郷土誌かすがい 第51号

ページID 1004439 更新日 平成29年12月7日

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平成9年9月15日発行第51号ホームページ版

篠木合宿絵馬

篠木合宿絵馬 (市指定文化財絵画)

白山町円福寺

縦117センチメートル横152センチメートル指定昭和33年5月30日

平安時代の終わりごろ、春日井市の北東部から小牧市の東部にかけては篠木庄という荘園でした。そのころから、明治の初頭まで続いた伝統のある祭りが篠木合宿です。
毎年、旧暦の5月18日の祭りの日になると、荘内の33か村から、そろいの半てんで着飾った若者が、馬之塔という飾り馬を引いて密蔵院(熊野町)に集まります。集合が終わると、関田村を先頭にして決められた順序で並び、かけ声勇ましく練り歩き、熱田神宮(永禄〈1558~69〉のころからは竜泉寺)へ奉納したものです。
旧高蔵寺・坂下地区の18か村は、前日にいったん円福寺に勢揃いして気勢をあげ、翌18日に密蔵院で合流していました。
篠木合宿絵馬は、馬之塔奉納の様子を表したもので、おもてには「奉掛御宝前文化元年(1804)甲子五月十八日」と書かれています。おそらく、村々の大行事である馬之塔の奉納が無事終わったお礼として、この絵馬が奉納されたものと思われます。以前は山上の観音堂に掲げてありましたが、今は本堂に保管されています。この種の絵馬としては珍しく、胡粉(貝殻を焼いてつくった粉末の白色顔料)が用いられており、当時の祭礼風俗の様子を表す貴重なものです。

市教育委員会事務局

下段に関連する記述があります

郷土探訪

東野地域がなぜ下原新田だったのか 落合池築造とのかかわり

安藤弘之

はじめに
落合池の築造については、「東野誌」資料編近世文書を見る限りでは、「下原新田起録」(宝暦6年、1756)にも、「尾張徇行記」(文政5年完、1822)その他にも、全く触れられていない。したがって、池についての色々の疑問が起こってくる。

  1. なぜ落合池(地名)なのか
  2. 築堤年代はいつか
  3. 土はどこから運ばれたのか
  4. 正しい灌漑面積はどれだけだったのか
  5. なぜ下原新田だったのか
    等々。(2)については本誌第33号「築造年代と構造について」で考察を試みたので、今回は、「なぜ下原新田だったのか」を取り上げてみたい。

東野の起こり
当地へ初めて移り住んで来たのは、大手の人長江三左衛門であったとか。寛永20年(1643)ごろかと思われる。犬山藩主成瀬隼人正の勧農方針もあって、早くから尾北一帯が着目されていたが、寛永10年(1633)には入鹿池が完成、正保2年(1645)には大池の拡張もされている。こうした中での長江氏の移住は、すでにそれを見越してのものであった。最初の鍬入れは西島地内野池付近と思われる(西島地内に屋敷跡があった)。
「下原新田起録」によれば、「正保3年(1646)まで無年貢」とあり、正保(1644)に入ったころには、すでに開拓が始まっていたことをうかがわせる。この地は通称前棹と言い、下原村の郷中を流れてくる僅かの水に頼っていた。本格的な開墾が始まったのは万治元年(1658)、いわゆる大草越しの波多野・西尾・安藤・梶田といった人々が、太(だい)良(ら)池・大洞(おおぼら)池の水利権を得て生路(いくじ)川の東に立地し、茨沢(いばらさわ)池の水の分譲を受けて開墾に入ってからである。この地に残る大屋敷の地名はそれを物語っている。この時点で太良池・大洞池の池水を引く用水が開削(註1)されていたことはいうまでもない。それがなければ、茨沢池の水の分譲は出来なかった。

