郷土誌かすがい 第53号

ページID 1004437 更新日 平成29年12月7日

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平成10年9月15日発行第53号ホームページ版

木造聖観世音菩薩坐像

市指定文化財平成7年2月10日指定

木造聖観世音菩薩坐像

鳥居松町慈眼寺

慈眼寺(黄檗宗)の聖観世音菩薩坐像は、素朴な密教系の仏像です。高さは62.5センチメートル、ふっくらとした顔、二重顎、厚い上唇など、顔の形やからだ全体のボリュームから見ると平安中期か、あるいはそれよりも古い時代のものと考えられます。
材質は桧材、一木造りで背刳(内刳)はありません。上帛(帯状の布)と幅広の天衣(細長い薄い衣)をまとい、右足を上にして結跏趺坐(座禅の形)し、左手で蓮華(未開)を持ち、右手をつぼみに添えています。髪は頭の上で束ね、彫り出しの宝冠をつけています。顔立ちは丸く温和で、小ぶりな鼻、切れ長の伏し目が特徴です。
背と像底には「弘法大師作松寿什物現住単伝求焉」と墨書きがあります。単伝(1728年没)は、慈眼寺の開祖越伝の弟子であることから、江戸中期に何か理由があって、寺に移され客仏になったと思われます。なお、作者は不明です。

市教育委員会事務局

郷土探訪

春日井を通る街道14 西へ向かう参詣者でにぎわう下街道

櫻井芳昭 春日井郷土史研究会会員

1はじめに
下街道の道標のうち西方の行き先を示す地名は、伊勢、津島、名古屋である。信州方面からは、中山道大井宿西の追分から下街道へ入るのが、伊勢への近道なので、伊勢道とも呼ばれていた。
追分には、寛延2年(1749)建立の道標を兼ねた常夜灯が下街道の両側にあり、一方に「左いせ道」、もう一方に「右京海道」と刻まれている。また、伊勢太神宮奉納の札所や太神宮遥拝所もあった。(註1)
五穀豊じょうを願う村々の代表が伊勢神宮へ向かうのは、毎年春に集中していた。時折抜け参りや数十年に1回は大規模なお蔭参りの集団が押し寄せることがあった。
津島神社へは厄病よけを祈願して、天王祭のある6月中旬に参り、秋葉山へは火伏せを願って4月に代参する村が多かった。
この3か所への参詣は、村や島を代表する人が、村人の見送りを受けて出発した。そして、お礼をまとめて受けて帰り、各戸へ配布する役目を負っており、責任が大きかった。これらの参詣を中心として、春日井の村々の状況を探ってみたい。

2西行する社寺参詣の人々
(1)伊勢講
伊勢神宮への代参者は、村の代表者として豊作を祈願する重要な任務を担っている。従って、旅費は村全戸の共同費用から出される。米を集めて、それを売ったお金をあてる所もあった。
東野には島毎に伊勢講があり、年に3回持ち回りの宿で、太神宮を祀って酒食を振る舞っていた。毎年春、くじで選ばれた島から1名を代参に派遣していた。秋葉講と同時に出発し、まず産土(うぶすな)神社で道中の安全を祈ってから、島の人々が村境まで見送った。帰着を「ゲコ(下向)」といい、村の入り口である鳥居松まで鈴を付けた馬を引いて迎えに出たことがあった。
辻へ迎えに出ている子供には、代表者の家でつくったオカズや菓子が配られた。氏神様にお礼参りをし、翌日、伊勢神宮のお札を各所へ配布した。(註2)各家ではこれを神棚に祀った。
下市場では、戦前まで代参を立て、無事帰着すると酒食を供して、伊勢山で労をねぎらった。(註3)内宮、外宮と朝熊山まで巡ると6日間かかっている。(註4)
こうした状況は明治時代には一般的であったが、大正に入って次第に減り、戦前までで、ほとんど消えてしまった。現在は個人参拝が中心となっている。また、お札は地元の神社を通しても配布されている。
信州や美濃でも伊勢講による代参は盛んで、下街道を伊勢へ向かう人々が多かった。信州の各村では、講銭といって伊勢参りの路銀を積み立てて、代参者をくじや持ち回りで決め、農閑期に出発することが多かった。中には、2年参りといって、年末年始にわたって参拝するところもあった。(註5)

