
村中治彦 本誌編集委員
和爾良神社狛犬の事
平成8年12月4日、上条町の和爾良神社(旧白山神社)氏子副会長安藤鉄爾氏と郷土史研究会副会長石川石太呂氏のご案内により、同神社収蔵の陶製狛犬2対を拝観する機会を得た。
当日は、県陶磁資料館の仲野泰裕主任学芸員に鑑定を依頼し、市文化振興課(当時)高橋課長補佐が立ち会った。
1対は炻器に似た硬く焼きしまる粘土に長石釉のかかった狛犬である。阿形の高さは約27cmで両前足と両耳を欠く。吽形の高さは約32cmで、左前足と両耳を欠く。
銘文は阿形の背面に、「瀬戸西渓加藤小兵衛作」、吽形の背面に「文政五年壬午(1822)五月吉日奉献伊藤氏安藤氏」の墨書がある。
作行は、吽形に角があり、眉と目と鼻の間隔が狭くて眼光鋭い感じがする。両耳を欠くため、面相のイメージが的確には浮かばないが、阿・吽の口の形もはっきりしており、衿毛もみられて正統派の作風を感じさせる上作である。
胴体は中空になっているが、底はつまっている。足まわりは前足と後足とを底部で結合させていたようだ。尾の前半部は背に付着している。阿・吽共に体躯を内側に少しひねって、互いに向き合う形になっている。
現在の瀬戸市窯神町の西隣に西谷町があるが、銘文の西渓がこれに当たるか否かは不明である。
加藤小兵衛なる陶工についても他に資料が発掘されていないようで、定かではない。
他の1対はソフトな感じの焼き上がりで、白釉のかかった狛犬である。高さは阿形42cm、吽形43cmである。銘文は阿・吽共に、「春位作」の釘彫りと「古陶洞」の刻印(長さ13ミリ、幅6ミリ)がある。
「原色陶器大辞典」(加藤唐九郎編)によると、春位は赤津窯の陶工山口佐十の号で、天保から明治年間にかけて製作活動をしたという。
作行は家犬をモデルにしたような、面相と体躯をしており、角はない。阿・吽共に胴の部分を巻き上げ手法で円筒状に作り、その上に頭部を置いている。足まわりは前足と後足とを底部で結合させ、尾は全体が背に付着している。
春位作の同類の作品は、本多静雄著「陶磁のこま犬」に同氏のコレクションとして1対が紹介されている。また、下呂温泉合掌村狛犬博物館にも1対が展示されている。
いずれの作品にも、「春位作古陶洞」の銘があり、幕末の頃注文を受けて、何対かの同類の狛犬が製作されたものと考えられる。
本誌第47号で紹介した、内々神社奥之院狛犬阿形の両耳が欠損しており、今回も1対の両耳が欠損している。他にもこのような例がいくつか知られている。
この謎解きについて、次のような言い伝えがある。
江戸後期から明治時代にかけて賭博に勝つまじないとして、狛犬から欠き取った耳を持って賭場に出掛ける風習があったという。
発行元
平成10年3月15日発行
発行所春日井市教育委員会文化財課
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