八幡宮の創建と大池水分けのこと
やがて入鹿用水は伸び、南下原の地までやって来た。ここから東へ上らせて、生路川の西一帯、更には余った水は川を越えて大屋敷をも潤す予定だった。
雨池の築造なくして開発はあり得ない。その雨池の築造には農民の結集、わけても氏神の創建が要請された。寛政6年(1794)の「村方田畑町数覚帳」によれば、「八幡宮右社ハ大草村氏神ヲ去ル寛文三癸卯年(1663)当新田勧請之仕ル者也……寛文三年一郷ト成家数二十一軒」とあり、やっと村人のより所を得た。しかし、灌漑用水の目途は立たず、期待した入鹿用水も、高低差から東野へ上げることは不可能とわかり、下原村・南下原・東野新田の農民は夜を日に継いで協議の結果、最終的には、藩主成瀬隼人正の裁定により、「下原村大池懸り本田之内田方拾六町五反歩余入鹿井下ニ罷成候此井下へ入鹿水被下候付、右大池水ハ成瀬隼人正様東野御新田ニ替し水ニ公儀御水奉行衆より相渡申候東野何方へ成共替し水之義無異義永代ニ於相度可候事……右下原村大池水わけ永代ニおゐて違背仕間敷候、為後日手形仍而如件寛文五年(1665)巳十二月十一日(下原村・南下原村庄屋始め十名署名捺印)」という「尾州春日井郡下原村雨池水わけ之事」なるものが約定書として交わされている。この替し水分は主として前棹南を潤すことになり、浅いながらも雨池の役目をしていた野池は、地名だけを残して消失することになる。このことは「下原新田起録」の中に「一田壱町八反歩(約1.78ha)是ハ野池と申雨池ニ而御座候処、寛文三癸卯年ニ御新田ニ御取立被成、用水無御座候ニ付、入鹿御池水被下置候分」とあり、替し水分は拾六町五反歩余(約16.3ha)であった。
この時点で東野新田は下原村の属地となり、すでに東野新田と呼ばなくなっていた。このことは「下原新田起録」に、「東野新田と申ハ寛文三癸卯年迄」としていることでわかる。「東野新田」と呼んでいたのは、僅か20年足らずということになる。恐らくこの時期に、藩命による落合池築造が詮議され、それも下原主導によることが決まり、池完成後は、「下原新田」と称するようになる下地があったのではないか。

落合池築造と下原新田村の成立
寛文覚書(1672)には、すでに「落合上池、同下池」となっており、寛文5年(1665)から同10年(1670)頃にかけ、複数年に亘って池は築造されたのではないか。当時の東野は、尾張徇行記(樋口好古全6巻寛政4年<1664>~文政5年<1822>)下原新田の項に、「此新田ハ西島・東野島・池合島・六軒屋島・鳥居松島ト五ケ所ニ散在セリ」とあり、池築造には触れていない。僅かに規模については、「村方田畑町数覚帳」に、「東西百九十六間(約356m)南北弐百五拾間(約455m)水深弐間(約3.6m)」と見える。

天保12年下原新田村絵図

かくて、天和2年(1682)には、この地一帯は尾張藩の御上り新田となり、翌3年には、「下原新田」として下原村から分離独立し、一村を形成する。同じ天和3年には「茨沢池水分けの覚」が交わされ、「池水六分ハ本田、四分東ノ新田へ被下候筈之御定ニ付、用水分け両所立合如此書記申候…天和三癸亥五月下原・南下原・東の十四名連記」の通り、茨沢池水の分配も決着している。
江戸末期の村絵図には、茨沢池水は、ノマリ池を廻って下池(水神の北約100mの北東角)に取り入れられているが、ここには油樽を伏せ込んだという。今も油樽の地名が残っている。

まとめ
かくて、新田の水源の大半は、下原村・大草村によることになる。たとえ、落合池は築造されても、なお、下原村地内の大池・茨沢池に水源を仰ぎ、池築造に当たっての労力の大半が下原村であったとすれば、明治21年(1888)市町村制の公布により、「篠木村大字八幡」になるまでの200余年間「下原新田村」を称したのは当然である。水は農民にとって死活問題である。村の存亡にかかわる。たとえ、東野新田の地名は消え失せても、水を確保することが緊急事であったと思われる。

