郷土誌かすがい 第47号

ページID 1004443 更新日 平成29年12月7日

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平成7年9月15日発行第47号ホームページ版

華鬘

華鬘(けまん) 十二流(面)(市指定文化財工芸)

密蔵院

華鬘とは花飾りのことであり、インドでは古くより高貴な方にこれを贈る習慣があった。当初は生花を糸でつなぎ花輪を作って相手の首に掛けた。やがて生花に代えて牛皮や木や金属を材料にして長持ちのきく物を使った。仏教ではお釈迦さまやその弟子に対して飾り物として贈られた。やがて仏陀の象徴である仏塔へ捧げられた。また仏像を祀る仏殿の飾りとしても使われた。
密蔵院では真鍮製の材質で、仏殿の長押に十二流の華鬘を吊るしていた。団扇形で地板は蓮華唐草文の透かし彫りとしている。毛彫りの打ち出しの総角(童子の髪形)を中央の頂点から吊り下げている。 頂辺部は二重の菊座と蓮華を重ね、鐶座を打って茄子形の鐶をつける。下端部の左右に平たい2個の鈴と茎の形と筒を3個吊り下げる。覆輪部(ふちを覆う飾り)の右の方に「尾張國名護屋東照社」左に「元和五年(1619)卯月日」の刻銘がある。
奥州平泉中尊寺に国宝金銅製華鬘が伝わっており、優美、華麗で知られている。密蔵院のものは銘があり製作年代がわかり、当時としてはきちんとした出来栄えである。

梶藤義男   市文化財保護審議会委員

郷土探訪

春日井をとおる街道12 善光寺参詣路としての下街道

櫻井芳昭   春日井市郷土史研究会会員


はじめに

下街道は尾張から善光寺へ通じる順路ということで、善光寺街道とも呼ばれていた。江戸中期以降、善光寺参詣が庶民の間で盛んになり、明治時代の鉄道開通前まで、この街道は全国各地からの旅人に利用された。
経路は、名古屋を出て、追分(現岐阜県恵那市)で中山道に入り、木曽福島の関所を抜け、洗馬宿(現長野県塩尻市)から北国西脇往還を通って、松本を経て善光寺に至るのが一般的で、片道約300キロメートルあり8日間かかった。
下街道の道標のうち「善光寺道」と刻まれているものが、佐野屋の辻、大曽根(以上名古屋市東区)、勝川、鳥居松、内津峠、池田(多治見市)にある。これから東の釜戸、追分では、「伊勢道」の表示となり、信州方面からの伊勢神宮参詣の旅人向けの案内となっている。

内津峠の道標

信州善光寺道中記にみる下街道の休泊施設

善光寺参詣の人々
1.  個人や仲間での参詣
「一生に一度は善光寺に参らなければ、極楽往生できない」という信仰に支えられて、ご詠歌を唱えながら街道を行く人が目立つのは、毎年春彼岸が近づくころからである。
村の仲間や親類縁者など、気の合った3名から8名と比較的少人数での参詣が多かった。善光寺の正信坊の宿帳では、10人以下が87%で平均4.2人となっている。
善光寺参詣に出るには往来手形が必要である。近村の例としては、神領村の瑞雲寺が中志段味村の檀家の願い出に対して、文化14年(1817)2月に出したものがある。
「今般善光寺へ参詣致したき旨、往来一札願い来り。その意に任せ候」と応じ、「万一、とがめられることがあって訴人があれば、拙寺から何方までも出向き、諸寺院に少しも苦労をかけないように致します」と申し添えて、諸国の寺院、役所宛に通行での配慮を依頼している。
村で、善光寺など遠国の社寺参詣に出るゆとりのある人は、庄屋等の上層農民が中心であり、庶民の憧れであった。
善光寺街道に沿う春日井地域からも善光寺参詣は行われたが、参詣記録や講の結成状況からみると、御嶽、伊勢、津島、秋葉山等に比べると相当少なかったようである。
現在、残っているものでは、下原の善光寺橋の名称、「奉納善光寺」の石仏、東野の「善光寺代参人名記帳」があり、念仏講で明治14年(1881)ころは毎年1名から2名が代参していたことがわかる。
また、八田新田の「善光寺参り見舞覚」からは、長縄氏らが弘化4年(1847)3月8日に出発し、同月24日に帰村したことが記録されている。この時、草鞋銭や留守見舞として、牡丹餅、酒、竹の子等を18人から贈られている。これらの人には善光寺みやげのお札、御印文、絵紙、摺仏、七味唐がらしなどが配られたことであろう。

