郷土誌かすがい 第13号

ページID 1004479 更新日 平成29年12月7日

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昭和56年12月15日発行 第13号 ホームページ版

行者堂

行者堂(市指定文化財)

宮町 行者寺

大峯山行者寺は、天明6年(1786)に宮町の名倉藤蔵が役(えん)の行者を祀るために、堂宇を建立したのが起りだ、と「行者堂明細書」は伝える。現在の堂は、文政11年(1828)の新築で、鬼瓦に刈谷で焼成された旨の刻銘がある。その後、建物は大正3年と昭和51年に修復され現在に至っている。山嶽信仰が仏教と深く習合し、俗信として秋葉祭りが庶民の間で盛行した。その証(あかし)として本堂の意義は大きい。
構造は、方3間、入母屋造、1間向拝付、桟瓦葺、四方に切目縁を廻す。正面に3級の木階を付け、扉構えは上方が半蔀(しとみ)、下方が格子の嵌(は)め殺しである。組物は柱上、大斗肘木(ひじき)、虹梁(こうりょう)には木鼻(きばな)があり、母屋(もや)と向拝(ごはい)とを海老(えび)虹梁でつなぎ、 手挟(たばさみ)を入れる。両側、前1間に舞良戸(まいらど)を建て、他は板壁とする。内部は格(ごう)天井、後1間に檀と造付(つくりつけ)の須弥檀(しゅみだん)を置く。造り付の厨子は唐様、後方寄りに来仰柱を立てる。周囲に内法長押(うちのりなげし)を廻し、柱を固める。妻は虹梁、大瓶束(たいへいづか)で破風付とする。三花(みつばな)風の猪(い)の目懸魚(めげぎょ)で棟をかくす。脇障子は損亡したので、柱だけ立つ。修理後は、面目が一新し、すっきりとしたたたずまいをみせている。そして江戸末期ながら当地方の寺院建築の一範例として地元では保存につとめている。
梶藤義男 市文化財保護委員

郷土探訪

春日井の交通手段の変遷

伊藤浩 春日井市文化財保護委員

去る6月1日の市制38周年記念に発売された、春日井コミュニティかるたの中に「下(した)街道歴史と文化をつなぐ道」「国道19号春日井市の大動脈」「中央線市内を結ぶ駅5つ」の詞句が採用されている。
春日井の交通を語るには、下街道(国道19号)、稲置街道(県道名古屋犬山線)、中央線を取り上げなければならない。そのうち街道については次回に掲載されるので、今回は交通手段の移り変りを中心に述べることとする。
『尾張名所図会(ずえ)』に「勝川駅、名古屋より内津・池田などを経て、木曽街道大井駅に出る馬継にて、これを下街道という。尤も旅舎休茶屋多く賑はしき所なり。殊に春より夏に至る間は伊勢参宮、善光寺参りの旅人おびただし」とあるが、明治になってからは手甲脚絆(てっこうきゃはん)に振分け荷物の旅人姿や、駕篭かきの威勢のよいかけ声がだんだんと消え、やがて街道は人力車や馬車が走るようになった。もっとも「外之原街道棒かつぎ」の俗謡にあるように、零細な百姓の賃かせぎは大切な副業であった。

人力車
明治2年頃東京で発明された人力車は、たちまち全国各地へ広まった。当地方では宿場町であった内津と勝川に早く現れ、内津では鳥居良安医師(現鳥居外科良彦氏の曽祖父)がよく利用したという。同8年には60余台と増え、10年頃2~3キロの運賃が2銭くらいとなり、庶民も乗れる時代となった。勝川には「札(ふだ)の辻」(元高札(こうさつ)の立て場所)と呼ぶ、愛宕(あたご)神社付近三叉路の一角に人力車の溜場があり、中央線の開通(明治33年)後でも、常に5、6台の人力車があったという。また、勝川駅ができると駅前に人力車の小屋がおかれ、5、6台が常駐していた。
ちなみに、明治天皇行幸のあった明治13年、坂下の万寿寺が行在所(昼食)となった折、402人の供奉員の中に車夫44人がいる。これらは全員公卿、官員付であるから、人力車がこの台数現地調達されたものと思われる。その時総代、東春日井郡長林金兵衛の文書「御通輦継立人足賃調」には、坂下より名古屋までの人力車10輌50銭、人夫100人40銭、馬3疋75銭となっている。
下街道筋の道中記(明治21年改正真誠講)の道中心得に、次のようなくだりがある。
人力車にのるときだちんをとりきめ、おりる所で銭を出すべし。
ふね・人力車・馬車などおりるとき、かならず荷物ほところあらため見よ。
その頃の旅人に重宝がられていた様子がうかがえて面白い。人力車は一方、自家用車としても普及していったが、持ち主は主に中級官吏、医師、産婆などであった。この人力車も大正の中頃を境に次第に姿を消していった。