註1山野の地層をきりひらいて道路・運河などを通ずること。

郷土探訪

六軒屋の缶詰工場 校長室から、子どもたちへ

落合善造   春日井市立松原小学校長

「しっかり殺菌しなかったが、ひょっとするとここに並べた缶詰のいくつかは爆発するかもしれないなあー」……。
これは、昭和32年、建設当初の六軒屋の缶詰工場内(註1)での会話の一部です。
現在、私達がふだん生活している中で缶詰が爆発するなんて想像もできないことです。しかし、これは当時、実際にあったことです。つくる過程で、缶詰に雑菌が入りこみ、それが、蓋をした缶詰のなかでガスを発生させ、缶詰が膨張して爆発するのです。その爆発のすごさは想像を絶するくらい強烈なもので、周りのものを吹き飛ばしてしまうほどです。
この工場は、現在の大きな工場のようにベルトコンベヤーにのって製品が流れていくのとは違い、手作業によるところが多かったようです。それでも当時としては最新の機械を揃えていました。例えば、桃を2つに切る機械やボイラーなどは、全国的にみても最も新しく、高価なものでした。しかし、缶詰のラベルはりは、女性の仕事として、手作業で進められました。
缶詰にする桃は甘みを付けて煮ますが、この甘みを出すために、当時、サッカリン、ズルチン(註2)(人工甘味料)が使われ、砂糖を使う割合は少なかったようです。上等な缶詰ほど砂糖をたくさん使い、2等品、3等品などはサッカリン、ズルチンの割合が高くなりました。
春日井市で缶詰工場が建設されたのは、これが初めてのことでした。六軒屋の桃の缶詰が全国へ出回るということは春日井市の自慢でもあり、六軒屋の誇りでもありました。それが海外(註3)へ輸出されるとなるとまた格別でした。
工場での缶詰の生産は、桃の入荷から、缶詰になって出荷されるまで、すべてうまく進んだわけではありませんでした。
国内の販売は「明治屋」(註4)を通して出荷していました。「明治屋」は、入荷する品物について、悪い品が混じっていないか、時々検査をしていました。
ところが、ある日、1等品ばかり出荷したはずの缶詰に2等品、3等品が混じっていたのです。それが抜き取り検査の際に分かってしまったのです。東京の「明治屋」といえば全国的に知れた有名な店です。「明治屋」へ製品を出荷しておけば、そこから全国へ送られ、大変な量の缶詰を販売することができるのです。その大本の店での抜き取り検査に引っ掛かってしまったのです。東京の「明治屋」から六軒屋の缶詰工場へ激怒の電話が入りました。
「六軒屋の工場は製品の管理を一体どうやっているのか」
「こんな2等品、3等品が混ざったものを送りつけるとはけしからん」
「もし、こんなものを明治屋が販売したら、明治屋のメンツがつぶれてしまう、もう、すでに地方へ出荷したものもある。一体どう責任をとるつもりだ」
「明治屋の看板に泥を塗るつもりか?」
「許せん」
「今後、一切六軒屋の桃の缶詰は扱わない……」
一方的に流れてくる強い怒りの言葉に、受ける側も、ただ、ただ、弱い声で、
「誤ってとり混ぜてしまったものと思います」
「決して故意に行ったものではございません」
「今後は検査を厳しく行い、二度と間違いが起こらないように気をつけます」
「お許しください」
「お許しください……」
さあ、大変なことになりました。電話を受けた工場は、どうしたらいいのか途方に暮れるばかり……。一向にいい知恵が浮かんできませんでした。緊急の会議が開かれ、対策を話し合うことになりました。とにかく、明治屋から、正式に取引のお断わりが来たら、工場は大変なことになってしまいます。ひょっとしたら倒産ということにもなりかねません。
その後、工場では何回も話し合いを持ちましたが、一向に埒があきません。
「誰かがこの工場の代表になって謝りにいってもらおう」
「誰かが……」
選ばれた人は大変です。もし、相手に工場の事情がうまく話せず、結果として許していただけなかったら、その人の責任にもなりかねません。場合によっては、工場の倒産も予想されます。こんな状態ですから、すすんで謝りに行く人が申し出るはずがありません。
2、3日すると、全員に集合がかかりました。みんな口には出しませんでしたが、いやな予感を持っていました。そして当時の組合長だった長縄基治さんは、全員を前にして、
「工場の命もかかっている。役目上、私と長縄功さんの2人で明治屋になんとか上手に話をつけてきたいと思っている」
「留守の間、皆さんにはご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」
功青年は代表に決まってから、夜も十分に寝ることができませんでした。見る夢はすべて悪い結果を知らせるものばかりでした。
ついに、出発の朝がやってきました。中央本線の春日井駅まで工場の代表が見送ってくれました。2人の背にかかる負担は一層重くなったような気がしました。「仕方がない、こちらの誠意を強く訴えるしか方法がない」そう心に決めていた2人は自信はありませんでしたが、見送りの1人1人に力強く挨拶をし、車中の人となりました。満員の汽車の中、座ることもできず、通路に新聞紙を敷いて休みをとりました。
東京へ着くまでの9時間、2人の間は雰囲気も暗く、会話は途切れ途切れで長くは続きませんでした。足取りも重く、東京駅の前からタクシーに乗り、銀座の「明治屋」へ向かいました。不安が募るばかりで、互いに話は避けるようにしていました。
「明治屋」の部長室に通された2人は、六軒屋の缶詰工場の組合長室とは比べものにならないくらい大きく、豪華で調度品の立派なのに、緊張が一層大きくなり身震いすら覚えました。
しばらくすると、恐ろしい顔をした明治屋の部長さんが部屋へ入ってくるなり、
「話す事はすでに電話でしたはずですよ」
「何しに来たんです」
次から次へと出る強い言葉に、2人は何一つ言い返すことができませんでした。ただ、ただ謝るばかりでした。ついに、2人は土下座をし、
「今度は、一切間違いを起こす事がないよう努力いたします。お許しください」
床に頭をくっつけ、
「お許しください」、「お許しください」
何度謝ったことでしょう。土下座をし頭を床にくっつけたまま、しばらく時間が経ちました。
工場の命運を握った2人の使命、なんとしてでも、お許しを得て春日井へ帰らなくてはならない。こんな心が相手方に通じたのか……。話される口調も初めの頃に比べるとずいぶん穏やかになってきました。しばらくすると……。
「この1件については、明治屋にとっても大変な損害でした」
「六軒屋の缶詰工場の事情についてもよく分かりました」
「今後、この度のようなことが一切起こらないように、しっかり検査をしていただきたい」
「帰られたら皆さんにそう伝えてください」
その言葉を聞いたとたん2人とも、土下座したまま、体を震わせ男泣きしたといいます。その時こそ、2人とも抱き合って喜びを分かち合いたい、そして、飛び上がって喜びを表現したい心境だったといいます。土下座をしたまま「有難うございました」、「有難うございました」と何度繰り返したことでしょう。
外は、2人の心のように、透き通った青空がいっぱい広がっていました。2人は改めて、深呼吸をしました。空気のおいしいこと……。帰りの汽車の中の2人の表情は、行きと全く対照的で車中で酌み交わす酒の味はまた、格別なものだったといいます。
帰る前に、東京から工場へ朗報を入れておいたせいか、春日井駅に着くと出迎えの人たちが凱旋した兵士のように温かく迎え、それぞれに労をねぎらってくれました。会社に着くなり、今度はみんなからもみくちゃにされ、大歓迎を受けました。
東京の「明治屋」への旅は2人にとって生涯忘れえぬ、苦渋と歓びを体験するものとなりました。