2.  女性の旅と往来手形
善光寺への女連れの旅人は、関所で厳しく詰問されるといううわさがあり、本街道を避けて、遠回りでも脇往還を利用する人たちもあった第1表のうち、味鋺村の6人づれ(うち女2人)の場合は往復とも脇道を通っている。女性の善光寺参りが各地で盛んになってきたことに対応して、女性の出国について緩和する藩が出ている。
 

表1善光寺参詣道中記の例
  時期 日数 参詣者 経路 出典
1 安永4年(1775)
3月15日から3月31日
17 梅森村
1人
駄知―土岐―下街道―中山道―
善光寺―三州街道―飯田街道
梅森の歴史
2 文化8年(1811)
2月15日から3月5日
19 味鋺村庄屋格
6人うち女2人
下街道―中山道―飯田街道―
三州街道―善光寺―三州街道―
飯田街道―中山道―木曽街道
楠町誌
3 安政2年(1855)
7月20日から8月5日
15 井堀村庄屋
1人
下街道―中山道―善光寺(教授院)
―中山道―木曽街道
稲沢市史
4 明治7年(1874)
3月14日から4月13日
30 佐屋村
6人のうち女2人
下街道―中山道―善光寺(宝勝院?)
―中山道―東京―東海道
佐屋町史


尾張藩は、中山道を避けて、善光寺参りする者が増えるのは、本街道の振興にとって好ましくないとして、天保14年(1843)に女性の往来手形の発給を認める方針を村々へ通知している。
「善光寺へ女参詣につき、福島関所手形の義、寺社在町の分、願い次第御城代より出すはずのところ、往来手形の許可は容易なことではないと思い込んで、申請しないで脇道を旅する者があると聞く。これはよくないことであるので、今後は改めるよう厳しく申し付ける方針である」と、正規の手続きで、本街道を通るよう促している。しかし、これは徹底しなかったようで、嘉永2年(1894)再度、「願いあり次第、右手判は当日渡すはずである」と早急な対処とともに、旧来必要であった寺や触頭の添書を廃止する方針を示している。
善光寺の正信坊の嘉永元年(1848)から明治4年(1871)まで24年間の宿泊者7,401人のうち、女性は3,553人で48%と高く、女性の善光寺参りが習俗化してきたことがうかがえる。
次の例は、17歳の娘が、一人旅で善光寺参詣に出て、信州で発病したが、「村継送り」で無事帰った場合である。
明治2年(1869)8月、海東郡須成村(現蟹江町)の百姓の娘みかは、途中で病気になり、信州高井郡中野村(現長野県中野市)で助けを求めた。江戸時代には、遠国の者で重い病気の場合は、宿継で役所へ注進し、共通費用で病人の面倒を見るよう道中奉行が通達している。
村では名主らが受けて、役所を通して名古屋藩へ身柄引き取りの交渉を始めた。しかし、本人が「一日も早く帰りたい」と強く願ったので、旅費支度金の補助として、金1両1分を与え、宿継を依頼する方法をとった。
「宿村通行のみぎり、右手当金にて不足になったときは、その所の村の助力を得て、当人を帰村させたいので、頼み入り候」と添書しており、受け継いだ村々の親切が実って無事帰村したという相互扶助の模範といえる例である。

