郷土誌かすがい 第5号
昭和54年12月15日発行 第5号 ホームページ版
林昌寺の梵鐘(ぼんしょう)
県指定文化財 林島町
臨済宗林昌寺の梵鐘は延徳元年(1489年)の銘があり、もと熱田宮神宮寺のもので歴史的にも美術的にも価値あるものである。銘は次のようである。
熱田宮神宮寺 延徳元年10月13日
願主 正阿弥
檀那 浅井備中道慶庵主
大工 藤右衛門尉 同刑部大夫 同彦右衛門尉
この梵鐘は、形が大きく中ほどに区切りに入っている中帯はやや下目にあり、縦と横の仕切りは普通である。鐘をならすところを鐘座(つきざ)というが、これはクルミ型の弁がついている。鐘をつる竜頭(りゅうず)に特色があって堂々とした風格を備えている。天正年間に織田信雄が父信長の大法会を清洲で営んだとき権力にものをいわせて熱田から没収して使ったといういわくつきの名鐘である。
その後、この梵鐘は、清洲の総見寺(そうけんじ)(慶長年間に城が名古屋へ移されるとともに、寺も門前町に移って行き現在もある)におかれていたが、民間の手を経て林昌寺に買いとられ現在に至っている。
梶藤義男 市文化財保護委員
郷土史探訪
郷土史探訪では、私たちが住んでいるこの地方の歴史的事象・人物などに、複数の視点からそれぞれの研究者に記述していただき、郷土かすがいを展望していきます。
今回は、南山大学助教授(国文学)美濃部重克氏と、春日井東高校教諭 小林美和氏に春日井市内に残る昔話が、どのようにして形成されて来たかについてお尋ねしました。
曽呂利惣八塚の話をめぐって
美濃部重克 南山大学助教授
昭和50年に春日井市教育委員会の発行で、同市郷土研究会の編集になる『春日井のむかし話』に「曽呂利惣八」と題する伝説が載せられてある。
「篠木荘から出川村あたりにかけて活動した篠木惣八、異名をそろりと称した野盗が、延徳の頃(15世紀末)に流行病で死去。「眷族の者達が大草村(今の小牧市大字大草)にある曹洞宗、福厳寺の第2世、盛禅和尚を請じて野辺の送りをしようとすると、にわかに暴風雨が起こり、火車(かしゃ)が屍体を奪い去ろうとした。その時、和尚は棺の上に坐して、詩・偈を唱えて魔を喝し、火車を退散させて、無事に葬いを終えた」という話である。
この伝説は、『日域洞上伝』に「盛禅の験力譚」として載せるとして、『尾張名所図会』巻4の「大叢山福厳寺」の項に紹介され、また『尾張志』の春日井郡の「曽呂利塚」の項などにも「福厳寺の旧記にある」として言及される。
篠木惣八という人物の伝記は詳らかにし得ない。『名所図会』の「曽呂利塚」の項には、「出川村の古老が織田信長に仕えたという惣八の子の於松(おまつ)の存在を伝えている」と記す。また尾州藩士の津田藤兵衛房勝が寛文5年(1665年)頃に著した、尾州藩最古の随筆といわれる『正事記』の春日井郡の在所、「二重堀」の項に、「篠木荘三三村に三六人の野盗の頭目がいて、その中の一人、そろり惣八という者が、小牧の合戦の際、二重堀の陣屋から具足を盗まんとして殺された」という話を記している。
これらは相互に、また先の霊験譚とも時代の上で齟齬がある。その実像は分からないが、野盗の頭目の惣八は、いつのころにか伝説上の人物として成長していたらしい。『尾張志』の先述の項には、太閤秀吉のお伽衆として著名の曽呂利新左衛門との同族関係を推測してさえいる。もっともそれは誤解である。
曽呂利新左衛門は周知の通り泉州堺の杉本氏を本名とし、鞘師を本業とした人物といわれ、その作るところの鞘に刀を入れると、そろりと滑らかに入る故に、そろりの異名を取ったとされる。篠木のそろり惣八の場合のそろりも異名であり、本名ではない。「そろり」というのは、室町中期から江戸初期にかけての文芸のなかで目につく語であり、先のするりといった意味の他に、そっとといった、ゆっくり静かに動作が行われる様を示す意味をも持っている。狂言の「まず、そろりそろりと参らう」といったといった科白を思い起こされる向きも多かろう。平凡社の『日本国語大辞典』には江戸初期の笑話集である『鹿の巻筆』からの「障子をそろりとあけて」という用例を掲げている。そろり惣八のそろりとは、そうした意味のそろりである。