馬車
乗合馬車は、明治2年頃京浜地方で営業が始められたという。名古屋では14年頃広小路-熱田間で開業した。20年代に内津妙見宮-大曽根間の下街道を往来しており、経営は内津と勝川の人だったという。25、6年になると岐阜県側にも走るようになったが、33年の中央線開通から省線駅と沿線各地を結ぶ路へと転進していくことになる。しかし、その後も乗合馬車が絶えたわけではなく、大正3年坂下-篠木-勝川-大曽根間が復活した。料金は区間毎10銭(勝川-大曽根館は8銭)、馬車は6人乗り2台で1日2往復であったが、採算が合わず翌4年中止した。
稲置街道では、日露戦争の頃から名古屋-犬山間を1日6往復するようになった。こちらは自転車の普及や自動車の発達で大正7年に廃業した。
荷馬車は自動車が普及するまで貨物輸送の主力であって、中央線の開通以前は、小白木、生糸、陶器などが下街道を名古屋方面に運ばれた。また、中央線敷設の時は建設資材が続々と名古屋から運ばれて来た。しかし、開通後は停車場が貨物の集散地となったので、荷馬車はそこを拠点として沿線奥地まで輸送を行うようになり益々利用度を増して来た。当時篠木地区だけでも全盛の頃は、百数十頭の馬がいたといわれ、これらの多くは農耕用との兼用であった。名古屋へ輸送される主なものは亜炭と米で、特に亜炭は芝炭鉱や出川炭鉱から多量に掘り出され、高蔵寺駅から桑名や一宮方面へ、また直接瀬戸や近在の町村、更には名古屋へ運ばれた。名古屋の帰り荷は材木、薪炭、味噌溜、塩等が多かった。坂下では20軒くらいあり、大野角次郎氏は主に菓子を新道(しんみち)の問屋から仕入れ、多治見、駄知、中津川の菓子屋に卸していた外、明知では多治見-瀬戸間の窯業原料の石粉を専属に運ぶ人が3人いた。一方、稲置街道では岐阜県高山方面までも荷馬車を利用したという。

自転車
自転車の国産第1号は明治6年とされているが、生産開始は20年以降のことである。21年愛知県税として自転車税(1台20銭)が課せられた頃から流行し始めた。日露戦争の頃、鳥居松の医師が大金250円で最新式のものを購入して近所の評判になった。明治40年勝川に自転車預り屋が出来たことから、かなり普及していたらしく、大正に入ると勝川、鳥居松、鷹来、味美などにも自転車屋ができてきた。同3年の新聞記事に、妙見寺の裏山の桜を見るため、遠乗会を催すとあるので、各地の普及状況がうかがえる。

長縄自動車商会と乗合自動車

自動車
現代はまさに車社会であるが、当地方では稲置街道が早く明治40年頃大曽根の丸八商会が大曽根-小牧間に貸自動車(タクシー)を始めたが採算が合わず中止した。大正7年になって同社がバスを走らせた。幌型自動車で8人乗り2時間毎に発車し片道50銭であった。同15年になり経営者が味美の太田氏になってからは回数も増え料金も安く(春日井-大曽根間15銭)て非常に便利になった。下街道の方は、同9年坂下の長縄勝治氏がフォード3人乗を5人乗に改造して貸自動車業を始めた。翌10年同氏が高蔵寺-坂下間にバス路線を設けた。料金は30銭で1日6往復し、乗客は平均3、4人だったという。同13年高蔵寺-瀬戸間と路線を延長した。
また、大正の終り頃羽田野氏が坂下-内津間にバス営業を始め、やがて多治見まで延長した。昭和の初めまではバス事業は、自動車を購入する力があれば、路線の開設は割合簡単で各地でバス路線が伸びていった。
一方、荷馬車も大正末頃から逐次トラックに変っていった。多治見の陶器を最初にトラックで運んだのは、四ツ谷の稲垣庄吉氏であったという。また、昭和2年内津の夫馬繁三郎氏が1,000円で、トラック1台と車庫を購入したのがこの地のはじめといわれる。

