郷土誌かすがい 第37号
平成2年9月15日発行 第37号 ホームページ版
元三(がんざん)大師堂厨子(ずし)
(市指定)上条町 大光寺
総高 175.5センチメートル、桁行 85.5センチメートル、梁間 67.5センチメートル。
元三大師は良源といい、第18代天台座主として叡山の復興に当たり、寛和元年(985)正月三日に示寂した。正式には慈恵大師と称し、死後多くの奇瑞や霊験を現したと伝えられる。後世、夜叉の姿をとることがあり、お角大師ともいわれた。
大師堂の厨子は棟に永正7年(1510)三河の鳳来寺にあったという墨書銘がみられる。構造は、方一間、単層入母屋造桧材の宮殿で、納まりの関係からだろうが、側面と背面とが切り詰められて簡略化されている。この点もの足りない。地覆から台輪までの軸部と屋根との上・下2部の組合せとなっている。
内法貫と地覆に藁座を打って桟唐戸をこれで吊る。扉正面の板に唐草文を、背面の左右に随身の舎人を配する図柄は、剥落が甚しいけれども、よくわかる。
以上、
- 台輪を入れる。
- 頭貫や台輪にある木鼻の渦巻き文様がある。
- 藁座を打って桟唐戸を吊る。
- 軒裏に扇垂木を配するなど禅宗様の構造とか様式が多くみうけられる。
さらに天正9年の銘があり、鳳来寺のものが伝えられるのは興味深い。
梶藤義男 市文化財保護審議会委員
郷土探訪
春日井をとおる街道8 和宮降嫁時の下街道
櫻井芳昭 春日井市郷土史研究会会員
はじめに
「木曽谷の中山道宿々へ、尾州領よりの人足、およそ壱万人も繰り入れるため、下街道筋は夜どおし通行が続いている。大変な騒ぎである。(注1)」
これは、和宮の行列が近づいた文久元年(1861)10月26日付の日記の要約である。尾張各地の村々に割り当てられた人足を勤める人たちが、定められた日限までに木曽の各宿へ急ぐ様子が読み取れる。
孝明天皇の皇妹和宮が、公武合体の証として14代将軍徳川家茂に嫁するため、10月20日に京都を出発して中山道を下向することになった。この行列は朝廷と江戸幕府相互に示威的なねらいがあって、4日間にわたり人馬数万にのぼる前代未聞の大通行であった。このため、助郷等による従来からの宿駅制度だけではまかないきれず、各方面に新たな対応を強いることになった。
尾張藩は鵜沼宿から本山宿まで21宿間の通行警固と沿道警備、宿泊6カ宿と昼休み7カ宿の接待を命じられたが、これは沿道諸藩の中で最大規模の分担であった。
諸道具調達と人馬動員
京方1万人、江戸方1万5千人、警固の藩士・継立人足等3万人以上に及ぶ大通行の宿泊に必要な物品・食料・仮設小屋・継立人足等の準備は、尾張藩の責任であり、異例の緊急対応によらざるを得ない状況であった。
例えば、夜具・食器類だけでも1カ宿2万5千人分、担当6カ宿で15万人分、人足は継立の単位となる組宿当たり2万9千人分と馬2,900疋が必要であった。
こうした莫大な量の調達は各宿周辺の村々や助郷村への分担だけでは到底まかなえなかった。このため、担当の尾張藩は大幅な不足分を自領全域に臨時の賦役を命じて急場をしのぐ方策をとった。
尾張藩では緊急事態に幅広く対応するため、まず9月中旬、戸・障子・杉丸太・畳等の仮小屋建築資材の他所売り差し留め、9月下旬には、夜具・膳椀等の宿泊用品の他所出し差し留めを尾張の村々に通達している。10月には、村々の16歳から60歳までの男子は、御用以外は他所へ出ることを禁止し、人足入用の触れがあったら、ただちに出発できるよう待機を命じている。
藩では諸道具・人足の必要数の推計を進め、尾張地域の村々の分について、代官所別に品目・数量・繰込先を9月下旬に通知した。これを受けて、各代官所では村毎の割当数を定めて通知したのは、諸道具が9月下旬、人足が10月中旬で、それぞれ出発まで10日足らずという切迫した時期であった。
小牧代官所管内への諸道具の割当数(注2)は、ふとん・枕3,780組、食椀8,190個、大鍋1,090個、草鞋7,280足等であった。
春日井地域の村の具体的資料はまだ接する機会に恵まれないが、「林金兵衛と下原村の伊藤定助は人馬裁許役を命じられ、多くの村方人足を率いて、中津川宿と三留野宿へ勤務している(注3)」との記述がある。また、林金兵衛の日記には次のように記されている。