3.  戒壇草履の風習
大治町、西春町周辺には、死者の善光寺参りの伝承がみられる。善光寺の戒壇めぐりではいた草履を棺桶に入れると成仏できるという風習がある。
生前に善光寺参りの悲願を果せなかった人の場合は、死後急いで善光寺参りをさせるため、葬儀の時間を遅らせるのである。近親者の配慮とともに、庶民の善光寺参りへの強い願望がうかがえる。濃尾平野に、「戒壇草履」の風習が多く分布していることについて「善光寺参りのできた者の多い地域の風習である」と解釈している。


善光寺講
遠隔地参詣は信仰が厚くても経済的社会的制約があって、個人の力だけでは果たせない場合が多い。これを相互扶助の組織である講代参で実現しようということで、幕末から少しずつ結成され、明治から大正にかけて鉄道の発達とともに大きく成長した。
尾張地域の例では、葉栗郡、名古屋、日進、大府の吉田、半田の成岩等で善光寺講がつくられている。
熱田の宮丸灯明講は、宮宿の商家の旦那衆が中心となって、江戸中期から毎年代参を立てて参詣し、宿坊は世尊院となっていた。弘化4年(1847)に起きた大地震で、善光寺は山門、本堂等を残して、宿坊はほとんど倒壊し、同時に発生した火災で門前町も全焼したため、参拝者は激減した。
慶応2年(1866)熱田の桔梗屋喜七らが世話人になって、萬人講を結成して世尊院再建の寄進を募り、明治3年(1870)に51両1分2朱、同4年(1871)に2両1朱を追加している。その後、御嶽講の大先達岡崎弥七が講元となって萬人講を宮丸灯明講と改称して今日まで参詣が続けられている。
昭和区の享栄寺に本拠を置く八日講は、嘉永2年(1849)堀氏の創立になるもので、現在も毎年5月に団参を実施している。
八日講由縁によると「名古屋、善光寺間七十余里の山路を遠しとせず、講長が引率して険峻なる坂嶺、不定なる渡船の不便を忍びつつ、わらじ、竹杖に身を託し、徒歩足跣巡礼姿かいがいしく、肩には献納せんとするロウソクを背負い、毎年団参を奨励し、その参詣日数八日を要せしにより、講名を八日講と称せり」と述べている。
そして、その後の変化について、「善光寺内陣に献灯するロウソクを背に負うて、七十余里の坂道を苦しい旅にもめげず善光寺の山門に到着した時には、しみじみと法悦に浸ったであろうことは想像にかたくありません。苦労が多ければ多い程、信仰の喜びを味わったことだろうと思います。しかし、こうした姿は明治時代までであって、大正以降は交通機関を利用するようになり、しかも時代と共に気楽な旅ができるようになりました。でも、単なる物見遊山ではなく、仏の縁によって集まった団体であるという特別な雰囲気が全体に流れております」とまとめている。
講の運営は20数名の世話人の奉仕と相互扶助によって支えられており、善光寺参詣によって心と体の両方の保養ができていることが注目される。

おわりに
春日井市域を善光寺街道が通り、「牛に引かれて善光寺まいり」という耳慣れた言葉は知っていても、当地周辺での善光寺参詣の実態はわからないことが多かった。各地の断片的な資料から江戸末期の状況は、

  • 8日以上を要する遠国参詣であること
  • 個人や仲間での参詣が中心であること
  • 信仰による講組織での参詣は部分的であったこと

のために、尾張の村では参詣に行けるのは、ごく一部の人であった。一生に一度は参詣しなければという信仰に支えられた善光寺への旅は、庶民の憧れであったが、実現できる人は、長年にわたる強い願いと経済的条件の整った人に限られていた。
善光寺は男女を問わず、宗派や仏教の枠をも越えた魅力ある寺院として、現在も参詣者が多いのは、日本人の心を深い所でとらえるものがあるからに違いない。