中央線
中央線が敷設されたのは明治33年で、まず名古屋から多治見までが開通した。当初の計画では下街道に沿って敷設される決定がなされたものが、坂下地区の大反対で路線変更を余儀なくされた。
その頃坂下地区は県下でも屈指の養蚕地帯で、田畑が少ないところから現金収入の大部分はこれに頼っていて、「お蚕さま」と呼ぶ程であった。そのお蚕さまの飼料の桑の葉を陸蒸気の煤煙によっていためるおそれがある。お蚕さまが病気になったら大変だし、その上少ない山間の田畑を失うこと、下街道に依存する旅篭や、数多い運送を業とするものたちも含めて死活問題であり、更には他所者の出入の急増により風紀が悪くなること、美しい緑の自然の景観が破壊されることなどの理由によったものである。他の地区で多少の反対もあったようで、当時は陸蒸気という文明の交通機関に対する認識が、せいぜい便利なもの、ぜいたくなもの程度のものであった。この反対がその町の将来を大きく塗り変えていくことまでは、見通してはいなかった。
このため名古屋-多治見間は現在の路線となり、玉野川沿いのトンネルの難工事から始められた。開通した当初の市内の駅は勝川、高蔵寺の2駅で、その後大正13年に定光寺、昭和2年に鳥居松(現在春日井で昭和21年改称)昭和26年に神領の各駅が増設され、文字どおり「中央線市内を結ぶ駅5つ」となった。鳥居松駅ができる頃は開通当初と全く違い、土地は提供する寄付金は出すのと住民の猛烈な誘致運動が展開され、その完成時には花火をあげてまでの祝賀行事が行われた。
中央線の開通後、最も大きな影響を受けたのは下街道で、長距離貨客はもとより善光寺・御嶽詣りの白装束の列も姿を消し、坂下の藤屋は人力車夫が10人も常駐する旅篭でで、行商人の常宿であったが、遂に閑古鳥が鳴く程のさびれ方であった。

しかし、現在は中央線の増強、瀬戸線の併行敷設とともに、車の洪水は国道19号線のバイパスの貫通、環状2号線の完成が焦眉の急となった。乗合馬車は、明治2年頃京浜地方で営業が始められたという。名古屋では14年頃広小路-熱田間で開業した。20年代に内津妙見宮-大曽根間の下街道を往来しており、経営は内津と勝川の人だったという。25、6年になると岐阜県側にも走るようになったが、33年の中央線開通から省線駅と沿線各地を結ぶ路へと転進していくことになる。しかし、その後も乗合馬車が絶えたわけではなく、大正3年坂下-篠木-勝川-大曽根間が復活した。料金は区間毎10銭(勝川-大曽根館は8銭)、馬車6人乗り2台で1日2往復であったが、採算が合わず翌4年中止した。 稲置街道では、日露戦争頃から名古屋-犬山間を1日6往復するようになった。こちらは自転車の普及や自動車の発達で大正7年に廃業した荷馬車は自動車が普及するまで貨物輸送の主力であって、中央線の開通以前は、小白木、生糸、陶器などが下街道を名古屋方面に運ばれた。また、中央線敷設の時は建設資材が続々と名古屋から運ばれて来た。しかし、開通後は停車場が貨物の集散地となったので、荷馬車はそこを拠点として沿線奥地まで輸送を行うようになり益々利用度を増して来た。当時篠木地区だけでも全盛の頃は、百数十頭の馬がいたといわれ、これらの多くは農耕用との兼用であった。名古屋へ輸送される主なものは亜炭と米で、特に亜炭は芝炭鉱や出川炭鉱から多量に掘り出され、高蔵寺駅から桑名や一宮方面へ、また直接瀬戸や近在の町村、更には名古屋へ運ばれた。名古屋の帰り荷は材木、薪炭、味噌溜、塩等が多かった。坂下では20軒くらいあり、大野角次郎氏は主に菓子を新道(しんみち)の問屋から仕入れ、多治見、駄知、中津川の菓子屋に卸していた外、明知では多治見-瀬戸間の窯業原料の石粉を専属に運ぶ人が3人いた。一方、稲置街道では岐阜県高山方面までも荷馬車を利用したという。