「和宮様下向の節、中山道へ繰り込む諸道具について依頼があったので、村方の儀は勿論引き請け、村々へ出向いて実意に取り計らってこの御用を勤めた。(注4)」
これをみると、諸道具について割当があったので、承諾の請書を出すとともに、近隣の村々へ出向いて物品調達について尽力したことがわかる。
夜具、膳椀等の割当は、近隣10数カ村で編成した組を単位とし、地域の中心となる村役人を世話人に任命して、まとめ役を担当させる方法をとっている。林金兵衛は安政5年(1858)、松河戸、中切、名栗、神領など16カ村の惣庄屋になっているので、これが組になったものと考えられる。
「藩は慎重篤信なる翁に対し、道中御用係を命ぜり。是に於て翁は、夜具膳椀等数千人分の調達を卒へ、供奉随行諸人の食具を掌り且つ、人馬宰領役を命ぜられた。(注4)」と記されている。上条村は村高が2,107石であるので、ふとん90・膳20・椀190を初めとして、15種類程度の物品の割当ではなかったかと予想される。
「夜具膳椀等数千人分の調達(注4)」という記述は、石高からみても水野代官所管内割当の2倍以上となり、組の総数としてもいささかオーバーな表現になっている。
「中津川宿へ出向いて、御用を勤めるよう仰せ渡されたので、10月15日に村を出立して右宿へ行き、指図に従って御用を勤めました。和宮様御通行の当日は、人馬宰許役を勤め、夜に入って御本陣御固役を仰せられて勤めました。さらに、行列御守役などの諸役を勤めましたが、おかげで重役を無難に終えることができて、ありがたき仕合せに存じます。」と、諸役を勤めた状況をまとめている。
和宮一行が中津川宿へさしかかったのは、文久元年10月29日で、雨天であった。
林金兵衛(37歳)は、10月15日に村を出発しているが、これは他の地域の動向からみるとふとん運搬の宰領の一人として中津川宿へ出向いたものと考えられる。この宿での勤めの内容は、ふとんを渡すこと、次に到着した諸道具を渡すこと、和宮一行の通過に際しての中津川宿から上松宿間での諸役、物品の受け取り等であり、これを無事勤め上げ、11月上~中旬まで滞在して帰村したものと考えられる。
激動期に1か月近くにわたる木曽の宿での逗留になったため、上条村では庄屋に指示を仰ぐことが起こったときには飛脚を送っている。日記に次の記述がある。
「村から木曽路へ人足を差し出すに当たって、路銀がなく、御用が勤まらない者があるので何とかして欲しいといってきたので、小前の者のうち、格別困窮の者58人に、1人に付路銀2分2朱ずつ無利子で貸し出して御用を勤めるようにしたので、合計で36両1分を要した。」
尾張藩からの人足の割当は、「高百石について十五人」とすることが示されたのは10月中旬であったので、逗留先まで飛脚を出して指示を仰いだのである。上条村は村高からすると、約300人が各種の人足として割当があったはずであるから、約20パーセント弱が困窮者であったこととなる。
こうした必要経費は、年内には村入用で決済されるが、藩からの入金は3~5年後と遅れ、しかも公定旅費、借用料のみであるのが通例であとは村での負担増となった。このため、当面は、自己負担でまかなうか、村の資産家で面倒をみるのが一般的であった。
下街道の利用
中山道各宿への繰り込みは、組単位で集荷され、村役人が宰領となって運搬された。この日程と経路の例を寺中村(現東海市)の場合をみると(注5)、ふとんの運搬は、10月9日に出発し、熱田(泊)―小牧―土田(泊)と木曽街道を通って中山道に入り、平岩村(泊)―大井―中津川宿へ12日に到着している。人足はすぐ帰村したが宰領は、和宮の通行、物品受領が終わる11月5日まで滞在し、大井(泊)―土岐―池田(泊)―鳥居松(昼)―名古屋(泊)―笠寺を経て8日に帰村し、29日を要している。
また、道具類の返り荷を運ぶ一行は、大井(泊)―土岐―高山(泊)―内津(昼)―大曽根(泊)―山崎と帰路は木曽方面から近くて起伏の少ない下街道が利用されている。
和宮の通行が近づいた10月下旬も後半になると、尾張の各村から、中山道の指定された宿へ組のまとまり毎に集合して一斉に出発した。準備で忙しく、かつ遠回りの中山道筋を避けて、下街道を利用する人たちが多いため、下街道筋は数日間にわたって、人馬の通行がひきもきらず続いたのであろう。