  1. 缶詰工場は澱粉工場の北側に隣接してつくられました。また、同じ敷地内では「たくわん」もつくられていました。
  2. サッカリン・ズルチンは終戦直後、砂糖の代用として使われましたが、現在では、体によくないことがわかり、使われておりません。
  3. 六軒屋の缶詰はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ等へ静岡県の清水港から「春日井の白桃」と名付けられ、輸出されました。
  4. 明治屋へ出荷された缶詰は「明治屋の白桃」のラベルをつけられて売られました。

※この話は、長縄功様(元市議会議長)からお聞きしたことをまとめたものです。

郷土散策

篠木合宿と下津尾村

伊藤浩   市文化財保護審議会委員

篠木合宿と絵馬
篠木合宿の絵馬は、表紙に載せられた白山町円福寺本堂内(市指定文化財)と、梶田逸夫さん宅(玉野町)の観音堂内にある大小2枚が現存している。
前者が文化元年(1804)、後者が文化6年とはっきり読みとれ共に190年ばかり前のもので、春日井のまつりの源ともいわれる馬之塔(おまんと)の様子が描かれている。そんなことから第1回春日井まつりのポスターに使われたこともある。
篠木合宿の起源については、篠木庄33ケ村総代関田村庄屋から、水野代官所に差し出した古文書につきうかがい知ることができる。

乍恐奉願候御事

  1. 春日井郡山岡御、篠木三十三箇村馬之塔と申は、その昔日本武尊東征の御時、美濃国より当国へ御入被候節、篠木の者共愛知郡千竈庄、愛知野村に御供仕候而より、吉例として毎年々々御慰のため、馬之塔と申して入尊覧奉候由、夫より以来永禄年中の頃迄、熱田の宮へ献上仕候処、名古屋古渡村にて、喧嘩仕りてより、熱田の内にて榊木の神社と申奉るを、竜泉寺の境内へ勧請仕り、夫より以来は唯今の通りにて御座候、其の昔熱田へ献上仕候節は、関田村にて待ち合い、三十三箇村合宿仕一緒に参り申候由に御座候、右の馬之塔と申は、日本国中に此篠木の庄にて始り申候由村方にて申伝候。
  2. 下津尾より神馬を出し申候事は、上古の例にては無御座候、右村は竜泉寺への格別の由緒御座候村方に御座候故、篠木庄に不拘、献上仕事に御座候由……以下略