ふるさとの歴史

近世の村2 農業・農民

安藤慶一郎 金城学院大学教授

『尾張徇行記』は、文字どおり、近世末の村々廻村記である。これをみると、多くの村が、「小百姓バカリ」で構成されていたことがわかる。春日井市域内の村々も例外はなかった。「小百姓」という言葉が意味する内容は何であったろうか。
土地所有という側面から、この点についてみてみよう。春日井市史(第4章)にみると、少なからぬ村では、5石未満(約4反歩)あるいは1石未満(約8畝)の小百姓が多かったことがわかる。いうまでもなく、この数字は近世も終わりころのものである。元禄期には10石前後の高持百姓が、少なくとも村の中核をなしていたはずである(例えば上大留村)。とすると、近世中期から末期にかけて、土地所有の細分化が進み、小百姓が増え、多くの村々の性格を変えていったことになる。
商品経済の進展につれて、土地の売買が実質的に多くなり、土地の集中・分散現象がみられるようになったことはいうまでもないが、分家による戸数増加、それより生ずる持高の細分化の点も考慮する必要がある。大きな高持百姓は、分家に自立できるだけの土地を与えることが可能であるが、本家の持高の減少はさけられない。開拓に余裕のみられた時期はともかくとして、限界がでてきた中期以降では、土地の細分化はさけられない問題であったのである。
土地の変動は、地主と小作農民という2つの階層を、村の中におのずと発生させていった。下原新田の天保14年(1843)掟反別書上帳」によると、田畑総面積の約32パーセントが小作地となっている。とくに畑の小作地化が目立っている。特定の家に土地が集中した事例として、勝川村H家をみてみよう。商業をかねていたこの家では、文久3年(1863)にはほぼ60石の高を所持し、その小作人は39人に達していたという。きわめてわずかな事例をみただけでも、地主小作関係が江戸時代の終わり頃には広くゆきわたっていたことが理解できる。