馬籠・妻籠・三留野・野尻の木曽下4宿組合の記録によると、継立人馬数は人足22,587人と馬669疋で、うち尾州繰込分は9,069人で約40パーセントを占めている。尾張地域の村々から動員された人足は、6つの宿組合当たり3,000~9,000人、総計で4万人程度と推測される。
月日 |
10月29日 |
11月1日 |
11月2日 |
11月3日 |
計 |
---|---|---|---|---|---|
主な行列 |
菊亭中納言等 |
中山大納言等 |
和宮等 |
岩倉右少将侍等 |
5,100人 |
助郷 |
2,277 |
0 |
3,876 |
0 |
6,153 |
宿雇入等 |
1,027 |
676 |
3,916 |
1,746 |
7,365 |
尾州繰入 |
308 |
2,300 |
6,000 |
461 |
9,069 |
計 |
3,612 |
2,976 |
13,792 |
2,207 |
22,587 |
馬 |
100 |
100 |
421 |
48 |
669 |
南木曽町誌資料編
おわりに
尾張の村々への賦役の内容と時期をまとめると次のようである。
10月上旬 人馬小屋建築用資材の供出運搬
10月上旬 ふとんの貸出・運搬
10月中旬 諸道具の貸出・運搬
10月下旬 人足・給仕人・各種の警固
中山道に近い尾張北部の村々では、少なくとも4回は各宿へ出向いている。下街道はこの時期・尾張各地からの人々で格別のにぎわいになった。農繁期に1週間以上にわたって遠国へ出かけることは相当の負担になったものと考えられる。しかし、農民にとっては、他国へ出る貴重な機会でもあったので、荷物を運び込んでから返却を受けるまでの中休みを活用して各地の寺社詣でをする人も多く、「善光寺へ参詣のもの、山の如くに御座候」と伝えており、他国の風物に触れて、知見を広めた一面もあった。
和宮降嫁前後の下街道の一時的なにぎわいは格別のことであり、尾張の村々の村入用は例年の約5倍かかっており、「前代未聞之事柄也」という記述に実感がこまっている。
注
- 『中島日記』渡辺和典 皇女和ノ宮の降嫁(1971)所収
- 『岩倉町史』上(1955)159頁
- 『春日井市史』本文編(1963)312頁
- 津田応助 贈従五位林金兵衛翁(1925)114~5頁
- 「和宮様御下向之節諸道具借用覚」寺中村文書
- 「和宮様御下向日記三」長野県史近世資料編9(1984)754頁
- 『一宮市史』上(1977)1054頁
- 『知多市誌』資料編4(1984)56頁
春日井の人物誌
伊藤彦兵衛 御藪守・俗に御竹奉行ともいわれた一色(いしき)村(現坂下町)の庄屋
伊藤 浩 市文化財保護審議会委員
坂下公民館の中庭背面の陶壁は竹薮を主題としたものである。その左前につぎのような案内板が立っている。
陶壁「竹薮」と坂下
昔から尾張坂下は「竹と生糸に金がなる」といわれ、この地方下街道(旧国道19号)沿道の竹は、良質の竹として有名であった。
江戸時代には尾張藩侯による「御留藪」が14ケ所もあり、それを保護する御藪守(御竹奉行ともいった)伊藤彦兵衛(いとうやの祖先)という人が、一色村(坂下町地内)に住んでいた。
この御留藪は庶民の入ることを禁じ、御旗竿を立つる所とも呼んで武士の旗竿を切る藪であった。明治の中頃から昭和の初めにかけては、竹薮一反(10アール)を所有している家は、田一町(100アール)を持っていると同じぐらいの収入があり、この竹を材料とする竹籠屋も下街道をはじめ、市内にたくさんあった。
注
一色村‥坂下町旧街道の北側の村名で、明治11年隣接する南側の和泉村と合併坂下村となる。
生糸‥養蚕がさかんで、製糸工場が5つもあり、繭は農家の最大の収入源であった。
御留藪‥木曽の山林を保護するため、尾張藩が設けた掟で庶民の入ることを禁じた山を御留山といった。御留藪もこれに準じたものと思われる。なお、木曽の五木については盗伐すると「木一本に首一つ」といわれ、厳罰に処せられた。
1.伊藤彦兵衛の家系