ところで、盗人はそのわざの故か、古来、異名として擬人名を持つ者が多い。たとえば、室町末ごろから盛んになった芸能である幸若舞の一曲、『烏帽子折』では、金売吉次に伴われて奥州に下る途次、美濃国の青墓の宿に泊った牛若丸の宿所を襲う熊坂長範の一味の中に、かいづかみのわし次郎、友をまよはすきつね三郎、同いたち次郎、窓をのぞくは空(そら)めくら、等といった愉快な名が列ねられている。そろり惣八のそろりとはまさにそれに類似した擬人名的な異名とみてよい。『尾陽雑記』に「曽呂利とは是、窃盗たるの故なり」とあるのは的を射ていよう。曽呂利新左衛門とは全く無関係なのである。ただ文献に記載される時、著名な曽呂利新左衛門の表記に引きつけられて、曽呂利という字があてられたにすぎない。
さて、肝心の伝説の中味だが、『春日井のむかし話』の表紙に印刷されてある、『名所図会』の挿絵は、この伝説の素姓を解くのに、格好の鍵を提供してくれる。火車が屍体を奪わんと空から下ってくる。奪われまいと盛禅和尚が棺の上に乗って天をみすえる。雷電が走り、風雨が暴れ、棺の周りの人々は仰天している。そんな図柄である。その図中に、「盛禅和尚の道徳、火車の怪を退(しりぞく)る図」として、簡素な解説が添えられる。野辺送りの屍体を奪わんと暴風雨を起こして襲ってくる魔物が火車と呼ばれ、それが猫の怪物めいた形に描かれ、その上、和尚は棺が持ち上げられるのを防ごうとでもするかのように棺の上に坐っている。そうしたことで、この伝説のおおかたの素姓は知られる。全国的に流布する「猫檀家」と呼ばれる昔話がそれである。立命館大学の福田晃教授は『昔話の伝播』(弘文堂 昭和51年11月刊)の中で、この型の昔話の伝承伝播の問題を扱われている。
『貧乏寺の和尚が困窮の余りに飼猫に相談する。猫は長者の家の葬式の時に恩返しをすると言って、その策を告げる。長者の家の葬式の時、棺が屍体を入れたまま空中にまき上げられる。もちろん、猫の所為である。どの和尚が頼まれて祈祷をしても棺は下らない。貧乏寺の和尚が招かれて祈祷すると棺は降りる。それが評判となって、寺は豊かに、和尚は安楽な身の上となった。』
これが昔話としての本来的な内容であり、ことに東北地方にそうした話が分布している。東海地方、ことに静岡県あたりに特徴的に見られるのは、飼猫の恩返しのモチーフが欠落した、怪物の起こした暴風雨を和尚が鎮めるという名僧の験力譚として話される型である。この型は、特定の寺院での出来事として、伝説化したものが多い。福厳寺の盛禅和尚の験力譚はまさにその例に当る。
この昔話・伝説には、我が国の葬制の民俗、とくに妖怪化した猫をカシャといい、それが野辺送りの屍体を 取るという俗信と、葬儀に参列してそうした魔障を退ける呪法を施す僧侶の姿が投影されていると見てよい 。
たとえば、「幽霊女房」(註)の 昔話が曹洞宗の寺院の伝説として分布していることでも知られているように、同宗には、葬礼に関わる習俗を 積極的に布教活動に取り入れてゆく姿勢が見られる。それ故に、福厳寺という曹洞宗の 寺院でこうした伝説が伝えられているということも大いにうなずけることなの である。
註 一例をあげると、一文あきないの飴屋へ、毎晩決まった時間に、一文持った女が飴を買いにくる。6晩目に、不思議に思った飴屋の主人が女のあとをつけると、墓場に来て、そこで赤子の泣き声がする。棺の中の六道銭を使って毎夜飴を買って赤子を育てていたが、今夜で銭が尽きたという、女の嘆く声を聞いて、墓の主に知らせる。墓を掘ると、赤子が目をぱちくりしていたので連れてきて育て、母親を改めて弔う。(日本昔話事典より)
水系の伝承 機具(はたご)池
小林美和 愛知県立春日井東高教諭
市内六軒屋町松山には、機具池の伝説がみられる。
機織りの上手で、一家の生活を支えてきたおぬいは、息子の嫁を村一番の織り子にすることに熱心で、嫁もそれに応えて懸命に努力するが、なかなかに上達しない。そのことを苦にした嫁は、ついに機具を抱いて池に身を投げてしまった。その後は、夜中に池のほとりを通ると、機を織る音が聞えるようになったが、村人が集まって、池のほとりで念仏供養すると、音が聞えなくなった。
と、いうものである。こうした伝説は、実は、機織淵(はたおりぶち)伝説として、全国各地で伝承されており、中でも、千葉・静岡・長野・福井・福岡などの各県の伝承は、嫁と姑の関係を述べたてる点で、六軒屋町のそれと同一の構成を持っているといえる。