村の景観

零細な土地所有を基盤として、農業に従事せざるを得なかった当時の農業経営の中味はどうであったろうか。史料はきわめて心細い限りであるが、断片をつないで、江戸時代末期の様子を描写してみると、およそつぎのようなことになる。
稲作が主体であったことはいうまでもないことであるが、稲の品種は、早稲がほとんど栽培されず、晩稲(おくて)が多かった。籾蒔きは、旧暦3月中旬から下旬にかけてが普通であった。つまり、「八十八夜」前後に苗代田に籾を蒔付けたことになる。田植は5月中・下旬。これがすむと、庄屋は代官所へ田植終了の月日を報告した。田草取りは3回ほどした。稲刈りは、10月上旬から中旬にかけて行ない、引続いて、稲こき、唐臼(とおす)ひきをした。収量は反当り約1石1斗余(天保14年、西尾村田面帳)であるが、これは「坪刈り」の際の数字であるので、実際は、これをやや上回っていたとみてよかろう。このように低い収量しか得られなかった当時では、年貢米を差し引くと、手もとにはさほどの米も残らなかったにちがいない。小作百姓の場合はとくにそうであった。
裏作について、徇行記は「田麦ヲモ七歩通ハ年々蒔付キタルト也」(松河戸村)、「田麦モ植ルナリ」(神領村)と記しているが、その実体はあきらかでない。萬(よろず)覚帳などに記されている「小麦マキ」「麦マキ」人足のことをみても、その数はきわめて少ない。麦作が小規模であったことがうかがえる。
畑作物は雑穀中心で、大豆・小豆・そば・ひえなどが主流をなしていたと考えられる。「田畑仕付時節覚帳」(安永年間)に記載されている作物には、なす・うり・かぼちゃ・とうがらし・綿・あずき・あわ・だいこん・ささげ・大豆・ひえ・ねぶか(ねぎ)・ちしゃ・なたねなどがある。
こうした雑穀とは別に、木綿の栽培が近世中期以降になってあらわれる。西尾村では、3町8反9畝余歩の畑地に綿を仕付けていた。(明和8年)。この面積からみると、この村の畑作物のなかで綿が首位にあったことはまちがいない。西尾村の綿作面積はその後も増加し、天保14年(1843)には、総畑作面積の70%に達している。この傾向は、当地方のどの村にもあてはまるといえないかも知れないが、現金収入のために、綿作は大切な商品作物であり、事情の許す限り、作付されたと考えられる。
甘藷についてみると、「徇行記」は「春日井郡中東北山ヨリノ村邑ハ芋ヲウエレド地ニアワズ、作ル事少シナリ」(神屋村)とのべている。芋作りでも、村によって作付けにちがいがあったことがわかる。その他の畑作商品作物として、えごま・たばこ・茶があった。なかでも、内津(うつつ)では茶の栽培が盛んで、「内津茶」として知られ、名古屋・信州・江戸へも送られたという。
肥料はいうまでもなく自給で、不浄(大小便)・堆肥が主なものであった。風呂水も大切な肥しであったというから、当時の農民がいかに肥料に苦心したかがわかる。牛馬の飼育は小百姓にはみられず、上層農民に限られたようであるから、厩肥の利用が可能であったのも、一部の農民にすぎなかったということができる。明知村では、信州から名古屋へ荷を運んでいた牛を冬の期間だけあずかり、厩肥作りを心掛けたという。金肥として種粕を購入したいものもいたが、これとて、下層農民には縁のないことであった。名古屋近在の農民はこぞって、名古屋の商家と特約して、その下肥を買取った。1両に38荷ぐらいが相場だったようである。勝川村ではこうした下肥の利用者が少なくなかった。
零細な土地所有・農業経営によって、生計をたてることは困難であったから、農閑を利用して現金収入を考えた。養鶏の養蚕なども行われたが、規模は小さかったようである。行商によって現金収入をはかった村もあった。玉野村では藤箕(ふじみ)を作り、岡崎・刈谷・西尾など西三河方面までも売り歩いた。なかには京・大阪まで足をのばしたものもあったという。鯖(さば)を東美濃や信州まで運んだものもいた。白山(しらやま)村では、瀬戸物・塩魚・綿の売買に従事するものがいた。内津では30人余りものが商業にたずさわっていた。店売りは10人で、ここでも行商が多かった。
街道筋の勝川・坂下・内津・関田などの諸村では、旅館を兼ねるもの(上層農民)、駄賃稼ぎをするもの(小百姓)が少なくなかった。関田村では、陶器(瀬戸・多治見)の運搬に従事したもの、瀬戸へ薪割りや土こねにでかけたものもいた。山間の内津・外之原(とのはら)・廻間(はさま)・白山・高蔵寺(こうぞうじ)といった村々では、薪を切り、炭を焼いて、小牧の市へだすものもいた。
近世末の生産・生業の担い手としての当時の農民家族をみると、一般に3人から5人程度で、その規模は小さかった。高持百姓と無高百姓とをくらべると、やはり高持百姓の方が家族人数が多かった。小農民の生活圏も、今日からみれば広くなかった。家と家の交流を示す通婚の範囲(通婚圏)がそれをよく物語っている。下原新田を例にとって、天保11年(1840)から明治3年(1870)までの通婚状況をみると、村内婚が多かったことはいうまでもないが、近村との通婚も少なくなかった。春日井郡以外では丹羽郡・愛知郡、他国では美濃の加納や三河の岡崎との通婚もみられる。下原新田の一部は下街道(善光寺街道)に沿って、街並を作っており、住民には移住者もあったはずで、そうした人が遠隔地と通婚を結んでいたと思われる。