はっきりした家系図がないので子孫に当たる伊藤善仁さんが、過去帳、位牌、石塔などを調査されたものを見ると、寛永12年(1635)権左衛門に始まり、彦兵衛が延宝元年(1673)、元禄14年(1701)、文化14年(1817)の3回見える。そのほかに喜左衛門、忠左衛門、彦吉、彦左衛門などの名が見えるが、写真のような文書には、過去帳の上では彦左衛門(明治24年死亡)とある者が、公文書の上では彦兵衛となっていて、彦兵衛が代々襲名であったことが分かる。言うまでもなく、永代苗字帯刀を許された家柄である。なお、善仁さんは13代目に当たると推定される。
乍恐御願奉申上候御事
一 御籏藪壱ケ所 春日井郡神屋村
右御藪垣結之儀先年仕来リ之儀ハ名古屋
御旗組同心衆弐人宛御出張ニ相成候処昨年之分今以御出張も無之左候而ハ御藪御締筋心配仕候間外御藪垣結伊藤彦兵衛殿御出張相成候序を以垣結出来仕度奉願上候右願之通御聞済被成下置候ハ難有仕合可奉存候以上
己二月(注 明治2年) 右村庄屋 市平
東方御総管所(注 前水野奉行所)
2.古書に見える関係記録
- 寛文村々覚書
西尾村 御留藪 三ケ所有 明知・神屋・西尾三郷ノ藪守壱人、御切米五石二御扶持方弐人分被下
明知村 御留藪 六ケ所
神屋 御留藪 拾四ケ所 - 尾張徇行記
西尾村 御留藪三ケ所 覚書ニ明知神屋西尾三村藪守一人御切米五石 御扶持二人分被下
明知村 御留藪六ケ所 此村御留藪先年四ケ所アリシカ竹絶、又川欠ニナリ、享保十四酉三月ヨリ六ケ所ニナレリ、此事古義ニアリ
神屋村 此村御留藪十四ケ所アリ、御藪守伊藤彦兵衛ト云、一色村ニ住ス、是ハ御旗竿ヲ立ル所ナリ、竿ヲ伐ルト云事ヲ忌テ通語ニ立ルト云ナリ、此村ハ竹ヨキ所ニテ、民家ヨリモ伐出シ名古屋ヘ売出スト也
古義ニ、神屋村御留藪ハ寛永十四酉年ヨリノ事ナル由村人イヒ伝ヘリト也
古義ニ、享保十四酉年神屋村図右衛門、藪一反十五歩見取ノ内ヨリワタレル藪五畝廿五歩ノ代 - 近世村絵図(徳川林政史研究所所蔵)
西尾村(天保十五年辰十一月)御留藪が明知境にある。
明知村(天保年間と思われるも年月不詳)御留藪が下街道と内津川の間に三ケ所ある。
神屋村(天保十五年辰十一月)御留藪が内津川の西側に二ケ所、東側に二ケ所ある。御旗藪が内津川下流西側にある。 - 尾張藩触書「条条」(慶安二年、内津見性寺蔵)
1項に「竹木は代官、給人の許可を得ず、伐採してはならぬ、きれば罪になる。」とある。
3.御藪守伊藤彦兵衛の諸役
御藪守は、古くから俗に御竹奉行と呼んでいた。御竹奉行は、御留藪をはじめ御旗藪その他の管理を尾張藩から命じられ、軍用竹、登り竹などを調達してお城に届けた。届け先は、御付家老成瀬隼人正、竹腰山城守をはじめ、二の丸、三の丸にある藩士邸であった。その配置図は写真(伊藤家所蔵)のようである。
伐り出した軍用旗竿は、馬の背に積んで運び、まず下街道筋、勝川の地蔵ケ池で、水によく浸し洗い、竹の汚れや油を取って、それぞれの藩士邸に届けた。また年々の正月用の飾り竹、登り竹も御留藪・和泉・一色の大藪(春日井市農協坂下支店付近)から、伐り出し届ける事になっていて、その儀式はなかなか荘厳であったという。
この事は、明治に入っても続いていたらしく、己十二月(明治2年)神屋村庄屋市平が、東方御総管所(前水野代官所)に差出した文書で、その大要を知ることができる。
乍恐御願奉申上候御事
子十二月(元治元年)
一 御飾竹代出し人足 弐人
一 縄 壱貫四百五拾目
一 わら 五束
一 名古屋迄持届ケ人足 十人
丑九月十六日(慶応元年)
一 御殺生竹切出し人足 弐人
一 縄壱〆目
一 高条町持届ケ人足 八人
一 御留藪垣結人足 廿六人
一 縄 弐拾〆 三百目
丑十二月
一 御飾竹切出し人足 弐人
一 縄壱〆目
一 わら 三束
一 名古屋迄持届ケ人足 六人
寅十一月(慶応二年)
一 御旗藪垣結人足 拾弐人
一 縄 四貫四百目
一 名古屋迄持届ケ人足 四人
寅十二月
一 御煤拂竹切人足 弐人
一 縄壱〆目
一 名古屋迄持届ケ人足 三人
卯八月十八日(慶応3年)
一 御旗竹切人足 三人
一 名古屋迄持届ケ人足 拾三人
卯十二月
一 御旗藪垣結人足 拾弐人
一 縄五貫目
なお、尾張藩の領地が美濃にもあり、その上納米が、美濃池田(現多治見市池田町屋)を経て、名古屋に届けられる際、内津峠からの引継ぎも勤めていたようである。また、坂下宿の馬継ぎ場もこのあたりにあったと思われる。