五月三十三箇村惣代関田村
少し付言すると、日本武尊が東征の帰途、美濃・尾張の国境である、内津峠にさしかかられた時、副将軍の建稲種命が、駿河の海で急死の訃報を従者久米八腹が早馬で尊に伝えた。尊は悲嘆して内津山中に命の霊を祀られた(内々神社の起源)。この時篠木邑の人々が尊を慰め申し上げるべく、愛知郡氷上邑(名古屋市緑区大高町、氷上姉子神社)までお送り申し上げた。なお、永禄(1558~)の頃から竜泉寺榊の宮へ献馬することになった。これが明治初年まで続いたという伝統のあるまつりである。

篠木合宿と下津尾村
篠木合宿の馬之塔奉献が竜泉寺に変更されてからのまつりも、毎年旧5月18日となっているが、この日は竜泉寺の本尊馬頭観音が「多羅々の池」よりあがられた日に当たる。この霊像を池の中から拾いあげ奉ったのは、下津尾村の熱田神宮の神官林弥之輔の妻という。下津尾村は篠木庄外であるが、往昔より熱田神宮並に竜泉寺に馬之塔を献じて来た。氏神熱田神社(元は神明社)は天正4年(1576)弥之輔が村に土着し、熱田神社とし竹にて草薙の神剱を模造したものを御神体として祭祀し、まつりの日に馬之塔を献じたと竜泉寺の古記録に見える。
ところで、古文書の二にある下津尾村との関係については、篠木村33ケ村からは下津尾村に申し入れて神馬をもって案内馬に頼み入れたが、後下津尾村より添馬と名付けて標具(だし)付馬を神馬の次に引きたいと申し出たので、篠木方はそれは古例にないと断ると下津尾方は添馬ではなく立願馬だからと申し立てた。立願馬なら勝手だが、33ケ村の端馬と神馬との間には入れないよう申し入れたところ、下津尾方は言を左右にして3度も添馬を出したので、遂に篠木方の関田村から抗議を申し込み、話がもつれて喧嘩となり怪我人も出た。その時幸いに見廻りの役人により取り鎮められ、大草村の藤左衛門、下大留村の文蔵の仲裁で和議が出来た。ついで水野代官所のお声掛かりで次のような証文が取り交わされた。

為取替書付之事
五月十八日竜泉寺祭礼ニ付其御村方初篠木三拾三ケ村合宿馬之塔御引上年ハ是迄古例ニテ当村御神馬御案内仕来立願馬ヲ先年ヨリ度々出シ来リ候彼是混雑致シ入組等出来仕大草村藤左衛門殿下大留村文蔵殿御取扱ニ付水野御陣屋江以来御引分ケ出願仕惣方納得之上右引分ケ御聞済ニ相成被為添御聲右祭礼当日御神馬之義篠木不出之年ハ勝手次第ニ引下リ篠木馬之塔御引上ケ年ハ九ツ以前ニ引下リ向後篠木引分ケ別段ニ御神馬引渡シ納得仕候上ハ以後少モ故障無御座為後日書付取替以上如件

文政九年戌七月下津尾村
関田村庄屋繁右エ門
御庄屋衆中様頭百姓彦助
同断利左エ門

下津尾村と竜泉寺
竜泉寺古記録(天和2年〈1682〉戌秋9月)の中程に、次のような記録がある。
当山を熱田の奥の院共申伝へ、毎年五月十八日熱田のほんてんと観音の梵天と二本、神馬二疋古来より下津尾村より出する、則社家相添蒼天より当山に引上ぐる、猶正月七日には観音宝前にて下津尾村社人神楽祝詞をあげ、五穀祭りの田歌を唱へ候事等皆故実にして、今に絶えず相勤候……中略……夫より縁日等には観音へ供する花を下津尾村仁王門にて売申候、夫故観音の徳弘法大師の徳によって花を切り来り候にや、千年にもおよび候事誰ゆるし誰切り初めたる事共、其村先祖の衆許しおかれ候事にや、何れ年り候故言伝共知れざる様に相成候……後略
また、林茂男氏(下津町)宅に残っている覚書には次のような記述がある。