文化講座

密蔵院について

池山一切円 延暦寺 副執行・強化部長

密蔵院は、灌室(かんしつ)と談義所とを兼ね備えていた点、天台宗の中でも他に余り例を見ない特長を持つ寺であった。灌室とは、大日経などによって密教を修学した末寺の僧が、密教最高の即身成仏の秘義を授法する道場のことである。談義所とは、多くの学生を集めて、法華経などの顕教による成仏の道を研鑚修学する道場のことである。この両方を兼ねていたのであるが、實は室町時代には談義所として活躍した面が強かったようである。
天台真盛宗開祖真盛上人が、嘗(か)つて学生として修学していた長禄、寛正時代(1458~1460)は、密蔵院は篠木談義所として盛んに論談決択(けつじゃく)が行われていたことは明らかである。後の元和復興に際しての珍祐僧正の再興状に、嘗つては学侶が雲星の如く連なり、論談決択の鳴(めいけん)、台門(天台宗のこと)の威光、日域に耀いた。と誇らしく述べられているのは、談義所として栄えたことを讃えている言葉である。密蔵院に現在も、三周義、宗要集私案立、宗要集文科簡抄などの論義古書が残っているのは、談義所盛行時代の名残りである。
一方、密蔵院葉上流灌頂印信を見ると、歴代住職中、その名が載っていない人がある。それは、中世の住職だけに限られ、しかも初代から徳川時代に入る直列の第28代までの28名の住職中、20名の多きに及んでいる。このことは、これらの住職在世中には一度も灌頂行事が行われなかったことを示すものである。蜜蔵院が栄えていたことが明らかな長禄、寛正時代の、花やかな学顕職であり住職であった雄源や實慶までが、灌頂印信(いんしん)に名前が見えないのは、談義所として栄えていても、密教の教育や灌室の機能が如何に軽視されていたかを知ることができる。
そのためか近世の密蔵院は、このような中世談義所盛行の反動として、密教灌頂に主眼点が置かれて復興されたのである。
徳川時代に入ると直ちに灌頂が行われたようで、以後途絶えることなく続けられたことは、第29代秀純が灌頂印信に名を列ねて以来、その後歴代住職が一人も欠けることなく印信に名を出していることからもわかる。又、31世珍祐による伽藍復興の時に、国守徳川義利公を動かして、先づ灌頂堂再営から始まったことも、このことを物語るものである。又、元和6年の密蔵院制詞の第一に、「密蔵院開壇灌頂大阿闍梨(あじゃり)位、乃至受者など、伝法授戒を執行致すべき事」を掲げ、次いで他寺他山の道場で余流の密法戒律を禀受(ひんじゅ)することはもっての外であるなどと誡(いまし)めているのも、全(すべ)て密教受法、灌頂伝法に関する制詞である。これらのことから、徳川時代復興以後の密蔵院が、東海地方一円の天台宗寺院の本寺としての實質と威厳とを保ってきたのは、一に密教灌頂執行を通じてのことであることがわかる。
この灌頂について、ごく簡単に紹介してみよう。
灌頂とは、印度の国王が即位する時、四大海の水を汲んで、王の頭頂に灌(そそ)ぎ祝意を表したことに由来し、弟子が密教の行(四度加行)を積み、最後の位である阿闍梨位になる資格ありと見定めた時、伝受する儀式である。
灌頂を受けるには、それまでに如法(にょほう)な行が積まれなければならない。師匠の指導の下で精進潔斎(けっさい)しておこなわれる行である。毎日午前3時に起床し、どんな寒い時でも、水を浴びて体を清め、その日に仏に供える清浄な水を汲んでおくなど、定められた色々の所作をする。そして、午前4時からの朝の修法に始まって、1日3座、休む暇もない日々を180日勤めつづけるのである。180日の間の修法の内容は、礼拝行を前行として、十八道、胎蔵界、金剛界、護摩供(ごまぐ)の4種類を修するので、4度加行と云われている。各末寺で4度加行をつとめあげた弟子が初めて密蔵院へ上って灌頂を受けることができるのである。
灌頂は先づ式頂戴から始まり、許可、取水、懺悔(ざんげ)、三昧耶戒(さんまいやかい)と進み、胎蔵界、金剛界、合行、瑜祗(ゆぎ)、第五灌頂でようやく終るのであり、前後数日はかかる大行事である。
道場内面の周囲に八色幡(ばん)がかけられ、中央に曼荼羅が祀られ、その前に大壇、脇に正覚壇や護摩壇が設けられる。
道場内には薫香(ぐんこう)が立ちこめ、多くのまたたく灯光は、内部を幽玄に照らし、壇上の密厳具(みつごんぐ)が金色燦然と映発し、曼荼羅の諸仏の尊さ美しさや、百味の飯食(おんじき)が希列して献供されているさまは、諸仏諸尊が道場内に降臨して、眼前にいますが如き感がする。道場に引入せられた弟子は、声明梵唄(しょうみょうばんばい)の妙なる声を聞きながら、含香(がんこう)、塗香(づこう)によって更に身心を清められ、覆面して大壇の前に導かれ、そこで投華(とうげ)する。華の落ちた場所に示された仏こそ、過去悠久の昔からの因縁の仏であると知らされ、ここで初めてその仏と対面するのである。次いで、最極秘義の正覚壇に登って、嫡(ちゃく)々相伝されてきた、大日如来五智の瓶水を頭頂に灌がれて、大日如来と一体になり即身成仏の境地を発得する。
このような、大日如来の内証を獲得する密教修行の極菓の大行事が、この密蔵院で行われてきたのである。