さらに、一色村街道筋上町に、米屋半六という大きな造り酒屋があって、藩祖源敬公(徳川義直)の例祭には、定光寺の墓(尾張藩祖廟)に毎年新酒を献上していた。その運搬には馬が使われたらしく、これらも彦兵衛が仕立てて、定光寺までお届けした。
献上に関する記録については、定光寺年表(定光寺誌)に次のように書かれている。
嘉永四年五月七日 春日井郡坂下村新町ノ者達、除地ニツキ、例年二人ヅツ御廟ニ拝礼、二百文献供、斉の振舞アリ
4.現代に引継がれる源敬さままつり
前項で「除地二ツ」とある定光寺記録を紹介したので、これから話を始めよう。
除地とは税を免除された土地で、坂下村新町は、これまでに述べて来た一色村・和泉村の下街道筋のことである。除地になった話は藩祖徳川義直の時代にさかのぼるが、義直は武技を練るため「鷹狩り」を、この地方で度々催し、兵馬をつれてやって来た。その折の兵馬を泊める粗末な建物があったが、それは殿様が建てたものだから、坂下御殿といわれていた。その後30年ほど経た寛文4年(1664)、御用済となり取りこわされることとなった。その節お城から使いとして家老がやって来て、殿様の思召として、世話になった一色、和泉の村人の免租の願いが聞き入れられることになった。それで、両村の下街道筋、今の坂下橋から潮見坂の北側あたりまでを、免租にするという書状が渡された。その書状にはじめて坂下新町の名が出ている。
その後、坂下新町の村人は、義直の恩に報いるべく、御殿跡の榊の木を神木として保存し、ここで源敬さままつり(源敬は義直の諡)を行い、義直の墓所定光寺には新酒を添えた献供をおこたらなかった。〔まつりについては、嘉永2年(1849)の和泉村庄屋覚帳に、げんけいさま入用として、費用と酒弐升と書かれていることでも裏付けされる。〕
近代になっても、坂下区の年中行事のひとつとして続けられ、祭事のあと、大勢の参拝者にお供えのオカズ(ダンゴを掌の上で少し押し広げ、その真中に親指の頭を押し付けて凹をつけたもの)が配られた。しかし、この行事は戦中戦後の食糧難と人心の荒廃から中絶されていた。昭和45年になって、その復活の声があがり、庄屋の子孫の伊藤善仁さん、林實さん、長谷川信一さんが中心となって保存会を結成、見事に復活、現代に至っている。ただし、お供えのオカズが袋菓子に、まつりの日が4月の第1日曜にと変わったことは、時勢に合わせたものである。
なお、特筆すべきことは、昭和44年3月、「最後の殿様」の著者で知られている、故徳川義親さんが、「わたしの先祖の世話になったところなら喜んで行く」といわれ参拝され、「源敬公坂下御殿跡」と揮毫された石碑を翌年建立されたこと、51年源敬さま300年祭を、定光寺の第15代住職忍堂和尚を招いて盛大に行われたことなど、今にその歴史を伝えている貴重な史跡になっていることである。
「古い歴史があってこそ、新しい社会が生まれる」と、いわれた徳川義親さんの言葉で結びとする。
郷土の自然
春日井の野生蘭1
右高徳夫 春日井市立神屋小学校長
はじめに
春日井の東部丘陵地には、現在幾種類かの野生蘭の自生を見ることができる。1種数株で1か所のみのものから、各所に群生をなすものまである。今回は、紙面の都合上、その一部を紹介する。
サギソウ
「天に白鷺地にサギソウ」サギソウは造化の神の会心の作、天地創造の神は、何万年もの昔からいろいろな動物や植物を造られた。この中で空飛ぶ白鷺と、地に咲くサギソウとの組み合わせで、こんなによく似た作品は他にないのではないかと思う。造化の神の会心の作であると思う。
大サギソウや黄花サギソウ等あるが、日本に自生するサギソウほど、可憐な優しい花は、神が日本人にだけ与えて下さった貴重な植物ではなかろうか。全国至るところの湿原には、春の彼岸頃になると、南から白鷺たちがやって来て、愛の巣を営み、可愛い子鷺を育て、優しいサギソウの花と語らい、ささやきながら夏を過ごし、秋のお彼岸頃になると、花の咲き終わったサギソウたちに別れを惜しんで、子鷺たちを引き連れ、ふる里の南方へ飛びたっていった事であろう。これが30年程前までのわがふる里の自然の姿であった。
