村瀬太乙
文化元年(1804年)~明治14年(1881年)
美濃の人。名は外治郎、黎。字は太一。別号梅園、放屁先生等。 頼山陽(らいさんよう)の内弟子となり、儒学、書画を学ぶ。弘化元年犬山藩学敬道館の教授となった。淡墨による独特の作風は人気が高い。
蘇水城南月照灘 慣看誰識是奇観 月団触石千耶万 砕到平流合一団
蘇水城南月灘(なだ)を照らす 慣れ看る誰か是(これ)の奇観を識(し)らんや 月は団(まどか)なるも石に触れて千か万なり 砕けるも平流に到って一団に合(がっ)す
文化元年(1804年)~明治14年(1881年)
美濃の人。名は外治郎、黎。字は太一。別号梅園、放屁先生等。 頼山陽(らいさんよう)の内弟子となり、儒学、書画を学ぶ。弘化元年犬山藩学敬道館の教授となった。淡墨による独特の作風は人気が高い。
蘇水城南月照灘 慣看誰識是奇観 月団触石千耶万 砕到平流合一団
蘇水城南月灘(なだ)を照らす 慣れ看る誰か是(これ)の奇観を識(し)らんや 月は団(まどか)なるも石に触れて千か万なり 砕けるも平流に到って一団に合(がっ)す