密蔵院の仏画(市文化財講話より)

梶藤義男 春日井市文化財保護委員

市内密蔵院では寺院のご好意により、去る8月2日(日曜日)開創以来初めて秘法展が開かれた。
私はそれにお招きいただき、市の依頼をうけて講座を担当したので、その日折悪しくご参加できなかった方々のために、列品の一部を紹介したい。今回は紙数の関係で県指定文化財(既に解説書『県指定文化財図録』が刊行されている)を除き、市指定文化財及び未指定の絵画を中心に採りあげ私見を述べよう。

  •  絹本着色慈妙上人画像
    縦108cm、横43 cm、掛軸装、右手に三鈷杵(こしょ)、左手に数珠(じゅず)を執り、緑色の上畳(あげだたみ)上やや右向き加減に端坐する雲文文様の入った茶褐色の衲衣(のうえ)を着け、袈裟(けさ)を掛ける。前机上には法華経8巻や経筥(ろ)及び布包等を置く。背景の褐色が上人の謹厳な容姿とよく調和する。写実に少し技巧の稚なさが感ぜられ、堅さもみられる。江戸初期の作であろう。
  •  絹本着色愛染明王像
    縦87.5 センチメートル、横51 センチメートル、掛幅装、赤い日輪を背にして、第1手は五鈷杵、五鈷鈴を執り息災を、第2手は弓、箭(や)を執り敬愛を、第3手は蓮華及び拳で調伏を示す六臂(び)像である。赤身で三眼、頭上に獅子冠を戴き、宝瓶(ほうべい)のついた蓮華坐に坐す。曼荼羅中の一尊のように円相内に画く。台座の下方に宝螺(ほら)貝と三宝を装飾的に配する。室町中期の作かと思う。「愛染明王像 弘法大師御筆 権僧正智鋒寄附 密蔵院常什」の墨書が軸裏にあり、保存はよい。
    愛染明王画像は他にも一幅があり、共に室町時代の作だが、これは修補が甚だしい。
  •  紺紙金胎種子(こんたいしゅじ)曼荼羅
    縦104センチメートル、横41センチメートル、掛幅装、上に金剛界の九会(え)、下に胎蔵界の4大護院を除いた12院を、特に中台八葉院を大きくたんねんに描く。室町時代の筆で軸裏に「三十六世権僧正智鋒(元文元年寂)修補之」の銘がある。

蘇頻陀(そびんだ)

  • 絹本着色 十六羅漢像 十六幅
    蘇頻陀(そびんだ)の法量は縦106センチメートル、横53センチメートルで、他も大体同様である。この像は、建仁寺に伝わる李龍眠様の良詮(せん)筆を模写したかと思う程酷似する。しかし、時代の下る模写故か堅さが目立つ。水墨主体に描き賦彩(ふさい)する。図様は、岩上に倚座し、左向きで片肌を脱ぎ、両手で厨子入りの釈尊を捧持する。耳環(じかん)、衣褶(いしゅう)、両足に履くサンダル及び面容は異国の尊者をしのばせる。袈裟の黄色系うず巻文の地は原画に似るが、緑色の草文を画く点は異っている。墨、茶、黄色の絵の具と金泥が主で重厚さがあり、江戸初期の優作である。一具が完成であるのも貴重である。
  • 絹本着色三千仏像 三幅
    縦136センチメートル 、横77.5センチメートル、過去(薬師如来)、現在(釈迦如来)、未来(弥勒菩薩(みろくぼさつ))の三尊を中心に各千仏を配する。この中で薬師如来千仏をみよう。中尊は方形中に画かれ、蓮華座上左手は薬壺を捧げ、右手は施無畏(せむい)の印を結ぶ特有の座像である。偏胆(たん)右肩で衲衣の衣端が台座上に垂れている。両肩の下った体を包む衣文の褶のやや複雑な形式化した線、低い肉髻(けい)や、顔の相の弛み等に室町時代の特色が出ている。小千仏は朱衣を着る。総じて三千仏は古いものが少い。大乗仏教は十方三世世界に多くの仏の姿を求めた。本像は金泥を主にしたものだが、修補が多い。この他の仏画は次の通りであるが説明は省く。