私が小学生の頃は、高座山山頂附近で、たくさんの鷺が繁殖していた。学校帰りに、鷺の卵をとりに行ったものである。教師になった頃、ある日曜日、定光寺駅の奥の方の山へ行き、白鷺の卵を採ったことがある。鶏卵大で、うす青色をしていた。白鷺は、川魚を餌としているから、その卵は生臭い。食料にと食べた人もいた。ある時、隣の人が、ひな1羽を育てた。飛べるまでに育ち、箱から出してもらうと飛び立って行った。しかし、夕方になると、家の前の柿に木へ帰って来て寝た。冬も近づくのに鷺の連れもなく人間の保護のもとに越冬を決めているのか、飛び立って行こうとしない。次の年、連れの白鷺たちが山へ来た時、やっと仲間に入ったらしく家に来ることもなくなった。「あの白鷺はどうしただろうな。」と、今でも思い出すことがある。
ちょうどその頃、山あいの田へ田の草とりに行った。山畔に、あの白鷺が羽をひろげ飛んでいるような、清楚で可憐な草花があった。子どもの頃、夏の昼さがり、よくそこへ遊びに行って見ていたが、全く気に止めなかったその花が、白鷺との出会いがあってからは、特に気に止めるようになったのである。これは、隣の家で育てられたあの白鷺と思って大切にしてやろうと思った。
こんな事があってから何年か後に、山草ブームがやって来た。それで、初めてサギソウであることや、その栽培方法を知った。更に時のブルドーザーと言われた総理大臣の、列島改造論もぶちまけられ、日本中至る所で急速に自然が破壊された。現在では、あの白鷺の繁殖していた山近辺の多治見市側は、広大な面積にわたり、名古屋市の不燃物処理場と化した。又、高座山北側の山あいは、広範なサギソウの自生地であったが、整地され、高蔵寺ニュータウンとして住宅街となった。
- 分布
九州、四国、本州で、日当たりのよい湿地に生える多年草。 - 様子
地下に浅く、小球となり、大きさはアズキ大から大きいものでラッカセイ1粒の豆くらい。小球は球状で、大球は長楕円形となる。球根の頭部に1芽をつけ、周囲は密毛に覆われ、淡黄褐色である。降霜のなくなった向春の頃芽を出し、葉を左右に開き、5~7葉、草丈20~40センチメートル、夏の頃に茎をつらぬいた頃に1~3花をつける。花期は平均して北方系が早く、南方系が遅れる。平均2本の匐枝を、浅く地表近く10~15センチメートル位に伸ばして、その端に1球をつける。余力があれば、さらに株側に1、2芽を出し、第3・第4の小球をつける。匐枝もほとんど生じない。葉は、基部に3~5葉つけ、その上はまばらに小さい数枚の鱗片葉をつける。本葉は斜上して広線形か狭披針形、漸鋭尖頭で、長さ5~10センチメートル、幅4~6ミリメートル、基部は鞘となり、鱗片葉は茎に圧着して線形漸尖頭である。花は幅3センチメートル位、がく片は緑色、花弁は白色、ひずんだ卵形で、直立して上がくと共に花上にかぶと状となる。長さ10~12ミリメートル、鋭頭で牙歯がある。舌弁も白色。基部は短くくさび形で3裂し、中裂片はサギの体を思わせる。線形で鈍頭、3脈があり、側裂片は斜扇形でこれがちょうどサギの羽を広げた姿を思わせる。又、側辺は細裂して美しい。距は、長さ3~4センチメートルで、あたかもサギの足をそろえての飛翔を思わせる。晩秋降霜の頃、地上部は枯れて消滅し、冬は球根だけとなって休眠する。(以下次号につづく)
上条城内佐久間屋敷の意義について
梅村光春 本誌編集委員長
先十日、為注進罷越候之儀、其元進退格別に候。思越候内蔵佐之儀、尤に候。越度、有間敷、多分迷惑相懸候之如に候。美作、川越入候。言語同断に候。柏井三郷相渡間敷、自今人数加入、抱候得者、可為小坂跡目成、其意佐久間差遣候。示合相働取出丈夫に構、先々可有注進、些茂油断有間敷候事。以上
弘治辰八月拾弐日
信長 花押
前野孫九郎 参
前野孫九郎が、信長の呼出しをうけて、清須へ出仕したのは、弘治2年(1556)8月10日のことである。当時、信長は、末森城にいる弟の勘十郎と対立し、その接点である柏井村付近が、敵方に侵蝕されているという情報を得て、神経を高ぶらせていた。特に勘十郎の家老林佐渡兄弟は、角田信吾という者に命じて、まず岩崎の丹羽勘助を説得し、味方につけたことにより、丹羽氏の親類である柏井城主前野孫九郎へも、丹羽氏を通じて味方にひき入れようと運動し、さらに比良城の佐々成政一族にも働きかけていた。丹羽勘助は、佐々一族の佐々平左衛門の実父であり、平左衛門の娘は前野孫九郎の次弟前野小兵衛の妻であったからである。柏井から篠木にかけては、いわゆる織田家のお台地であり、代官をおいて直接年貢米を清須城の台所へ納めさせる云わば織田家の心臓部であったので、ここをねらわれるということは、信長の存亡を意味していた。そこで信長は柏井の前野孫九郎、、比良の佐々成政に清須登場を命じたのである。