小林計一郎「善光寺さん」(1973)202頁
志段味の自然と歴史(1986)117頁
安藤弘之「民俗写真集 春日井にしひがし」(1993)44頁
「庶民資料古文書」春日井市教育委員会蔵
小牧市史資料編3(1979)137頁
蟹江町史(1973)455頁から456頁
一宮市史資料編8(1968)518頁
西春町史民俗編(1984)689、1026、1180、1203頁及び大治町民俗誌上(1979)399頁
長野県史通史編第5巻近世2(1988)330頁
正木敬二「東海と伊那」(1978)88~89頁及び間瀬秀一氏談
堀敬文「八日講由縁」(1974)2頁から3頁

ムラの生活

祭りのさばずし

さばの1本作り

三上稲子   名古屋聖霊短期大学教授

市史に記録されている「さばずし一本作り」は、今も秋になると市内あちこちで作られている。
とは言え一般的な生活習慣、食生活の変化と共に急激に希少な食習になりつつある現状にもある。
ここ数年来、春日井市では春日井まつりの一環として、伝統の「さばずし一本作り」の講習会を開き、細々ながら秋祭りの伝承を現代生活に伝えている。
約30年前に出会って以来馴染みの「田楽のさばずし」を、思い出しながら記させていただく。
秋祭り前になると、近所のいさば屋の店先に「すし用塩さば」が並ぶ。1本が30cm余りの尾頭付き背開き、強塩でしっかりとしめられており、店先に無造作におかれていた。
祭りのご馳走は「さばずし」「あじずし」が双璧で、他に刺し身、煮物、酢れんこんなど賑々しいが「すし」に限って作り手は男衆であった。手ほどきして下さったのも、その家のご主人であった。
祭りの数日前、招いた客の数と、親戚知人に届ける心づもりを案じつつ塩鯖を仕入れる。多い家では20~30本もつけた由である。
塩鯖はきれいにひれ、骨を取り除き、酢に漬けて塩抜き、更に甘酢漬けし下拵え、その腹にすし飯を詰め、竹皮で包んで、家の柱や庭先の柿の木に頭を下にして細引き(藁で作った細い縄)で丁寧に縛りつけたものだそうだ。2、3日経って柱から外し、竹皮をとり筒切にして食べる。細引きを持って、ぐるぐると柱の周りを廻るのは子供の仕事であった。
「さばずし」は腐りかけがおいしいとか、竹皮の縁に少しカビが生えたのが旨いとか、いろいろと味わい方も人それぞれである。以下作り方を記す。

さばずし

材料(5本分)
塩鯖 尾頭付き背開きのもの5本
付け込み用の酢、砂糖、適宜
すし飯 米 10カップ(1.5キログラム)
水10カップ
酢1カップ(180cc)
砂糖1カップ(100グラムから130グラム)
塩大さじ1杯から2杯(15グラムから30グラム)
竹の皮10枚、細引き(縄)18メートル
はさみ、骨抜き、重石、ラップ、ポリ袋など

作り方
第1日

  1. ひれや骨を、骨抜きで丁寧に取る。
  2. 洗い桶にためた水で塩を手早く洗う。流水では塩が抜けすぎたり、身が崩れる。
  3. 頭を下にして両手で挟むようにして水気を絞りとる。
  4. たっぷりの酢に漬けて一晩おく。

第2日

  1. 新しい酢と砂糖で甘酢をつくり、もう一晩漬ける。

第3日

  1. 甘酢から引き上げ、よく水気を絞る。
  2. すし飯を作り、それを直径8センチメートルほどに丸く握っておく。(10個)
  3. 水拭きした竹皮2枚1組に、「(6)」の鯖の身を上にしてひろげ、「(7)」のすし飯2個分を包む。5本とも同様にする。
  4. 細引きでかたく縛る。先ず真ん中、次に両端さらにその間々へと順に締める。1本に約9ケ所はど縛る。
  5. 2枚の板の間に挟んで2、3日重石をかける。