龍泉寺宝印

竜泉寺住持を居へ申前には下津尾村御百姓之内、道圓と申者守り仕居候、其子孫で只今市右衛門と申候、此市右衛門今程ハ西之仁王欠之石地蔵持内にて其初尾を取、則花を売祭り之内居申候、年々伝り十二月十三日観音之門松を迎へ同廿日に御宮殿之すゝを取、同大晦日に門松をかざり、正月六日には祭初の時三百六拾五膳之牛王を作り、此内に牛□とて福壱膳御座候、観音の前に置住持おこない仕候故ニ宝印官と申す者、右之市右衛門住持に為願申候、其上寺より食を持観音之庭にまき、其故右之牛王まき申候、代々伝りにて宝印官と牛王之判は此市右衛門処に御座候、則此者は五月五日に志ようぶを持堂にかざり申候
正月六日祭初此村祢宜甚太夫仕候、其時は神楽を上げ田歌を読程当て仕候、其夜は寺にて振舞被成牛王祝に右は米壱斗宛被出候、今程は銭百文宛出候、代々此通にて御座候
此甚太夫年々五月十八日祭り之時下津尾村より、観音御召し之馬弐疋宛引申候時竜泉寺より御へい弐本、茶弐袋願入、坊主弐人にもたせ此方へ被出候其時右之甚太夫消息仕り先に案内仕候、右より堂塔取立破損之時には税之銭取申候
なお、下津尾村がかつては山田郡に属した(徇行記)ことに関連する項目も拾い記しておこう。
竜泉寺山は代々より下津尾村の内にて御座候、則十花の内商人之揚銭を取年々年之暮に御給人様へ下津尾村より銭壱メ丈宛差上け申候……中略……
灯明三代に米五斗八升宛毎年観音へ差上け申候、落葉下草代に苅取申候証拠には川西にて、下津尾村斗山田庄へ入申候。

〈参考文献〉
尾張徇行記
東春日井郡誌
郷土文化論集(安藤直太朗)
郷土に生きる(伊藤浩)
古文書数点

春日井の人物誌

明治の女医河村悦子

村中治彦 本誌編集委員長

河村悦子

おいたち
河村悦子は、慶応元年(1865)4月20日、春日井原新田四ツ家の豪農河村彦次郎の4女として誕生した。本名を悦という。
悦子が9歳のとき、村の龍昌寺内に隆旺学校が開設された。明治7年(1874)11月の記録によると隆旺学校には男子81人、女子17人が在籍していた。悦子は当時10歳で就学年齢であったので、17名の女子の中に入っていたものと考えられる。大変勉強好きな子どもであった悦子は、当時の就学年齢の上限満13歳まで隆旺学校で学んだのであろう。
愛知県では明治5年5月に「学問のさとし」を出し、明治維新後の新時代に即応する学問の意義と必要を説き、県民への啓蒙活動を行っている。このような時代の大変革の中で、女性をとりまいていた旧体制の環境にも変化が起き、新しい道が開けつつあることを知った悦子は、周囲の女性とは違った将来への大きな夢を描くようになっていった。
明治17年9月、女子の医術開業試験が初めて実施され、その前期試験に荻野吟子が合格した。官報や新聞報道による女医試験官許の情報を伝え聞いた悦子は、矢も楯もたまらず20歳のとき単身上京したのである。
当時、女性が1人で上京して勉学に励むということは、並大抵のことではなかった。医者になる決心をした悦子の上京を許した親は、極めて開明的な考えの持主であると同時に器量の大きな人物であったと思われる。

済生学舎で学ぶ
初めての東京で、悦子が医者を目ざした受験生活をどのように過ごしたのか不明である。伝えられているのは、済生学舎に入学して吉岡弥生(東京女子医大創設者)等と共に学んだことのみである。
済生学舎とは、明治9年に官立東京医学校教授長谷川泰が開校したもので、当時、東京医学校の定員が少なく、入学できない俊秀の子弟養成のために、個人で開設した医術開業試験のための予備校である。したがって、入学試験も卒業試験もなく、勉学の志があり授業料を払えば誰でも入学できた。
同校に女子の入学が認められたのは、明治17年12月のことである。愛知県出身の高橋瑞子(3番目の女医合格者・後単身ドイツ留学)の粘り強い努力により、遂に長谷川校長が女子の入学認めた。
当時の済生学舎は、江戸時代の武家屋敷を改造しただけのもので、前期生用の大部屋と後期生のための講堂と臨床講義のための階段教室があるだけであった。医学の講義は前期と後期に分けられており、入学すると前期生として授業を受け、試験に合格すると後期生となってより専門的な内容を学んだ。
済生学舎の教授は他の学校とのかけ持ちが多かったため、早朝や夕方と先生の都合に合わせて時間割が組まれていた。朝6時に始まる講義を聴くためには、秋から冬にかけては暗いうちから登校しなければならなかった。
悦子と同時期に学んだ吉岡弥生の伝記には、当時の様子がおよそ次のように書かれている。「5時に学校へ着くと、教室の席は小倉ばかまをつけた男子学生でいっぱいになっており、入りきれない学生たちは、窓から顔をのぞかせて講義を聴こうとしていた。前の方に設けられた女子席に辿り着くには、男子学生をかき分け押しのけて行かねばならず、とても勇気のいることであった。その上男尊女卑の風潮が強く、男子学生による差別といやがらせは大変なものであった。気の弱い女子学生は震え上がって、せっかく入学しても、3日か4日でやめてしまう者がかなりあったと思う。
このような状況の中でも、ただもう医者になりたい一心から、侮辱と苦痛をこらえて女子学生席の机にかじり付いて、勉学に励む人々の中に悦子の姿があったのであろう。
当時の女子学生の学力や年齢や境遇は男子学生と共に様々であった。女学校を出た者、小学校の高等科を卒業しただけの者、人妻もいれば20歳に満たない小娘もいた。
授業は教科書の指定も何もなく、ただ先生の講義を聴き板書を写すだけで、大変な毎日であったようだ。