伝説というものは、基本的な構造はそのままにして、時代とともに、そこに種々の脚色、変化がつけ加えられながら今日に至っているわけであるが、一口に機織淵伝説といっても、さまざまな形態がみられる。例えば、現尾張旭市には、昔、故なくして大池があふれて、田畑の作物に害を及ぼすので、占いを行ったところ、5月1日に機具をもって、この池のほとりを通る女を池の中に投じて堤(つつみ)を築くと水害をまぬがれるというのでその通りにしたところ、以後、水害がなくなったという伝承が残っている。また、滋賀県坂田郡には、池に水が溜まらないので、佐々木秀義の乳母、夜叉御前を機具とともに池中に生きながら埋めたところ、池中には水があふれ、夜中、水底から機の音が聞こえたという伝承がみられる。
この2つの伝説に共通するのは、水をつかさどるもの即ち水神への供犠として、女人と機具が池中に投じられたという点にある。烏帽子(えぼし)が淵の大蛇が、源太夫なる男の妻を見そめ、大洪水を起こしたので、その妻は水中に身を投じて、烏帽子が淵に沈んだ。それからは、淵底から機を織る音がするという福井県足羽郡の伝承は、その点をさらに明瞭に物語っている。大蛇はいうまでもなく水神そのものであり、水神を蛇身とする伝承は、昔話「蛇聟入(へびむこいり)」を引き合いに出すまでもなく、随分と多い。
さて、日本昔話の一つに、「黄金の鉈(なた)」と呼ばれるはなしがある。即ち、木こりが木を伐っていて、誤って鉈を淵に落としてしまう。木こりが、鉈を探しに水中にはいってゆくと、水中には、立派な宮殿があり、美しい姫が機を織っている。姫は、ここの話をしないことを条件に、木こりに鉈を返してやる。ところが、家に帰り、このことを家人に話してしまったところ、大雨となり、木こりだけが流されて、淵に沈んでしまう、というものである。いわゆる異郷訪問のタイプであるが、水神の禁忌(きんき)を犯したばかりに、自らそこに召されたというものである。この話型でも、美女と機織りと雨とが結びついている。即ち、水中の宮殿は、竜宮伝説につながるものであり、竜神は雨の神でもあった。因みに、沖縄の水田耕作における雨乞いは、のろをはじめとする女衆が集まって、竜王に歌舞を献じるというものである。また、機織淵伝説においても、竜宮の乙姫が登場するものがみられる。
長野県の上水内郡には、機織り石という大きな石があり、その脇にはいろいろと機織りの道具に似た形の石があった。この石から音がする時は、必ず近いうちに雨が降るといい、村人は「神様が機を織る」といったという伝承がみられ、石の上で山姥が機を織るという伝説も各地にみられる。
このようにみてくると、いわゆる機織淵の伝説は、わが国の農耕文化のあり方と深く結びついていることがわかってくる。農業ことに稲作に、水は不可欠なものだけに、また、わが国は水害の多い風土だけに、水をつかさどる水神に対する畏怖(いふ)は大きかったと思われる。そこで、そうした水神に仕え、それを慰撫(いぶ)する巫女(みこ)が必要とされたのである。機織淵伝説に登場する女人は、水神に嫁し、水辺で神衣を織っていた、ありし日の巫女たちの投影としてよみとることができるであろう。
これらの巫女は神との婚姻を通して、また神なる資格を得る。ある女が、嫁入するとて、機具を負うたまま放尿すると、たちまち池ができ女は蛇と化して池に入り、その後、雨の降りそうな時には、水底に機の音を聞くという石川県鳳至郡の伝承は、そのあたりの事情を象徴的に物語っていえるといえる。
市内六軒屋町に伝わる機具池伝説は、嫁と姑との関係という、近世的な色合いのもとに語られているが、その深源は右のような点に求められるであろう。
小林先生には2月の民俗研究講座でも昔話をテーマに講義をお願いしてあります。日程等は10頁のお知らせをご覧下さい。
次回は、市内の「中世城館の遺構」について取り上げる予定です。
私の研究
理源(りげん)大師(聖宝(しょうぼう))画像と修験道
名古屋市昭和区 森正史
市内、田楽町の林昌院には、「理源大師画像」と呼ばれる画像が伝わっている。絹本着色(けんぽんちゃくしょく)の美しい像で、正面に端座する理源大師の鋭い目差しを見ていると、理源大師(聖宝)がすぐれた人物であったろうと想像できる。