孫九郎は、途中比良に立ち寄り、成政を同道しようとしたが、成政は腹痛といって、病床にあったので、単身で清須に出仕した。おそらく信長に斬られるのを予測してのことと思われる。信長は、佐々は仮病をつかっているのだろうと孫九郎を詰問したが孫九郎は、丹羽勘助が親類なので、説客となって我々を誘いに来たことは事実であると正直に話し、しかし、前野、佐々両家とも信長の重恩に背くものではないので安心されたいと弁明した。
これは、その2日後に信長が孫九郎に送った手紙である。
文中、佐々が謀叛と信じたのは信長の思いすごしで落度はなかったのに、疑って迷惑をかけたとわびているが、次に前野家と佐々家とがよく似た家柄であることを軸に(ともに佐々木責めの折、江州で敏定に参陣し尾州へついてきて織田に仕えた家)よくまわる頭で両家の取りまわしをしている。すなわち、前野に対しては林美作(林佐渡の弟)らが川(庄内川)を越して入りこんできたのは言語道断同断だ。柏井三郷(註1)は決して渡してはならない。以後佐久間の人数を加勢させるに依って相談して丈夫に陣構えするよう命じ、一方、柏井の城を抱えて林勢を防ぎ得たなら前野孫九郎を小坂の跡目に立ててやろう。決して油断をするなとある。小坂家はこの地にお台地代官として4代つづいた家で、敏定の六角攻めの折、甲賀山陣中に駆け参じて高名があった小坂孫九郎(但馬国出石郡小坂郷の神官小坂治郎左衛門の子で山名氏の旧臣)がそのまま尾州へ来て織田家に仕えていたものである。その後、信長の時代になり、永禄元年(1558)9月、吉田48貫文を給わり代官役をしていた。しかし、信長の清須攻めの際、当主小坂久蔵が深田口(清須城の南西)で討死し、子がなく相続されずに放置してあったのを、信長は前野孫九郎に跡を継がせようとしたのである。もっとも、小坂孫四郎の3代あとの小坂源九郎吉俊の孫が、前野孫九郎雄吉の生母であり、小坂源九郎吉俊は、戦死した小坂久蔵の父である関係で、両家はもともと親類であった。こうして小坂家を継ぐことになった前野孫九郎は、吉田城をも併せ、信長の命令で上条城にやってきた織田の旗下、佐久間勢500と共に上条城に拠った。
信長は勘十郎に対する陣触れを、小折の生駒八右衛門尉の屋敷(註2)(信長の側室吉乃の家)より発したが、前野孫九郎に対しては、わざと佐々成政の比良城へ参陣せよと命じている。
佐久間勢に篠木柏井の渡河点警備をまかせた前野勢に、信長の旗下と生駒勢、柏井衆の一部を併せた佐々の総勢800余騎が、信長の手兵であり、これを指揮して勘十郎と雌雄を決するべく稲生合戦にのぞんだ。8月24日のことで、この手紙のわずか12日後のことである。篠つく豪雨の中の決戦であった。
一方、佐々に対しては、うたぐり、おこり相手をどうにもならないピンチに陥れてのち何をされるかわからないという恐怖心を利用して猛烈に働かせる信長一流のやり方に乗せられ、佐々成政は、先頭切って丑寅の方の小高い丘に陣取る柴田勝家に向かって突込んでいった。
佐々成政を勘十郎の味方に誘い入れんとした角田信吾は、松浦亀介に首をとられ討死した。
「この戦ひ雨のため種ケ島は火縄濡れ使ひ申さず。」という。信長の完勝であった。
戦いのあと佐久間勢は、この地の重要性に鑑み、命じられて、柏井城と上条城に年末まで駐留したのち、所領の御器所へ引きあげた。
爾来この地を佐久間屋敷という。
上条城が再び脚光をあびるのは、小牧・長久手の役の折りである。
参考
(註1) 柏井荘 庄中五邑
倭名類聚鈔曰 春日部柏井云云 一荘五邑上條 下條 中切 松河戸 下津尾 或以上條 下條 中切 松河戸為柏井四村 以下津尾属山田庄
(註2) 信長の側室生駒家宗の娘、久庵桂昌こと吉乃について