(2)津島詣
疫病(赤痢・腸チフス・コレラ等の流行病)よけの神様として有名な牛頭(ごず)天王を祀る津島神社へは、6月15日の祭礼に各村から代参が出された。
天王社として最も古いのは、平安初期からの京都祇園社(現八坂神社)で、東国では室町時代末期からの津島天王社が代表的である。
市内の村では、祭礼の日にお礼を受けて帰り、天王祭を行うのが通例であった。むかしは、疫病の原因も治療法もわからなかったので、これを鎮めるため神仏に祈ることがとても重視された。

下市場の道標

津島への道は、下街道へ出て勝川宿の南から西へ曲がり、味鋺から庄内川沿いに大野木、小田井を経て萱津から津島街道に入り、勝幡を通って津島へ行くのが一般的であった。この経路を示す市内の道標は、下市場の神明大明神社に残る「これより右ハつしまみち、左ハなごやみち」と刻まれたものが唯一である。津島への経路は、市街道経由と、下街道へ出て勝川から西へ折れる場合の二通りが考えられる。なお、明治初期の勝川宿付近の図に「津島みち」の記述が見られる。(註6)
受けたお札は、村境に縄を張って真ん中に下げたり(神屋・坂下)、隣の字の境の道路脇に青竹の先に付けて立てたり(春日井原新田)、各家へ配られた札を青竹に挟んで、自分の田へ行ってこれをかざして回ったり(如意申新田)して疫病の侵入を防ぐようにした。
祭の期日や内容は村によりいろいろで、子供獅子やおまんとを出すところ、提灯山を併せて行うところ、山車・輿・飾馬を出すところ、辻天王へ祀るところ等がある。
味美では、年行事が代参でお札を受けて帰ると、旧7島では、お天王様のご神体を入れ替えて神楽を奉納した。総天王祭は旧暦6月16日に白山神社で行われ、広場の提灯山の7本の綱に各島20個の提灯をつるし、一斉に点灯して夜祭が始められ参拝者でにぎわった。(註7)
稲口新田では、津島社やお天王様で、青年会が「七夜ごもり」を10月末に行うことが、戦前まで続いていた。
中切では、通称「やれぼし」といい、伝染病がはやらないよう祈って、疫病神送りを毎年旧暦6月14日に行った。大人が馬に乗った人形と別当を竹とわらで作り、夕方、子供たちが、「やれぼし神、おっくりよう」と大声で唱えながら村中を回った。各家ではこれに併せて部屋のござをたたいて、疫病ばらいをした。人形は最後に庄内川の堤防に捨て、決して振り返らないようにして帰った。(註8)
玉野では、旧6月16日、山車を飾り、恵比寿・大黒天のからくり人形を囃子に合わせて数カ所で山車を止めて操った。(註9)
坂下では、旧6月16日に祇園祭といって、子供たちが親につき添われて赤提灯を持って各島の辻天王様に参った。お天王様は西側に竹を立てて縄を張り、子供の持参した提灯をぶら下げて提灯の山をつくった。
このように地区毎で様々な形態があるのは、天王祭・祇園祭・提灯山の各行事が組み合わされて、疫病ばらいとともに、祭による楽しみが加味されてきたからと考えられる。

(3)秋葉講
こわいものは、「地震、雷、火事、おやじ」といわれる。このうち神仏に平穏を祈るのは火事が一番である。火事は予期せぬちょっとしたきっかけで燃え広がり、一瞬のうちに家財を灰にしてしまうためとても恐れた。
火伏せを祀る秋葉様は、村ぐるみで信仰する地域が現在でも多い。村の中心や寺社の門前にある灯籠に当番が毎夜火入れをして、火を大切に扱っていた。