挫折を乗り越えて
当時の医術開業試験は前期と後期に分かれており、前期に合格してから後期を受け、両者に合格してはじめて医者の資格を得ることができた。年に2回春と秋に試験があり、なかなかに厳しくて合格率は3割程度であった。
明治23年春の試験では、済生学舎から16人の女子学生が前期を受験したが、合格したのは吉岡弥生他3名のみであった。しかも、2年半の準備の後、同25年秋の後期試験に合格したのは吉岡弥生1人だけであった。悦子はこの16人の中の1人であったと思われる。
後期試験は、内科・外科の実地試験があるため学舎で患者を前においた臨床講義を受けなければならない。ところが、階段教室になっている臨床講堂が狭い上に、前の方の良い席を男子学生がみな占領してしまうので、背の低い女子学生が後ろになり、大切な臨床講義の模様がよくわからず困っていた。この件について吉岡弥生が中心となって交渉し、前の方に女子席を設けることができたという。
その他に、2人1組になっえ行う外科の演習、繃帯(ほうたい)巻きの演習、暗室の中の眼科演習等は若い娘が男子学生と組むことが難儀で思うように勉強できないつらさがあったようである。
高橋瑞子は臨床の勉強をするために、つてを頼って順天堂医院で実習をしている。悦子もこの臨床の勉強の壁につき当たって、悩む日々が続いたことであろう。彼女はこの壁を乗り越えるために済生学舎での勉学を中断し、つてを頼って京都の看病学校に入学した。看病学校というのは看護婦養成のために開設されたものであったが、彼女は恐らく済生学舎でいろいろな障害から、十分に学ぶことのできなかった臨床的な内容についても進んで学んだことと推測される。
そして、明治29年第9回卒業生として京都看病学校を卒業した。その後再び済生学舎の門をくぐり、女医を目ざして昼夜を分かたず猛烈な勉学に励んだ。6年後の明治35年10月遂に待望の医術開業後期試験に合格することができた。女医として全国89番目、愛知県出身者としては6番目に当たる。思えば20歳で単身上京してから18年の歳月が流れていた。
遠く郷里を離れて血のにじむような勉学の末に、遂に悦子の夢が実現したのであった。

開業医となる
医者の資格を得た悦子は縁故の地である京都の佐伯病院に就職した。この病院は明治28年京都産科婦人科病院として佐伯理一郎により創設され、後に移転して佐伯病院と改称した。
悦子はこの病院で産科医として勤め、1日の勤務が終わってからも常に新しい医術の勉学を続け、やがて同病院の副院長となった。
そして、大正2年には、下京区蛸薬師通河原町東入に独立開業をして、宿願を果たすことができたのである。その後同5年に、下京区木屋町通四条上へ移転した。同年10月6日、京都帝大産婦人科教室で開催された、京産婦学会例会の出席者40名中に悦子の名が見られる。開業医としての多忙な毎日の中でも、新しい医療技術の修得を目ざして研鑽に励んだ悦子の真摯な姿が想像される。
当時、京都での開業女医第1号として、また小児科女医として名声を博したという。そして、昭和6年と7年の2年間にわたり日本女医会の役員を勤めた。

悦子の生家河村家の門

67歳になったとき、悦子は老齢のため診察に万一のことがあってはいけないということで、昭和7年に引退して郷里四ツ家町の実家に帰った。余生を読書や歌舞伎で楽しんでいたが同11年1月23日、永久の眠りについた。
初志を貫き若き日の夢を実現した73年の生涯であった。