第4日以後 
     細引き、竹皮を外し、筒切にして盛る。

郷土散策

木附の水車

右高留雄

木附にはうぐい川沿いに、古くは江戸時代末からの水車が上・中・下と3か所ありましたが、今はなくなってしまいました。そこで、祖母(安政5年(1858)木附生まれ)から聞いたことと、私自身の体験とをもとに、当時の水車の様子を記録に残しておきたいと思います。

水車位置図

創建
木附では上の水車が一番古く、これは、製麺業を営んでいた惣庄屋の右高嘉蔵が、個人で作ったものだそうです。しかし、維持管理の負担が大きいので、当初外之原から移住した中のうち本家5軒と、身内10軒とで利用されるようになりました。
中の水車は、組頭庄屋の右高竹蔵と庄屋の右高善兵衛によって作られ、親戚身内合わせて10軒が利用していました。
その後、上や中の水車を使えない川東(鯎川の左岸)の人達が、組頭惣代の水草八百蔵を中心にして下の水車を作り、10軒で利用するようになったそうです。

水車

水利
上の水車はアの位置にあり、そこから80メートル程上流に堰を作り、川沿い(右岸)に粘土で固めた石積みの水道を作って、水車まで水を引いていました。中の水車はイの位置にあり、堰は100メートル上流に、下の水車はウの位置にあり、堰は150メートル程上流にそれぞれ作りました。そして上の水車と同様の方法で水を引いていました。
堰は、川の流れに対して斜めに、石を詰めた俵を積んで作ってありましたが、杭を打ったり竹を編んだ網をかぶせたりして、堅牢な堰にすることはできませんでした。これは、必要以上に水をせき止めてしまわないためと、大雨の時に堰が切れて川自体を守るためで、そのため7月から9月は毎月といっていいほど大雨や台風で堰が切れるので、その都度作り直したものです。(中の水車だけは特別に、村長の配慮で堰の下半分を石積みにしてありました)
上と中の水車は、隠山池の水を利用することができたので、年間を通して水車を使うことができました。しかし、下の水車は、水道が専用のものではなく、水田用のものを一時利用していたので、水田に水が必要な6月から9月の間は水車を使うことができませんでした。

水車模式図

利用
水車では大麦・米・粟・キビをつきました。
つき方は提灯型の臼(地面に穴を掘り、底に石の臼を入れ、まわりを石灰と赤土を混ぜたものでつき固めたもの)の中に穀物と一緒に杵の径よりも大きめの輪を水平に入れ、杵によってつかれた穀物が輪の内側から押し出され、輪の外側を通って上に持ち上がり(穀物が輪の周りを循環するように)再度杵でつかれるようにしていました。こうすることによって、穀物が均一につけるのです。
上と中の水車は、臼の数が4つ、下の水車は3つあり、利用できる時間は、日の出から午後7時頃まででした。(きまりでは11時頃まで使えることになっていましたが、夜間は水車の音が近所迷惑になるので、実際には遅くまで使えませんでした)
大麦の場合は、1つの臼に5升から6升(1升=約1,500グラム)の麦を入れ、それと一緒に水で湿らせた磨砂2握りとひしゃく1杯の水を入れてつきました。その際に使う輪は、縄で編んだものを2段に入れました。つく間、途中で中抜き(一度臼から麦を出して、ふるいにかけ、ヌカを取り除く)をする必要があり、1臼つきあがるのに10時間程かかりましたので、1日に1回しかつくことができませんでした。特に、麦の場合は輪の位置がずれやすく、ついている間に輪が動いていないかどうか、ひんぱんに様子を見る必要がありました。
米の場合は、1臼当たり1斗(約15キログラム)程度つけ、乾いた磨砂を使い、水は加えませんでした。また、中抜きをする必要はありませんでした。(モチにする場合は、白くするために中抜ををする。)輪は、トタンを2枚重ねて作ったブリキ製のものを1枚使いました。つく時間も麦よりも短く、1日に2回つくことができました。
ただし、このように水車を利用できるのは水車の組に入っている家だけで、組に入っていない家は、入っている家に頼んで、こっそりとついてもらっていました。そのため新家などは、分家するときに親から組の権利(組口数)の一部を分けてもらったものです。