    絹本着色兜率天曼荼羅(県指定)
    絹本着色千手観音菩薩像(県指定)
    絹本着色天台大師画像(県指定)
    紙本着色慈鎮和尚像
    紙本着色仏涅槃図
    紙本着色両界曼荼羅図 2幅
    当日は和歌、書状、寺額、釣燈篭、礼盤等仏画以外の什宝も展観された。
    蓋(けだ)し嘉暦3年(1328)慈妙上人が密蔵院を開創されて以来、これだけの秘宝が、善男善女に開扉されたことは稀有かつ幸運なことである。
    中絶して久しい葉上流は伝法灌頂が復活し、法燈がさん然と輝くのも遠い将来ではないことを念じ、貴重な仏画で荘厳(しょうごん)された古刹を辞した当日の想い出も鮮かである。

みんなの広場

小野の里をたずねて 写真取材

小野神社

春日井の偉人、小野道風公を記念する「道風記念館」が生誕地、松河戸に開館した。同所には公を御神体とする小野神社があり、地元の崇敬を集めているが、全国では他にも道風公を祀る神社が滋賀と京都に2社ある。
私はその2つの『小野道風神社』を訪れ、写真と紀行文をまとめてみた。

道風神社

滋賀県志賀小野郷、(名神栗東インターより琵琶湖大橋を渡り、堅田経由北方)。

ここは、小野一族の本拠地である。郷内には小野妹子の古墳、小野妹子神社、小野篁(たかむら)神社、道風神社等々が点在し、小野一族繁栄の昔がしのばれる。写真はその中心である小野神社本社で祭神は、一族の祖、米餅搗大使主命。命は餅菓子の元である「シトギ」を考案した神として、アラレ・餅菓子の業者の信仰を集めている。社殿両脇に鏡餅が供えられているのが印象的だった。その南1キロメートルにある、道風神社は小さいが風格を感じさせる社殿であり、重要文化財に指定されている。

ここでは、書聖道風公も菓子作りに匠守(たくみのかみ)の称号を賜る先例を作った菓子業界の功労者として祀られているのがおもしろい。境内に観音堂、文珠堂があり道風直筆という「大般若経」が収められている。

道風神社

京都市北区杉坂道風町、(洛中から清滝川に沿って北上、高雄から杉坂口へ)。

何故こんな山奥に道風神社があるのか史実では明らかではないが、道風修行の地と言う伝説がある。美しい北山杉の林の中、訪れる人もなく、石燈籠がひっそりと苔むしている。道風公修行の故事により、道風神社に願をかけ、社殿前の清流を汲んだ水で書や絵を描けば上達が早いと言われている。ここでは、道風公は絵の神様にもなっている。

私の目で見た春日井の民俗 八事町開拓霊人様の由来

八事町  林信保

今から約20数年前から春日井市八事町の一角に祠が祀られています。祠をお守りしてくださる同町の鬼頭さんという方があり、その子供さんが3歳頃のことですが、その子が日頃より少々病弱なので御両親はじめ皆が心配しておられました。ある日信心篤い鬼頭さんのお姉さん(熊野町在住、当時70余歳)の枕元に、3日3晩、紺のハッピに紺のモモ引をはいた御老人が現れ、お告げがありました。「私は250年前の八事の開拓霊人である。裏の木の下に石があるからそれが私だ。その石を人目のつく所へ祀ってくれ。そうすれば子供の病気は直る」と言う事です。
ふと目をさまし、翌日その事を人に話しまして半信半疑のまま裏の木の下を掘って見るとどうでしょう、大人が持てるか持てないかという位の大石があり、しかもその表面に人の足跡らしいへこみがあるではありませんか。お姉さんはびっくりしてその事を一緒に信仰(※注)していられる名古屋の方に相談され、石を立てた上に現在の様な祠をつくり道路際にお祀りされました。
その後5月19日を祭礼日と定め、霊人様の御告げにて祭礼されておられます。なお子供さんは以来丈夫になられ現在も活躍しておられます。一度八事町へ来られましたならお参りし霊験を受けられたらと思い、お伝え致します。
(注)木曽御嶽教系の信仰団体との事である。

発行元

昭和56年12月15日発行(年4回発行)
発行所 春日井市教育委員会文化体育課 

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