理源大師は聖宝のおくり名である。一般に聖宝像には3様式あるとされている。三論宗系の寺院には如意を持った姿で描かれる。修験系では篠懸(すずかけ)を着用した姿で描かれる。真言宗ではこの絵のように五鈷杵(ごこしょ)を持った姿で描かれる。もっとも後述する事情で修験道と真言宗(醍醐寺派)とは一部に混同がみられる。
修験道は、民俗信仰を密教教義によって体系化したものと言われ当山派と本山派に二分される。どちらも印度の大日如来から日本の役行者(えんのぎょうじゃ)に至るまでの法脈は同じである。その後の法脈の継承を本山派では所謂(いわゆる)「役君(えんくん)の五大弟子」としているが、当山派ではこの聖宝に伝えている。聖宝自身は、仏教理論に精通した平安時代の高僧であるが、大峰山を修験の山として開いたとも伝えられたので、中世になると彼はむしろ伝説上の人物として多くの事跡が語られるようになる。江戸期には本山派が役行者を神変大菩薩として宗祖に仰いだので、対抗する当山派も中興の祖である聖宝に「大師」号を受けさせ「理源大師」として奉(たてまつ)った。お陰で二人も一時はライバルになった観がある。
画像裏面に「応永二十五」(1418年)の年号と醍醐(だいご)山什物(じゅうもつ)とある。当時は醍醐一山の全盛時代で、多くの仏具、伽藍(がらん)が作られたころである。
林昌院創建の年代は16世紀と伝えられているが、実はこの年代はそれまで当山修験の後ろだてだった興福寺が急に衰え、真言宗の醍醐寺がそれに代わったころである。そこで全国的にそうであるように林昌院もそれまで荒廃していた修験道場を醍醐寺の支援で再興したものと推測できよう。もともと安食荘は平安時代以来の醍醐寺領だった関係もあり、この移行は他所より円滑に行われたであろう。(注)
前号表紙の大日如来像(鎌倉末期)も密教修験道の大本尊である事を想起すれば、覚(かく)明霊神(めいれいじん)誕生の必然はこの地に相当古くから培(つちか)われていたものである。
(注)現在、林昌院は真言宗古義派である。明治5年まで醍醐派だったことは「東春日井郡誌」にも記されている。
ふるさとの歴史
春日井市域の庄園
久永春男
春日井市域は12世紀中葉には春部郡東條と総称されていた。そして西から東へ、安食庄・柏井庄・篠木庄と、3つの庄園が存した。
- 安食庄
安食庄は安食郷域に設立された庄園である。元は統正王の所領であったが、延喜14年(914年)に醍醐寺に修理料として施入された。しかし寺領として年を経るうち、国司により収公され国衙領に戻されたらしい。
康治2年(1143年)4月醍醐寺は寺庄を復活し、地利(税)の一半は醍醐寺の修理料とし、残りは潅頂院の費用にあてたいと訴願した。鳥羽法皇の院庁は官吏を派遣し、往古の公(く)験(げん)文書にしたがい四至 東限薦生里西畔 西限子稲里東畔 南限山田郡堺河 北限作縄横路 にぼう示(じ)を打ち、勅事国役を免ずるという宣旨を8月19日付で與え、安食庄は再立券された。
久安4年(1148年)には醍醐寺三宝院が安食庄に菓子12合、酒1瓶子を課し「十二月六日始支配」と記している。仁平4年(1154年)7月29日には醍醐寺は寺家修理料として桧皮縄60方の納入を安食庄に申渡している。
ところが、三宝院文書によると「入道惟方卿国務之時、不用往古之證文、背康治宣旨」、安食庄を醍醐寺から没収した。藤原惟方が国政を左右しえたのは平治の乱(1159年)直後の数カ月であり、翌春には後白河上皇の命で平清盛によって捕えられ流罪に処されている。仁平4年から平治元年までの間、惟方が尾張守になった形跡はまったく見られないので、安食庄のこの再度の倒失は平治の乱直後のことであろうか。
その後醍醐寺は安食庄の回復をたびたび院庁に訴えたが事態ははかどらず、ようやく鎌倉幕府成立後の文治4年(1188年)4月9日、院庁から尾張国在庁官人へ、安食庄を元のごとく醍醐寺潅頂院領に戻すように下文が出された。
承久4年(1222年)正月、醍醐寺は幕府に対し、去年の合戦(承久の乱)以後新補地頭が補任し、安食庄を含む諸庄の「庄務被押妨年貢不辨」佛事にも日常生活にも事欠く状態なので、無道の押妨を制止してほしいと訴えた。執権北条義時は醍醐寺の要望を容(い)れ、新儀非法は停止させ反(そむ)けば成敗する旨4月5日付で返事している。