維持管理
水車の組にはそれぞれ2名の役員(2軒ずつ順番)がおり、春と秋の年2回、役員の指示で修繕が必要なところを直しました。
各組にはそれぞれ大工さんが入っており、小屋の修理や杵先の製作は大工さんの役目でした。その代わり、堰や水道を直したりするのはそれ以外の人で行いました。また普段らら補修が必要な所は、こまめに手を加えていました。
費用の面では、年貢として水車小屋の借地料や、ロクロに塗る油代等の諸費用が必要でした。これには、盆と正月の前に水車の利用者から「かかり費」を集金して充てました。そのため、水車小屋には常時大福帳を備えておき、いつ・誰が水車を利用したかを記入し、その利用の割合に応じて集金の金額を決めていました。

注意事項
水車順番板鍵付毎日一軒に一日とする
臨時休正月三が日、大雨、台風時休み
仲間組作業春、秋
修繕日一日全員動員
稼働時間朝四時より夜十一時まで
当日番の人は必ず、ろくろに油をホセで塗付すること。
人身事故が起きるので、必ず見張人を配り付け、夜間は提灯を点けて水車の中に入ること。

  • 終了後は必ず掃除すること。
    故障の時は次の順番者に報告のこと。
  • 当時水車小屋の中に掲示してあった

廃止
上・下2か所の水車は、昭和32年8月7日の集中豪雨により流失しました。中の水車は、昭和34年9月27日の伊勢湾台風により大破してしまい、8ケ月の期間をかけ修理されました。この後、この中の水車も河川改修により撤去されることになり、地元民たちの強い希望により昭和48年5月に、明知町の旧老人福祉センターに移設保存されることになりました。

白山村での子どもの頃(昭和20、30年代)

伊勢山より白山を望む

松本長   名古屋第1高校教諭

白山の子どもの頃の思い出というと、何といっても夏の「おまんと」と、秋の「おこもり」である。私と同年代かそれ以前の人は皆同じだろう。
「おまんと」(馬の塔)は7月末の土曜日と日曜日の2日間、村中で楽しんだものである。
昔から白山には、向い方、東、東中、西中、北、茶屋、西谷という7つの島があり、私の家は東中島であった。
「おまんと」の馬元はそれぞれ島の中で持ち回りで、祭りの1日目は馬元に、午後、子どもたちが学校から帰る頃、大人が集まり、子どもたちのために馬作りをして、子どもの数だけ竹笛を作った。竹が余れば竹刀も作ってくれた。
竹笛が鳴って「馬が出るぞお」という合図があると、各島から男の子たちがそれぞれの島の馬をかついで白山村の中心にある「堤の池」に集まった。馬が集まると、馬は揃って堤の西側にあった「おてんの様」を3回まわり、次に「堤の池」の堤を3回まわる。この池の堤は、子どもの足ではとても長いので、馬を担ぐ子どもたちは途中で何度も交代した。
その後、また各島に帰り、馬元の座敷に納めてから自分の家に帰った。
翌日は、いよいよ本番。朝早くから白山の各地で竹笛が聞こえると子どもたちは誘い合って馬元の家に集まり、馬を出すのであったが、馬の担ぎ手の人数が問題であった。

東中島の担ぎ手たち

東中島は子どもの数が少なく、私が親分であったときは、子どもは3人になってしまい大変困った。馬元の親戚の子にも加わってもらい、やっと4人になった。 
前日と同じように堤の「おてんの様」の前に村中の馬が集まり、「おてんの様」を3回、池の堤を3回まわり、それから村中の馬元を東から向い方、東島と順番に回った。馬元では子どもたちにお菓子や果物の接待をしてくれる。これが子どもたちの大きな楽しみであった。大皿に山盛りの梅干し、きゅうりの塩もみ、黄うり、冷たい井戸水が大バケツにいっぱいあった。