春日井の秋葉講

春日井の秋葉講は、第1図のように上条大竜院の永寿講、西春町の尾州秋栄講、名古屋大野木の福昌寺大寿講の流れに入る行者寺(宮町)と林昌院(田楽町)の4つと太郎坊宮秋葉神社(細野町)、小牧の福厳寺の大草秋葉総本殿が主なものである。
永寿講は嘉永6年(1853)に林金兵衛兵、堀尾茂助の主唱で、秋葉三尺坊大権現のご分霊を修験道の道場であった大竜院に迎えて結成された。当時の廻り秋葉の廻村地域は、48カ村(現春日井市、名古屋市守山区)と広域となっている。(註10)神仏分離後は真言宗醍醐派に属し、毎年12月に火祭を行っている。平成8年春の廻村は74か所のうち45が春日井市域である。各町内では区長や町内会長が唐櫃を迎えて寺院、公民館等を宿として、1泊させて次へ廻している。関田の場合は区長さんの世話で林昌寺へ安置し、夕方から住職と御嶽講の先達4人でおつとめした。町内の人たちは三々五々お参りしてお札を受けていかれた。
秋栄講は明治17年(1884)、再興された曹洞宗の秋葉寺を信仰対象として、村瀬政右衛門が始め、西春町犬井の秋葉堂で火祭が行われる。巡回は西春日井郡、名古屋市北区、丹羽郡、一宮市、小牧市と広域で、春日井市は西部の味美白山町など5町が加わっている。(註11)
小牧市大草、福厳寺秋葉様の火祭には、春日井市の東部、北部からの参拝者も多い。ここの講は大正5年(1916)の結成で秋葉三尺坊大士が祀られている。(註12)
大寿講は戦前には福昌寺から秋葉様が廻村されていたが、日数がかかりすぎるということで現在は、行者寺と林昌院からそれぞれ出発している。
林昌院の本尊三尺坊大権現(註13)は、名古屋城乾櫓に奉安されていたものを第3世慧海(けいかい)法印が拝領して安置したものである。昭和16年からの廻り秋葉の時は、林昌院の住職がホラ貝を吹いてご分霊を納めた長持の道行きに加わっている。勧進元は旧鷹来村と小牧市下末地区である。
行者寺は天明6年(1786)から三尺坊大権現が祀られている。この他に、廻村用の秋葉三尺坊が安置されており、春・秋2回廻村されている。(註14)4月には本山への団参がバスで行われる。
江戸時代の春日井市域の42村のうち、昭和57年頃には、18村が秋葉講を続けており、代参を毎年立てる所、廻り秋葉様によっている所、郷内の秋葉神社で火祭を行っている所、酒などのお供えをして五目飯で会食する所等さまざまであった。
松河戸の場合は、(註15)寺年行司の島代表が米を集め、旧11月の命日(現在は12月16日)に、観音寺で秋葉三尺坊を祀り、住職の読経があり、会食後代参のくじが引かれる。引きあてた人は、翌年春苗代の前に、代表がお札を迎えて各戸に配っている。
東野では、(註16)永寿講に属し、島毎に組織があった。正月・5月・9月の3回、米を集めて旅費とした。代参は島1名で、正月のお日待ちにくじ引きで決めた。
出発は1、2月の農閑期で、伊勢講の代参と同日に出て、帰りは名古屋大須で落ち合い、いっしょに帰ってくることが多かったという。
大手では、(註17)クジで選ばれた2、3人が代参に遠州の秋葉様へ出かけてお札を受けてきた。帰村したとき、ヤドの家を決め、床の間に秋葉様の掛軸をかけて代参者の慰労を兼ねてお日待ちをした。各家では秋葉様のお札をくどのところに貼った。
廻村秋葉様はどの講でも村境まで迎えに出て、宿となる家や寺社で一晩おこもりをし、翌日、次の村境まで送るのが慣例であった。これを担当するのは、青年会が中心であったが、現在では町内会長、区長、年行司等が世話をしているところが多い。
江戸時代の春日井から秋葉山への行程は、下街道を名古屋城下まで行き、岡崎街道へ出て平針を経て東海道へ入り、御油宿から秋葉街道を豊川、新城と進み、大野から巣山・熊を経て石打から秋葉山へ参拝し、帰路は二俣へ出て姫街道から帰るなど様々であったが、6~7日間程の旅であった。