〈参考文献〉
日本女医史、吉岡弥生傳、日本女医会雑誌、京の産婦人科近代史、京都の医学史、愛知県教育史、春日井市史、春日井小学校100年の歩み

〈協力者〉
山口圭子氏、新光寺住職、日本女医会々長・佐藤千代子氏、京都府医師会附属図書館、金沢大学附属図書館医学部分館

郷土散策

白山信仰 19

村中治彦 本誌編集委員

玉野村洲原御師(おし)代替奉加帳
先頃、岐阜常民文化研究会のの蓑島一美氏より、見出しの件に関する資料をいただいた。それによると、氏は岐阜市の古書店から江戸時代の玉野村洲原御師代替奉加帳を入手されたという。(下記写真参照)
安政5年(1858)玉野村を担当していた洲原御師の松田勘大夫家で、担当者の代替りがあった。
玉野村に洲原神社の御札を配布する御師の代替りとあって、庄屋が音頭を取って、これを祝うための奉加金が集められたようである。
奉加帳は9ページにわたり、117名に及ぶ賛同者名と奉加金の金額が記載されている。
1頁目には、当時の玉野村有力者と見られる11名が名を連ねており、全員が1人2朱ずつの奉加金を寄進している。11名分だけで、1両1分2朱(註1)になり、以下の人々の寄進は少額であるにしても、117名全員ではかなりの金額になるものと推測される。
このような大金を御師の代替りに寄進するということは、玉野村の人々が農業神としての洲原神社に対して、厚い信仰心を持っていたことを物語るものといえよう。

洲原御師と春日井の村々
中世に栄えた白山信仰は山伏を先達として、「上り千人、下り千人、宿に千人」といわれる程であった。
しかし、浄土真宗の拡大によって、室町時代後半から衰退し始めたようである。それに伴い白山前宮として、美濃馬場からの白山登拝に大きな役割を果たしていた洲原神社の性格も変化していった。
即ち、五穀豊穣に霊験ある農耕の神を祀る大社へと変わることにより江戸時代後半頃から、「お洲原まいり」のための講が組織されていったものと考えられる。
江戸後期に編集された「美濃雑事紀」には、洲原神社の惣社家中として、43名の御師の名前がある。ところが明治29年の洲原講結社名簿には、御師の名前は僅か13名に激減している。
これは、明治4年の神官制度の改革により、神官の世襲制が廃止となり、同時に御師も現一代限りで廃止となったためである。
明治29年の洲原講結社村名簿によると、春日井市関係分の御師と担当地区は次のようになっている。
小坂東一郎…内津・西尾・明知・坂下・神屋・庄名・神明・白山・玉野・外之原・高蔵寺・気噴

奥尾森雄…田楽

山内助太夫…春日井・味美・中新田(味鋺)・勝川・上条・牛山新田・稲口新田・美濃新田
時国駒蔵…上野・廻間・出川・松本・神領・桜佐・下条・中切・津入り・下条原新田・下条本郷・上条新田・上条原新田・下市場・大手・関田・東野
以上の38地区となっているが、下条と下条本郷の区別が不明であり洲原信仰の盛んな松河戸が無いのも腑に落ちない。
大正の中頃の名簿(参拝帳発行団体控か?)には、大字・戸数・代表者名が記載されている。

玉野村洲原御師代替奉加帳

高蔵寺村大留85戸稲垣儀蔵
高蔵寺村出川130戸区長
高蔵寺村玉野90戸区長
高蔵寺村木附73戸区長
高蔵寺村外之原中45戸区長
高蔵寺村外之原上70戸区長
高蔵寺村松本40戸区長
坂下村上野30戸区長
坂下村神屋182戸区長
坂下村明知120戸区長
坂下村西尾67戸区長
篠木村下市場130戸伊藤助三郎
篠木村権現山200戸川口甚之助
篠木村東野105戸区長
篠木村南下原40戸柴山徳三郎
篠木村桜佐18戸神戸鎌治郎
篠木村牛毛95戸区長
篠木村神領45戸区長
篠木村堀之内70戸区長
鳥居松村松河戸150戸長谷川茂右エ門
鳥居松村長池20戸岡島庄七
鳥居松村朝宮30戸丹羽利三郎
鳥居松村和爾良20戸小川利兵エ
鳥居松村下条50戸長谷川太郎
勝川町柏井160戸常設委員
勝川町下条原13戸足立秋治郎
以上の26地区となっているが、明治29年よりも大幅に減少している。名簿の年度が特定できていないので確かなことは判らないが、記載もれの地区があるものと推測される。

註1
金1両=4分1分=4朱
安政元年(1854)西尾村の「村方積朱預り覚帳」によれば、米1斗3升4合の代金は923文となっている。天保13年の金1両=銭6貫500文で換算すると、1両1分2朱はおよそ米1石2斗9升(193.5kg)となる。

〈協力者〉
洲原神社宮司・横家勉氏

発行元

平成9年9月15日発行
発行所春日井市教育委員会文化財課
春日井市柏原町1-97-1
電話0568-33-1113

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