この時も、いただくのは親分が先、小さい子はその後だった。馬元の主人が祝儀をくれるが、これも親分が受け取る。
親分は、馬の担ぎ手の中で最年長の子どもで、私も親分になるのを楽しみにした。
こうして各馬元や村の商売屋で接待や祝儀をもらいながら練り歩き、白山神社へお参りする。ここで小さい子どもは残し、年長の子どもは神明の薬師様までお参りした。小学2年の時、私はついていったものの途中でへたばって泣きながら担いだこともあった。
また、他の島の子どもたちや大人から喧嘩をふきかけられることもあり、馬に付いている津島神社のお守りを取られないようにと懸命に逃げた。
そして最後に白山神社で祝儀を分配した。私の東中島は子どもの数が少ないので分配も少なかった。祝儀の分配をするのは親分の親分で、私もいつかこの親分の親分になりたくて一生懸命担いだが、1回もなれなかった。
その後、馬元に帰り、馬元の風呂に入り、うどんやご飯やスイカのご馳走をいただいた。帰り道、よその島の馬元をのぞきに行って、ご馳走が多かったの、スイカがなかったのといい、時には竹刀でけんかもした。
村の子どものもう一つの楽しみは「おこもり」(秋葉山)であった。おこもりは12月初めである。東中島と西中島合同で、今の臼田君の家の前の竹薮に常夜灯があり、そこにむしろで囲った小屋を作ってもらい、おこもりをした。子どもたちはおこもりの2、3週間前から、学校から帰ると白山神社の山に行ってたきぎ集めをした。
当日は夕方になると、小屋の中で火が焚かれ、子どもたちが「ぼた餅もってこい、ぼた餅もってこい」と大声で呼ぶと、東中島と西中島からぼた餅の入ったおひつが運ばれてくる。これを大人たちに分けてもらい、これを食べて一夜を過ごす。大人たちが帰ると子どもの天下。味飯(アゲやちくわや時にはサンマの入った)の大きな握り飯を2個ずつもらう。中には5個ももらう子もいた。大人たちは「お日待ち」といって酒を飲んでいたが、これが終わると、子どもたちの火を心配して見回りにきてくれた。
夜明け頃になって腹が減ってくると親分が「クシダさの畑のミカンとってこい」「カズオさの小屋の干し柿をもってこい」というと子分が盗みに行った。親分は昼間のうちに島中を見回って下調べがしてある。
今思い出しても、よくやったと思うのは「シンイチさの鶏小屋へ行ってニワトリのオンタの大きい奴を取ってこい」と言われて誰かと取りに行ったことである。誰が料理したか覚えていないが、家からタマリを持っていって食べた。大根やネギも盗んだ。昔は、そんなことで怒られることは一度もなかった。それ以外に泥棒など全くない平和な村であった。子どもたちのためにわざわざ取り易いように置いてあったのかもしれない。
その他、子どもたちの楽しみは、お月見、お釈迦、盆おどり、二十二夜様と様々にあり、田植え、稲刈り、田おこしなど百姓の手伝いもよくやった。畑仕事のないときは、学校から帰ると、きのことり、ヘボとり、山芋掘り、小鳥掛け、魚取りなど悪ガキメンバーで遊んだ。
魚取りは、小川をせき止めてとる「かえどり」である。バケツで水をかきだし魚が見え出すと、子どもなので魚が気になって水をかいだす手がお留守になって水が流れ込み、魚が全く取れないこともあった。それでも1日3か所くらいかえどって、フナ、ウナギ、モロコ、カニなどを大バケツ一杯取った。これを持ち帰り、ナベやカマを持って行って魚を焼いたり、煮たり、勝治君の家でシコ(お日待ちのようなこと)をした。こんなことが一番の楽しみだった。
子どもの中には、それぞれ名人がいて、ウナギとりは和正、小鳥掛けは私や隆がうまく、茶屋島の子どもはお宮の山のきのこ取りの名人だった。西中島や東中の子どもは小鳥掛けや空気銃で鳥を打つのが上手だった。
私の小学校時代は、学校に行っても勉強など誰もしなかった。今なら全部落ちこぼれである。あの頃から40年が過ぎても昔の仲間は時々集まって昔話に花を咲かせている。白山には昔のワンパク坊主がまだ大勢いて賑やかに騒いでいる。