その後弘安4年(1281年)3月、醍醐寺は地頭がややもすれば年貢を押領するのを避けるため、ようやく安食庄内にも成長して来た開発相伝領主のひとり、五郎丸の名主毛受袈裟鶴丸を預所職に任じ、永代相伝領掌を認める代りに、毎年200貫文の年貢を進納せしめる契約をした。袈裟鶴丸は能実と改名、のちに入道して道観と称したが、半世紀にわたって預所職にあった。その間に安食庄は東西2庄に区分され、公文(くもん)職もおかれたらしい。
北条亡び、後醍醐天皇が復位して新政が開始された元弘3年(1333年)道観は前公文国政等所務を妨げる旨を雑訴決断所に訴え、決断所は尾張国衙に対して道観に下知支配せしめるように命じて。そして翌建武元年3月24日付で醍醐寺三宝院は道観にあらためて安食庄所務職内乱が始まった。醍醐寺三宝院の賢俊は足利尊氏の政治顧問として活躍し「世に知られた。醍醐寺三宝院領安食庄が足利幕府のもとでかたく守られ通したのはうべなわれる。応仁2年(1468年)1月4日付の「醍醐寺所領目録」に三宝院領として安食庄が記載されている。 - 柏井庄
柏井庄はその名が語るように柏井郷域に設立された庄園である。12世紀中葉に八条女院領として初めて文献に見られる。八条院暲子は美福門院得子を母とし、父鳥羽法皇から寵愛され、多数(あまた)の庄園を贈与された。それが八条女院領で、柏井庄もその一つである。
八条女院は以仁姫宮を養女とし、その所領を伝えることに定(き)めていたが、その姫宮が若死したので、老後まで自らの手に保有し、建暦元年(1211)6月死去の後、後鳥羽上皇の皇女春華門院昇子伝領された。しかし同年11月春華門院も死去、その遺領はすべて順徳天皇に伝えられ、後鳥羽上皇がそれを管領した。
承久3年(1221年)5月から6月の承久の乱の後、後鳥羽・土御門・順徳3上皇は配流され、後鳥羽上皇が管領していた所領は幕府に没収されたが、幕府が新しく後堀河天皇を推戴するや、その父守貞親王(後高倉院)にこれを返進した。
後高倉院は後にこれを王女式乾門院利子と安嘉門院邦子とに分與した。柏井庄は式乾門院に伝領された諸庄の1つであった。式乾門院は建長元年(1249年)にその所領を姪の室町院畴子に譲ったが、「室町院御一期之後、中書王可有御管領」という条件が譲状にあった。中書王は式乾門院の猶子であったが、宗尊親王と改名、建長4年鎌倉幕府に将軍として迎えられ、文永11年(1274年)33歳で早世し。
室町院は正安2年(1300年)に死去、室町院領は宗尊親王の女永嘉門院瑞子に伝領された。すると正安4年に後宇多上皇妃に迎えられた。前に安嘉門院に分與された八条院領の一半は、その死後亀山上皇が幕承認を得て相続していたので、そこへ室町院領が加わると半世紀ぶりに八条女院領が大覚寺統の手中で元のごとく一体化する目算であった。しかし持明院統の伏見上皇から異議が出て、結局室町院領は亀山院と伏見院とで折中することに嘉元4年(1306年)年6月12日に決定した。柏井庄は大覚寺統が入手し、後宇多院御領目録に「庁分 尾張国柏井庄御管領」とある。
南北朝内乱が始まると、柏井庄は北朝(持明院統側)の手に落ちた。建武4年(1237年)柏井庄内15坪に対し熱田神宮神人幡屋大夫政継が古来の例により半分の代官職を安堵されている。けだし北朝側についた行賞であろう。
また文和2年(1353年)畠山国清の要請によって日根野時盛に行賞として柏井庄下條の一部が與えられている。やはり代官職であろう。
やがて足利尊氏京都に等持院を建てると、柏井庄は寺領として寄進された。
応永34年(1427年)9月、柏井庄と安食庄とで堺争論をおこし、等持院が訴えた記録があるが、これは両庄が相接していた事語る。そして永享3年(1431年)には柏井庄は等持院が派遣した庄官によって管理されるに至った。
長享元年(1487)12月、伊勢貞遠が柏井庄の上下篠の代官職を望んだが、等持院では「俗代官堅禁」と僧衆が連署して反対した。当時幕府帷幕にあって権勢をふるった伊勢一族にこう反対しえたのは、等持院がすでに足利氏の菩提所となっていたからではなかろうか。 - 篠木庄
篠木庄は天養元年(1144年)10月「皇后職御領諸郡散在畠地替以春日部東郡篠木郷田畠等為壱円御庄。」という経緯で立券された。