秋葉山道中記(江戸時代)経路図

明治初期の神仏分離令と修験道の廃止後は、新設された秋葉神社、再興された秋葉寺、秋葉三尺坊大権現が移された袋井の可睡斎の3か所に各地からの参詣が開始された。
秋葉講の参詣は、各地域の伝統を尊重して行われており、大寿講の代参では1泊2日で、秋葉神社、可睡斎、奥之院半僧坊の3か所を参詣し、お札を受けて各戸へ配布している。
勝川には3系統の火伏せ祈願をする所があり、秋葉三尺坊大権現、半僧坊大権現(静岡県引佐郡引佐町・方広寺)、愛宕神社の火具都知(かぐつち)命(京都市右京区・愛宕神社)である。
現在では秋葉山は遠州へ代参し、半僧坊は八事半僧坊新福寺から受けたお札を祀って奉賛会主催の半僧坊祭が太清寺・地蔵寺の住職を迎えて毎年7月に行われている。愛宕神社奉賛会は昭和46年に地元有志で結成され、代参を立てたり、おこもりをしていた。最近は3年毎に京都本社へ希望者で参詣している。
細野の太郎坊宮秋葉神社は、明治18年(1885)大峯山の修験道の流れを汲む全浄(ぜんじょう)行者によって開かれた。太郎坊は京都の愛宕神社に祀られている西日本で信仰が厚い火難除けの祭神であり、細野との関係が深いと考えられる。
神事は4月の大祭と12月の火渡りが中心で、近隣はもとより名古屋、海部、豊田等からの参詣者でにぎわう。
防火を祈願することの大切さを感じている人は現在でも多く、バスでの参詣に気軽に参加したり、お札を注文に応じて郵送で取り寄せて配布したりするなど時代の変化に対応した方法で無理なく継続している地域が多い。

3おわりに
文政元年(1818)の玉野村「下用書上帳」には(註18)
一、銭五百文津島札銭
一、同五百文伊勢札銭
一、同三拾文秋葉山とふ明銭
と記録されており、これら3つについては村入用でお札代や灯明代がまかなわれていたことがわかる。しかし、最近では代参形式は次第に減り、個人参詣や団体参詣、地元の神社を通してお札を取り寄せる等多様化している。
伊勢、津島、秋葉への参詣は、豊作、疫病よけ、火防のそれぞれを祈願する所として人々の心の奥にある願いに対応する習俗としてこれからも続いていくと考えられる。
(初載は『尾張の街道と村』櫻井芳昭1997)

  1. 木曾路名所図会文化2(1805)
  2. 東野誌(1982)130頁
  3. 春日井市史地区誌編2(1985)144頁
  4. 伊藤勲「天明の紀行文について」(1990)16頁
  5. 長野県史民俗編(1991)593頁
  6. 庶民の道・下街道(1976)
  7. 春日井市史地区誌編3(1986)301頁
  8. 春日井市史地区誌編2(1985)392頁
  9. 春日井市史地区誌編3(1986)255頁
  10. 渡辺嘉満「秋葉様ご廻村のルーツ」郷土誌かすがい第14号(1982)7頁
  11. 西春町史民俗編2(1984)969頁
  12. 小牧市史本文編(1963)639頁
  13. 春日井市史本文編(1963)639頁
  14. 春日井の民俗(1965)74頁
  15. 春日井の民俗(1965)76頁
  16. 東野誌(1982)129
  17. 春日井市史地区誌編3(1986)109頁
  18. 春日井市史本文編(1963)270頁