夫の土田弥兵次は、長山城(明智氏居城)で討死、弘治2年4月25日。以後吉乃は生家生駒家へ帰り夫の菩提を弔う日々を送っていた。吉乃20歳。たまたま馬の遠乗りに出かけた信長が生駒家へ立ち寄り、接待の湯茶で見染め、周囲の人々が両者の仲を察知した時には、吉乃は嫡子信忠を孕んでいた。従って、以後信長は清須と生駒屋敷を往復する日々が多く、永禄元年、木下藤吉郎が信長小者に加えられた時も、「清須と生駒屋敷の間の走りつかい。」であった。
上条城の図中に柴田屋敷があるが、密蔵院文書の中に、頼郷(上条の寄京か)城主柴田七左衛門が一子亀千代の病癒の祈祷料として上田五反歩を寄進したとの文書があるので、この人の屋敷ではないかと思われる。
郷土散策
白山信仰6
村中治彦 春日井郷土史研究会会員
白山遠望
本誌第32号の白山信仰(1)を読んだ郷土史研究家の春田さんから、「白山遠望には尾張白山が第一ですよ」と教えていただいた。
そこで冬の良く晴れた日曜日、カメラ片手に度々挑戦してみたが、納得のいく写真はいまだに撮れていない。
尾張白山へは近くまで車で行けるので比較的楽に登れる。大山のちご神社前というバス停から北へ入る道を行くと、ちご神社の案内板がある。そこを左折して山道を登るとちご神社に出る。
さらに登ると峠の手前に空地があるので、そこに駐車して尾張白山神社の案内板により山道を10分ほど登ると御嶽神社に出る。ここからは御嶽山がよく見える。
更に奥へ数分進むと、山頂に白山神社がある。峠の辺りから山頂までの標高差は約40メートルほどで、全体に緩やかな道であるが途中急な登りが1か所ある。
良く晴れた日には、社殿の北西のベンチの辺りから、はるか北の方向に白山が遠望できる。
尾張白山神社の事
当社は景行天皇42年創建の伝承を持ち菊理媛命、伊弉冉命等を祭神とする由緒ある神社である。往昔は篠木庄33カ村の氏神であったという。
『尾張徇行記』には『張州府志』や「賤ノ小手巻」の記事を引用して、当社や白山峰について次のように述べている。
「府志曰、小口天神在野口村、今称白山祠、本国帳従三位小口天神是也、集説以為八幡非也」
「白山峰府志ノ山川条ニ曰ク、野口村ニ在リ乃チ小口神社北、是レ丹羽郡之界也、北ハ入鹿湖ニ臨ム、西北ニ犬山城ヲ見ル、南ニ府城ヲ望ム、景色甚タ佳シ、其ノ山、険峻、巨石多シ」
「賤ノ小手巻ニ、野口村白山ハ篠木三十三ケ村ノ氏神ト云、祠宮ハ大草村鵜飼甚太夫控ナリ、此山甚高カラスシテ極メテ険阻ニシテ尖レリ遠望スベシ、府城ハ未ノ方、犬山ハ戌亥ノ方、本宮ノ峰ハ戌ノ方、小富士ハ亥ノ方入鹿ハ子ノ方、大山ハ卯辰ノ間、内津ハ卯ノ方、小牧ハ申ノ方」
なお、『尾張名所図会』にも同様の記事がある。
「尾張白山宮之由緒」(永江宮司書)によれば当社は景行天皇42年の創立という伝承を持っており、平安時代には延喜式内社爾波郡22座中の1社、小口天神と称し、国司を始め四方の崇敬を集めていた。その後白山神社となった。これについては、隣接する天台の名刹大山廃寺との関係が推測される。
時代は降って、大永2年(1522)春日井郡所属となり、篠木庄33カ村の総社として、祭礼には各村々より献馬が行われた。
その後、天保16年(1845)9月の祭礼のときに、献馬の馬順に付いて論争が起きたため、各村からの献馬は中止となった。
しかし、地元の野口村のみは、毎年5頭宛旧9月15日(昭和33年より10月16日に改)の例祭に献馬を続けていたが、第2次大戦後、馬を飼育する農家が殆んど無くなり、馬不足となったので、昭和26年よりやむなく中止となった。
なお、近年まで雨乞にお百度参りをすることもあったという。
郡誌・村誌によれば、宝暦年中(1751~64)の雷火及び明治32年(1899)の失火に因り、社殿宝物等を焼失したため社伝は明らかではないという。
なお、宝物の棟札1枚が残っている。
延寶四年丙辰四月十五日
白山大明神国司正三位行中納言源朝臣光友公、従五位上民部大輔源慎幸
2代藩主光友公は藩祖義直公の志を継ぎ、主要な神社、仏閣の再興・修営に努め、藩主の武運長久、国中静謐、天下安全を祈念した。
当社社殿の終営もその一環として延宝4年(1676)に実施されたものと推測される。
現在の拝殿は昭和34年の伊勢湾台風及び同36年の第2室戸台風により、多くの樹木とともに倒壊したので、36年12月に写真のような拝殿が再建された。
発行元
平成2年9月15日発行
発行所 春日井市教育委員会文化振興課