時の皇后は藤原得子で、久安5年(1149年)に院号宣下、美福門院と号した。
その後篠木庄は後白河法皇が相続し、長講堂領に加えた。後白河法皇の逝去にあたり、長講堂領は遺勅によって寵妃丹後局(高階栄子)を母とする宣陽門院覲子(きんし)に譲られた。
宣陽門院は後鳥羽上皇の第2子六条宮雅成親王を養子とし長講堂領を伝える予定であっ乱で六条宮は但馬に配流、長講堂領は一時幕府に没収され、後に宣陽門院に返還された。
建長4年(1252)宣陽門院長講堂領を猶子後深草天皇に譲與したが、天皇は未だ幼少だったので父の後嵯峨上皇がしばらく管領した。文永4年(1267)後深草上皇は長講堂領を相続し、弘安8年(1285年)篠木庄の領家職東二条院公子に與えた。東二条院はこれを同じ西園寺家出自の広義門院寧子に譲り伝えた。
さて鎌倉幕府は建久5年(1194年)に鎌田正清の女(むすめ)に篠木庄の地頭職を與え、その後北条氏一族がそれを承継ぎ得宗領とした。そして正応6年(1293年)に北条貞時が鎌倉の円覚寺に造栄料所として篠木庄地頭職を寄進した。そして永仁3年(1295年)に円覚寺に対し、地頭請所として、京都の領家へ年貢190貫文を毎年怠りなく届けるようにとの通達が出されているが、やがてこれは中分ということになったらしい。
北条氏が亡ぼされ建武新政が始まると直ちに建武元年(133年)円覚寺に対し、篠木庄の中分を止め地頭請所として領家広義門院に年貢を納めるように雑訴決断所牒が出されたが、他方篠木庄内石丸保野口村国衙所務の請所の地位は安堵している。そして地頭円覚寺は庄内の土豪化した寺院勢力とも闘わねばならなかった。建武3年には庄内の大山寺僧衆が苅田狼藉を働いた旨雑訴決断所に訴えている。
しかし南分裂すると、建武4年足利直義は円覚寺に篠木庄地頭職を安堵した。そして翌年尾張国雑掌幸賢と円覚寺との間で野口・石丸両保の支配権の争論があったが和與裁定を下した。またそ翌年には熱田神宮の神人幡屋大夫と篠木庄内玉野郷の支配権を争った。
暦応4年(1341年)には伊勢神宮役夫工米(やくぶくまい)は篠木庄は負担しない定めになっているのに、伊勢から大使が入部し乱暴狼藉した旨光厳上皇に訴え、上皇はその徴収を止めるように幕府に院宣を與えている。また貞治4年(1365年)にも内外宮料役夫工米を篠木庄から徴収しつつあるのを止めるように足利義詮尾張守護土岐頼康に命じている。永和2年(1376年)には篠木庄に対する大嘗会米の賦課を止めるように足利義満が教書を下し、翌3年には官宣旨を円覚寺に與えて篠木庄を含めた寺領の不課不入権を保証している。しかし引続く内乱の中で成長した在地武士層対する地頭円覚寺の統制はしだいにきかなくなり、嘉慶2年(1388年)には管領斯波土岐伊豫守に対して篠木庄のこれらの小名主武士層をとりしまるように命じている。
南北朝統一後の篠木庄の記録としては応永14年(1407)の長講堂領目録に、篠木庄の年貢として絹150疋糸500両が見えるにとどまる。
冬の年中行事
安藤弘之
雑木林が色づき、木枯らしが吹き出すようになると農家は冬支度にかかる。春から夏にかけて稲田を見守ってきた田の神も、つとめ終わって再び山へ帰り、山の神となられる。
山の子
それは山の講であり、子どもたちが主宰する。旧暦10月の「百姓の亥(い)の子(こ)」(第2の亥の日)に行う。「山の子三千坊 仲ようまつらっせ」。子どもたちのこんな歌声が、まだ明けきらぬやみあちこちから、かすかに遠く聞えてきたものだという。宿でおこもりした子どもたちが、「わらづと」に五目めし盛ったお供えをもって神を送っていくのである。
冬至弘法
守胴着(もりどんぎ)で負われ、露店の立ち並ぶ門前の雑踏をくぐりぬけ、やっとのことで本堂にたどりつき、そのあと、境内に張られた見せもの小屋に呼びこまれて見た「足が牛の女の子」の記憶は、大留冬至弘法のなつかしい思い出である。「おたひょのぎょうせん」は誰しもが買うこの日のみやげであった。
冬至には、弘法大師が姿をかえて村々を歩かれるというので、おこもりをするのが大師講古来の風習であり、家々ではカボチャを食べ柚子湯(ゆずゆ)につかって身を浄め健康を願った。
正月の門松