落合池築造の謎 築堤の土と灌漑面積

安藤弘之

はじめに
落合池の築造については、本誌第33号に「築造年代と構造」、第51号に「下原新田の成立」を取り上げたが、疑問が多い。それは記録された文書が皆無だからである。したがって推察の域を出ないが、それも調べを進めていく過程で、変更しなければならない幾つかの問題に出会う。
例えば、築造にあたっての労力であるが、初めは親村大草(小牧市)を主体に考えたが、距離的にも遠く、既に水利権を分け与えているからとして、関わりを望まず、逆に入鹿用水の開さくで替し水として上がってきた15町歩分を東野新田に分け与えた下原村が、東野新田を属地として吸収した寛文5年(1665)以降も、灌漑用水不足のための雨池築造について、労力提供には主体となって当たったのではないか。そのことは、天和3年(1683)東野新田地域が下原村から独立し、「下原新田村」と呼ばれるようになったことからも伺える。
前号と多少重複する点もあるが、ここでは「堤防の土はどこから運ばれたか」、「灌漑面積はどれだけあったか」を考察してみたい。

堤防の土はどこから運ばれたか
昭和61年、春日井市は落合公園造成工事の一環として、下池の南西隅に公園の池水を生路川へ落とす伏込を造るために、堤防の掘さくをした。その時の断面にはっきりと、築造当時の堤防が現れた。堤防敷は22m、馬踏2m、高さ5mの台形である。

下池堤防の断面

これから推測すると西・南・東・中の堤防に要した土は、全体で、8万立メートルにもなる。この付近は洪積台地であり、小石混じりの赤味を帯びた褐色粘土であるから、良質とはいえないが、小石は選別して捨てたらしく、今も2丁目付近に「石塚」の地名が残っている。
南・西の堤防には、比較的良質のものを4つ足の「たこ」を使って突き固め、東・中の堤防には、二本木付近のものを使ったのではないかと思われる。池底の水準が、東野小学校とほぼ一致することからして、池を掘って盛ったとは思えない。ヤシキ杁からミヨ杁にかけて深みがあったのは、大正元年(1912)頃、名古屋市が八田に上水道沈殿池を築堤する際、池底を掘って運び出したためである。

水神の森

築堤当時の運搬具には、大八車とモッコがあった。大八車は、江戸初期に大八なる人が発明したとか、大(・)人八(・)人分が一度に運べたからとか諸説あるが、車輪全体が木製で、当時、普及しかけてはいたが、藩のきびしい許可制下にあり、たとえ数多く導入されたとしても、勢いモッコが中心の人海戦術で進められたのではないか。とすると、この土が遠くから運ばれたとは考えにくい。
今も残る水神の森には、当時のものではないかと思われる二股の松があったが、昭和60年ごろ、松食虫のため枯死し、伐採の時、その年輪を数えた人の話では、300はあったというし、これが二本木の地名にもなっていることからして、当時、ここに水神を祀っていたことが伺える。

灌漑面積はどれだけあったか
一番古い記録といえば、明治11年(1878)の地租改正である。下原新田村地内の水田は、64町2反5畝(63.6ha)で、その内訳は、落合池がかり40町5反3畝(40.1ha)、大池がかり13町8反9畝(13.8ha)、茨沢池がかり9町8反2畝(9.7ha)となっている。昭和46年(1971)落合池改修工事竣工記念碑によれば、受益面積120ha、これを受けた東野誌も灌漑面積120haとしている。しかしながら、東春日井郡農会史の大正元年(1912)水稲作付面積は75.3ha、無論、この中には、入鹿用水による鳥居松地域、六軒屋西部地域、東野地内の大池がかり、茨沢池がかりも入っている。
春日井市溜池台帳も、大池との比較でみると、貯水量は、50万立メートルに対し24万立メートルにもかかわらず受益面積は、双方とも120haとなっている。東野区画整理前の土地利用状況による田は64ha、これに六軒屋地区の整理前の落合池がかり63筆2.07haを加え、ここから大池がかり、茨沢池がかり23.5haを差し引けば、42.57haとなり、古老の言う面積とほぼ一致する。ちなみに、落合池の面積(ノマリ池を除く)は19.37ha、下池がその60%とすれば、11.6ha、稲の成育に必要な水は約30cm、途中のロスを考えても40cmあれば足りることになる。平均の深さ140cmとすれば、池の面積の3.5倍、すなわち40.6ha灌漑でき、これに上池の分も加えれば、上記の面積とほぼ一致する。記念碑、台帳にみる120haは、どこに根拠があるか理解に苦しむ。