白山信仰16

村中治彦   本誌編集委員長

内々神社奥之院狛犬の事
昨年11月20日(日曜日)、文化財友の会で、内々神社と内津宿探訪に出かけた。折から、内々神社で開催されていた文学祭に合流し、昼食後奥之院まで足を延ばした。
奥之院巌屋神社に参拝するのは3度目であったが、カメラを持って行ったのは初めてのことであった。これまでに薄暗い巌屋の奥を見たことはなかったが、カメラのピントを合わせるために、巌屋の奥の小祠の辺りを注視すると、一対の狛犬らしいものが見えた。そこで、これにピントを合わせてシャッターを切った。
出来上がった写真を見ると、陶製とおぼしき狛犬の背に「奉上玉野村加藤助左衛門同忠次郎」の文字があった。さらに、三方に置かれた御札には、建稲種命、菊理媛命の神名が読みとれた。菊理媛は白山神である。建稲種命は内々神社の主祭神であるところから、奥之院に祀られていても別段不思議ではない。
しかし、白山神である菊理媛命が何故ここに祀られているのかという点については、大いに興味の湧くところであり、加藤助左衛門・同忠次郎奉納の狛犬との関係が解明されれば、私にとって胸おどる発見である。
そこで、内々神社氏子総代の小栗邦雄氏に調査の許可をお願いしたところご快諾をいただいたので、文化振興課と民俗考古調査室の担当者立合いの下で調査をした。

陶製狛犬

台座裏の墨書銘と御札の神名

その結果、陶製狛犬について次のようなことが判明した。
高さ 阿形41センチメートル(両耳缼損) 吽形41センチメートル(耳まで42センチメートル)
台座 阿形長径27.5センチメートル、短径20センチメートル 吽形長径26センチメートル、短径18.5センチメートル
施釉 全体に灰白釉で仕上げられており、たて髪の部分はコバルト(呉須)による染付が施され、淡い青色を呈している。
銘文 阿形「奉上玉野村加藤助左衛門同忠次郎乙卯寛政七年九月吉日」
吽形「奉上玉野村加藤忠次郎 同助左衛門乙卯寛政七年九月吉日」
台座裏(阿吽共)「春日井郡瀬戸村 加藤孫右衛門春丹造之」

加藤助左衛門
助左衛門は生年不明、没年は文化14年(1817)。父の伊六(加藤徳右衛門)には3人の子があり、長男は父の名を受け継いで加藤徳右衛門を名乗り、次男の則義が初代の加藤助左衛門である。『高蔵寺町誌』人物の項には、助左衛門が中心となって文化年間(1804年から18年)に村庄屋森源八の協力と水野代官所の許可を得て、玉野用水工事を完成させたとある。狛犬の銘寛政7年(1795)には助左衛門は実在していたと考えられるので、同一人物であろう。尚、加藤忠次郎については玉野太平寺の過去帳により調査したが不明である。
加藤孫右衛門春丹
陶祖藤四郎景正本家22代で、加藤孫右衛門春福といい、春丹と号す。元第19代春清の一子甚太郎の3男であったが、本家21代定七春定の養子となり、本家22世を相続した。歴代中の名手であったといわれる。文化4年(1807)正月没である。
神名を書いた御札の裏面には、次のような尾張氏の祖神とされる四柱の神名があるのみであった。

天火明命(父)
天道日女命(母)
天香語山命(子)
乎止與命(11世)
残念ながら、菊理媛命奉祀の由来については不明であり、今後の課題となった。

〈協力者〉本多静雄氏

発行元

平成7年9月15日発行
発行所 春日井市教育委員会文化振興課

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