煤(すす)はらいに餅つきをすまし、山から切ってきた門松を立てると、正月を迎えるすべての準備は終る。
ふつうモンピは1日であるが、正月は7月と並んで1か月が、物忌(ものいみ)の月であった。正月神は歳神であり、祖霊だったという。門松を立てるのは、それが祖霊のやってくる目印であり、依代(よりしろ)ともなったからである。14日のドンドも、実はこの門松の煙にのって正月神が再び天に帰られる火祭である。
みんなのひろば
還暦後の知識欲
高座町 向井英夫
長年勤めた会社も定年退職してみると、第二の人生の門出に何をして楽しく暮らすかが問題になってきます。私は今まで出張とか旅行する場合など好んで古寺や庭園等を見て廻ったが、ただ立派だとかきれいだとか終ってしまっていた。これをもっと勉強してみたいと思っていたので老後の楽しみをこれにしたいと思って、早速地元のものから始めようと考えた。
どこの地方でもその土地の事を知るには、市役所や町役場に行けば解るので市役所を訪れていろいろ資料を集め市史もそろえて購入して勉強を始めた。
市史を読み文化財のあるところや、何が文化財かと云う事はよく解ったが、例えば密蔵院の多宝塔はきれいで細かい工作がしてあるなあーと、見て感心するだけで、何んで文化財になっているのか、この塔はなんの為に造られたのか、仏像を見ようと思っても見る機会がないし又見ても仏様というだけで如来か菩薩なかわからなかったが、たまたま市史購入の時に役所で「広報を注意していると市主催文化財講座を開く時を知らせるから」といわれたので注意していたら54年度の文化財講座の「仏像の見方」があったので、早速申込み参加した。「郷土誌かすがい」会にも入会させていただいた。
梶藤先生の親切な御指導により仏像の事がわかり、続いて仏教美術研究同好会にも入れてもらい仏教関係勉強もできるようになった。還暦も過ぎた私は梶藤先生と同好会の皆様の励ましにより知識欲が盛々でてきて何でも勉強したくなってきた。
春日井市が積極的にこのような講習をもたれる事に深く感謝しています。
「ガンダーラ美術とシルクロード」-仏教の源流をたずねて-をきいて
春見町 鍵山とみね
高橋先生のすばらしいご講演には、ただ感動の一言でございました。温容な先生からほとばしるお話は、この道の学問に対する情熱そのもの、私共もいつしか遠い昔のガンダーラの地に思いを馳せて2時間があっという間過ぎてしまいました。
-西パキスタンの西北-ペルシャの一番東の属領だったガンダーラ諸民族の度々の侵入はギリシャ文化をもたらし仏教が広がると共に、ここにガンダーラ仏像が刻まれたそうです。そしてガンダーラ美術の隆盛も異教徒の侵入により、衰退、滅亡の歴史をたどったようです。でも仏教の東漸によって、仏教美術も東南アジア、中国、朝鮮、そして、日本へと入って我が国の飛鳥仏の源流となったそうです。
つぎに先生はお疲れになっていらっしゃいますのにたくさんのスライドを見せて下さいました。約1時間、また、先生のすばらしいご説明。機中より世界の屋根といわれる白雪のヒマラヤ、ガンジスの大河、広がる大地、雄大な風景は、荘厳な感じすら致しました。そして仏像、遺跡の数々、中でもアフガニスタンでしたか、50メートルと34メートルという2つの巨大な仏像は、今も目に残っております。当時の人々の信仰の力の偉大さを思わせます。そして茫々たる大地に残る昔の道、今の道、イランとインドを戦のためあるいは物資交流に往来した人々を思い感無量でした。終りましてもしばしその場を立ち去りがたい気持ちでした。高橋先生や市教育委員会の方に感謝しつつ・・・。
知ろう 見直そう 私たちの郷土
愛知県立春日井東高校郷土研究部
御存知のとおり春日井東高校は、去年県警察学校の向かいに建設された、市内4番目の県立高校です。郷土研究部は、「私たちの知らない春日井を知ろう。そして、見直そう」を合言葉に第1回生5人でスタートしました。小中学校時郷土部に在籍していた者が少なく、知識を得るため講演などに、市内はもとより県外へも積極的に参加してきました。中でも高松塚古墳発掘の指導者網干善教先生のお話は、今もなお心に残っております。