おわりに
「堤防の土はどこから」については、まだ推察の余地があるが、「灌漑面積」は、ほぼ42ha前後であり、120haは田畑を併せた耕地面積に近く、灌漑面積とは到底考えられない。

参考文献
東野誌昭和57年刊
東春日井郡農会史大正4年刊
春日井市溜池台帳春日井市刊

郷土散策

春日井の下街道を歩く1 下街道から国道19号への変遷

永田宏

はじめに
「下街道」については、既に優れた図書が発行され、(註1)またこの『郷土誌かすがい』にも各方面から研究した結果が報告されている。
平成10年度、私は初めて下街道を何回かに分けて歩いてみた。先学の成果の助けを得ながら、私なりに見たり、聞いたり、調べたりした結果を報告する。
なお、下街道の性格、特徴などについては、この報告の中で出てくるので、ここでは省略する。

1下街道から国道19号への変遷
(1)明治時代
明治6年(1873)8月2日、布達として道路に関しては初めて「河港道路修築規則」が制定された。道路を1等、2等、3等と分け、東海道、中山道のような全国的に重要な幹線道路は1等道路とし、その幹線道路に接続する脇往還や枝道は2等道路、そのほか市街郡村の道路を3等道路とした。この時、下街道は2等道路に指定された。
明治9年6月8日太政官達第60号として次のように定められた。即ち、道路を国道、県道、里道の3種とし、国道の1等は東京から各開港場に達するもの、2等は東京から伊勢の皇太神宮、各府庁、各鎮台(旧陸軍の師団に当たるもの)に達するもの、3等は東京から各県庁に達するもの、及び各府庁、各鎮台を連絡するもの、とした。県道、里道もそれぞれ細かい区分があった。(註2)この時、下街道は県道1等に指定された。
明治年間は国の政策として、道路よりも鉄道の整備の方に重点が置かれた。人間と資材を、大量且つ迅速に輸送する(特に戦時)手段として、鉄道しかなかった時代であるから当然であろう。明治11年度(1878)から同44年度(1911)までの34年間の全国総道路費は3億5,617万余円、そのうち国庫負担金は僅か7%の2,561万余円に過ぎなかった。道路を利用するものとしては、江戸時代では人と牛、馬であり、荷車は幕末に漸く条件付きで認められる程度であった。明治になってからは、人力車、荷車、馬車などが急速に増加した。道路は部分的な補修はあったかも知れないが、本格的な改修は行われなかった。

(2)名古屋の下街道
大正5年2月発行の『名古屋市史政治編第3』には、下街道について次のように記載されている。(註3)
「下タ街道は京町より中市場町、石町、鍋屋町、相生町、赤塚町、大曽根町を経て北折し、東春日井郡勝川町を過ぎ、美濃国多治見町に至り、大井町より中山道に連絡する道路なりしが、明治44年12月、鍋屋町より大曽根町郡市界に至る路線を廃し、これを里道に編入し、代りに石町三丁目より長塀町三丁目に至る間は、仮定県道稲置街道を重用し、東折して山口町に至り、更に北に進み、郡市界に沿ひ、西春日井郡六郷村大曽根に至る里道を仮定県道に編入せり」
この文の前段の経路が即ち江戸時代の下街道を示すものと思われる。但し、「仮定県道」というのはどういう意味であるかは不明である。
昭和7年頃の「愛知県土木史料」(註4)(以下「土木史料」という)によれば、県道名古屋長野線として、「名古屋市廣小路通り本町角元標ヨリ起リ市電東新町停留所、清水口停留所、大曽根停留所ヲ経テ上飯田ニ至リ東春日井郡ニ入リ」とある。更に、「以前ハ、[いつごろの事かは不明]元標ヨリ愛知県庁[もとの武平町にあった頃か]前迄ハ国道拾号附属線ニシテ其レヨリ清水口ニ至ル間ハ県道稲置街道ト称シ清水口以北ハ県道下タ街道ト称シタ」とある。([]は引用者註)

下街道から国道19号など

(3)春日井の下街道
東春日井郡では、明治41年(1908)4月から大正9年(1920)迄、郡内主要路線24線を郡費補助線として整備を図った(この期間に「郡道」ができた)。大正2年頃に下街道の一部路線が変更された。即ち、大泉寺丘陵地帯の坂道を避けるために、篠木で下街道と別れ、その丘陵地帯の裾を回って出川を経て坂下の三坂で下街道と合する新道が開設された。
「土木史料」には、中央線は開通(明治33年7月)したけれども車馬による東濃方面から名古屋への陶磁器の輸送はかえって増加し、加えて篠木村、高蔵寺村で産出する亜炭は年に1千万貫以上を搬出するので車馬の交通が一層頻繁となったが、道路は狭(きょう)隘(あい)曲折が多く、郡部の幅員は2間ないし2間半である、と述べている。更に同史料によれば、勝川橋について、江戸時代庄内川の流水部分のみ板橋が架かっていたが、明治15年(1882)に庄内川堤防より松丸太を伐採し、はじめて木造土橋が架設された。その後数度の改築があったが、大正8年(1919)9月橋長160間、幅員2.5間の木造土橋が架設された。工費は45,994円であった、などとある。
大正9年4月に道路法が施行された。下街道は、県道名古屋長野線と呼ばれた。昭和10年代に勝川―坂下間に新しい道路が開設された。勝川―篠木間は、それ迄の下街道とほぼ平行して、北側に200メートル程離れて開設され、篠木―坂下間は出川と松本町とで大正2年頃に出来た道路と一部合流するが、ほぼ直線に開設された。この道路が昭和19年(1944)3月6日付けで県道名古屋長野線となり、下街道は市道2号線等となった。坂下から内津峠迄は、ゆるいS字状の下街道の真ん中に道路が抜けている箇所が幾つかあるが、これはいつ施工されたものかは未詳である。特に著しい経路の変更はなかった。この県道名古屋長野線が昭和27年(1952)の新道路法により、同年12月4日、一級国道19号に指定された。
一級国道に指定されてから、昭和29年11月10日に勝川橋が長さ300メートル、幅員7.5メートル、鋼桁、橋面コンクリートの永久橋に改築完成し、同31年6月には内津峠まで、市内全線有効幅員7.5メートル以上の道路改良工事が終了した。同29年4月5日より舗装工事が開始され、同34年に内津峠まで市内全線の舗装が完成した。
現在の勝川橋は、幅27.5メートル、長さ301.2メートルの鉄筋コンクリート橋で、工事費約50億円を要し、昭和59年度から8年間かけて平成3年度に完成した。
この後も増加する交通量に対処し、輸送の円滑化、迅速化を図るため、国道19号バイパスの計画が昭和37年調査に着手、昭和39年度に着工された。昭和43年3月に瑞穂通6丁目から国道155号の間が暫定供用を重ねて、平成6年3月に多治見市まで全線が開通した。完成とともにこれが国道19号となり、それまでの国道19号は県道内津勝川線となった(以後、本稿では旧国道19号と呼ぶ)。(註5)
なお、昭和44年に東名高速道路春日井インターチェンジが開業、平成5年3月23日に東名阪自動車道勝川インターチェンジが開業している。

  1. 『庶民の道下街道―善光寺街道―』村中治彦編春日井郷土史研究会発行(昭和51年)
  2. 『尾張の街道と村』櫻井芳昭著並びに発行(平成9年)
  3. 『道のはなしI』武部健一著技報堂発行(1994年)
  4. 『名古屋市史』政治編第3名古屋市役所発行(大正5年)
  5. 「愛知県土木史料」昭和7年頃までの愛知県内の道路・鉄道の経緯のあらましが記してある愛知県の史料―中根洋治氏のご教示による。
  6. 国道19号は、名古屋市熱田区中瀬町56番地(熱田神宮の西南角先、国道1号との交差点)を起点とし、終点は長野市大字西尾張部字若宮北で延長266.4km、うち名古屋市内は13.2km、春日井市内は18.5kmである。春日井市内では、旧国道19号とほぼ並行して数100m北西側に建設された。
    旧国道19号は、春日井市勝川町5丁目先の国道302号との交差点から、同内津町字清水先まで14.372kmが昭和59年4月1日付で、ここから内津町字南山先の国道19号につながる所まで2.245kmが平成8年4月1日付でそれぞれ県道に移管された。(中部地方建設局の資料による)