今年に入り、第2回生を加え総員27名となりました。そして、特に春日井市の古墳についてすべてではありませんが、調べてきました。その方法は、実地見聞を主体とし、春日井市史・東春日井郡史等の文献によって、より詳しく調べ、そしてできれば測量など、調査という3本立ての方法です。
この8月17日には久永春男先生のもと、地元の皆さんのおかげで神領町にある三明神社古墳の測量を行いました。測量によって新しい発見と貴重な経験を得ることができました。
また、内津の古窯跡では室町時代の土器を収拾し、今復元の作業中です。この土器の種類は茶わんと燈明皿に似たものに大別され、それぞれには緑色になっているところがあります。これはアルカリ性の灰の付着により、粘土に含まれていたガラス成分がしみだしたものであること、またすべての土器の底には指のあとがあり、これは仕上げにゴルフのクラブのような〝ヘラ〟で、わんをけずったあとの残りかすを取る時にできたものであること、また焼成は大量焼成ができるように合理的な方法でなされていたことが推定されます。
このような活動の成果を、今年の9月12、13日の春日井東高校の文化部、クラブ発表会に発表し、大成功をおさめ、校長先生から、おほめのお言葉をいただきました。大成功をおさめた主な理由は、工夫をこらして、市内の主な公共機関、史跡の写真やスライドを制作、編集し、また三明神社古墳、二子山古墳(前方後円墳)、高御堂古墳(前方後方墳)、オセンゲ古墳(円墳)など市内の代表的な古墳の精密な模型など立体的なものを制作展示し、視覚的、聴覚的に、だれもが容易に理解できるような発表をしたということだったと思います。
なお、現在は民俗研究講座を部員で分担し、受講にでかけており、郷土研究部の部員として、より一層、知識を深め、部の活動に役立ててゆきたいと思っています。
お知らせ
新コーナーにご寄稿を
次号より「私の目で見た春日井の民俗」のコーナーを設けます。
市内に残る民俗は、私たちの世代で記録しなければ永遠に消え去ってしまうものが大部分です。教育委員会でも折にふれて、市内特有の習俗の発見に心がけておりますが、あまりに生活に密着していたり、個人の記憶の中にしか残っていないものが多く、その存在すら充分取材できていないのが実情です。今ではもう行われていない習俗を知っているお年寄りはもちろん、地元の人があたり前と感じて行っている珍しい民俗を新しく市内に来られた方々のフレッシュな目で発見して寄稿して下さい。
たとえば正月には、次のようなことがテーマになるでしょう。
- 主な正月かざりを床の間でなく、土間や棚・神棚で行った。
- 玄関に魚介類を掛けた。
- 仏壇に何か特別のことをした。
- 万才師以外の芸人や縁起もの売りが廻って来た。
- 門松を取り払う時、あとに残しておく小枝の名、又は、この風習の名を知っている。
家をめぐる民俗研究講座
最近、都市化の急速な進展によって、貴重な伝統習俗が消滅しつつあります。そこで、一般の方々の民俗文化への保護意識をたかめようと、この民俗研究講座を企画しました。郷土研究を通し、日本民俗の精神的、社会的構造をさぐる事を志す方々の養成を目指しています。
ところ:中央公民館
申込み:文化体育課(0568-33-1111)へ
講師氏名 |
日程 |
内容 |
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安藤慶一郎 (金城大学教授) |
1月16日(水曜日)午後6時30分から午後8時30分 17日(木曜日)午後6時30分から午後8時30分 18日(金曜日)午後6時30分から午後8時30分 3月25日(火曜日)午後2時から午後4時 |
「家」とは何か?
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小林美和 (春日井東高教諭) |
2月19日(火曜日)午後6時30分から午後8時30分 20日(水曜日)午後6時30分から午後8時30分 22日(金曜日)午後6時30分から午後8時30分 |
春日井の昔話
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フィールドワーク (全講師) |
3月25日(火曜日) 予定 | 市内の家屋見学 |
発行元
昭和54年12月15日発行(年4回発行)
発行所 春日井市教育委員会文化体育課