郷土散策

白山信仰21

村中治彦

松河戸白山神社の事
本誌第33号で、松河戸白山社が慶長年間の建立という徇行記の記事を紹介した。ところが、『春日井の神社』や『市史地区誌編』に、「明応三年(1494)再建の棟札がある」と記載されているので松河戸誌研究会(註1)の方々に尋ねてみた。
残念ながら、現在この棟札の所在が不明であるとのことであったが、同会によって見つけられた戦前の神社の記録に、棟札の文字が残されていたので紹介する。
「奉造立一御前上肯明應参年甲寅三月六日敬白大工山田莊上飯田藤原長久九郎兵衛檀那庵実内道範淨金徳兵衛近本弥七」
「奉再興上茜月一之王子願主敬白慶長拾壹年丙午九月十五日」
「奉再興一王子尾州東春日井郡柏井郷松河戸村敬白大工藤原弥衛門同茂左エ門社人丹羽源右エ門時ニ元和第九亥子(註2)卯月十五日本願生田藤十郎」
裏面矢野多左衛門
加藤善太郎
各々檀那
この記録から推測すると、明応・慶長・元和の古い棟札を新しく1枚の棟札の表と裏にまとめて書き直したものと考えられる。東春日井郡の文字は、棟札から転記する際に、記入者が誤って当時の郡名を書いたものであろう。
なお、慶長と元和の棟札には奉再興とあるが、明応の棟札には奉造立とあるので、あるいは白山社の創建を伝えるものとも考えられる。
この記録には「宝物古代陶器高麗狛一対」とある。この狛犬は昭和の中頃まで、本殿前の廊下に安置されていたという。
これまでに度々本誌上で紹介したように、市内の神社に奉納された陶製の狛犬は江戸後期から末期のものであった。この狛犬も同様のものと推測される。
また、当社には朱塗りの厨子に納められた、菊理姫命の木造彩色立像が祀られている。研究会の方々が宮司さんに聞いたところによれば、厨子の底には、「寛政四年鎮座子四月朔日社僧昌福現住禅應代造立」と墨書されており、社僧の昌福寺住職禅応師の時に造立鎮座されたことがわかる。
御神像は背丈20センチメートルほどの女神立像で、両手の掌を胸前で重ねた上に皿があり、その上にとぐろを巻き首を持ち上げた形の龍をいただく姿のようである。加賀白山比咩神社宮蔵の軸に描かれた白山大権現御神像によく似ているという。
白山開山の泰澄大師が養老元年(717)にはじめて白山に登り転法輪窟において27日間の祈念加持を勤めたところ、足下の翠ケ池から巨大な龍が現れたという。
龍の姿が消えると白衣綾羅(りょうら)の唐女(註3)のような女神が現れたので拝んでいると、十一面観世音菩薩のお姿になったと伝えられている。
当社の御神像は、この伝説に由来するものと考えられ、白山神に対する寄進者の崇敬の厚さを物語るものといえよう。

  1. 近年松河戸地区の急激な変貌に備え、地域の歴史や自然について、資料収集・写真撮影・調査研究を目的とした有志の会。
  2. 癸亥(みずのとい)の誤りか。
  3. 『白山縁起』(719~1163)の間の白山古伝説を記したもの)には、「本宮御位正一位本地十一面観音垂迹女神御髻御装束如唐女」とあり、白山神の髪形や服装は唐の貴女のようであると伝えている。

発行元

平成10年9月15日発行
発行所春日井市教育委員会文化財課
春日井市柏原町1-97-1
電話0568-33-1113

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